そこが死後の世界なのだろうと少年王は一人でそう考えました。
 なんだか曖昧模糊としてうまく形のつかめないような、そんな空間です。その空間には少年王以外の存在はありませんでした。少年王が一人で寂しく、ぽつねんと立ち尽くしているだけのつまらない世界でした。
 死の自覚は十分にありました。だって彼は自らでその身を刺し貫いていたのです。手にした剣で心臓をふかぶかと刺しました。もしあれで生き残ってしまったのだとしたら少年王は人間ではなく新しい何か未知の生命体だったのだと考えないと辻褄が合わない。そのぐらい、ふかくふかく刺しました。
 彼は今もなおその身が死に向かう痛み、おぞましい破滅の感触を覚えていました。しかし体には傷一つなく、なだらかな肌色を晒し、その上あれだけ付けていた装飾品も纏い布もこれっぽっちもないので――少年王はやはり、自分は死んだのだとそう結論づけました。
 少年王は生まれたままの姿でそこに立っていました。秘すべき部分もなにもかも丸見えでしたが、死後の世界であるのならば生まれた時と同じ姿になったっておかしくないだろうし、それになによりそこには他に誰もいませんでしたから、たいして気にしていませんでした。
「死んだの? 迷子?」
 そこへ唐突に声が降ってきて、少年王は驚いてきょろきょろと前後を見渡します。すると、目の前に乳白色のもやが浮かんでいて、どうやら声はそこから聞こえてきているようなのでした。
「……なんだお前」
「おれ? おれは……んーと、神様。おれは世界のすべてを創ったし、あらゆるものを自由に出来る。なんだかへんぴなとこに人の魂があったから、見にきた」
 もやはそんなふうなことを言いました。この空間同様、なんだか曖昧模糊としてはっきりしない言い方でした。
 さて、その妙ちくりんなもやですが、それは結構な大きさを持っていました。少年王の身の丈と同じぐらいの高さです。その中から聞こえてくる声は変声期を迎えたばかりの男の子ような、その途中のような、少し高めの子供のものでした。ですので少年王は、もやも自分と同じぐらいの子供なんだろうと考えました。
 神様であるにしろないのにしろ。
「なんだよぉ、信じられねえって? でも俺本当に神様なんだぜ。お前だって、俺が作った世界から生まれてきたんだから」
「証拠のないものは信じないたちでな。第一お前、そのもやもやした姿で何を言われても口から出任せ同然だ」
「そこかぁ? もう、仕方ねえなぁ……ほら」
 口をとがらせる《かみさま》に疑心暗鬼の眼差しでそう言ってやると彼は困ったような声を出して、それからくるりと姿を変えます。少年の姿です。全裸です。それは傷どころか穢れ一つなく、なめらかで美しく、完成された少年の肉体でした。
 それゆえ驚くほど美しく、神秘的で、愛らしく、狂おしい形をしていました。
「これで話しやすくなった? 尤も、おれはおまえにどう見えてるのかわからないけど。おれは神様だから。何か一つの固定された姿は持ってないんだ」
「なら、俺の目に映る姿は何なんだ?」
「おまえが望んでるものの姿。願望を映し出す鏡だと思えばいい」
「なるほどな」
 少年王はもっともらしく頷きます。
「確かに俺好みの抱きたい姿をしている」
「……おまえそんなことばっか考えてんのかよ?」
「子孫繁栄だぜ。お前の言葉を借りればその仕組みを作ったのはお前自身ってことになるんだが」
「じゃあおれ、女の子に見えてんだな……」
 《かみさま》は恥ずかしそうにそう漏らしました。少年王は、《かみさま》がその性器まで含めて完璧に男の姿に見えていることは言わないでおきました。
「なあ、お前どうしたらおれが神様だって信じてくれる?」
「俺が納得出来る証拠を作るってことか?」
「そう。おれ、本当の本当になんだって出来るんだぜ。人間の欲望を満たすぐらいなら朝飯前だ。だからさ、お前の願い事を一つだけ叶えてやるよ。そしたら俺が神様だって信じてくれるか?」
「そうだな……」
 《かみさま》がそんなことを言います。少年王は少し考え込む素振りを見せました。願い事を何でも一つ。実に魅力的な言葉です。しかし少年王は暴虐と悪行の限りを尽くした王でしたので、大抵のものは望めば手に入りましたし、取り立ててここで物欲を満たしたいと感じていないのも事実でした。死んだところで金品なんかの人間が価値を肯定するものを得ても仕方ありません。自慢する相手もいないし。
 ですから少年王は慎重に選択を重ねました。少年王にとって、彼一人でその価値を肯定出来る最大限のものを望まなければ。少年王は強欲でした。とても人間らしい考えの持ち主でした。
 そして、目の前の《かみさま》は、実に彼の欲望をそそる姿形をしています。
 となれば、導き出される答えは一つしかないのでした。
「なんでも、と言ったな」
「うん。なんでも」
「だったら……お前が欲しい。お前を俺だけのものにしたい。どうだ。これでも、叶えられるんだろう? 全知全能の神サマ」
 自信たっぷりにニヤニヤ笑いながら言ってやります。彼が仮に神なのだとしたらそれこそ無茶な話だということも承知の上の願いでした。そして駄目だと言われたら、なんだ、その程度か、と、彼を認めなければいいという考えでした。
「それは駄目だな。おれは神様だから、誰か一人のものになるわけにはいかないんだ」
 そうして案の定《かみさま》はそう言ってすぐに少年王の願いを否定しました。
「……クソみてぇな博愛主義だな」
「仕方ない。神様ってそういうもんだぜ。みんなを平等に愛さなきゃいけない。誰も、彼も、おまえも」
 《かみさま》は肩を竦めて首を振りました。それが役割だから、そういう形にしかなれないのだと少年王も理解していたので、それ以上は問いませんでした。ただこの《かみさま》は哀れないきものだなと考えて、そうして、それがいきものであるのかどうかも怪しいことに思い当たり、なんと言っていいものか、よくわからなくなってしまったのでした。
 《かみさま》は神である限りに全てを愛さなければなりません。美しいものと一緒に少年王みたいな、肥溜めから這い出てきた溝鼠のように汚いものまで、あらゆる全てを愛するのです。それも平等に。彼の愛に優劣はなく、それゆえ、システマチックで、有り難みがないのでした。
「だが願いを叶えてくれるんだろう? そうだろう万能の神。不可能はないんだったよなぁ、ならば、俺の願いを叶えて見せろよ。願い事の代替案は、ないぜ」
「でも……」
「出来ないって言うのなら、お前はその程度で、神なんかじゃあなかったと俺の中で結論づけられるってだけさ」
「ええ。それは困る」
「じゃ、やってみせろよ。ほら」
 挑発するようにわざと嫌らしい声を出して煽ります。《かみさま》の長い睫毛が思案深げに伏せられました。とても綺麗で、彫刻にして飾りたいほどでした。少年王はますます《かみさま》が欲しくなりました。
「……一つだけ、方法はあるんだ」
 しばらくして《かみさま》がぽつりと言いました。
「神様のままじゃ誰か一人のものにはなれない。だから、おまえの願いを叶えるためにはおれは神様をやめなきゃいけない」
「へえ? やめたら、どうなるんだよ?」
「人間になる。でも完璧なただの人間にはなれないだろうから……特別な人間になる。とは言っても目に見えて特別なわけじゃないよ。そんなんじゃ、すぐに悪目立ちしちゃうしな。ただ見る奴が見れば一目で特別だってわかっちゃうと思う。そのぐらいしか方法がない」
 そこまで述べてから《かみさま》は「それにな」と酷く困ったふうな顔で告げました。
「特別って言っても人間だから。人間になったおれはおまえのことを覚えていないし、自分が特別だって自覚もない。それに、おまえの方も俺のこと、きっとわかんなくなっちゃうよ。お互いにここでの約束は覚えていられないんだ。これじゃ、意味がなくなっちゃう」
「だがそれでお前は俺のものになるんだろう?」
「可能性が開けるだけだよ。何せおれの方からはおまえを探したり出来ないんだ。だからまず、おまえがおれを見付けてくれないことにははじまらない」
「出来るんだな。ならいい。商談成立――だ」
 困惑気味の《かみさま》に対して少年王はとても爽やかな笑顔でそう返しました。《かみさま》が手に入るのならそれは些細な障害に過ぎないと思えました。《かみさま》が神様でなくなっても、特別な人間になっても、それが少年王が欲しがった《かみさま》であることには変わりないと思えたからです。
 一目惚れでした。
 どうしても手に入れたくなってしまったのです。
「あと。おれは神様だから一足飛びに人間に生まれ変わるけど、おまえが人間になれるとは限んないぞ? 野を這う虫になるかもしれないし、大気に溶けて空の雲になるかもしれない。お月様になっちゃうかもしれないし、そこらへんの道端に咲いてる花になるかもしれない」
「なるほどな。しかし巡り会うことだけは、決まっているんだろう」
「そりゃ、まあ」
「ならば十分だ。俺が必ずお前を見つけ出す」
 《かみさま》は肢体をもじもじと寄せて恥ずかしそうに頷きました。しなやかな少年の体が持つくびれのラインが相変わらず扇情的です。もしこれと同じ姿で人間になるのなら、絶対に間違えないし見失なわないという自信が少年王の中に生まれました。
「……わかった。そしたら、俺が神様だって今度こそ信じてくれよな。ちゃんと生まれ変わって、おまえに見つけ出して貰えるように生活してるから!」
「ああもちろん。お前が正真正銘の創世神だったと記憶してやるよ」
「そっか。……なあ、ところでさ、おまえの名前は? それがわかんないとやりづらいんだけど」
「俺の?」
「うん。まあ、次もおんなじ名前だとは限らないんだけど、目印にさ」
「ああ……」
 少年王は緩慢に頷きました。彼は自分の名前を取り立てて好きではありませんでしたが、彼に見つけてもらうなら、次も同じ名前がいいかなと思いました。
「ベクター。俺の名前はベクターだ」
「北斗七星の一つか。お星さま。いいな、おれ、お星さまもお月さまも、好きだよ」
「自分の創ったものがか? まあいい。それでお前の名は?」
「へっ?」
「名前。俺一人名乗ったんじゃあ、フェアじゃない。たとえ覚えていられないのだとしても知りたい」
 少年王の真摯な眼差しに《かみさま》は困ったようにたじろぎます。名乗れと言われても《かみさま》には名前がないのです。彼はたくさんのものに名前を与えましたが、そういえば、自分にはまだ名前を付けていませんでした。おざなりだったのです。
「ええと……」
 何がいいでしょう。仮初で適当な名前を名乗ることも出来ましたが、それは躊躇われました。きちんと自分の本質を示す名を提示しなければ。何がいいでしょう? 何が……
 《かみさま》はそうしてしばらく考え込むと、やがてゆっくりと顔をあげ、少年王の目をじっと見つめ返し、こう言います。
「――《ヌメロン・コード》」
「ん?」
「《ヌメロン・コード》。それがおれ、万物の創世主の本質を示す名前。……世界は」
 少年王は瞬いて《かみさま》を見ていました。彼は緑色に薄く発光して、少年王の手を取りました。

「世界はおれという一枚のカードから作られた」
 
 ヌメロン・コードとベクターが次の存在に生まれ変わるより、もっとずっと昔の話です。



◇◆◇◆◇



「見つけたぜ。やっと……見つけた……」
 死に体でした。瀕死で、やっとのことで指を動かし、遊馬の肌に触れたのでした。
「ヌメロン・コード……ほら。ちゃぁんと、俺が、探して見つけ出してやっただろう……?」
 体中が血にまみれて息も絶え絶えといった風体です。遊馬は横たわり息を引き取る間際のベクターの姿を茫然と見ています。彼はもう、自分がどうしたらいいのかわからなくて、すっかり立ち止まってしまっているのでした。
「お前さ、ほんとに特別な人間になりやがったな」
 九十九遊馬は、九十九夫妻を選んで生まれてきた特別な子供でした。彼は普通の子供と同じように発育していきましたが、やはり見る人が見れば彼が特別であるということは一目でわかってしまうものなのでした。彼が生まれる前にアストラルに鍵を授けられた夫妻も、恐らくはその一人だったのでしょう。
 皇の鍵は遊馬の神性を示す目印のようなものだったのかもしれないと、ベクターは今になって思いました。
「認めてやるぜ。お前が……ヌメロン・コードが全知全能の神だったのだと。たった一時でも、お前は俺のものになったんだから……」
 今では彼が自らと等価かそれ以上の存在として抱え込んでいるアストラルに、ひと時でも存在として勝ったあの蜜月の時を思い出します。「僕の名前は真月零、って言います。僕、遊馬くんのファンなんです!」そう名乗って近付いたのはほんの戯れのような気持からでしたが、あとあとから考えてみれば、惹かれてやまなかったのだとそう思えました。
 真月零。月の名前を関する偽物の名前。それは昔々、まだベクターが人間として死んだばかりで彷徨っていた頃に出会ったあの神の、愛するものの名前を冠しているものでした。
「ベクター」
「なんだよ遊馬。そんなふうに顔を歪めて……俺のために泣く、ってか? この溝鼠のような俺にも分け隔てなく。まったくクソみてぇな、博愛主義だな……ああ、お前は変わらない。全てを愛さなければならない神の性質そのままだ」
「ちがう。違うよ。俺は……ベクターが……こんなふうに、簡単に、いなくなっちゃうなんて、ゆるさねえ、から……!」
「はん……ばーか。お前が許す許さねえの問題じゃねえだろォ」
 血がべっとりとこびりついた指先でベクターが遊馬の髪を撫でます。遊馬の体は、人間になったから多少は俗っぽいものになってしまったけれどそれでもやはり完成された少年の肉体の美しさを持ち、それゆえ狂おしく愛おしい姿をしているとベクターは思いました。
「俺は。昔お前が言ったみたいに人間どころか地を這う虫にも空に浮かぶ雲にも、道端の花にも月にもなれなかったが。お前だけは見つけ出した。そうしてやはり、どうしようもなく、欲しかったと願ったんだ」
「なんで。友達がこんなふうに死んじゃうなんて、おれ……!」
「簡単だろう?」
 取り乱す遊馬にとても優しい笑顔でそう語りかけます。昔真月零として彼に接していた時の名残のような表情でした。それはバリアン七皇のベクターが普段している、人を小馬鹿にしたような顔よりも数段、たちが悪いものでした。
 ベクターは知っているのです。その顔が遊馬にてきめんの効果をまだ持っているということを。
 彼がこういうものに性質として弱いことを理解しています。
「お前は森羅万象を司る創世神の力を持ってるんだぞ? ……遊馬、俺は……」
 そうして最期に彼に囁きかけました。
 彼が考え得る中で一番最低で最悪の遺言を残し、ベクターは静かに目を閉じ、息を引き取ったのでした。


/神様チャイルド



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