01



 旧神代邸――人間として生まれた神代の双子が生活していたあの屋敷に足を踏み入れるのは、Wとタッグを組んでデュエルをした時以来のことだった。事故で両親を失ってから神代凌牙と神代璃緒は後見人の親戚に引き取られ、あの屋敷では生活していなかったのだ。小学校に上がるまでは親戚の家で暮らしていた。中学に上がってから、ある程度の自由を与えられて二人で暮らすように手配された。体よく追い出されたようなものだったが、今となってはその自由に感謝している。
 両親の遺産は親戚の好意で兄妹が生きるのに不自由しないだけは遺されていたが、その一つがこの神代邸の相続権だった。元より管理と維持に時間も金も手間もかかるような屋敷だ、普通なら要らないというのが本音だったのだろう。普通ならば。
「……帰って来ちまったなぁ……」
 相変わらずほうぼうが荒れ放題になっている屋敷を眺めて一息吐く。まずはここの大掃除をして、人が住める状態にしなければならない。それにどれだけの労力が必要になるのか、それを考えるのも億劫だったが幸い人手はそこそこある。
 神代凌牙は自らが従えてきた仲間達を振り返って、まず「よく来てくれた」そう宣言した。
「ここがこれから俺達が住む場所だ。人が住めるようになるまで徹底的に掃除する。異存は」
「ありませんわ」
「ない」
「私もない」
「ないぜ」
「右に同じ」
 それに五人が応える。かつてバリアン七皇と呼ばれた者達だ。彼らはアストラルの行使したヌメロン・コードの力により今や人間となった存在だった。人間となったからには、人間社会の中で生きていかなければいけない。人と同じように社会の枠組みに組み込まれ、衣食住を必要とする。リーダーとしてナッシュには彼らを養う義務があると凌牙は考え、そうして人になったことを悟った後この形式を提案したのだった。
 人間と同じように、学校に通って、泣いたり笑ったり喜んだり悲しんだり……様々なことを経験して、これからも共に生きよう、と。
 五人はその提案に頷いた。元より人間としての立場を得ていた神代兄妹と違って頷いた四人には社会的な立場、生きるための土台がなくその提案は願ったり敵ったりだったというのもある。アストラルもそこらへんは融通してくれなかったらしく、七皇はただ同じ意識を持ったまま肉体が人間のものになった、という状態だった。
 一人だけは、頷くどころか話も聞かずにさっさと何処かへ消えてしまったようで、他の六人が目を覚ました時にはもうどこにもいなかった。


「そういえば、学校ってどうやって行けばいいのかなぁ」
「アリトとギラグは通っていたのだろう? 私達より方法には詳しいんじゃないか」
「や、だってあれバリアンの力でちょっとまわりを騙してたっつーか、こう……俺なんかは勝手に敷地に住んで制服パクって紛れ込んでただけっていうか……その辺用意周到だったのあいつだけだったっていうか……」
「……ギラグ、君もそうなのか」
「ま、まあそうだな」
「あら……それは困りましたわね」
 屋敷の清掃がある程度片付いてきて一息吐きながら夕食を迎えた席で話題に上ったのはそんな話だった。今日の夕飯は出来合いだったがこれからは当番制にしよう、という話題が終わってそのすぐ後のことだ。アリトは遊馬とまた学校に通える! と一番その事を楽しみにしていたようなのだが、とうとう現実的な問題に気が付いてしまったらしい。楽しみにしていただけ行く手を阻む障害が憎いらしく頭を抱えて唸っている。
「私達兄妹は『神代』としての戸籍も学籍もありますから復学すればいいだけの話ですけれど……その辺り、アストラルにしては雑と言いますか、私達にあまり便を図りすぎないようにあえてそうされたような気もしますけれど。ねえ……」
「『璃緒』。分かってると思うが」
「ええ、『凌牙』。人間として生きるのなら私達はこちらの方が自然ですから。不便もないですし。でも問題は私達以外よね。本当に……戸籍とかどうすればいいのかしら……」
 そもそも凌牙と璃緒以外に戸籍が今存在しているのかどうかからして疑わしい。「我々にその戸籍の有無を確かめる方法はないのか?」ドルベが首を傾げた。だが凌牙としては、正直そのあたりよりも彼らの「常識」がどういうレベルになっているのかの方が心配の種だった。
 元々バリアン七皇は人間だった。人間として死んだ魂がバリアン世界へ拐かされ、ドン・サウザンドの手駒として働かされていた。しかし人間として生きていたのは(神代兄妹として生きていた期間のあるナッシュとメラグを除けば)実に何百年単位で昔の話であり、立場も何もかもばらばらであったため彼らの保持する常識は現在の規範に照らし合わせれば滑稽な部分さえ残るのではないかというのが凌牙の見立てである。
 何しろ彼らの前世での経歴は個性豊かだ。英雄として国王ナッシュと交友を持っていたドルベなんかはまだ当時の価値観で言えば学識がある方なのだろうが、アリトに至っては奴隷拳闘士の出である。国王と親しかったらしいが勉学をしていたとは思えない――遊馬と同じクラスで受けていたテストの点を鑑みても。
「それはおいおい何とかするとして、俺はこいつらの常識について一通りしごいてからじゃなければ外に出す気はない」
 腕を組んでそう宣告するとアリトが蒼白な面持ちになった。
「し、しごくってナッシュ……」
「『凌牙』」
「りょ、りょうが? それって……どのくらいの期間やるんだよ」
「勿論お前らが外に出しても恥ずかしくない知識を持ち合わせるまでだ。その間は俺か璃緒が同伴してない状態で外出しないように」
「学校は」
「それが終わってからに決まってるだろう。それに学生ってのも案外面倒なもんで、やれテストだ集団行動だ受験だなんだ……そういう社会の仕組みについてまず理解しねえことにはな。別に難しいことは言ってねえよ。遊馬でも最低限出来てることだ」
「どうしよう……俺すごいお先真っ暗な気がしてきた……」
「が、頑張ろうぜアリト。俺もさなぎちゃんのライブに行く夢を叶えるために頑張るぜ」
 ギラグが落ち込むアリトの肩をぽんぽんと叩いて慰めるのを漫然と眺めながら、ミザエルはうっすらとカイトとの再会へ募る一抹の危機感を覚えたのだった。



◇◆◇◆◇



 ある日家に帰ってくるとそいつは当然のように俺の部屋に寝転がっていた。俺の一個しかないベッド。その上ですやすや無防備に寝こけている。事態を把握するのに三分掛かった。三分後、俺は素っ頓狂な声を上げ、結果的に階下でばあちゃんと夕飯の準備をしていた小鳥を部屋までわざわざ上がらせてしまうはめになった。
「ちょっと、あなた、ベクター! どうして遊馬のベッドに」
「遊馬クンのベッドすっごいふかふかでしたよお。……眠かったんだよ。悪いか」
「悪いわよ。私が掃除してるんだから」
「え……マジかよ……お前幼馴染みにベッドの掃除させてんの……?」
 ベクターが本気で「お前の神経どうなってんの?」みたいな顔して俺を見てくる。そんなこと言われても。俺が頼んでるわけじゃないし。
「そ、それよりなんでお前ここに」
「……あいつら固まって神代の屋敷に住むんだってよ」
「へ?」
「俺はそんな居心地の悪ィとこはヤだね。それなら遊馬くんのお世話になった方が快適ですし?」
 両手を広げて肩を竦めている。俺はベクターが何を言ってるのかいまいちよくわからずぼけっとしてそこに突っ立ているばかりだった。俺のベッドがふかふかで、神代の屋敷に住んで、俺の世話になる?
 遊馬君ってほんと物わかりが悪いですよねぇ。聞き慣れていた「遊馬くん」という声と「遊馬ァ」という罵り声の丁度真ん中みたいな声音でベクターは「しっかたないなァ」とか言う。ベッドからひょいと飛び降り、俺の真ん前にストンと立って、「ゆうまくん」わざとらしいちょっと高めの声で耳に息を吹きかけるように俺の名前を呼んでいる。
 真月零と同じように俺の前にいる。
「僕達人間になったらしいですよ? アストラルのお節介で。ヌメロン・コードの奇跡、あいつははなからバリアン世界を消すために使うつもりなんざなかったんだよ。あいつは遊馬のためにこそその力を使うつもりでいた。遊馬にやさしい世界。アストラルがいなくなった以外に君に欠けたものはないわけです。おとーさんに聞きました。天城カイトも勿論みーんな生きてます。どうだ? 泣きそう?」
「……お父さん」
「お前の父親だよ。九十九一馬。寄り道するから帰ってくるのは遅くなるって言われたけど」
「は……?」
「あのお節介親父俺の肩を掴むなり『どうせ行くあてはないんだろう』だぜ。余計なお世話だっつうの。なあ遊馬く……あぁ?!」
 朗々と演説していたベクターが俺の顔をもう一度見ると途端にぎょっとした顔つきになる。小鳥も気が付いてすごい心配そうな顔をして俺を見ていた。俺は、一度に入ってきた情報の量が多すぎて頭がパンクしそうになるのを必死で抑えていたけれど、そんなことが出来るわけもなくて結局ぼろぼろと泣き出してしまう。
「よかった……」
 嬉しかった。すっげー、嬉しかった。今俺の目の前でベクターが生きてること、どうやら父ちゃんと母ちゃんも無事で近いうちに帰って来れるらしいこと、カイトが死ななかったこと、全部全部、嬉しすぎてどうにかなりそうだった。アストラルのやりそうなことだなって思うと悔しかったけど嬉しさの方が勝って俺ははばかりなく泣いた。それ以外に、どうしたらいいのかよくわからなかった。
「カイト、生きてんの」
「あ、ああ」
「父ちゃんと母ちゃんは帰ってくる?」
「……近いうちに」
「他の皆は? ミザエルにドルベ、アリト、ギラグ、……シャークと璃緒は?」
「生きてる。人間になって六人で同じ所にいる」
「ベクターは。お前は、これから、ちゃんと生きるのか」
「…………。――生きるよ」
 それは一見ぶっきらぼうだったけれど、すごく素直でストレートで、優しい言葉だった。「本当?」俺が聞くとベクターはただ頷いて「本当」とだけ言う。誰かを馬鹿にしていた時の声じゃない。どっちかというと、あの記憶の中の本当のベクター皇子の、ドン・サウザンドに性格を変えられてしまう前の声に似ていた。
「……泣いてんじゃねえよ、ばーか」
 ベクターが言う。
「素直に喜べよ。お前の相棒が残してってくれた奇跡だぜ」
「だって」
「だってじゃねえ。大体俺はお前に言ったことの責任を取らせようと思ってここに来たんだ。いつまでもメソメソされてると困る」
「責任?」
「俺のこと一人にしないって」
 その言葉を口にするベクターの目は嘘を吐いていなかった。
 ベクターが、あの前世での出来事を俺達の前で明らかにしてナッシュとのデュエルに破れた時、それは俺がドン・サウザンドに吸収されようとするベクターに言った本心だった。ベクターが俺に「なら一緒に逝ってくれ」と叫んだ時俺は掛け値なしにそれでいいと思った。一人にしたくなかったから俺は「ああ、いいぜ」と言えたし「お前は俺が守ってやる」と心から思った。
 ベクターはその言葉を信じてここに来てくれたんだ。まわりじゅう全部敵で、何も信用していなかったベクターが最後に俺のその言葉を信じてくれたんだって思うとそれもすごく嬉しくて、俺は目尻に溜まった涙をぬぐい取る。
「そうだよな。一人は寂しいもんな」
「うるせえ」
「でもだったらシャーク達と同じ七皇の住んでる所に行ってもいいんじゃねえの?」
「――うるせえよ!」
 手を握るとベクターは照れ隠しみたいに大声でそれを否定して「俺はアストラルがいなくなって遊馬が一人になってるだろうから、よかれと思って……」とかぶつぶつ俯いて呟きだした。隣で小鳥がそれをニコニコしながら見てるのがわかる。でも小鳥と俺がそうやってほほえましく見ているのが余計に勘に障ったのか恥ずかしかったのか、とうとうぶつぶつ言うのも止めて俯いたまま固まってしまった。
 覗き込んだら、なんか顔が赤い。
「遊馬、あのね、ベクターは多分どうやってシャークや璃緒さん達に謝ったらいいのかわからないのよ。一緒にいるのなら、当然そうしなきゃ無理だと思うもの。気持ちの問題で。それで照れて遊馬のところ来たんでしょ。違う?」
「……んなのなんだっていいだろ……とにかく、俺がここにいるのは絶対あいつらに言うなよ。絶対だからな。そのためなら遊馬君のために僕なんでもしますから。お願いですってば……」
「いいぜ、お前がここがいいんなら、俺ん家住めばいいと思う。小鳥もしばらくはこのこと、俺とだけの秘密にしてやってくれよ。いいだろ?」
「遊馬がそう言うのなら、私は構わないけど……でもベクターあなた、それじゃ普段何をしてるの? 内緒にしてたら学校行けないじゃない」
 小鳥が問い詰める。そう言えばそうだ。学校にはきっとシャークも璃緒も来るから、学校に通ったら内緒も何もない。つまりベクターは最初から必要最低限しかこの家から出ない気なんだろう。最低限、衣食住さえ確保出来ていれば。
 「学校」という単語を聞いたベクターの顔色が曇る。あまり考えたくないというか、聞きたくない名前だったらしい。正直俺はベクターが目の前にいるということを理解した時無意識に「また真月と学校に行ける」ということを期待していたから、それはちょっとショックだった。だけど行きたくないというのを強引に連れ出すという気分にもなんだかなれそうにない。
「しょうがねえだろ。学校は『真月零』の居場所だ。戸籍も学籍も、あそこにはそれで登録されてるんだ。……俺は真月じゃねえ。だからあそこに俺の居場所はない」
 俺の気持ちを察してだろう、ベクターはばつが悪そうな顔でそう言った。真月零としてしか知らなかった頃からそうだと思ってたけど、やっぱりこいつは、すごくよく俺のことを見ているし俺の気持ちをちゃんと分かっている。だからその答えが俺を落胆させることも当然理解していて、少しだけ後ろめたそうだった。



◇◆◇◆◇



「来るのが遅かったな。入れ違いだ」
「入れ違い? 誰と?」
「凌牙が、先程一人でここへ来て帰って行ったんだ。要件はお前と同じだろう。――バリアン達の現在の身柄についてだな?」
 ハートランドシティ中央部のタワー、街の機能をコントロールする中枢に天城の家はある。カイトが生きているとベクターに言われて俺が向かったのはそこだった。途中でゴーシュとドロワに会ったのですごくすんなりここまで通して貰えた。
「それもそうなんだけど……よかった……カイト、ほんとにカイトだ……」
「馬鹿なことを言うな。俺は俺以外の何者でもない」
 天城カイトはそこに居た。俺が最後に自分の目で見た時と同じようにあの黒いコートを翻して、モニターに映し出されている難しい数式やら何やらを複雑すぎて俺にはさっぱり理解出来ない手元の機械で操作している。元気そうだったし、幸せそうだった。
 聞くと、フォトンモードの使用のしすぎとかでがたがきていたりした身体ももう全く問題なく健常そのものなんだって言う。アストラルがそうしてくれたんだろう、ってカイトは言った。俺もそう思った。俺がカイトの身体のことを気に掛けていたのを、俺の相棒は覚えていてくれたんだ。
「神代凌牙と神代璃緒については、元々戸籍があるから問題はない。残りの……ミザエル達に関してだが、必要なものは最低限こちらで用意した。戸籍関連に、市民権諸々……望めば今すぐハートランド学園に転入手続きも取れる。学年は、俺の任意で割り振ったが。あまりくっつきすぎるのも離れすぎるのも不安だから全員中学生だ」
「シャーク達はどうするって?」
「常識についての指導が済んだらにするそうだ。しばらくは神代邸から出さないつもりらしい。まあ懸命な判断だな。ミザエルなど、あんな格好で町中を彷徨かれたらたまったものではない。ただでさえあいつは行動の一々が派手なのだから……派手な衣装で練り歩いていいのはエスパー・ロビンのロケぐらいまでにして欲しいというのが本音だ。だからそれまでは会いたければ直接出向いた方がいいだろう」
 そこまで話してからカイトがちらりと窺うように俺の後ろに立っているベクターに視線を遣る。「なんだその借りてきた猫のようなものは」カイトは胡乱な眼差しでそう尋ねた。「何か悪いものでも食べたのか。それとも真月ごっこの続きか?」
「あ、いや……それよりカイト、戸籍って、詳しくはどうなってるんだ。名前とか……出身地とか……家族とかは……」
「ミザエル達に関しては海外の孤児院からの移民という形で処理してある。血縁関係はないな。紙面上も……実情も、そう言う意味では天涯孤独だ。ベクターだけは、まだ実は何もしていない。どうしていいのか俺には判断出来なかったから」
「判断出来ない? カイトに?」
「ああ。データベースにまだ残っているんだ……『真月零』の戸籍謄本が。これをそのまま使いたいのかそれともそちらを抹消して新たに『ベクター』として作り直した方がいいのか判断しかねてな」
 ベクターは俺の後ろで黙りを決め込んだままだった。そこにオービタル7がやってきて人数分のお茶を配分して行く。お茶を受け取ったカイトは、ベクターが喋る気がないと踏んでか、それで唐突にまったく関係のない話題を切り出した。内容は、オボミを譲って欲しい、ということだった。
「オボミを? 何で? オボットならカイトっていうかドクター・フェイカーは山ほど持ってるだろ。この塔の警備もそうだし、町中のオボットなんて殆どドクター・フェイカーのものじゃん」
「オボットが欲しいのではなくオボミが欲しいんだ。オービタル7がそう言って聞かなくてな。恋が成就したんだと」
「えっ、そうなの! すごいじゃなおオービタル!」
『エッヘンであります! オイラはカイト様の戦いを支援する中で、とうとうオボミさんと結ばれたのであります! ……ついては九十九遊馬に頼みがあるのであります。オイラにオボミさんを、どうかお嫁さんに!』
「お、お嫁さん?!」
 ロボット同士で結婚とかそんなのちっとも考えたことがなかったので俺はびっくりして変な声を出してしまう。小鳥は「すっごーい! ロマンチック!」とか言って目を輝かせている。
「それじゃ、二人の子供ロボット作りましょうよ! オービタルってカイトが作ったんでしょ? カイトならオービタルの子供にロボット作るなんて朝飯前よね!」
「え、いや。まあ確かに……ロボットを作るのはそこまで難しくはないが」
「二体ぐらいどうかしら。家族四人で暮らすロボットって素敵じゃない? ね、遊馬!」
「お、おう……? いやなんか……俺はオボミとカイトがいいんならそれでいいけど……」
『子供?! お、オイラに、オボミさんとの子供、でありますか?! カイト様ッ!!』
「――わかった! 作る! だから力一杯俺の腕を握るんじゃない! 聞こえているのかオービタルセブン!!」
『は、ハイッ、かしこまりっ』
「やったねオービタル! そしたら、結婚式挙げないと!!」
 小鳥がものすごい盛り上がってとんとん拍子で話が進んでいくのを俺はぼんやり見つめながら、やっぱり俺の後ろに隠れたままのベクターの方をちらりと伺い見た。ベクターは口を一文字に結んで何も言おうとしない。気むずかしい顔をして、だけど企んでるようなのじゃなくて、ただ、どうしていいのかわからなくて立ち止まっている。
 カイトは『真月零』の戸籍謄本が既にこの街のデータに存在していると言った。それはベクターが俺の隣で『真月零』を演じている時にベクター自らが作って紛れ込ませていたものなんだろう。確かドクター・フェイカーに干渉していたバリアンがいたはずだから、そいつがベクターなんだとしたらその時フェイカーにやらせたのかもしれない。そう言えばアリトは出席を呼ばれたことはないけど(後から右京先生に聞いたらそんな子は在籍していないはずだって言われたから、きっと紛れ込んでただけなんだろう)、真月はちゃんと毎日出席確認で名前を呼ばれて返事をしていた。
 「真月零」が俺の隣にいた時間は長いようで短くて、だけどやっぱり長かった。俺にとってあいつが大切な存在になるまで、あいつは俺の隣にいてくれた。その間真月零としてクラスでも振る舞って、その痕跡は消えて無くなっているわけじゃない。クラスメートは皆真月のことを覚えている。
 ベクターが「あそこは真月零の居場所だから」と言ったあの声が俺の頭の中でこだまする。学校に行ったら、まあ多少人相は悪いけど、皆ベクターのことを真月だと思って真月って呼ぶだろう。ベクターはどうされたいんだろうか。真月って呼ばれるのは、もう、嫌なんだろうか。
 無言で手を握るとぎゅうと握り返される。俺としてはやっぱり、ベクターと学校に行きたい。また一緒に授業受けたいし、あの時「俺と一緒にやり直そう」と言った気持ちは嘘じゃない。
 だけどその俺の気持ちを一方的に押しつけることも出来ない。俺は「ベクター」と名前を呼ぶことを、一瞬だけ躊躇って、そうしてその言葉を引っ込めてしまった。ベクターにはまだ「真月零」と「ベクター」どちらを選べばいいのかのふんぎりが付いてないんだってことが、繋いだ指先から震えとして確かに伝わってきていた。