永久方程式





 最初はあんまり好きじゃなかったし、たぶん、苦手だったんだと思う。だってあいつすっげー世間知らずで、俺達人間の世界のことをなんにも知らなかったんだ。アストラル世界からやってきた記憶喪失の使者「アストラル」は、どうしてだか俺にひっついて父ちゃんの形見の皇の鍵に棲み着いた。一回「なんでついてくんだよ」って聞いたら、「離れたくとも離れられない」のだとかなり不本意な顔で言われたのを覚えている。あの頃俺達はお互いにあんまり信用を持っていなくて、手探りで、やむを得ず一緒に生活をしていた。
 トイレにも風呂にも平気な顔して付いてくるから、最初はほんとに困った。いつからだろう? いつから、俺達はこういうふうになったんだろう? 絶対の信頼と、一緒にいる安心感。俺はアストラルに背中を預けてきたし、アストラルも、そうだった。いつからだっただろう。あんなに反発し合っていた俺達は、何をきっかけにお互いを認め合ったんだっけ?
 俺はどこでアストラルを受け入れたんだっけ。
(……アストラル)
 最初の内は自分で言うのもなんだけど本当にからっきしデュエルが出来なくって、アストラルに言われるままにやってたと思う。何しろ罠を一枚伏せるとか言っちゃうぐらいに弱かった。弱いというか、今思うとルールをよくわかってなかったんじゃないかって思う。戦術も何も存在しなかったとか、鉄男に言われたっけ。
 アストラルはその逆で、最初からめちゃくちゃに強かった。他のことは何にも知らないのに(人間が生きるためにはご飯を食べなきゃいけないってことさえ)デュエルだけは天才的に強かった。デュエリストの幽霊。でも弱いところもちゃんとある。アストラルは最初カイトを酷く怖がっていたし猫が苦手なんだ。
 それで、俺にあれこれ指図をしながらアストラルは、『勝つぞ』とかすごく自信満々に言った。『勝つぞ、遊馬』。『勝利の方程式は全て揃った』。なんだそれってこっそり思ってた。ヘンな幽霊。何考えてんのか、わかんなくて。
 でも気が付いたらすごく大事な存在になってた。
 一緒にいるのが当たり前だった。時々拗ねたのか知らないけど鍵から出て来ない時もあったけど……そういう時でも、皇の鍵を握り締めるとそこにアストラルがいるってわかった。
 だから俺は根拠もなく、妄信してしまっていたんだ。
 アストラルが本当の本当に、俺の前から、あいつが全て納得した上でいなくなったりするわけないって。
 ずっと一緒だと思ってたのに。

『ナンバーズを頼んだぞ』
 本物の幽霊みたいに、霞のように薄いからだでアストラルが言った。デュエルの最中に見た恐ろしい白昼夢と同じように、それはいまわの言葉だった。俺にだって分かる。アストラルは別れの言葉を俺に告げようとしている。
 意味が分からなかった。何も分からない。分かりたくない。どうして。なんで、なんで、なんでだよ、アストラル。俺とお前は二人で一緒だったじゃんか。
「なんでだよ……どういうことだよ、ふざけんなよ、なんでお別れなんだよ……」
 アストラルは寂しそうに、とても辛そうに微笑むばかりだった。なんでそんな顔して俺を見てるんだよ。ばかやろう。おおばかやろう。涙が溢れて止まらない。もうしばらくは、泣き止めそうにないってぐらいにぼろぼろと流れ続けている。泣いていることに驚きはしなかったし、それを恥ずかしいとも思わなかった。そんなことを思う余裕はなかった。
 それに、アストラルのために涙を流すことは恥ずかしいことなんかじゃない。
「俺いやだよ……別れるなんて……!」
 アストラルは何も言わない。何も答えてくれない。いつもは口うるさく俺にぐちゃぐちゃ言ってくるくせに。なんでこういう時ばっかり黙ってるんだよ。
 アストラルの体が、足下からきらきらした光の粒子になって溶けて消えていった。手を伸ばす。でも駄目だ、届かない。俺の意志に関係のないところでアストラルは勝手に現れて、勝手に俺の心を握って、そうして勝手に爪痕を残して消えていく。まばゆい光。とても綺麗だけど、だからその分憎たらしくて、俺はがむしゃらに叫ぶ。
「待てよアストラル、アストラル! どこにも行かないでくれよ……おいアストラル!!」
 卑怯もの。お前ばっかり、満足そうな顔をして。
「アストラル――――ッ!!!!」
 そうしてアストラルは俺の世界から消えた。綺麗さっぱり、もうどこにもなくなって、まるで死んでしまったみたいに。
 いなくなった。 



◇◆◇◆◇



『遊馬、遊馬。起きてくれ。君に、話しておきたいことがある……』
 なんだよぉ、と不満そうな声。酷く眩しい。薄く目蓋を開くと見慣れた蒼いシルエットがあって、遊馬はどうしてだか「安堵」した。
 体中に浮き上がっている奇妙な紋様もろとも、透き通ったうつくしい姿をしている。異世界の住人アストラルは俺の友達で、相棒で、信用の出来る、でもちょっと変わったやつだ。この世界の常識をあまりよく知らないから、他の人間には見えないことをいいことに俺の周りにふよふよくっついて浮かんで、「人間観察」をよくしている。たまに余計な観察結果が混ざってたりするけど……。
 目を擦ってむくりと起き上がると眩しさの正体が分かってくる。部屋……違う。空間のせいだ。真っ白だった。どこまでも続く無限の純白の中に遊馬が寝ていたベッドだけがぽつんと置かれていて、あとは何もない。何も。果てさえも。
 アストラルが「ようやく起きたか、手を掛けさせて」と腕組みをして言った。でも、言葉に反して声はそんなに不機嫌そうでもなかったし、むしろどこかほっとしたようでもあった。
「話って、なんだよ」
『簡単な確認だ。遊馬、私達が出会った日のことを、覚えているか』
「そんなの。覚えてるに決まってんじゃんか。丁度俺が変な扉に契約を、夢を見る度に迫られてた頃でさ。その中でカードにぶつかって……そいつがばらけて、散らばって、そこで夢は終わったんだけど。その日シャークに皇の鍵を壊されて……それでデュエルして、負けそうになって、そしたらお前が『勝つぞ』って」
『ふふ、そうだな。大して昔のことでもないはずなのに、酷く懐かしいような気がするよ。そうだな。私達は、そうしてこの世界で出会ったのだったな……』
「なんだよ。お前が聞いてきたくせに」
『嬉しい。君が覚えていてくれて』
 アストラルははにかんだ。とても綺麗な表情だったが、ともすると安らかなふうでもあって、今にも満足してしんでしまいそうな顔をしていた。うつくしくてはかないものの姿をしていた。いつも透き通っている体が、もっと頼りなくて、透明のガラスが砕け散って粉々になってしまう様子を思わせた。
 遊馬の背をぞっとしない怖気が走る。恐怖を覚えている、ということを自覚する。――消えそう? アストラルが?
 どこから?
『君と共に、勝利も敗北も重ねてきた。私の手は常に君の手と共にあり、私の戦いは君の戦いでもあった。遊馬、私達は、わかり合えていただろうか。仲間になれていたのだろうか?』
「何言ってんだよ。そんなの当たり前だろ! 俺とお前は仲間だ、絶対、絶対、絶対に!!」
『やはり、やさしい、君は』
 どこからいなくなってしまうというのか。そんなの決まり切ってる。アストラルはずっと遊馬のそばにいてくれた。だとしたら答えなんて一つしかない。
『そして気高い。君は確固とした誇りを持っている。誰かを信じるという美徳、諦めないという美徳、だから私も誇りに思う。この世界ではじめに出会ったのが君であったことを。九十九遊馬、こんなにも高潔で優れた君という存在から学べたことを、君と一緒にいたことを』
「……アス、トラル……?」
『君と見る世界はとても美しく、いつも輝いていた。君と見る景色が私にとっての真実だった。遊馬。何も知らず赤子のように無知だった私に、君は本当に沢山のものを惜しみなく与えてくれた。君のくれた優しさは時に厳しさでもあり、ぶつかることでもどかしさを知ったりもした。いつも私達の意見が合うわけではなかった。不協和音のように、どうしても重ならない時も沢山あった。だが、君は私との違いを許容し、誰も同じではないのだということを知っていた。そうだ。いつだったか、君と夢を語ったな。約束は、幾度もしてきた。勝つぞ、絶対に、諦めない、だから、と』
 アストラルが消える場所は、遊馬の隣でしかあり得ない。
『数え切れないほどの、同じ朝と同じ夜を私達は過ごした。私達は確かに違う存在だったが、見ているものは一つきりで、一緒だった。遊馬、どのような形になっても私達は共にある。いつも繋がっている。ありがとう、遊馬』
 酷い冷や汗が、滝のように遊馬の体を滑り落ちていく。アストラルの語る言葉が遊馬の体を通り過ぎ、突き抜け、突き刺し、心臓を抱き込む。最後に君に絆を託そう、言葉には出さないけどアストラルはそう遊馬に言っているのだ。二人で集めたナンバーズ・カード達を遺して、でも、どこへ行くというのか。
『私達は繋がっている』
「――ふざけんなよ!!」
 罵倒に、しかしアストラルは一切の異を唱えなかった。ただ甘んじて、薄く微笑んだ。
「ひとりでどこ行くってんだよ。なんでふたりじゃ駄目なんだよ。俺には、わかんねえよ……!」
 堰を切ったような言葉と、感情の高ぶりが収まらない。ただ突き動かされるままに罵るように喋り続けるとアストラルが唇を動かして声にならない言葉を紡ぎ出した。遊馬はかぶりを振る。
「わかんねえよ」
『……』
「それじゃわかんねえよ! いつもみたいに言ってくれよ、声に出して、俺の名前を呼んで、なあ、アストラル……!!」
 懇願するように、アストラルの体を掴み取ろうとする。だがやはりつるりとすり抜けて、触れることも叶わない。
「アストラル」
 やがてまぶしい白が一際まばゆい輝きを放ち、遊馬の視界いっぱいを覆い尽くした。強烈なフラッシュバック。
 遅まきに理解する。ああ、これは、ゆめまぼろしなのだ。

 現実じゃない。



◇◆◇◆◇



 ブラック・ミストが狂乱して迫ってくるのを感じて、ゼアル化を解いた。遊馬の体がはじき飛ばされて後方に吹き飛ぶ。痛ましい音。だが、もしこの解除が間に合っていなかったら彼はその比ではない、本来人が受け得ない苦痛をその身に刻むことになっていただろう。それこそが私に取れる最善の策で、そして最後の遊馬への恩返しだった。独りよがりにすぎなくとも。
 遊馬が呼ぶ声がこだまする。ブラック・ミストを無理矢理に押さえ込んだことにより今にもたち消えてしまいそうなほどに消耗していたが最後の力を振り絞ってもう一度だけ、遊馬の前に戻った。ああ、遊馬、君はなんて顔をしているのだ。そんなふうに、胸が張り裂けてしまいそうな顔をして……。
『遊馬、無事だったか』
「無茶しやがって、なんでゼアルを解いたんだよ!」
『君を巻き込むわけにはいかない』
「馬鹿野郎、仲間だろ!」
 きわめて端的に答える。怒らせてしまったかな。こうやって彼が怒るのはいつぶりのことだろう。それも私に向かってだ。そうそうないことだった。こうしてまた、君の中に私の残滓が蓄積されてしまう。
『仲間か。そうだな、君は、かけがえのない仲間だったな。君には繰り返し教えられた……仲間の大切さを、仲間を信じる心』
 私という存在が強く君の中に残る。いつだったか聞いたことがある。死者のまぼろしは、最も強い拘束力をもって最も美しいかたちで生者の心にこびり付き、そうして生者を縛り上げるのだそうだ。私がここで君と別れるということは、たぶん、人間が死ぬということによく似た行為なのだろう。わかっている。そうだ遊馬、私は卑怯者だとも。
『お別れだ、遊馬』
 だからこそその言葉を贈った。
 こんなふうに消えない疵痕にでもするかのように、私の存在を君に縛り付けていくことを済まないと思う。だが。
(わたしをゆるさないでくれ、ゆうま)
 目を瞑る。遊馬の絶叫。ああ、なんと、むごたらしい。私のために泣いている。恥も外聞もなく、泣き崩れている。私は唇を小さく動かし、密やかに、祈るように呟いた。「ありがとう」。たった五文字の、呪いのような言葉。
 私という存在が消えていく。遊馬の、彼の美しい世界から削除されていく。バグが消滅する。
 最後の瞬間、私は遊馬の絶望に染まる顔を見た。あの天真爛漫で、天使のようだと評されたこともある笑顔の何より似合う顔を苦痛に歪めて、私を見ていた。その時私達は最後にお互いを確認し、見つめ合い、そうして永劫に交わらない世界を、一度も触れ合うことの出来なかったからだを、自覚する。


 さようなら遊馬。

 私の大切な×××。



(もしも次に会う時に、君の隣にいられないのだとしても。)