※オフ本「THE NEVERENDING STORY」と一緒に配布した無配。本と時系列を合わせている(本の内容の少し前の時期)ため、中学二年生の初夏、という設定です。








猫、かげろう、彼岸の花




「にゃーお」
「……あ?」
「ふにゃー!」
 道端で猫を拾った。拾ったというか、猛烈に懐かれて、ベクターの足を駆け上がり、飛びついて離れなかったので仕方なく連れて帰ることにした。梅雨が明け、初夏を通り越し、もうぼちぼち本格的な真夏に入ろうとしているようなそんな季節のことだ。ハートランド学園の、持ち上がりで色が変わることのなかったピンク色の袖にかじりついてその猫は嬉しそうに喉を鳴らした。
 その日は、珍しくベクターが一人で下校している日だった。大抵の場合遊馬が隣にいて、そうすると自然と小鳥や、多い日には凌牙やらアリトやらまでぞろぞろとくっついてきて大所帯になりがちな彼のここ数ヶ月の日々を思うとそれは本当に数少ない機会だったのだ。
 遊馬が追試に引っ掛かっているのを気分で見捨てて(普段は付き添ってやっているのだが、この日はそんな気分にならなかった)、一人で道を歩いた。夏休み直前の金曜日。次の月曜日に終業式があって、それでようやく夏休みを迎えるわけだが、お日様の照り方はもう真夏のそれと殆ど遜色ない。最高気温はいくつだったか、とDパッドで確認して辟易するようなそんな蒸し暑い中、その猫は道端に落ちていた。
「おい、お前なあ」
「にゃーご」
「……離せっつっても聞きやしねえなその顔は……」
 水色がかった灰色の、美しい毛並みの猫だ。野良猫かとも思ったが、それにしては毛づやがいい。さてはごく最近に捨てられた捨て猫か。確かにそうだ、この世界を自力で生き抜いてきた野良ならばこんな天気の日に木陰ですらないようなこんなアスファルトの真上に寝転がっていたりはしないだろう。
 尻尾を揺らしてベクターに甘えるようにじゃれついてくる猫は、子猫というには大きく、もう幾分か成長した年のようだった。どことなく凛とした雰囲気を持ち、気品すら漂わせているようである。紫色の、自分とよく似た色をした瞳でじっと見つめられるとそこに再び置き去りにすることも出来なくて、ベクターは猫を抱えたまま、またアスファルトの上を歩き出す。
 猫は非常にひとなつっこく、ベクターは真月零の時のあの優しい声音や表情をしていたわけではないのにまったく怖がる素振りを見せなかった。それどころか積極的にベクターに愛情表現をしようとしているみたいにちろちろと舌を出して舐めたり甘噛みをしたりする。
 そうするとやはり無碍には出来ないし、悪い気もしてこない。よしよしとあやすように抱きかかえ直すと、猫は嬉しそうにそれに応えた。
 家の中まで連れて帰るわけにはいかないと思って玄関口で離すと、事情を察したのか裏庭の方へひとりでに駆けて行く。利口な猫だ。感触から言って、恐らく雌猫か。
「あれ……ベクター?」
 そのまま玄関先で猫を見送っていると、追試を終えて帰って来たらしい遊馬が訝しげにベクターに声を掛けた。遊馬はチラリと裏庭に続く道を見たが、特に何か追求するでもなく、「どっか寄り道してたのか? 随分、遅かったんだな」と言って、ドアの向こうへベクターを誘った。


◇◆◇◆◇


 九十九家に居候を初めて早いもので半年以上が既に経つが、夜、ベクターが眠りに就く場所は様々で定位置のようなものはなかった。遊馬がハンモックで寝る日はその下に布団を敷いて眠ることもしばしばだったし、ベッドが空いているのをいいことにそちらで一人で寝ることもままあった。その逆も然り。或いは、どうしてもハンモックが嫌な時は遊馬のベッドの隣に布団を敷く。気分でコロコロと場所を変えることについて遊馬は何も言わない。自分自身、あっちこっちベッドとハンモックを行き来しているからか。
 その夜はハンモックの下で寝た。遊馬が斜め上のネットの上で寝相悪く動き回っているのを、眠れない夜にぼんやりと眺めていると不思議と心が落ち着くのだ。屋根裏部屋の窓際から月の光が漏れてきている。と、窓の隙間から何か覗く物があってベクターは横たえていた身体を起こした。
「お前、昼間の」
 覗いていたのは猫の尻尾だった。昼間ベクターに着いてきて九十九家の裏庭に消えていったあの猫だ。猫は尻尾を引っ込めるとなんとか体勢を変えて窓の隙間から部屋の中に潜り込んで来ようとする。慌てて窓を開けて、猫を両手で抱えて引き上げた。
「何してんだ、ったく」
「……にゃおーん……」
「そんなしけたツラすんなよ……わけもなく俺が悪いみたいな気分になってくるだろうが。なんだ? 人恋しくでもなったのか。お前、やっぱ最初っから野良だったわけじゃなさそうだな」
「にゃあ」
「……わかったよ。遊馬なら、家族には黙っててくれるだろ。今日一晩だけだぞ」
 一度抱きかかえてやると、もうぴたりと張り付いて離れようとしない。抱えたままもぞもぞと布団に戻り、一匹と一人で身を寄せ合ってくるまるように眠りに就いた。柔らかな流れるような毛並みに、ふと懐かしさを覚える。それも、少しセンチメンタルな、そんな感情だ。昔もこんなふうに柔らかくて暖かく、やさしいものと身を寄せて眠ったことがあるような気がした。だけど誰と? ベクターは今まで、猫なんか飼ったことがない。そもそも、動物を飼育しようだなどとそんな殊勝なことは一度も考えたことはなかった。
「お前はさ……俺なんかじゃなくて、もっと大事に面倒見て貰えるやつの家に行けよ。遊馬のクラスメートのあの猫娘のところとか、案外可愛がって貰えるんじゃねえの」
「……にゃーご」
「……嫌だって? まったく……俺のどこが、そんなにいいんだかねえ……」
 頭を撫でてやると嬉しそうに目を細めて、慣れた様子で甘えてくる。その夜は結局猫を抱きかかえたままうとうとと眠りに落ち、意識を失ってしまった。

 朝起きた時には猫は部屋の中から消えていたが、身支度を調えて朝食をとり、外に出るとまたどこからか出て来て歩いているベクターの足下に擦り寄ってきた。ベクターが歩くのにぴったりと寄り添い、とてとてと小刻みに足を運んでいる。朝の登校の時間、今日は小鳥と遊馬もベクターと一緒だったけれど、二人は突然現れた猫に対してなんらリアクションを起こさなかった。
「土曜も学校あるの、かったりーよなあ」
「仕方ないじゃない、あるものはあるんだから。それに今日、追試のテスト返してホームルームするだけでしょう?」
「俺はさ、多分、その後再補習にひっかかるから……」
「まあ……確かに……」
「……慰めてはくれないんだよな、小鳥って……」
 猫は名残惜しそうにベクターのくるぶしに顔を擦りつけてくる。また、ごろごろと喉を鳴らしてご機嫌な様子だ。前を歩く遊馬と小鳥は猫の存在を気にも留めない。一度、遊馬だけは小鳥との会話が途切れたタイミングでベクターの方に振り返ったが、猫が並んで歩いているベクターの足下は見ていなかった。
 学校に着いて校門をくぐっても猫はベクターから離れようとしない。昨日の夜はベクターの言わんとすることをすっと察して裏庭へ消えたのに、まるでちぐはぐな態度だ。そうこうしてる間に下駄箱までついてきてしまう。「真月、早くしないと、予鈴なっちゃうけど」と遊馬が言った。校内では、彼はベクターを真月と呼ぶ。
「どうしたんだよ。なんで手間取ってるんだ?」
「あ、いえ、大丈夫です。すぐに行きますから、遊馬くんと小鳥さんは先に教室に行っていてください」
「……そう? なら、そうするけど……今日の真月くん、なんか変ね。朝からずーっと上の空で」
 小鳥が遊馬を連れて教室の方へ消えていく。変? 誰が? ベクターが?
 ベクターは首を捻った。変なのは、猫が増えたのに何も言ってこないそちらの方じゃないか。
「ほら……いい子だから、俺が学校行ってる間は夜みたいに隠れててくれよ。教室にお前を連れていくわけにもいかないんだから……」
「にゃあ……」
「頼むよ……終わったらまた迎えに来るから。な」
 頭をくしゃくしゃと撫でると寂しそうな顔をしてしょんぼりと項垂れる。紫色の瞳が悲しみの色で細められるその様子に何故だかずきりと胸が痛んだ。だけど、やはりどうしたって猫を教室まで連れ込むのはいただけない。
 結局、痛む良心を振り切って猫を置いて立ち上がった。「にゃあ」という哀切を含んだ鳴き声。くそ、と内心で毒づき敢えて振り向かずにその場を立ち去る。どうしてこんなに胸が痛むんだろう。たかが猫を一匹、それも昨日会ったばかりの野良を下駄箱に置いてくるだけで、こんなに?
 必死に考えないようにして、猫の鳴き声を頭の中から掻き消す。けれどあの紫の瞳だけは脳裏にこびり付いて、消えようとしない。
「なんで……あの目……あの眼差し……」
 ――まるで。
 あのひとの、眼差しのような。

 嫌な予感というものは、概して的中するものだ。
 その日授業が終わって出てくると、もうどこにも、二度と、あの猫の姿は見られなかった。


◇◆◇◆◇


「あいつがいなくなったんだ。お前、見てないか」
「……あいつって、何?」
「はあ? 今朝登校してる間じゅう、俺の回りにうろちょろ纏わり付いてきて離れなかったじゃねえか。猫だよ。水色がかった、灰色の毛並みの雌猫で……」
 放課後、案の定補習に引っかかってしまったらしい遊馬を待って校門の前でDパッドを弄っていた小鳥を捕まえて尋ねた。小鳥はパッドから顔を上げ、不審そうな顔をしてベクターを見る。
「急にそんなこと言われても……とにかく私は見てないわ。今朝から一度もよ」
「や、だから……何おかしなこと言って……朝、俺の足下にいたじゃねえか。下駄箱までついてきて……それでお前らを先に行かせたんだろうが。わかんねえのか?」
「わからないわ。あなたが何を言いたいのかも、さっぱりね。……ベクター。あなた実は、夏風邪をひいて意識がぼーっとしてたりとか、そういうのじゃないの?」
 保健室、今ならまだあいてるわよ。小鳥の言い種にかちんときて「遊馬じゃあるまいし夏風邪なんかひくわけねえだろ!」と反論すると彼女はあっさりと「まあそれもそうね」と認める。けれど猫に対しての知らぬ存ぜぬの態度は変わりがないみたいで、「だから、猫は」ともう一度訊ねてもふるふる首を振るばかりだ。
「でも……いただろ……俺にやたらに懐いてる猫が……」
「まだ言ってるの? だから、私は知らない。多分みんな知らないわ。あなた、もしかして人には見えないものが見えていたんじゃないかしら。幽霊とか……それがたまたま猫の形をしていただけで……」
「な……」
 彼女が向けてきた猜疑の眼差しにびくりとして、投げかけようとしていた言葉が全てかき消えていく。小鳥は「この話は、もうこれで終わりにしましょ。らちがあかないもの」という代わりにベクターをその視線で射抜いていた。
 知らず、足が震える。そんな。だってあいつは、あの猫、ちゃんと暖かくて。
 ベクターの腕の中に確かにいたはずなのに。
「いなかったわよ。そんなの、どこにも」
 小鳥が言った。



「……何作ってんだよ」
「……見てわかんねえかよ」
「……。そうだな。わかる」
 補習から帰ってきた遊馬が玄関ドアを開けもせず、まずはじめに向かったのは裏庭だった。そこに誰かがいるだろうという予兆があったからだ。学校カバンを抱えたまま行ってみると、案の定、どんぴしゃだ。
 居候の少年がスコップを手にして、九十九家の小さな庭の一角を埋め立てている。こんもりと盛り上がった土は否が応でもあるものを連想させた。墓だ。墓標こそ今はないけれど、彼は今墓を作っているのだ。
「何の墓をたててるの……」
「さあ。小鳥は、俺にしか見えない幽霊だろうとか、ぬかしやがった」
 だから、幽霊の墓なんじゃないのか。ベクターは遊馬の目さえ合わそうとせずにただ墓を作り続けている。土をならし、盛り上げ、墓守どころか埋まるものさえいない墓を、延々と。
「嘘だな。ベクターはただの幽霊だなんて思ってないよ」
「だが俺以外には見えなかったんだと言う。朝だって、いたのに。ならば、確かにそれは幽霊だったのかもしれない……」
「うーんまあ、あれは確かに幽霊って名前なのかもしれないけど」
 遊馬が学生カバンを地面に置いてしゃがみこみ、強引にベクターの顔を覗き込もうとする。ベクターは顔を露骨に背けた。意地でも遊馬に目を合わせようとしない。
 見透かされたような顔を見るのが、嫌だった。
「猫だろ」
 遊馬の指がベクターのスコップを握る手に伸びる。
「水色がかった灰色の、毛並みがつやつやした猫。……俺にはあの猫、見えてたよ」
「はあ……?」
「ほんとのとこ、お前が昨日猫を抱いて寝てたのも、知ってた」
「はっ……なんだよそれ。慰めのつもりか?」
 スコップを持つ手が止まる。「今更かよ」悪態ばかりが口先をついて出る。「今更……そんな……憐れむみたいに」。
 名前のない墓の上にスコップが横たわった。それは、何と名を与えて良いのかわからない猫の代わりに、スコップが眠りに就こうとしているかのようだった。
「ううん。ただ、ベクターには猫に見えてるんだろうってのは、分かったんだけど。俺にはもっと別のものに見えていたから……どうしていいのかわかんなくて。小鳥なんかは本当に見えてなかったみたいだし。でも、お前がそうやって苦しむんなら俺はそれを隠さない方がいいのかな」
「……なんだよ」
 勿体ぶるなよ。ようやく遊馬と目を合わせ、挑発するように睨みつけると遊馬は困り顔をする。「早くしろ」。強い口調でけしかけたら、「うん」と頷いた。
 遊馬の唇が開かれる。ゆっくりと動いて、言葉を形作る。

「その猫、さ。多分、お前の母ちゃんだったんだよ」

 ――風が凪いで通り過ぎていった。
「あ……」
「そう。俺が見た限り、それは昔お前の記憶の中にいたベクターの母ちゃんだった。水色の髪の毛で……ベクターと、同じ目の色をして。でもさ……そういう顔するってことは、お前も薄々感づいてたんだろ?」
 その、猫の正体にさ。遊馬が呟く。そうか。遊馬の目は特別なものを映し出すことが出来るから……ベクターは呆然とする一方で奇妙に納得を覚えていた。遊馬はアストラルの片割れ――この世のものではないものを、その瞳に当たり前に映し出す。
「俺の目には、後ろからベクターを抱きしめる母ちゃんが見えてたよ」
「母上が……」
「ただ、そのままの姿だと拒絶されると思ったんだろうな。だからベクターには猫の姿に見えるようにしたんだ。一体どんなからくりで、どんな力を使ったのかは知らないけど」
 最早スコップを握る力を持たない、開かれた指の上に重ねられた指先が慮るようにベクターの手のひらを撫でた。彼はベクターの皮膚の形を確かめるように撫でる。ベクターがまだこの世に存在していることを確かめるように。ベクターが幽霊になっていないことを、確かめるように……
「もうすぐお盆だから」
「うん」
「きっと、心配になって……来たんだ。ちょっと早いけど」
 まだ夏休みにもなってないのにな。遊馬が苦笑いした。慰めようとしているのかもしれなかったけど、まるで逆効果だ。
「お前それいつから知ってた」
「昨日、玄関で喋った時から。お前の肩の上に――いたんだ。猫から、姿が伸びるようにして」
「なんで……なんでそれを俺に言わなかった!」
「……。言いたく、なかったんだ」
「そうしたら、俺は母上に……!」
「だけど。それを教えたら、ベクターがベクターの母ちゃんに連れて行っていかれてしまうような気がしたから」
 遊馬の赤い瞳の奥に、ベクターの紫苑が映り込んだ。
 ベクターの脳裏に、ある記憶がフラッシュバックされる。『置いてかないでよ……』少年が涙ぐみながら懇願する。『お前を一人にしない。お前は俺が、守ってやる』また別の少年が、涙ながらにそれを宣告する。
「だから言わなかった。ごめん……ずるくて、卑怯で……」
 重ねられた手が、ベクターの手を握り締めた。あの時、ドン・サウザンドに吸い込まれていこうとしたベクターの手を繋ぎ止めた時と殆ど同じ強さだった。
 はっとする。
「……母上が」
「うん」
「俺を、連れて行く?」
「そんな気がしたんだ。気がしただけだよ」
「……。だが……」
 慎重に言葉を選んだ。どうしよう。なんて言えばいい? 遊馬の紅色に誠実に応えなければならないと思ったのだ。あの猫に感じた愛おしさと、哀切、温もりと郷愁にも近い念は本物だった。遊馬がそう言うのなら確かにあれはベクターの母親の幽霊だったのだろう。それが、ベクターには猫に見えていたのだ。
 あの猫が隣にいることをベクターは疎ましく思わなかった。むしろ居心地がよく、嬉しかった。けれど猫は――母は、結局一晩でその姿を消してしまって……元々、ベクターを連れ去る気なんてなかったのだと思う。
「それは、お前の思い込みだ。遊馬」
「……そうかな」
「ああ。それに、確かに……昔なら、俺はそのまま母上の手に引かれてどこか遠くへ行こうと思ったかもしれない。だけど俺にはもう、そうすることを選べねえよ」
 だからそんな、泣きそうな顔をしてるんじゃねえよ。握られた手を自分から握り返してぶっきらぼうに言葉を投げる。
「お前が俺を繋ぎ止めたから。もう俺は、今度こそ生きることを諦められないんだ。例えお前を道連れに出来たとしても」
「俺はそれでもいいぜ」
「ばーか。お前それ全員に言ってるんだろうが」
 手を握ったまま立ち上がった。スコップは相変わらず墓の上にこてんと横たわっている。でもそれでよかった。
 ベクターにつられて遊馬も立ち上がる。不安に揺れる九十九遊馬の目。昔、そうだ、真月警部だと名乗っていた頃、アストラルの話を出すとそういえばこいつはこんな顔をした。
「もしかしたら母上も、俺の顔を見たいと思って来てくれたのかもしれないな」
「きっとそうだ。ベクターが普通に学校に通って、生きてるのを見て安心してるみたいだったから……」
 なんとはなしにそう言うと、遊馬は頷いて肯定する。遊馬の視界、遊馬の世界にはベクターが猫として投影していたものよりも実はたくさんの情報が映っていたのかもしれない。だけどあえてそれを聞こうとは思わない。ああして触れ合った温もりだけで、ベクターは十二分に母の気持ちを受け取っていたように思ったから。
「そうか。なら、それでいいんだ。俺は母上にとって結局酷い親不孝者だったと思うが……それでも今生きている俺をあの人が認めてくれるのならば」
 それでいい。呟くと遊馬がそっか、と言う。
「彼岸花を買いに行こう。まだ少し早いけれど……」
 遊馬の目を見つめて逸らさぬまま、彼に告げた。すると遊馬は少し考えた後こくりと頷くと、「ちゃんとお線香も焚こう」とそれに付け足したのだった。