博愛少年/或いはうそつきピエロとその幸福な最後




 たとえばあいつは俺を裏切ったけど、それは回りの奴らがそう言ってうるさかったというだけで、俺にとってはそんなことは些末なことだった。
 俺にとって真月零という存在はそれでも友達だったし、彼がどんなふうに口汚く俺を罵ったとしてもそれに揺らぎようはない。真月零。俺の友達の転校生。俺のことが好きだって言う。色んな顔を持っている。
 ――その顔が、単純にひとつ、増えたっきりなんじゃないか?
『君はばかなのか?』
 しどろもどろに、たどたどしくそう考えを話すとアストラルは『君にこんな言葉は使いたくないが』と断って俺にそう言った。前に、『甘ったれるな』と言った時と同じような声だった。
『君はあんなふうに手酷く裏切られたのだ。まず間違いなく、君が盲信していた『真月零』という偶像はベクターの中では抹消されただろう。ハードディスクから削除するかの如く、一瞬で、容赦なく、無慈悲に。これで真月零はこの世界から消え失せた。もう誰も彼のことを信じない』
「……でも」
『『真月零』はいなかった。それはベクターが被っていた仮面にすぎない。その仮面を踏みにじられ、あろうことか……君は殺されかけた。事実君はベクターを罵ったではないか。違うのか?』
「違う。俺は……俺は、真月零を、他人をあんなふうに無碍にする奴が許せなくて。だけど真月がベクターだったのだとしたら、ちょっと、変わってくるんじゃないか。あいつは自分自身をぞんざいに扱ったけれど、それは無碍にすると言うよりは、むしろ自分で自分を忘れたかったというか……」
 もつれている思考をなんとか動かして、少しずつ口にする。あいつは俺のことを、計画を邪魔してきた腹いせに怒らせたかった、みたいだった。俺の悲しむ顔が見たいってことなんだろう。だから、一生懸命尽くして俺の信頼を勝ち取ってから粉々に砕こうとした。それで俺が激昂して真月零そのものまで含めて憎むと信じていたのだ。
 自分をひとり殺してまで、俺の絶望を欲しがった。
「……なかったことにしたら、俺が傷つくとか、泣くとか、思ったのかなって。だったら……俺は真月零が死んだとかいなくなったとか最初からいなかったとか、絶対に思ってなんかやらない。真月零は確かに俺のそばにいた。俺の隣で笑ってた。一緒に学校に行ったし、寄り道もした。夜にはアストラルに内緒でこっそり会ったりして。真月は俺の友達。あいつがそんなの嘘だって言ったとしても……」
『では君は彼を許すと?』
「ううん。許さない」
『……矛盾しているぞ、遊馬』
「矛盾なんかしてねえよ。俺は真月零を許さない。だって最初っから怒ってなんかねえんだから」
 だったら俺は俺の主義を貫くしかない。あいつの思惑通りに、そうだな、真月なんていなかったんだな、ベクターの作った嘘だったんだからベクターごと敵として憎まなきゃ、なんてまっぴらごめんだった。
 普通の、アストラルとかシャークとか、カイト、そういう頭のいいやつはそういうふうにすっぱり思考を切り分けることが出来るのかもしれない。そういえばベクターも頭が切れる奴だったから、きっとそうだろうって思っているんだろう。だけど俺は(いみじくもアストラルが面と向かってそう告げたように)ばかだから。
 どうして真月を憎まなきゃいけないのかがわからないのだ。
「許す理由がない相手をむやみやたらに許すことなんかできっこないだろ」
 まっすぐにアストラルの目を見据えてそう言うと、アストラルはぽかんと固まった後、ハァ、と盛大に溜め息を吐いて頭を抱え、それから『そうだな、それこそが、君という人間だ、遊馬……』諦観の言葉を投げて寄越した。
『君は彼をやはり今でも信じているのだな』
「……うん」
『デュエルをしたら皆友達だと、彼に対しても?』
「だってそれが俺の信じるものだから」
『ハァ……そうか』
「なんだよ……」
『呆れているのだ。まったく……しかし』
 呆れられてしまったらしい。アストラルはいつものあの気むずかしい顔ではなく、どこか柔らかくすらある表情をして、俺にふわりと近寄ると目と目を合わせて囁く。
『しかしそうであるからこそ、私が信ずると決めた君なのだ』
 囁かれた声もやっぱり優しかった。

 ――もしも。
 真月零をベクターが殺そうというのなら、俺はそれを永遠に自らの中で生かし続けるだろう。
 あいつが殺そうとする度、何度だって、掬い上げ、そんなことはないと言ってやれる。
 真月零もお前自身なのだと、台本に書かれていただけのどこにも由縁のない架空のキャラクターなんかじゃなくって、お前のどこかから確かに生み出されたものなのだと、俺はきっとあいつに言ってやることが出来ると思う。
 だってベクターの所作と真月零の所作は、どうしようもなく、似通って同じだったのだから。
 それを隣でずっと見てきた俺は誰より一番よく知っている。



◇◆◇◆◇



 むかしむかしあるところに、神の生まれ変わり、運命の日にお生まれになった平和の象徴、そういうふうに持て囃され、大変な祝福を受けてこの世にいらした皇子様がいらっしゃいまして、彼の父上は暴虐で残酷な暴王として有名だったのですが、愛くるしい皇子はお母上の尽力のお陰でそんなお父上とは正反対にお育ちになりました。或いはそんな父親を間近で見続けたことで彼を反面教師として実直に生きようと努めたのかもしれません。とにかく、皇子は聡明で誰にも優しく、とても心根の正しい美しい少年にお育ちになりました。
 皇子は平和主義者でした。平和の象徴と褒めそやされた彼はまったくその通りに、周囲に期待されたとおりの人間になったのです。彼は父王の侵略主義を嫌い、王が病で床に伏せったのを機に和平政策を掲げてこれまでの国の方針を一八〇度お替えになりました。手始めに近隣諸国と和平条約を結びました。
 しかし、それを父王は決してお許しになりませんでした。皇子が和平を結んだ国は、王からしてみればあともう幾ばくかで武力による平定が可能だったはずの、「侵略目標」でしかなかったのです。王は大変にお怒りになり、重篤であるのにも関わらず激昂のままに暴れ、皇子を罵りました。
「何が平和の象徴だ。貴様など、呪いの子に違いないわ!!」
 皇子はその言葉に大層胸を衝かれ、嘆き悲しみました。王はとても尊敬出来るような人となりの人間ではありませんでしたが、それでも皇子にとってはたった一人の敬愛する父君だったからです。ですから皇子は、父王が皇子の腰に差された剣を奪い取り、振りかぶった時も逃げようという思考を一秒たりともお持ちになりませんでした。
 皇子はそれでも父君を信頼しておりました。
 まさか実の父親が血の繋がった一人きりの息子を本気で殺そうとするなどと、思ってもいなかったのです。


 それはすごくすごくショッキングな出来事で、同時に、俺の中の焦燥を酷く駆り立てた。シャークがコントロールを奪取したジャッジ・バスターによって解放されたベクターの真実が今詳らかに、俺達全ての前で明らかにされる。そこには在りし日の、失ってから俺が無意識の内に閉じ込めていた奴によく似た誰かの姿があった。きらきらしていて、優しい顔で、さえずる鳥みたいに心地よい声で喋る誰かが、歩き、考え喋り、生きていた。
『私は争いを好みません。皆さん、どうか――』
 真月。知らず、震える声にその名前が乗っていた。真月零。俺の友達。大事な一人。いつかベクターが殺して、もういない、どこにもいないんだって俺に罵った。
「なんだ……ちゃんといたんだ……」
 泣き出してしまいそうだった。
 やっぱり真月はゼロから生まれてゼロの海に帰っていってしまうような、それだけの「架空のキャラクター」じゃなかったんだ。ちゃんといたんだ。真月零の元になったきれいなベクター。争いごとがきらいで、優しい笑顔で笑って、森で小さなリスやウサギなんかに囲まれてすらいそうな、平和を愛するベクター皇子。俺はその姿に息を呑んだ。これがベクターの本当の記憶。彼はやはり、本当は優しくて誰かのために涙を流したり体を張ったり出来る、俺の友達と同じ性質を備えた人間だったのだ。
「ベクター。お前は元々心の優しいやつだったんだよ。あれがお前の姿なんだ。あれが本当のお前なんだ」
「九十九遊馬。ベクターはまさに理想的だった。純粋であればあるほどその反動で生まれる闇は深い……強きバリアンとして生まれ変わるためにだ」
「お前が記憶を捻じ曲げなきゃ、ベクターは優しい王子だったんだ!」
「だが、この男の残虐非道な行いは事実……それは消せん!」
「そうだ……俺のやった過去の罪は消えない……」
「……そんなの! そんなの……やり直せばいいんだ……!!」
 ――確かに。
 ベクターは人々を殺した。王国の民を一人残らず虐殺したのは、消すことの出来ない事実なんだろう。ドン・サウザントに性根を歪められていたとしても手に掛けたのは間違いなく「ベクター自身」だ。
 バリアンになってからも、悪虐非道の限りを尽くしたのかもしれない。俺を騙したことなんてほんの一端で、あれほどシャークを怒らせるような、想像もつかないような酷いことをしでかしたのかもしれない。
 でもだからって死んでそれを終わりにしていいのだろうか。じゃあ罪をかぶって死にます、で終わらせていいのか。俺にはそれがどうしても信じられなかった。
 生きて償わなければ。その機会さえ剥奪してしまっては。
「未来はこれから描ける」
 俺は必死にその言葉を口にした。
 
 その直後、俺はあっさりとその気持ちを裏切られることになる。何度目の裏切りだったろうか。アストラルや小鳥が、ああ、もう駄目なのかもしれないっていう顔をするのがわかった。もうベクターは昔には戻れないんだって。ベクターは心の底からそれが楽しくって仕方ないってふうに俺達を罵った。「苦しむ姿を見るのがたまらなく楽しい」んだって。
『お前が悔しがって泣き叫ぶ姿はいつ見ても快感だぜ』
 そう言えば、初めて俺達が「悲鳴の王宮」で再会し前世の伝説に触れた時、ベクターが言った言葉がそれだった。ドン・サウザントにそういうふうに歪められてしまったから、そうじゃないベクターなんてもうどこにもいなくって、それはベクターが最後に完膚なきまでに殺してしまったものなんだって、そういうふうな顔をして。
「だけど……」
 ベクターが、シャークとのデュエルに敗れて吹き飛ぶ。俺はその姿を見て、嬉しいとも良かったともちっとも思うことが出来なくて(あいつが世界を滅ぼそうとしてたんだということを知っていたのに)、ただ、悲しかった。
 ドン・サウザントに記憶を操作されていたことを知っていたと言うベクターの姿は強がって虚勢を張っているみたいに俺の目には映った。あいつは本当にそのことをずっと前から知っていたんだろうか? 知っていたとして、それでもその昔の自分を否定して、やっぱり殺し直して墓に埋め直そうとしている?
「そんなの絶対ダメだ!」
 かぶりを振る。俺は決めていたのだ。――もしもあいつが「真月零」を、優しさを持ち合わせていた本当の自分、ドン・サウザントに出会う前の「ベクター皇子」をあくまでも殺そうとするのならば。
 何度でもそれを止めてやるんだって。



◇◆◇◆◇



「だったら……だったら、もう一回信じる」
 気がついた時には飛び出していた。あいつめがけて、まっすぐに、迷いなんかどこにもなかった。
「心がないなら、心が出来るまで俺は信じる。それが俺のかっとビングだ!!」
 俺が信じたもの。守りたかったもの。絶対に見殺しになんか出来ない。俺はあいつを信じている。
 ……ずっと、信じてなかった時なんて、本当はなかった。
「ベクター! お前にだっていい心はある! ……お前が真月だった時だ! いつも陽気で、いらないお節介して! 俺もみんなもお前が大好きだった。仲間だったんだ。お前の本当の姿は真月零なんだ。
「俺が真月……」
「そうだ。お前は真月だ! ……だから」
 掴み取った手が震えている。あの紫色の瞳が、こいつは何を言ってるんだ、馬鹿なんじゃないか、っていうふうにぽかんとして俺を見つめていた。そうだよ。俺は馬鹿なんだ。
 だからそれでも、何度裏切られても、俺は信じるんだ。
「だから俺とやり直そう、真月!!」
 あらん限りに声を張り上げて叫んだ。
 この願いは傲慢だろうか。祈りは独り善がりだろうか。知っている。わかっている。だけどそれでも俺はそう願っている。
 もう一度あのくるくるとよく表情の変わる少年がそうしていたように、俺達と一緒に笑い合うことが出来るって。
「遊馬くん……」
「さあ、」
「――なら俺の道連れになってくれよ!」
 掴んだ手に、あいつの方から、強い力が込められた。
「俺と一緒に逝ってくれよ遊馬。さあ――こっちに来い!!」
 それはすごく久方ぶりの感覚だった。丁度真月零がいなくなってしまってから、一度も覚えのなかったもの。真月が俺を求めてきた時と同じ力の強さで、「遊馬くん、今日の近道はこっちです!」なんて言って張り切って俺の手を引いていこうとした時以来のものだ。
「ああ、いいぜ、真月」
 ごめん。心の中で小さくそう呟いた。アリト、約束破って、ごめんな。もう泣かないって俺、お前に言ったけど。
「お前を一人になんてしない。……お前は」
 ごめん。無理だった。俺にこの手を振りほどくことが出来ないのと同じぐらい確かに、俺は、真月のために涙を流すことを自分の力ではやめられないんだ。
 さっきまで、死を悟って足掻きに足掻いていたあいつが、今度こそ信じられないといったふうに目を見開いて、なすすべなく、口にすべき言葉もなく、ただぼろぼろ泣いている俺を見ている。

「お前は俺が守ってやる」

 ひかりが俺達を包み込んだ。



◇◆◇◆◇



 蝉の鳴き声。どうやら夏らしい。ぎらぎら照りつける太陽の光が眩しかった。遠くでプールの授業らしき歓声が聞こえる。屋上の向日葵。街路樹に止まっているのは多分アブラゼミだ。
 俺達は一年生の赤い制服を着て、学園敷地内のベンチに二人で並んで腰掛けていた。真っ青なソーダ味のアイスバー。そいつが角っこを口に含むと、ガリ、と氷が削れる音がする。
「真月」
 声を掛けた。するとそいつは、鬱陶しそうにちらりと横目で俺を見て、そしてまた視線を彼方へと戻してしまった。
「ねえ遊馬くん。僕もうそういうの、疲れちゃったんですよ。君のいう本当って一体何のことなんですか? ――それは、単に君が信じたい幻想を、僕に押し付けて正当化しようとしているだけなんじゃないですか?」
 また、氷が削れる音。一人だけかじっているアイスバー。人間の中学生の男の子がそうするように、美味いのかそうでもないのかよくわからない等間隔のリズムでがじがじと噛み砕く。なんだかハムスターのようだった。オレンジ色のあたま、目は、くるくるして丸っこくて。
「あのね、僕にとっての『本当の自分』っていうのは、君がなんと言おうと今の薄汚くて下卑た、屑みたいなこの『自分』なんです。それが今、自分自身で選び取った末路なんですよ。どんなふうに罵られたってね。戻れるとか、やり直せるとか、わかんないです。もう何度言ったのか、わからないんですけど。『真月零なんて人間はいない』んですよ?」
「……でもよ。俺にとってはそうじゃないんだ。皆にしたってそうだよ。お前一人だけ違う違うって言うんだ。お前のそれはさ、なかったことにしたいだけだろ? 真月零っていうのを殺したいんだ。俺、知ってるんだよ。真月とベクターはよく似てる。紛れもなく真月零はベクターで、ベクターは真月零。それに、お前、本当は……」
「あれあれぇ? でも遊馬くん、それってなんだかおかしくないですか? ……そうですねえ。例えば僕の前世がまっさらキレイキレイで、ドン・サウザントに介入されるまでの姿がすっごく遊馬くんの未練たらたらの人によく似ていたとして、……だけどそれはやっぱり『真月零じゃない』んですよ。偶像です。妄想です。うそつきです。――いないんです。わからない?」
 俺のたどたどしい弁明を途中で遮ってそいつはハァ、と肩をすくめて見せた。あんまり着ている制服に似付かわしくない仕草だ。
「あれは」
 一字一句俺に言い聞かせるようにばか丁寧に説明してみせる。そういえば真月って、いちいち何でも丁寧なやつだったな。そんなことを思い出した。そうそう。ばかの俺がちゃんと理解出来るようにゼロからきちんと教えてくれるやつだった。
 警察ごっこをしていた時も、そう。
 こいつ、やっぱり優しいんだ。だってそういう気遣いが出来るって、相手のことをよく考えてるからじゃないか。
「皇子ベクター、なんですよ。悲劇の皇子様です。目の前で自分の父親が自分を庇った母親を串刺しに殺しちゃって、その後すぐにその父親さえも病で帰らぬ人になっちゃった甘ちゃん平和主義者の。遊馬くんが欲しいものじゃないですよ。遊馬くんに優しくしてくれる人でもないんです。『あなたの真月零じゃない』んです。ねえ、どうせきみ、思い描いてるんでしょう? 友情ごっこ……あの皇子さまが僕のこの身体を急に乗っ取って、優しい笑顔で抱きしめて『もう大丈夫ですよ遊馬くん』って言ってくれるとか、とか、ねえ?」
 畳み掛けるような言葉の奔流。ああ、こいつ、必死なんだな。ふとそう思う。俺が必死なのとおんなじくらいこいつも必死なんだ。
 必死になって自分の信じてきたものを守ろうとしている。
 ずっと信じてきた、自分の孤独と嘘に縋りつこうとしているんだ。
「有り得ないんですよそういうのは」
 そう思って聞いていると、その言葉達は、俺よりもそいつ自身に躍起になって言い聞かせようとしているみたいでもあった。アイスバーの小さなかけらが残った棒を右手に持ったまま、一生懸命になって。
 これがこいつの最後の戦いなんだ。
 沢山の謀略を巡らせ、いつだって卑怯に小狡く戦ってきたこいつの最初で最後の、心からの本音のぶつかり合いなんだ。
「……もう、無理しなくていいんだぜ。全部……わかってるよ。だけどそれでも俺は信じるってそう決めたから。真月を……今度こそ、守るんだって……」
「まだそんな寝ぼけたことを言ってるんですか……。でも、君にそんなふうに必死になって欲しがって貰えたのなら、『真月零』は偽物だったけど、それも、良かったのかもしれませんね……」
 俺がそう告げるのと、最後の氷の欠片がそいつの口の中に消えていくのが丁度同じぐらいだった。なくなってしまったアイスバー。
「ちょっとだけ」
 本当にちょっとだけですよ。口を尖らせて氷塊を嚥下する。ほんの少しいじけているようでもあり、そして、呆れているふうでもあった。
 ベンチから立ち上がり、太陽の方を見上げ、そうして俺に振り返る。「遊馬くん」いつか俺達が繋がっていた指先を触れ合わせて、「真月零」は俺に問う。
「最後に一つだけ教えてください」
「うん」
「どうしてきみは、そんなに頑なに、僕を助けようと、無駄でも足掻こうと、思ったんですか……?」
 負けを認めたその上で心底それが不思議でたまらないんです。アイスバーの棒を弄びながら彼は尋ねる。
「ふつうは、諦めるでしょう? いくらなんでも。何が君をそうまで突き動かしたんですか。なんにも得るものさえないっていうのに」
「……だって。お前、俺に、言ったじゃんか」
「はい?」
「置いていかないでって」
 それが確か、俺が真月零から受けた一番切実な懇願だった。頑張るから置いていかないで。もう僕を見捨てないで。そういうふうに言われたあの時のことを俺はずっと忘れることが出来なかった。俺の中に刻み込まれた一瞬。そうだ、だから一緒にやらなきゃ、俺がこいつを守らなきゃって、俺は思ったんだ。
 こいつは、すぐ無茶をするから。
 素直にそう言ってやると、真月はいよいよ呆然とした顔つきになって、口をあんぐりと開けて俺を見続けていた。しばらく二人とも無言だった。アブラゼミの鳴き声と照りつける太陽だけが、やかましかった。
「やだなぁ……そんな昔の話、まだ、覚えてたんだ……? ほんと、遊馬くんって馬鹿なんだから……」
 ようやく真月がそうやって口にする頃、彼は目尻に透明な液体を浮かべ、俯いていて、声音は震えてさえいた。「ほんと、まっすぐすぎるんですよ、きみは」指先で目尻を拭いながら真月が言う。「こんなんじゃ、一体誰がきみに勝てるって言うんですか?」
「もう……ほんと、やだ。こんな女々しい気持ち、いつぶりでしょう。僕ね、今なら君に守られてあげてもいいって、君のそのまっすぐ馬鹿に負けてあげてもいいって、そんな気がしてるんです。……ねえ、遊馬くん」
 内緒話をするように耳元に唇を寄せ、小声で囁く。そうして右手に持っている棒を俺にぐいと有無を言わせずに押しつけてからぱっと距離を置いて真月はとても柔らかい、優しい顔で俺に笑いかけてくれた。
「内緒ですよ」
 押しつけられた棒に焼きごてで印字された「あたり」の文字。真月の囁き声がリフレインし、やがて蝉の鳴き声に混じり、遠くなっていく。
 夏の日の幻が終わる。俺達はまた二人で手を繋ぎ、学校の外へ歩き出す。



◇◆◇◆◇



 俺の腕を掴んでいた指先の力が、少しずつ抜けていくのがわかった。ベクター……真月は、目と目をまっすぐに合わせて微笑んでいた。
「とんだお人好しだ。ばかばかしい……」
 言葉はとげとげしかったけれど、声に毒はなかった。さっきまでの、俺を道連れに引きずり込んで果てようとしていたあの惨めさや諦めの悪さは見る影もなく、どこか清々しいふうですらあった。
 指先がほどけていく。俺達を繋ぐ力がほどけて、消えようとしている。
「きみなんて道連れに出来ないよ。さよならだ。遊馬くん」
 そうして真月は俺の手を振り切った。だけど目の中には確かな意思があった。「ありがとう」声なき声がそんな言葉を紡ぎ出す。「きみにはかないません」。
 それは俺がずっと求めていた少年の姿で、でも、そうであるがゆえに、どうしようもなく「おわり」を指し示していた。真月が俺の手を離して一人でドン・サウザントの中へと消えていくというのはつまり俺達の道がそこで違えるのだということを意味している。俺と真月はやっぱりここでも一緒になれない。
 でも、一度違えた道をもう二度や三度違えたからって、なんだっていうのだ? 俺は取るべき方法をもう知っている。どうしたらいいのかは、全部お前が教えてくれた。
「絶対に許さねえ、ドン・サウザント!!」
 一度終わったらまた新しく始めればいい。何度だってやり直せばいいんだ。俺は絶対お前を取り戻すし、お前だけじゃない、皆を俺の信じるものに従って守り、取り戻す。それだけだ。すごく簡単なことだ。
 そうしたら、俺達はあの場所へ帰る。一緒に学校に行って、遊んで、時には馬鹿やって笑い合って、喧嘩して、また仲直りして。
 俺と真月はずっと友達だった。今も。だから俺は諦めない。あいつがそうしたように、最後まで自分を信じるんだ。
 そうして俺は、俺達が手を繋ぎ合っていた一瞬のうちに見えた夏の日の白昼夢に少しだけ思いを馳せた。あいつが最後に寄越したあたりつきアイスの棒、内緒の囁き、そのことを思う。
 なあ、真月。もし、お前の運命をドン・サウザントが操り、決めていたのだとしたら。
 そんなものは全て、俺が壊して、今度は絶対に俺が守ってやる。
 拳を強く握り込んだ。もう二度と、絶対に、俺はあいつを置いていったりしない。


 運命は何度でも書き換えることが出来るんだから。



/博愛少年、或いはうそつきピエロとその幸福な最後