表向きには、それは酷く静かな、至って緩やかで穏やかな、しかし明確な世界からの略奪だった。
 神に最も近しい全能の欠陥製品のようになった彼を如何なる手段で丸め込んだのかは誰にもわからない。全知全能のヌメロン・コード。森羅万象の権化。得てしてそういうものは、何か決定的に欠損している――欠落しているのだと、私達は知っていた。
 だからもう彼、九十九遊馬にも皆が愛した美徳は完全な形では残されていないのかもしれない。そう断じることが出来ればいくらか気も楽だったろうし、事実そう認めてしまいたいという自分が強い意志を持ってそれを主張していることも確かで、私には、もうその問題をどう扱っていいものかわからなかった。
 ほとほと困り果てていたと、そう言ってもいい。

 花嫁衣装を身につけた彼は手の中に花束のブーケを抱えて睫毛を伏せり俯いている。表情は隠れてしまって読めない。否、見えたところで、わかりはしない。彼はもうそういう高みにはいない。
 私は昔文献で読んだ「狐の嫁入り」という御伽噺を思い出す。彼は人の姿をした最も神に近い生き物だったが、内実は、単なる人身御供のようなものだった。
 バリアン界とアストラル界とを結び繋ぎ留めるための安定剤。
 そしてベクターの……。
 かぶりを振った。いったいどうして彼がそれに頷いたのか、真相は、ふたりにしかわからないのだ。



◇◆◇◆◇



 連れてこられた時、それはすやすやと穏やかな表情で眠りこけていた。母親の胎内で眠る胎児のように、全ての真実から目を背け、心地よい羊水の中で丸まり、夢を見ている。そういう表情をしていた。ぞっとしなかった。そのような「まともではない」表情でまどろむ「彼」も、それを大事そうに抱きかかえている「彼」も、等しく正気を失った何かに私には思えた。
「どうして、彼が、ここに」
「連れてきたんだ。こいつがうんと頷いたから……」
 気性が激しく、常に人を小馬鹿にしたような応対が基本となっている彼にしては珍しい殊勝な声音。壊れ物を触るような手付きで柔らかく、少し力を込めればぐちゃぐちゃにはじけ飛んでしまうような人間の皮膚を撫でている。正直に言って、気味が悪かった。仕方のないことだろう。擁護するつもりではないが、私達は今まで一度だって彼の――バリアン七皇がベクター、残虐非道を掲げ悪意を厭わないあの男の、そのような姿を見たことがなかったのだ。
「頷いた? 何故だ。そもそも、何に対して頷いたなどというのだ?」
「言わねえ」
「なに」
「それは、誰にも、言わない。俺とこいつだけが知っていればそれでいいんだ。それでいい。あとは何も要らない……」
「お願いだから、私にわかるように喋ってくれないか」
「遊馬はもう俺のところからいなくならない。俺を裏切らない。それ以外に、どんな説明が必要だっていうんだ?」
 ベクターはそれ以上の説明を頑としてしようとはしなかった。ふたりの間に存在しているのであろう暗黙の取り交わし。めまいがする。
 どうして……何が? 彼らをそんなふうに突き動かすのだ?

 連れられてきて遊馬が目を覚ますまでに三日間の時間を要した。その間、ベクターは自らのテリトリーに彼を連れ込み、領域不可侵を他の七皇に言い渡してその空間に籠り切った。私は便利屋的に時折彼に呼ばれてその空間に赴いたが、その度、目に入るのは倒錯した風景画だった。卵が孵るのを待ちわびてその腕に包み込む母鳥の姿がそこにはあった。瞼をぴくりとも動かず、死んでいるかのように眠り続ける九十九遊馬をベクターはじっと両かいなに抱き続けていた。
時折彼はキスをその頬に落とした。マーキング。所有者の刻印。啄むようなキスの痕は決して遊馬の体には残らなかったが、私が訪れる度、宣告するように施される口づけのあと、徐々に徐々に遊馬の肉体が彼に紐づけられ、濃い関係性を結ぶのが私には理解出来た。
未だ目覚めぬ雛鳥への丁寧で、ともすると病的なまでに執拗なインプリンティング。ベクターは私に必要以上の、指示以外の言葉を贈らなかったし、それは言い換えればそれ以外には言語を必要としていなかったということで、柄にもなく霊的な結びつきというものを信じた。
 四日目に訪れると、卵から既に雛が孵り目覚めた後だった。遊馬は自分の足で立ち、あの赤い瞳を見開いて、私の方を見た。そうして少しばかり首を傾げるとにこりと微笑み、「おはよう」とそう私に告げたのだった。
「ごめん、早々悪いんだけどさ。出来れば布が欲しいんだ。俺の服、もう大分汚れちゃってるから……」
 言葉や声の調子は存外しっかりしていて、ベクターに脅されていたり、バリアンの異能で支配されていたりだとかそういう様子ではなさそうだった。私は一も二もなく頷くとそそくさと「彼らの」テリトリー、定められた領域、支配された小さな世界から逃れ出した。
 遊馬の衣服は確かに酷い汚れようだった。ぐっしょりと濡れそぼり、ところどころがほつれていた。昨日までのあの母が子を守るようなまどろみにいた少年の姿とはそれは明らかに異なっていて、ベクターのオレンジ色の――つまり、ヒューマノイド・モードの姿からも鑑みて、それらの状況証拠は彼らが性行為に及んだ後なのだということを私に否応なく理解させた。
 よくよく見れば、遊馬の肌は仄かな赤に上気していたし、ベクターだって、汗ばんでいたのだ。

「俺の中のヌメロン・コードが、活性化してさ。俺のからだは、もうあんまり俺の生まれた世界にいるのによくないんだって。バランスが崩れるって。通りで最近自然災害が多いとは思ったんだ。めちゃくちゃ頻繁に地震が起きるし、大嵐があちこちで起きるし、異常気象が大変だって姉ちゃんが言ってたし……」
「……そう、か」
「俺は、エリファスに――アストラル界の守護機能に言わせると、カオスの塊、つまりお前らバリアン七皇に近い組成をしているらしいんだけど、アストラルとずっと一緒だったのとヌメロン・コードを持ってるのとの影響でややこしいことになってて……魂の組成式はカオスで組みあがってるんだけど、何がどうしてそうなったのか出来ている形はランクアップした魂そのもの、らしい。なんて言われてもそんなもん見えないからさ、確かめようがないんだけど。でも俺がいることで俺の生まれて育った世界がダメになるってことだけはいくらばかな俺だって理解出来たよ。だってさ」
「ああ」
「みえるんだ。毎晩、夜になると、目に映る。瞼の下に焼き付いて、瞳の中のプラネタリウムみたいに、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日ぐるぐる回る。天井に青白い満月、それから海、気泡、遺伝子のひも、はじまりと終わり、俺がちっとも知らないはずのそれが、現在過去未来その全てが、……みえるんだ。それがどういうことなのか、わかった時、俺は怖くて……」
「……」
「だけどアストラルはもうどこにもいなくて……このまま、ほっといたら、みんな、いなくなっちまうんじゃないかって……」
「もういい。喋るな」
 遊馬の言葉を遮ったのはベクターだった。瞳孔が収縮し、見るからに精神に異常をきたしている様子であるのを見かねて強引に止めに入ったらしい。紫の瞳は怜悧で冷たい。まっすぐに遊馬を見て、「大丈夫」と囁く代わりにキスをして、唇を塞いだ。私がここに存在していることなど、まるでお構いなしといった様子だった。或いは既にその時彼らは私が同じテリトリーにいるという事実を忘れ去っていたのかもしれない。物理的な意味では同領域にいても、知覚的に私を排除するのだ。そうしてふたりきりになる。なんだかそれは、酷く、もろいものだな、とそう感じた。
 口には出さないけれど。
 ベクターの目は彼を見る時だけは人間の色をしていた。他人をいつだって見下して馬鹿にしている、あの色ではなかった。同じ紫にこんなに違う加減があるのだと私は彼が現れるまでは知らなかった。あの冷たく、死に纏わる陰気な色があんなふうな気高く柔らかい色になる。手品か魔法でも見ている気分だ。ただしその手品は私を高揚させてはくれない。単に突き落として冷え渡った現実を直視させる。
「考えなくていい。お前が不安になることは、瓦解させるようなものは、そんなものは、お前が心を砕いてやる必要なんかないんだ」
「ベクター、でも、」
「俺だけ見てろよ、なあ。そうしたらもう絶対にお前は心を痛めないで済むぜ。お前を棄てた連中なんて忘れちまえよ。不可抗力だろ。ヌメロン・コードを切除出来たらお前にとってそれが一番望ましいのかもしれないが、それが出来ない現状、取るべき手段は一つしかない」
「でも……俺は故郷を、捨てられなんかしないよ……」
「馬鹿言うな。俺についてきた時点でお前は生まれた世界を棄てたんだ。現実を受け入れろ。そうすりゃ、すぐに楽になる」
 ベクターが聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように優しい声音でそう言った。そのまま柔らかく頭を撫でる。彼はベクターの胸に顔をうずめて、ひっく、ひっく、とすすり泣いてベクターの体を掴む腕に力を込めていた。衝動的なものだとしてもベクターに何らかの苦痛を与えているだろうがベクターはそれについては一切の言及をせず甘受するに任せている。「泣くのぐらいは好きにしろ」また、優しい声。
「気が済むまで。俺を見て」
 泣け。今度は父親が娘にそうするような声音で彼を抱きしめた。
 彼の父と母を諸手に引き受けているが如くにだ。
「俺はもう二度とお前を手放さない……」
「うん」
「等価の契約だ。だからお前は、俺を裏切ることが出来ない」
「うん……」
「それでいいだろう?」
 後に言葉は続かなかった。ベクター、それは、契約でもなんでもない。そういう名前ではない。思ったが、それを告げることが躊躇われる。
 それは束縛という名を持つものではないのか。選択肢を削ぎ落とし、縛り付け、逃げ道を断つ。遊馬にもはや猶予はなかったのだろう。彼の手を取らざるを得なかったのだろう。
 ああ、だが、しかし。束縛しているのはベクターだったが、遊馬もなのだと私は理解した。ベクターの選択肢も彼は巧妙に周到に意図せず削ぎ落としていた。退路も代替案も遊馬はベクターに与えなかった。
 であるのならば、相互の束縛は、確かに等価の契約と呼べるものなのかもしれない。九十九遊馬はベクターを、残された唯一の依り代を、認め与えてくれる存在を裏切ることが出来ない。ベクターも同様。ようやく手に入った、自身以外を信じることの出来ないかわいそうな全能のこどもを、手放したり棄てたりすることなんかもう出来ないのだ。
「なあ……あのな……」
 私の存在をその時ふと思い出したのだろうか。遊馬がこちらを向いて、私の名前を呼んだ。覚えてはいるのか。彼はそのまま細く弱々しい指を私に伸ばし、あの赤色のまなこで私を見据え、唇を開く。

 ――そうして彼は、自らが生まれて育った世界に拒絶されたのだと、ベクターの腕の中から消え入りそうな声で私にそう教えてくれた。



◇◆◇◆◇



「ただ……一番俺が必要なのが、ベクターなんだって、そう思ったんだ」
 ブーケには清廉を司る白い花がぎゅうぎゅうに詰められていた。白百合の花が一際大きな存在感を放って揺れる。白百合。純潔を意味する花。とても白々しい花だ。その色合いは勿論のこと、意味合いとしても、白々しかった。九十九遊馬に純潔はもう残されていない。
 花束を胸に抱えた花嫁は全体に蒼白く、幽霊のように、儚かった。あの触れれば砕け散ってしまいそうな体の中に森羅万象がある。今でもまだ、それが信じがたい。
「俺が持てるものは少ないし、与えられるものもそう多くない。せいぜいが、この手のひらの中にいっぱいなんだ。だからヌメロン・コードなんて俺が持っててもしょうがないんだよ。ほんとはな」
「しかしそれは君が持っていなければならないのだろう」
「好きで持ってるわけじゃないって話。別に俺、神様になりたいとかさ、思ったことないし」
 ベクターがどのような意図を込めて白百合の花を贈ったのかは私にはわからない。そこに意味などないのかもしれない。九十九遊馬の純潔を、美徳を、愛されるべき彼の性質を奪い破壊し、誰へも平等であった博愛をただ一人への愛情に変質させてしまうような男の考えていることなど永劫に私にはわからない。
(たった一人への感情……)
 その一点で、やはりどうしても、彼は欠陥製品の欠損した神だった。しかしもう人間とも言い難い。神の体質と人間の性質を兼ね備えた中途半端なハイブリッド。彼はきっと望めばあらゆる事象を現実にするのだろうが、「望む」という感情が特定の誰かの為にしか用いられないから、宝の持ち腐れも良いところだ。
 人間の姿をしたベクターが、遊馬の隣に寄ってきて彼を招きよせ、手近な椅子がわりを見繕うと座って遊馬を膝に乗せた。新郎が着るような真白い服は彼には酷く不釣り合いだった。
 手に何着かの人間が着るべき服を持っている。大仰な装飾がじゃらじゃらとついた華美な礼服から、人間界の量販店で陳列されていそうな安っぽいカジュアル服まで種類は様々だ。遊馬が元々着ていた私服はなかった。精液で汚れてしまったあの服は、私が密かに廃棄した後だった。
 どれがいい、好きなものを選べ。ベクターの口の形がそんな塩梅に動く。遊馬は言われるままに服選びを始め、やがて二着の揃いの服を選びとった。
 それは彼が通うハートランド学園中等部の制服だった。赤い袖に、同じピンクがかった赤のネクタイ。ズボンは折り返しの付いたかわいらしいデザインの紺。言うまでもなく彼らが「九十九遊馬と真月零」として共にいた時のシンボルのような服装であり、また私には何ら縁のないものだった。
 過ぎ去ってしまった過去の象徴を手に取って遊馬が破顔する。いつも私には俯いたり、表情の読めない、憂いた顔をしている彼がにこにこ笑ってベクターだけを見ている。そのさまは閉じた円環の蜜月を思わせ、
「どうして……こんなことに……」
 ――私を強く悲しませ、酷く落胆させ、どうしようもなく失望させる。



 表向きには、それは酷く静かな、至って緩やかで穏やかな、しかし明確な世界からの略奪だった。





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 真月零は月夜が似合う男だった。
 名前に月って入ってるんだから、そりゃ、当たり前なのかもしれないけれど。真月は月と共に現れた。月明かりの下で、「ゆうま」と、俺の名前をよく呼んだ。
 あの頃も確かそうだった。彼が「真月警部」であった短いひとときのことだ。満月だった。でも雲が多くて、ふとした瞬間に月が陰り、あまり、いい感じはしなかった。
「遊馬巡査。寓話がひとつ、あるんだがね……」
 実のところ俺は彼がその時話した、「寓話」とやらの内容をよく覚えていないので頭の中でそれを再現することが出来ない。ただ何となく切ない話だったということだけを記憶している。悲恋だ。小鳥が好きな、ハッピー・エンドみたいなのとは少なくとも縁が遠そうだった。
 俺はその話を寂しそうな横顔でする真月をただじっと見ていた。月明かりに照らされて、逆光のせいもあって、真月の表情はいつにも増して暗くて陰気だった。だからだろうか。寓話の話が終わって、ぽつりと言ったあの一言だけは、よく覚えている。
「きみは、博愛主義者だな。遊馬」
 忘れられない。あの声は、今思えば俺を「どうしようもないんだな」と、罵っていたからだ。

「手に入れようと願うなら壊すしかないような、そういう、人間だった。だから俺は博愛を奪った。あいつの愛情は、そんな手広く無節操に向けられて良いものじゃない。俺だけで十分だ」
「それは単なる欲深だ。尤も、君らしいがね。ベクター」
「なんとでも言え」
 もう俺のもんだ。やらねえぞ。子供が口を尖らせて言うような台詞だ。俺はベクターの腕の中でその言葉を聞きながら密かにドルベに同情した。そんなに口酸っぱくしなくたっていいのに。
 ベクターが見立てた花嫁衣装は、きっとあいつが昔俺に断じた「どうしようもない」博愛主義の投影なんだろうなって俺は思っていた。それを与えることで縛り付ける。よくわからない。
 実際のところ俺は博愛だとかそういう自覚はとんとなくって、単に皆のことが好きで、誰一人見捨てられないっていうそういうつまらない人間なだけだった。見捨てられない誰一人の中には当然ベクターも入っている。世界中から裏切られた(のだと、ベクターは言う)俺が最後に縋り付けるよるべになった男。俺にはもうベクターしかいないし、ベクターにも、万人を裏切り踏み躙り続けたあいつにももう俺以外に信じ愛してくれる誰かはいない。選ばざるを得なかった選択。追い詰められた先の答えだ。
 でも俺はそれで満足しているし、その点に関してはベクターも同様だろう。確かこういうのを、メリー・バッドエンドというのだと、昔小鳥はそう俺に教えてくれた。「なんだか、悲しいけどすごくどうしようもないのよね」って。
 ――つまるところ。博愛だろうが、なかろうが、どっちにしろ俺っていうのはすごくどうしようもないいきものなのだ。