イプオルガンはまだ鳴らない




 決して大きな建物ではない。それでも、こじんまりとして、小綺麗な教会の、パイプオルガンの正面に彼女は立っている。透き通るアラベスクの肌は豪奢で清潔な純潔を思わせる白亜の衣装に包まれ、今日は幾ばくか露出が控えられていた。十字架の掲げられた古式ゆかしい教会、彫像のように美しい彼女はそこにステンドグラス越しの七色の光を浴びて立っている。凛として、力強く。
「あ……」
 その彼女に投げかけられる声があった。反応して、振り返る。男だ。これも真白な衣装に身を包んだ――この男はいつも黒い服ばかり着ていたから、彼を見慣れている者ほど今日の出で立ちを珍妙に思うという仕掛けだった――男とぱちりと目を合わせ、彼女は妖艶に微笑んだ。
「なんだよ。すっげー変な顔」
「い、いや。その……きれい、だと、思ったから。……よく似合ってるよ。とても……」
「そうか? 父さんはちょっと渋ったんだ。背中が開きすぎてるってさ。でも、身内式の時だけにするからって言ってやっと押し切った。流石に親族一同集まると、こうはいかないって。お前はそのままでも大丈夫だろうけど」
「お色直しは花嫁の特権だろ。いくらでも着ればいいさ。待ってるのは、得意だから」
「へえ?」
「お前とこうなる日をどれだけ待ったと思ってるんだよ」
 なんでもないみたいに言う。男が、彼女を待っていた時間。出会ってからこれまでの全ての時間だ。中学に上がってしばらくして、顔を合わせ、恋に落ちて、あっという間だった。ずっと夢見ていた。そのためになら何を犠牲にしてもいいとさえ思えた。
「そうだなあ、随分と待たせちゃったし」
「そうだよ。今更だ」
「でも待っててくれたよな。そういうとこ、みんなが思ってるよりずっと義理堅いんだって俺だけは知ってるよ」
 少女のような可憐さでセカンドは笑った。

 由緒正しきゼアル一族の第二子として生まれたのがベクターの花嫁となるセカンドで、まあ、ここに至るまでに紆余曲折様々な出来事があった。そもそもセカンドは本来なら誰かの花嫁になるような人間じゃあなかったのだけれど、それでも今セカンドはベクターの隣に花嫁衣装を着て立っている。
 まじまじとベクターはセカンドを見つめた。元々見目麗しい外見のセカンドが相応に着飾ると、これはもう、目も眩むような美しさで、勝手に心臓が鳴り出すのを自覚する。女神のようだ、と感じて、だけど口には出さなかった。
 白百合の花を模したコサージュを頭に付けている彼女は、しかし正確には既にその花が司る花言葉の通りではない。彼女は妊婦で、その腹に今ベクターの子を宿している。もう五ヶ月ぐらいになるのだろうか。そもそもそれが、セカンドとベクターの婚姻がこうして取り決められることになった直接のきっかけだった。
 セカンドの妊娠が発覚したのは今から二ヶ月と少しばかり前のことだった。発覚して、覚悟を決めるのには意外と時間は掛からなくて、「ああ、俺がこいつを幸せにしなきゃ」とベクターが思ったその瞬間セカンドが「大丈夫。俺がベクターを幸せにしてやるから」だなんて言ったものだから、その日の内にベクターはセカンドの親元へ出向いた。
 正直に言ってベクターは厳格なセカンドの父親が大の苦手だ。ちょっとした悪縁もあり――しかしそれは、実のところベクターには一切の責任はないのでセカンドもその父もそれは大した懸念に思っていなかったらしい――苦手意識は膨らむ一方だったのだ。その上公式に交際許可を得ていたわけでもないのにできちゃった結婚の申し込みをしに行くのである。ある意味で死を覚悟していたところもあったし、どんな罵倒でも受ける心づもりだった。
 のだが。
「認めよう。セカンドがそこまでしてお前を望むのならば」
 一発叩かれるぐらいに身構えていたのだが、案外のことあっさりとセカンドの婿として入ることは許された。後になってわかったことだけれど、ゼアルの一族に迎え入れられ、その血族として振る舞うことを求めるに際して相手の素性その他は友人として接触した段階から徹底的に洗い上げられていたらしい。ベクターがどのような男で、どういう経緯を辿ってセカンドと事に至ったのかを義父となる男はすっかり把握していたのだ。色々な意味で相当ヤバイなと思ったが、それは考えないことにした。
 ベクターはセカンドに対しては常に誠実であった。浮気なし、セカンドを本気で怒らせたことも不用意に泣かせたこともなし。何かあれば基本は遠回しだがセカンドを立てる。そういう、「世渡りの上手い」気質がゼアル当主にはうけたらしい。
「ただし、セカンドがもし辛い思いをすることがあればその時は」
 最後にゼアル家の当主はそれだけを付け加えると、やはり厳格な面持ちを崩さぬままに腹に命を宿した彼の子を手招きしたのだった。

「神父様、まだ来てないのかな」
「さあな。式の開始まで、まだもういくらかあるし、どうだろうな。わかんねえけど」
「そっか。考えてみれば、ドルベでさえまだ来てないもんな? そりゃ、神父様もまだいないよな」
 パイプオルガンはまだ鳴らない。今日はこの楽器が、教会じゅうに彼らを祝福するメロディを流すのだ。セカンドは踊るようにステップを踏んでベクターの前へふわりと舞い降りる。空から降臨するが如く。そうして、ベクターの手を取るのだ。
「なあ、ベクター」
「なんだよ」
「ひとつ訊いてもいい?」
「言え」
 エンゲージ・リングの嵌った左手をつまみ上げてそこにキスをするんじゃないかってぐらい近くまで持ち上げられる。セカンドは安らかな表情ではにかむと、息を吸い、その蜂蜜のような双眸でベクターの両まなこをじっと見据えた。
「――『健やかなるときも』」
「……ああ」
「『病めるときも』」
「ああ」
「『喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?』」
 今度は逆にセカンドの左手をベクターが手に取り、持ち上げた。お揃いのエンゲージ・リングを嵌めた華奢な指先。それに唇を近づけ、磨き上げられて銀色に光る指輪にベクターは本当に口づけを落とす。
 そうして、
「誓うよ」
 その言葉を確かに口にした。パイプオルガンはまだ鳴らない。聖歌隊もいない。彼らを祝福するギャラリイもいない。しかしそれでも、その時この教会はその全てで新郎と新婦を祝福していた。