れからはじまる、




「……え?」
 榊遊矢は見知らぬ部屋の、見慣れぬベッドの上で目を覚ました。
 華美な模様で彩られた知らない天井。むくりと上体を起こし、あたりを見回したがやはりこれも知らない部屋だ。綺麗にセッティングされた調度品、高級そうな壁紙、柔らかい照明の光。私物が少なそうなことを鑑みると、誰かの部屋ではなくどこかのホテルの一室と見た方がよさそうだ。
 とりあえず、ここがどこかの(それもかなり高級そうな)ホテルの一室ではないのかというところまでは頭が追い付いた。
 でも、一体どうしてそんなところに遊矢がいるんだろう?
「起きたか」
 混迷する思考を引き戻したのは、突然浴びせられた遊矢ではない誰かからの肉声だった。男の声だ。既に変声期を終え、しかし別にしわがれているということもなく、どちらかというと若い……少年の声。
「必要なら、水を持ってくる」
 声のした方へ振り向いた。窓際のテーブル席に腰掛けて、書類のページを捲っている男がいる。今時電子媒体じゃなくてわざわざ紙に刷るものなのかと疑問に思ってから、いや、そうじゃない、ということにようやく思い上がって遊矢は素っ頓狂な声を上げた。
「――あ、赤馬、零児?!」
「いかにも、私が赤馬零児だが」
「なんで……あんたがそこに……いや。そもそも、俺はどうしてここにいるんだ。ここは一体……どこなんだ?」
「ここは……GPSの位置情報によると、舞網セントラルホテルのスイートルームだな。私がここにいるのは、今日の社内会議に備えて仕事をしているからだ。それより……君は、服を着た方がいい。そのままでは風邪をひく」
「えっ? え、あ……う、嘘?!」
 実に冷静な赤馬の声に促されて、やっと遊矢は自分の身体をまじまじと見た。……裸だ。感触からして、パンツは一応穿いている。だけれど、上半身は言い逃れようもなく……半裸だった。
 知らないベッドに半裸。しかも、同じ部屋には男がいる。そのうえそいつは特に悪びれるふうでもなく、「仕事をしている」とか言って書類を捲って――
「……その。もし、君の記憶に一夜の過ちがあるようだったら、責任は取る、から……」
 ――いや、待て。
 遊矢は冷静になれ、と自分に言い聞かせて今一度赤馬の姿を上から下まで、今見える範囲でじろじろと見つめ直した。確かに赤馬は書類を見ている。しかし、同じところを何度もぐるぐると繰り返しみているようで、実のところちっともページが進んでいない。それに加えて、冷静そうに見えて眼鏡が少し傾いている。あと、服からタグが伸びているのが見えた。恐らく……服がひっくり返っているのだ。
「なあ……」
「なんだ」
「い、一夜の過ちの記憶とか俺にはないから……お互い、混乱してるみたいだし、一回落ち着いて今俺達がどうなってるのか、考えてみないか……?」
 おずおずと手を差し出すと、赤馬は虚をつかれたようになって書類を弄っていた手の動きを止め、身体を固まらせる。しかし遊矢が伸ばした手を引っ込める気配がないので、躊躇いがちに立ち上がってベッドまで寄ってくるとその手を握ってくれた。
 赤馬の手は少し、汗で湿っている。やっぱりだ。赤馬零児も今の状況がよく掴めていなくて、動揺しているのだ。
「私には、実は昨晩の記憶がないんだ」
 手を掴んだまま、またフリーズしてしまった赤馬が小さく言った。
「だからもし君に何かしてしまっていたとしたら……遊勝さん……君のお父上に謝罪をしに行くつもりでいるし、君の望む限り、責任を取る準備は出来ているから……」
「ま、待って。ほんと待って。そういうの、多分なかったと思う!」
「……本当か?」
「本当。お、俺そういうのまだやったことないからわかんないけど、昨日は何もなかったと思う。第一、俺とあんただけがこの部屋にいて、それで二人とも記憶がぽっかり抜け落ちてるって絶対怪しいじゃん。おかしいよ」
「……!! なるほど……それもそうだ……」
 遊矢がしどろもどろに言うとどうやらそれで納得してくれたみたいでカッと目を見開く。突然のことにやや後ずさったが、赤馬の方はそれに気付く素振りを見せない。
「そのあたりを含めて、私は君と話がしたい。だから……まず、服を着てくれ。繰り返しですまないが」
 君の素肌を見ながらというのはどうもいたたまれない。気恥ずかしそうに遊矢から顔を背けて、赤馬がひどく真摯な声でそう言う。
「じゃ、じゃあ……俺も、気になるからその服、ひっくり返ってるの直してもらえないかな……」
 ので、小声でお願いすると赤馬は愕然としたような顔で腰の左上あたりで揺れているタグをそっと摘んだ。


◇◆◇◆◇


 色々と二人で確か合った結果、こんなようなことがわかった。
 まず、朝起きた段階では赤馬も服を着ておらず、半裸の状態でベッドに寝かせられていたらしかった。その隣には半裸の遊矢がいて、赤馬はそれを見て混乱してしまい、慌ててベッドから飛び降り、丁度目に入ったところに丁寧に畳んで積まれていた私服に袖を通したらしい。あまりに慌てていたので洋服をひっくり返してしまっていわわけだが、動揺していたこともありこれは遊矢に指摘されるまで気が付かなかった。
 赤馬が覚えている一番確かで新しい記憶は、昨日の昼過ぎに母親と会食を取っていたということ。その後、午後に予定されていたはずのスケジュール――各種施設の視察なんかだったらしい――は、こなした記憶がないのだという。
「俺の方も、あんたと似たり寄ったりって感じかな……」
 遊矢はというと、やはりきちんと覚えているのは昨日の昼過ぎまでで、土曜日の授業に出て、放課後、柚子が友達と約束があるというので一人で校門を出たところまでは確かに記憶していた。
 しかしその後直帰したのか、寄り道したのか、それすらもあやふやだ。その時は確かカード屋に寄ろうと考えていたような気がするのだけれど、この調子だと多分行っていないに違いない。
「俺もあんたも、誰かに拉致された……ってことなのかな」
 赤馬の服が積まれていたという場所のすぐ横にきちきちと折り畳んであった自分の制服に着替え、赤馬の対面に腰を降ろしてそう尋ねると彼は困ったように首を振った。
「え、違うの。でも俺、持ってたはずの携帯がどこにも見あたらないし……っていうか、財布もないし」
「いや、だが、私にはタブレット端末が残されている。拉致してなにがしかをすることが目的なら私相手に機械など残すまい」
「あー……あんた、天才、なんだっけ?」
 ちょっと調べたんだ、あの後。ぼそぼそと零すと赤馬は初めてふっ、と優しく笑う。
 その貴重そうな初めて間近で見た表情に、遊矢の胸の辺りが僅かに痛みを訴えたような気がした。
「私のことを調べてくれていたとは。光栄だな」
「気になって……父さんのことを、悪く言わないどころか尊敬してるとまで言ってくれたの、知り合い以外じゃ初めてだったんだ」
「君のお父上とは何度か話をさせていただいたことがあってね。一度でも直に対面していれば、世間が騒いでいるようなレッテル通りの人間ではないことがわかるだろう。尤も……私とてあの人のことをそう知っているわけではない。そして君のことも」
「でもあんたは俺のことを初めて会った時から知ってたじゃんか。レオ・コーポレーションの社長なんだから、調べれば俺のことぐらいわかるんだろうけど……俺はそれよりもっとあんたのことがわからないんだ。調べても精々出てくるのは、プロ・デュエリストで大会社の社長で、天才って言われてるってことぐらいで」
 胸の疼き諸共吹き飛ばすように首を振って、俯きがちにそう呟く。赤馬零児。榊遊矢から、ペンデュラム召喚の唯一絶対性を奪い、新しいペンデュラムカードを作った男。
 彼のことが知りたかった。なんでもいいから、知っておきたかった。知らないまま彼だけが遊矢の実力をはかり、その上さっさとどこかへ行ってしまうようなのは嫌だったのだ。
 しかし赤馬はそれを聞いても和やかに微笑むばかりだ。遊矢はますます振り払ったはずの痛みが強さを増した気がして無意識に手で心臓のあたりを押さえる。
「いいや、私は君のことも評価している」
「……なんで?」
「勿論過大評価はしない、が……過小評価も出来ないな。さて。ここまで状況が整理されれば、おおよそ私と君をこの状況に追い込んだ人間の正体が絞れたぞ。元々心当たりはいくつかあった。一般人の君はまだしも、厳重に警備がついている私にこんなことが出来る人間はそうそういない」
 さらりと話題を流し、赤馬は俯いたままの遊矢の顔に手をやるとくいと面を上向かせた。赤馬の眼鏡越しに目と目が合う。まっすぐで、恐れと逃げを知らない目だ。たじろぐことも目を背けることも彼によって封じられてしまった遊矢に出来たのは、その瞳を見つめたまま「だ、誰が?」と彼の話題に乗ることだけだった。
 問うと、何故か赤馬が溜め息を吐く。
「恐らくだが……犯人は赤馬日美香。――私の母だ」
「は?」
「母様は……あのデュエルの後、一度君に対する興味は失っていたと思ったんだが。どうやら私の認識が甘かったらしい。こういうことをしたということは、君にまた違った観点から興味を抱いてしまったということ……」
 予想外の答えに今度は遊矢が固まる番だった。赤馬も「まさかとは思ったのだが」とか何とかぶつくさ言って、妙に歯切れが悪い。赤馬日美香。レオ・コーポレーションの現会長で、赤馬より偉い立場にある人だということは赤馬零児のことを調べている時に遊矢も知った。
「あの人は一度火が付くと大変なんだ。……その。私の母の奇行に付き合わせてしまうであろうことを大変に済まなく思う」
 唐突に謝罪される。奇行? それは、自分の息子と中学生の少年を、高級ホテルのスイートに閉じ込めたという今までの行いのことだろうか。それとも。まさか、これからもっととんでもない、想像も付かないようなことをやるつもりなのか……
 遊矢の脳裏を過ぎった一抹の予感を裏付けるように赤馬が、「これから君に苦労をかけると思うが」そう言った。まるでこれから運命を共にするかのようなシチュエーションだなと思ったけれど、現実は全然そんなロマンチックなものでもなくて、エンタメる気力もなく、遊矢はただ赤馬のすぐ真ん前で固まり続けていた。


/これからはじまる、