04



 光の奔流の中で目を覚ました天城カイトがその時見たのは、濁流の如き怒涛の勢いで流れていく情報の渦とその中心に立つ人ならざる見慣れた存在のことだった。カイトはその存在の名を知っている。だから、自分が今どういう状態に置かれているのかも、自分がどのような「最後」を選択したのか思い出してしまえばさほど理解するのに難しいところはない。
「……アストラル」
『カイト。目覚めたのか』
「どういうつもりだ? 俺は死んだはずではなかったのか。あの末路に、俺自身、まったく後悔はない」
『そうだな。君は一度死した。月面で、君がもと収まっていた肉体は横たわって死を迎えた……ミザエルが、故郷に埋葬させようと肉体だけでもと地球に持ち帰っていたようだが。だが……君の犠牲は、望まれた結末には相応しくないから』
 アストラルはそう言って静かに微笑む。彼を取り巻く情報達のミルキー・ウェイ、そして中央に浮かぶ「ヌメロン・コード」。カイトは溜め息を吐く。
「一応聞いておくが。それは一体、誰が望み、誰がお前に求めた願いだ?」
『おや。意地悪だな、君は』
「知ったことか。俺の性格は一度死んだぐらいで矯正はされない」
 アストラルの細くしなやかな指先が創世の奇跡に触れた。今までどこにあったのかもようとして知れなかった万能の奇跡。そして、遊馬とアストラルがゼアルとなった時にその一端を操ることを許された力。
『ふふ……そうだとも。理想郷を……誰もが笑顔でいられるような、三世界が争わずに手を取り合って進める世界を望み、祈り、希ったものこそ遊馬に他ならない。しかしその実現を願ったのは私だ。私は別に、誰に強制されたわけでも託されたわけでもない。ただ私の我が儘で――一存で『ヌメロン・コード』を起動した』
「……その結果が、この、『大修復後の世界』だというわけか」
『そう。遊馬の望む世界に君は必要不可欠だからな。君が死んでいると都合が悪い。だから生き返って貰った。ヌメロン・コードにはそれが可能だ』
「【アカシック・レコード】……」
『或いは【イリアステル】、【森羅万象】とも。聡明な君なら、そんなことは知っているだろうが』
 含みを持たせた声。元々人ではない身の彼だが、そうしていると本当に、人智を超えた者と相対しているかのようなそんな心地がしてくる。アストラルは超然とした風体で、微笑みを浮かべカイトを見ているのだ。あの互い違いの瞳で目を逸らすことなく。
 不意にアストラルの右腕が天へと伸ばされる。
『世界は書き換わる。三世界が手と手を取り合って歩める可能性の世界に。抜本的な改革を行わねば、そうして書き換えを行わなければ遊馬の夢見た未来は残酷な事実だが……永遠に訪れることは有り得なかった。遊馬は、余りにも多くのものを彼の意志の伴わぬ所で失いすぎた。君の死も、彼ら七皇達の死も等しく同じ。避けられぬ別れだったが遊馬には辛過ぎる』
「それは貴様の独断だろう。例え俺や七皇を欠いたところでまだ遊馬は孤独ではない。それでも遊馬は生きていけたはずだ」
『そう。だからこそ私はこの奇跡を用いたのだ。元より、もはやバリアン世界を滅ぼす気などはさらさら無かったが……』
「神にでもなるつもりか、アストラル」
『神? 君は面白いことを言うのだな』
 何も面白い話じゃない。しかしアストラルは曰わくありげにくすくす笑い、『やはり君がいなければ』と小首を傾げた。
『次の世界は遊馬が夢見た世界。遊馬のための、遊馬に優しい、彼を守る殼だ。そこには必要なピースを全て当てはめる必要があった。君も然り、七皇も然り。ベクターが欠如した世界でさえ遊馬は嘆き悲しむだろう。だから次の世界には彼も必要だ。バリアン七皇と呼ばれた存在は『ヒト』となる。そこで精々自らの存在に思い悩むと良いだろう。特にベクター、彼は、抱く葛藤も多いはずだ』
 そこでアストラルの意図を悟り、カイトは小さく両手を掲げて「お手上げ」のポーズをとった。彼が描く世界は確かに遊馬に優しいだろう。そこには遊馬の望む理想があるのかもしれない。しかしやはりそれは「独善」で、「独断」で、彼自身がいみじくも口にしたように「我が儘」でとても傲慢だ。
「まあ、貴様らしいといえば、らしい選択だな」
『……それは、どういう意味だ?』
「別に。ただアストラル、お前はとても人間らしく――俗で野暮になったよ。そればかりは間違いないだろう』
 指摘すると、『相違ない』確信犯の笑顔で彼は悪戯っぽい顔を隠しもせずにヌメロン・コードをその手にすくいあげた。
 情報の氾濫は未だに続いており、その銀河に似た煌めきに世界が今まさに構築され直している現場に立ち会わせていることを理解する。生まれてはどこかへ呑み込まれていく情報達。彼らの行く先に、カイトもそう遠くない内に戻っていく。
 その様子を見かねてか、『じっと見ていて、面白いものだろうか?』アストラルが不思議そうに問い掛けた。
「忘れているかもしれないが、俺も一応研究者だからな。精々世界の真理の一端を目に焼き付けておくのが有意義かと思ったまでだ」
『これを見てしまえば、君は殆ど全てを知ったも同然ではないかね?』
「馬鹿言え。『俺達』の知らないことなど、まだ世にはいくらでもあるさ」
『確かに。そうだな……それではやはり、この話は君に話すのが一番いいだろう。今確信した』
 小鳥に託すには少し荷が重いかと思っていたところだ。アストラルがなんとはなしにそう切り出す。あまりいい予感はせず咄嗟に身構えると、『重大な機密だが、そんなに身構えるほど嫌な話ではないぞ』と彼は人差し指を振ってカイトを牽制した。
『遊馬の出自に関わる話だ』
「やはり何かあるのか」
『まあ、そうだな、大ありだ。それで、話をする前にこんなことを言うのも何なのだが』
「構わん」
『私はこの話を、私自身の口からは君にしか言うつもりはない。遊馬に伝える気はない、ということだ。その上で、君が信頼の置ける人物に話すことは別に止めはしない。相談する相手が欲しいこともあるだろうし、たとえばそうだな、君の師のクリストファー・アークライト、彼なんかは性格から言って口は堅い性質だし、差し障りはないだろう。ただ一つ、我が儘が通るなら私の意志を尊重してぎりぎりまで伝えないで欲しい相手がいる。……シャークだ。彼には、隠してくれ。おかしな願いだと思うだろうが』
「? 何故だ。凌牙はリーダーとしての責務を……まあ囚われすぎていたとは思うが……果たせる類の人間ではあるだろう。一応」
『彼は遊馬を裏切った』
 首を傾げると、アストラルはその言葉だけを短くはっきりとカイトに向かって押し出した。
 裏切り。その単語の中に籠められた決して少なくない意味合い。アストラルはかつて疑いや裏切りという感情を知らず、それはベクターの手によって遊馬からもたらされた負の感情だった。ベクターによって結果的にアストラルを裏切ることになった遊馬は、また同時にベクターに、いや、真月零に裏切られていて、アストラルにはその三文字の言葉がとみに苦い思い出して染みついている。
 それを自らの世界を守るためという題目で遊馬に対して行ったことを、アストラルは決して軽くない出来事として覚えているのだ。
『一度裏切り、切り捨てる選択をした彼を私は根底から信用出来ない。次があるかもしれない。彼にとってもっと優先順位の高いもののために何度でも遊馬を切り捨て、その度に遊馬が思い悩むかもしれない。……カイト。遊馬の性質のひとつの美しさは、確かに、相手を無条件に信頼する心の広さにあるのだろう。あのベクターに対して遊馬は『心が出来るまで信じる』とさえ言ったのだからな。私には、それは出来ない。私達は表裏一体……遊馬が何をも信じるのならば逆に私は、疑う目を持つだろう。私達は』
 アストラルが息を吸う。呼吸を整え、これから先口にする言葉にもっともらしい重みと意味を付加する。カイトも固唾を飲んでアストラルの言葉を待った。アストラルなりの葛藤と、思い悩みの末の独白であるということを自ずと理解していた。
『私達は一心同体。九十九遊馬とは、かつてドン・サウザンドとのデュエルで飛び散った五十枚のナンバーズが九十九夫妻の赤子に宿り産まれた私の半身なのだから』
「何?」
『一度は不思議に思ったことがあるだろう? 何故私と遊馬がオーバーレイして、ゼアルになれるのか。気が付いてみればこれほどに簡単なことだったのだ。私達は元々同じ存在だった。ゼアルとは即ち、単に私達が本来の元あるべき姿に還ったものに過ぎない。尤も遊馬は九十九一馬の手によって人間として定義されてしまったから、完全に私の手に戻ることはなかったが……』
 遊馬の持つ「違和感」、不自然さが走馬灯のように頭の中を駆けていった。ナンバーズを何のデメリットもなく、生身で操るその不自然さ。皇の鍵は確かに抑制能力を備えているが、遊馬のその退勢が皇の鍵に頼ったものではなく彼固有の能力であることは調べが出ていた。他に自由意志でナンバーズを操る人間は皆多かれ少なかれバリアン世界の力を自らに取り入れており、神代凌牙に至ってはバリアン七皇のリーダーなどという存在だったのだ。
 遊馬は加えて更にアストラルとオーバーレイを果たし、自らの意志で幾度となくカードを創造しホープの新たな姿を呼び覚ました。まずもってまともな人間が出来ることではない。しかしそれも、『アストラル世界の使者』と極めて密接な関わりを持つ特別な存在であったと言うのならば。
『彼は策士だよ。ある意味で今回一番の策士であったとすら言っていい。私はこうなって尚、いや、この結末を迎えたからこそ……やはり、全ては彼の手のひらの上でのこと、思惑通りだったのだと思うばかりだ。真に手強い敵はドン・サウザンドなどではなく九十九一馬という男だったのではないかと勘ぐるほどに……いいや。君に愚痴るようなことでもなかったな。とにかく、遊馬は私の半身なのだ。それを、君には伝えておきたかった』
「そしてその裁量は俺に任せると?」
『そうとも。近いうちにその事実がきっと必要になる』
 アストラルの指先が渦の向こうの一点を指し示した。仰々しい扉が現れ、ギィ、と重々しい音を立ててゆるやかに開いていく。
『遊馬は、私と出会う際に『扉』と一つの契約を交わしていた。――力を得る代償に、そのものの最も大事なものを喪う。遊馬はその喪う代償を、私という存在だと解釈したようだ。しかしそれは事実のほんの一端に過ぎない。……遊馬は。大事なものが多すぎて、彼がそれを喪ったならば彼の世界が殆ど全て崩壊してしまうだろう。私はそれを望まなかった』
「……そうだな。お前は……何よりも、誰よりも遊馬の幸福を望んでいる。そうだろう?」
『その通り。そして私は次のように考えたのだ。遊馬が私の半身であるというのならば、あの運命の扉と遊馬の間で交わされた契約は私が交わしたのと同じ。だから私は、扉にその代償を支払ったのだ。一番大切なもの……『九十九遊馬と共に過ごす未来』を奉じた』
 扉が完全に開ききると、その向こうには宇宙があった。まっすぐ視線の向く先に地球が――遊馬が住まう蒼い水の惑星がある。一度、カイトも肉眼で見たことがあった。月に行ってミザエルとデュエルをするその前に。
 そういえば、ミザエルとは確か約束をしていたはずだ。「次に会う時は、お前の話を聞かせてくれ」と言った時彼は、カイトの身体をその腕に抱いて静かに涙をこぼしていた。
『さあ、行ってくれ、カイト。遊馬の望んだ、『誰とでも楽しいデュエルをすることが出来る』世界へ。私は……ここから君達をずっと見ている』
 強烈な引力に引き摺られる感覚を覚え、カイトは反射的に目を瞑る。次にこの目を開いた時、きっとそこにはもうアストラルはいないのだろうとそんな予感がカイトの中を過ぎった。



◇◆◇◆◇



「――あっ! シャーク!! おはよう、ええと、久しぶり。元気にしてた?」
 その声を聞くや否や、神代凌牙はばつが悪そうに目を細めて斜め後ろを向くと小さく舌打ちをした。様々な感情が入り交じって、頬が少し赤い。
 凌牙としては、遊馬になるべく会わないようにしようとか、そういう算段を立てていた矢先の出来事だった。しかし先手を取られ捕まってしまった以上、ここで無視をすることは凌牙には出来ない。
「……お、おう」
「なんかすっげー久しぶりに制服着てるシャークに会った気がすんなあ。なあみんなどうしてる? 頑張りすぎてばてたりしてねえ?」
「い、いや。大丈夫だろう、多分……三人ともそろそろ学校に連れてきてもいいかと思っている頃で……」
「そっか! じゃあ一安心だな! ……ってあれ? 三人? シャークと妹シャークと、ベクターがいないから……あと四人じゃねえの?」
「ミザエルは諸事情でカイトに引き取られて今は俺の所にいねえんだ。ミザエルに関してはカイトに聞いてくれ。それよりお前今、ベクターって」
「カイトが言ってたぜ。ベクターだけはシャークのところにいないって」
 遊馬がなんでもないふうに言う。遊馬がカイトの元を訪れて、凌牙達が神代邸に住んでいるという情報を得ているのは何ら不思議ではないし、今はそこからミザエルが欠けてしまっていることを知らなくても仕方がない。ミザエルがカイトに引き取られていったのはつい昨日のことだ。
 遊馬の口から「ベクター」という言葉が出るとつい気になってしまうが、それももうあまりいい癖とは言えないだろう。
 ベクターの所在は今もまだ明らかにはなっておらず、目下凌牙の頭を悩ませている悩みの一つになっている。ベクターは確かに忌まわしき相手で、かつて自分達兄妹を殺しその後も仲間達を次々卑怯な罠に掛けた男だったが、それでも一応彼はバリアン七皇だったわけで、ある意味ではドン・サウザンドに最も手酷い方法で運命をねじ曲げられた犠牲者の一人だ。
 思うところは色々あるが、どこをほっつき歩いているのかもわからない現状が不安だという感情の方が今は勝っていた。
「一応聞いておくが、ベクターが今どこにいるのかお前は知っているのか?」
「ううん? なんで?」
「気になって仕方ねえんだよ。またどこぞで悪さでもしてれば俺が責任を取らないといけないだろ……」
「――なんで?」
「いや、なんでっつわれても……」
 遊馬のまるい瞳に問われて凌牙は困惑したように言葉を濁した。七皇のリーダーであるという自負を持つ凌牙にとって、彼らの責を負うのは当然のことであるからだ。
 遊馬が首を振って、「それ、違うと思うぜ、シャーク」凌牙の手を取る。神代凌牙が昔振り払ったり取ったりして、最後にナッシュが敗北した手のひらは子供っぽい体温を含んで、柔らかい。
「ベクターは自分で自分の責任を取るし、それは他の……アリトとかギラグ、ミザエル、ドルベ、それから璃緒にしたって同じだろ。シャークは自分の責任だけ取ればいいんだ。アリト達もさ、それでシャークに頼っちゃいけないと思ってるよ。だから今頑張ってるんだろ? シャークはさあ、子供が自立しようとしてるのに上から押し潰す母ちゃんみたいなこと言ってる。なあ。俺、なんか変なこと言ってるかな」
「……いや。そうだな……」
「カイトが言ってた。この街のシステムの中には、まだ『真月零』のパーソナルデータがあるんだって。だから他の四人は手続きし終わったけどベクターの手続きだけしてないって。……例えばだけどさ。それをどうするか決めるのって、やっぱベクターの仕事だろ。シャークがじゃあ真月零でいろだとか、真月零を棄てろだとか、そういうこと言うのはおかしい。それと同じだよ、シャークの『責任感』って」
 凌牙はそれに反論しなかった。
 もう遊馬の手は凌牙から離れていっていて、二人で並んでてくてくと校庭を進んだ。下駄箱にさしかかって学年別に別れる手前で「そういえば」と遊馬が思い出したように切り出す。下駄箱を挟んで「何だよ」と聞くと、「うん」とちょっと嬉しそうに言う。
「シャーク、Wには会った? 俺、この前Vと会ったんだけど、なんかWがそのへん気にしてそわそわしてるとかしてないとか、言ってたんだよ。だってほら、シャークとWってともだちなんだろ?」
「二人揃って地獄行きになるような間柄だけどな……」
「いいじゃん。なんかWもチャンピオンに復帰して忙しくなってるし、どうしたらいいかわからないみたいだって聞いたぜ。今週末、カイトと研究所に籠もってるXとトロンのところに家族全員で集まるって言ってたから連絡取ってやったら? 多分話したいこととかいっぱいあると思うぜ」
「随分と自分のことみてえに言うんだな?」
「だって俺も話したいこといっぱいあったし、まだまだあるからさ。ともだちと久しぶりに会うと、やっぱそうなんだなーって」
 上履きに履き替えた遊馬がひょこりと二年の下駄箱の方に顔を出してくる。下駄箱に靴を詰めて遊馬の隣にまた並んだ。こうして遊馬ともう一度当たり前に肩を並べられる日が来ると、そういえば凌牙はあまり思ってはいなかった。そういう、人間としての未練のようなものは全て棄てた気でいた。
 だけどこうなってみると、まったくそんなことはなくて、人間としての「神代凌牙」の存在、そしてそれに付随する人と人との縁というのはそんなに簡単には消えてなくならないものなんだなと思い知らされる。遊馬は最後まで「ナッシュ」ではなく「シャーク」と呼び続けたし、Wもナッシュと神代凌牙を憎んではくれなかった。彼らは彼らが見て理解した神代凌牙を信じていて、理不尽も我が儘も看過してくれない。
「おい、遊馬」
「? なんだよ、シャーク」
「俺って、まだ、お前の隣にいてもいいのかな」
「何言ってんだよ。シャークはずっと俺の仲間だし、友達だよ。もしも……今でもシャークがそう思ってくれてるのなら」
 恐る恐る尋ねるとあっけらかんと返されてしまう。拍子抜けして目を丸くした後、でもすぐにおかしな気分になってきてふっと笑った。遊馬がそれでいいと言うのなら、きっとそれでいいのだ。
 予鈴のチャイムが鳴る。遊馬が「あっやべ、今日朝礼あるじゃん!」と叫んで俺に手を振り大わらわで一年の教室へと駆けていく。その後ろ姿を見守りながら、凌牙は取り敢えず朝の全校集会などという七面倒なものは屋上にでも行ってフケようと意思を固めた。



◇◆◇◆◇



 ミザエルはボタンを掛けるのが苦手だ。出来ないわけではないのだが、どうにも時間が掛かって仕方ない。
 ハートランド・シティ中央部のタワーの中に天城の住まいとドクター・フェイカーが統括する研究施設群は存在しており、ミザエルはそこへ連れて来られてから研究所に出入りする生活を送ることになった。研究所というのはなかなかデリケートな存在らしく、出入りする度に簡単な検査と全身の消毒を受けることになるのだが、その度に発生する服の着替えにいちいち手間取って仕方なく、ミザエルはぼちぼち「このままではいけない」という危機感に襲われ始めている。
「私服の殆どはジッパーのものにしてもらったからまだいいとして……この、制服。どうしてくれようか」
 ミザエルが私室として与えられた部屋の壁で今ひときわ存在感を放っているものがハートランド学園中等部三年生の制服である。カイトが「そろそろ行ってもいい頃だろう。凌牙から数日中に他の者を通わせると連絡が来た」と言って用意してくれたものだった。
 青い袖口に、青いネクタイ。聞くところによると学年によって色が違うのだという。お前はドルベと同学年だ、と言われてふと「カイトはどうなのだ」と聞き返すと「俺はとっくに中学に通う年齢は過ぎている」と返されてしまった。対等な立場関係がそれで変わるわけではないのだが、何か、カイトに置き去りにされてしまっているような気がして寂しい。
 その上ボタン一つ即座に掛けられないとあっては、銀河眼使いとしてのミザエルの矜持に関わるほどの大問題なのだ。
「ああ、入ってくれて構わない」
 コンコンコン、と礼儀正しく三度戸を叩く音がしたので制服と睨めっこをしたままそう答えると静かに扉が開く。コンコンと二回叩くのがカイトなので、今入ってきたのは彼の師の方だ。思った通り、穏和な声がミザエルの耳に飛び込んできた。
「やっぱり、ボタンがネックなのかい?」
「ああ。ボタン……よもやこれほどまでに手強い相手となろうとは……」
「そうだね。君が元着ていた服は、どうも不思議な構造をしていたしねえ」
 クリストファー・アークライトの手にはティーセットが一式揃った盆が載せられている。クリスの淹れる紅茶は、ミザエルがここへ来てから新しく知った好物の一つだ。クリスは非常に紅茶を淹れるのが上手い。
「む? カップが三つあるということは」
「そう。カイトももうじきにこちらへ来るそうだ。事務作業に目処が立ったらしい」
「そうか。それは喜ばしいことだな」
 カイトはクリスや父親達と研究を進める傍らで、高齢になった自身の父の代わりに街の政務を請け負っている。ある程度は機械化を進めているのだが、やはり決定権を持つ生身の人間にしか出来ないこともあり、一日の全てを自由に研究に当てるわけにはいかないというのが現状だ。
 手伝ってやりたいのはやまやまなのだが、ミザエルには彼が何をしているのかさっぱりわからない。カイトにも「まずは学校で学んで来い」と言われているし、そういう経緯もあってまずはボタンをどうにかしなければ、というところにミザエルの中では帰着を見ていた。制服が着れなければ学校にも通えない。
「今のところ、研究はどうなのだ。私には見ていても何がなにやらさっぱりで」
「おかげさまで経過は順調だよ。銀河眼達の波長に着眼したのは正解だったと言って差し支えないだろうね」
「では、アストラル界への扉は」
「扉、という形になるかは怪しいけど道は確実に開けるだろう。恐らくそう遠くない未来に。しかし……君のそのナンバーズとの親和性はとても面白いよ。研究者としてこれほど興味深い事例に出会ったのは初めてだ」
「ああ……私とタキオンは、絆で結ばれているのだ。カイトと光子竜とて、そうだろう」
「あれはハルトが媒介になっているのもあるからね。君の場合は純粋に君自身がカードと結びついている。それも……あのドン・サウザンドの創り出したものと」
「……」
 ナンバーズとはそもそも飛び散ったアストラルの記憶なのだというふうにその存在を知るものの大半は理解していたが、この度のバリアン界の暴走とドン・サウザンドの弁、そしてアストラル自身がカイトに語った事柄によってその認識は少し改められた。まず、アストラルがアストラルとしてこの世界に来る直前に所持していたナンバーズは約五十枚。半数だ。残りの五十枚は数千年前にドン・サウザンドと衝突したはずみでアストラルの手を離れていたらしい。
 そしてはずみで飛び散った方の五十枚は何枚かがドン・サウザンドの手に渡り、後にバリアン七皇となるもの達を選定するための足がかりとなった。しかしそれも全てではない。殆どは、いずこかでドン・サウザンドからもアストラル界からもその存在を潜め続け、現代になって「九十九遊馬」という形で突如現れる。
 カイトがナンバーズ・ハンターとして主に狩っていたのは、人間界を訪れた際に遊馬と接触して後天的に飛び散った、アストラルが保持し続けた五十枚だった。しかしここで疑問が残る。七皇がそれぞれ与えられていた切り札、「オーバーハンドレッドナンバーズ」とは、一体何だったのか?
 それに対してカイトらが出した最終結論はやはり、「ドン・サウザンドの創造物」という答えだった。
「一番興味深いのはやはり、アストラルが元々保持していたナンバーズである『ドラッグルーオン』、ドン・サウザンドが創り出したものである『時空龍』、そしてアストラル界の力を得てナンバーズへ転生≠オた『光子竜皇』
が合わさって叡智の鍵である『ヌメロン・ドラゴン』へと姿を変えたことだ」
「つまり?」
「ドン・サウザンドの力はアストラル界と親和性が高いということだね。そもそもバリアン界というのはアストラル界から枝分かれした場所なのだから、それ自体は確かにそうおかしなことではないのかもしれない。となると、ここからは実証の取れていない仮説になってしまうけれど、オーバーハンドレッドナンバーズにも何らかの誰かの記憶が媒介となって封じられている可能性が高い。しかしアストラルにはオーバーハンドレッドナンバーズは吸収出来なかったそうだから、彼の記憶ではないだろう。では誰の?」
「……ドン・サウザンドではないのか?」
「私もそうじゃないかと思うんだけどねえ」
 クリスは首を振った。
「カイトがとても厳しい口調でこう言ったよ。『それは違う』と」
「では、誰の。まさか……」
「――ああ。そのまさかだ」
 ミザエルの疑問を割って第三者の声が降りてくる。天城カイトだ。カイトはクリスが用意していたカップを手に取ると、ミザエルが座っているベッドのすぐ隣に腰を落ち着けた。
「今は仮説の段階だが、すぐに実証が取れるだろう。ミザエル、済まないがしばらくはクラブ活動なんかは控えて放課後ここに直帰して欲しい。時間が惜しいからな」
「カイト! いつの間に?」
「二度ノックをしたぞ。クリスは気付いていたようだが、お前は話に集中していたからな。仕方ないだろう」
 ミザエルへの言葉も早々に、カイトは厳しい面持ちになってクリスに向き合った。クリスの方も何か並々ならぬものを感じ、先程までの気さくな風貌が一変して強張ったものになる。
「クリス。貴方の弟達が数日中にはここへ着くとのことです。人手が揃い次第、大規模実験に取りかかります。良いですか」
「え。いや、しかし、まだ理論が未完成だろう」
「問題ありません。ミザエルがいればそれまでには間に合う。アストラルが俺に言い残した言葉、どうやら本当だったようだ。近いうちに遊馬の素性についての情報が必要不可欠になるというあの話、どうやら言い換えればアストラル界への扉を開く理論を早急に完成させる必要があるということだったらしい」
「……済まないカイト。出来れば私にもわかるように説明をしてくれないか」
「バリアン世界と再び融和したアストラル世界に閾値を超える異常が発生しつつあると観測データから明らかになった。オービタルには褒美をやらんといかん。このままでは、一ヶ月と経たないうちにアストラル世界はカオスの過剰活性化で再起不能なまでに傷付いてしまう。こんな真似が出来るのは、七皇であったお前達が人間になった今一人しかいない。ドン・サウザンドだ。どのような意図があるのかはわからないが、ドン・サウザンドが彼の地で何かをしでかそうとしている」
「……なんだと?!」
 話を理解し、自然とミザエルの語調も厳しくなった。アストラル世界が一度放逐したバリアン世界を再び受け入れ、カオスとの同化を図っているのは観測から明らかになっていたことだったが、それは本当にゆるやかなもので、自然に任せた動きだった。そのまま双方が慣れ、上手い具合に馴染めばそれがいいとカイトは思っていたのだが、そうは問屋が卸さないらしい。
 あのバリアンの神を名乗るものの消息が知れていないことがまさかこんな形で牙を剥くとはよもや思っていなかった。しかし有用な力の殆どを喪失してしまった今のミザエルに出来るのは、カイトの望みに出来る限り応えてやることだけだ。
 ミザエルはもう、空は飛べたとしても摂理を曲げるようなことは出来ない身体になってしまったのだから。