ままごとのこい 黒咲隼には瑠璃という名の妹がおり、あの荒れ果てた世界で抗争に巻き込まれ、彼は妹と生き別れていた。シスター・コンプレックスを拗らせていた隼にとって妹のいない世界は地獄それそのものであり、彼はその日を境に人が変わってしまった。 「アカデミア……奴らを俺は絶対に許しはしない……!」 アカデミアへの憎悪にも近い感情を育ててしまったのは俺とてそう変わりはなかったが、彼のそれは飛び抜けて悪質で、手がつけられないほどに熱く燃え上がり、彼を狂ったように突き動かした。優しく、思いやりのある青年だったはずの黒咲隼は突然連続殺人鬼のような顔をするようになり、カードの中に対戦相手の魂を閉じ込めるあの悪魔のような術を使うことに抵抗をしなくなった。瞳は虚ろで、いつも、ここではない場所を見ていた。俺は彼が何を見ているのか知っている。瑠璃だ。彼は何処にいても、いつも必ず瑠璃の幻を見ている。 「彼女は……瑠璃ではないんだ。だから、そっとしておいてやって欲しい……頼むから……」 気絶した隼を肩に抱えて隠れ家へ戻った。「柊柚子」という名前らしい瑠璃によく似た少女に詰め寄った隼を、気絶させてでも彼女から引き剥がしたのは俺の独断によるところだったが、恐らくそれがその時俺に出来る最も正しい方法だった。彼女にいたずらに不信感や不安を抱かせるのは俺の願うところではない。そもそも、あそこにはLDSの生徒がいて、彼女は既に応援を頼んでおり、あんなところで瑠璃瑠璃わめかせていたらお縄になっていたであろうことは想像に難くない。 二人が今拠点にしている隠れ家は、スプリングの壊れたベッドしか置いていないようなボロ屋だったが、雨風をしのげるうえに寝床まであるとなれば相当に上等な住み処だ。元いた世界では、これよりもっと低い水準の寝床がザラだった。生存競争が加速したあの場所は、女子供が生きるのに適した場所では最早無かった。 ペットボトルの口を開け、ミネラルウォーターを隼の口に無理矢理流し込んで気付けの変わりにする。ゲホゲホとむせ込んでゆるやかに目を見開いた隼は、俺の顔を認めると、今の今まで気絶していたとは思えないような形相と勢いで俺に襲いかかってきた。 「……ユートッ!! 瑠璃が……せっかく瑠璃が、やっと、俺の目の前に現れたのに……!!」 「隼、もう一度言う。彼女は瑠璃ではない。瑠璃は、いない。あそこに隼を放っておけば、LDSの人間に捕まるのは時間の問題だった。それだけは避けねばならない」 「黙れ……! 瑠璃が……瑠璃、瑠璃、か弱い瑠璃……俺の瑠璃が……ようやく……」 「隼!」 ああ、またこれだ。うわごとのように「瑠璃」「瑠璃」とそればかりを繰り返す隼の頬に、容赦なく平手打ちを入れた。乾いた音。隼の整った顔に、薄く赤みを帯びた腫れ後が出来る。 隼は瑠璃を失ってから一つの「病」に掛かった。以前までの柔和で温厚な性格がなりを潜め、思考がエスカレートしたのもそうだが、更に酷いのは、一定周期で情緒不安定に陥り、冷静さを酷く欠いてしまうことだ。そうすると隼にはもう何を言っても駄目なのだ。この時の隼は頭がまともに働いていないし、俺の言うことなんかまともに受け取ろうともしない。何が正しいだとか、間違っているだとか、そういう基準を全て吹き飛ばしてただ瑠璃のことに頭を支配されてしまう。 「隼。いつもの通りにしよう。その昂ぶりをどうにかしなければ……俺はそんな状態の隼を、外に出すことは出来ない」 そういう時に、俺は彼の欲求を一つ解放させてやることにしている。 生身の人間が持つ、あの逃れようもなく狂おしい欲求だ。降り積もったフラストレーションを一息に放出させるのだ。そうすると、彼は幾分か冷静さを取り戻し、理性的に話が出来るようになる。また一定周期が回れば彼は情緒不安定に陥るが、その時はまた俺は彼の欲求を吐き出させてやるだろう。それだけの話だ。 ベッドに腰掛け、身に着けているぼろい服の裾に手を掛けた。ネクタイを解き、床に投げ捨てたあたりで習慣化しているその行為の「はじまり」に気が付き、隼は夢遊病患者のような足取りで自らベッドに向かってくる。浮ついて濁った瞳の隼が「ユート」俺の名を呼び、シャツを脱いで露わになった俺の皮膚に触れた。 「いつもの、か」 「ああ。いつものだ」 「そうか……」 そこに俺が存在していることを確かめるかのように何度も何度も執拗に胸板に触れ、小さな呻き声が鼻から漏れ出す。それが俺と隼との間の合図だった。隼の手が乱雑に俺をベッドに押し倒す。伽藍の堂のような眼差し。それに身体を舐めるように見られて、身震いする。 「瑠璃…………」 隼の口がここにいない彼女の名を呟いた。 これもいつものことだ。知っている。彼は俺ではなく、いつも、いなくなってしまった妹を夢想しながら俺に手を掛けるのだ。 「俺は……瑠璃じゃ……ない……けど……」 隼の身体に手を伸ばした。 だけどそれでもよかった。隼の汚濁しきった目の焦点がどこに合わさっていようが、俺の事を見ていなかろうが、それでも彼が俺を抱いて、それで楽になってくれるのならばそれでいい。 俺達のこの関係性はドラッグに似ている。 ◇◆◇◆◇ 隼に初めて抱かれたのは確か、月がなく、星もろくに出ていないような酷く天気の悪い夜のことだったと思う。隼の発作が酷くて、どう手を付けたらいいのか困っていたのだ。このままでは目に入ったもの全てに「瑠璃」と叫んで手当たり次第に通行人を襲っていくのではないかとさえ(考えすぎだろうが)俺には思えた。隼は切羽詰まっていた。 どうして抱かれようと思ったのか、隼も、何故俺を抱こうと思ったのか、それについては未だに定かではない。ただ、彼はきっと「誰でも良かった」のだろうというのが俺の見立てだった。いつかテレビで見たロボット・アニメの主人公が無責任に言い放ったように。優しくしてくれるならきっと誰でもよかった。隼は無責任だ。いつも――いつも、そうやってその無責任さで、俺に爪痕を刻んでいくのだ。 「ッ……あ、ぁ……」 だが隼に付け入っているのは、俺なのだ。隼の弱さに付け入った。弱り切った彼の心を、頭を真っ白にして、空っぽにして洗い上げてやることで守れると自分に言い聞かせた。俺達はセックスの最中にろくに会話をしない。喘ぎ声と水音だけが俺達の薬漬けの夜を支配する。余計な言葉は、俺達を夢から醒ましてしまう。ならば要らない。必要ない。 「ふ、ぁ、隼、しゅんっ……!」 隼は事に及ぶ時、いつも性急に物事を進めたがった。彼は前戯を殆どやらないし、勃起すればすぐに俺の中にそれを突っ込んでくる。だから俺は彼をベッドに誘う前に必ず自分で中を解かしておく。余計な痛みは出来るだけ排しておきたいというのは、自然な感情ではなかろうか? 隼に抱かれるようになってから、俺は尻の穴を自分で弄るのが無意味に上手くなった。まったく嬉しくはなかったが、それは必要な適応だと思えた。 隼のいきり立ったそれが一息に侵入してくる。身体はもう慣れ切ってしまっているから特に抵抗はないし、引っ掛かってきつい思いをすることもそうないが、この圧迫感だけはいつまで経ってもなくならない。両腕を隼の無骨で脂の少ない身体に回して身体を密着させると、圧迫が余計に酷くなった。 隼の性器が、自分の中で育っていく感覚が好きだった。それはつまり俺に隼が感じているということに他ならないからだ。生理的な反応だろうが、彼の頭の中に俺がいなかろうが、別にそれでよかった。隼が俺を抱き、俺の肉に溺れ、形ばかりの薬としてだったとしても、俺を必要としてくれたという痕跡がそれで残る。 俺の身体は隼を咥え込むことにすっかり慣れて、もうぞろ、隼の大きさに合わせて形を変じていっているのではないかと俺は思っていた。入り口を少しきつめに締めると隼が呻く。 (だらしない顔……) 顔を上気させ、張り詰めた余裕のない表情でけもののようにがっつき、俺に腰を打ち付けている隼の顔。隼でさえこれなのだ――きっと自分は今もっと悲惨な、目も当てられないような、そんな表情をしているのに違いない。鏡で見せられたらどうなってしまうのだろう。見たいような気もするし、見たくないような気もする。自分が自分でなくなっていく感覚に拍車がかかり、戻ってこれなくなってしまいそうな、そんな予感がする。 (だって、この声でさえ、そうだ) 腹を抉られてひっきりなしに零している喘ぎ声は幼稚で、だらしなく、か弱い。女のそれだ。つまり俺のこの、目に見えない顔は今、女のような表情を形作っているのかもしれないのか。 滑稽だった。俺は瑠璃にはなれないのに。 (俺は瑠璃じゃない) わかりきっていたことなのに、繰り返してみると、その事実が酷く胸を締め付けた。 「隼、そこ、や、きもちいい……すき、やだ……あ、ァ、ぁ、イッちゃう……から……!!」 ああ、結局、そうだ。 わかっていた。俺達の夜の関係性はドラッグ。俺は本当は瑠璃の呪縛から隼を解放させたいと強く願っているわけじゃなくて、隼に必要とされたいだけで、その手段にセックスがあった。不可抗力の欲求をぶちまけさせる体の良いはけ口として自らを宛がうことで、隼に自分を必要とさせ自分は隼に必要とされているという錯覚に浸るのだ。 隼はセックス中に俺の名前を呼ばない。彼は俺を抱いている間ずっと、彼が普段生活している時やデュエルをしている時のような意識が殆どなくて、目が醒めた時には俺に何をしていたのかも覚えていないのだ。ただ、俺を抱いた次の朝には奇妙にすっきりした表情で「いい夢を見た気がする」と決まって話してくる。内容はもう聞いていない。どうせ瑠璃と一緒にいた頃の夢だ。 (名前を呼んで……) 隼にとって俺は、心地よい爽やかな夢を与えてくれる肉の人形に過ぎないのだ。 証明が欲しい。渇望して、ねだるように余裕のない隼の身体に絡みついた。この肉を抉る感触では足りない。彼に身体を造り替えられているという事実でさえ足りない。前立腺を亀頭が強く掠めて情けない声が漏れた。隼の爪が皮膚に食い込んで身体のあちこちに傷を作るのが心地よかった。もっとだ。もっと。この身体にいくらでも消えない傷跡を残していい。痣だらけにされても、引っ掻き傷で全身を彩られても、別にいい。隼に与えられる痛みなら甘んじて受けられる。 だから。 「なまえ……呼んで、しゅん、しゅんっ、おねが、ァ、おれ、の、なまえ……」 名前を呼んで隼。 俺の名前を、俺の目を見て、俺と繋がったまま、呼んで。 「――――!!!」 ベッドに背を預けて、隼の身体の方に両腕を伸ばした。隼の限界が近い。促すようにきゅうときつく締め上げてやると隼はそのまま俺の中で果てた。精液が直腸をいっぱいに満たしていく。熱くてどろどろして、気持ちいい。 入りきらなかった分が俺達の結合部をしとどに濡らし、白く染めながらベッドシーツの上に零れていった。粘性の高い隼の精液から青臭いにおいがして、セックスのにおいを余計に濃くした。 ◇◆◇◆◇ 何しろ隼は俺と事に及んだ事実を一切次の日には覚えていないので、後片付けはいつも俺の仕事だった。 汚れたシーツを取り替えて、彼のまだゆるく勃ち上がっている性器にこびりついている精液を一滴残らず舐め取り、下着を着けさせ、服を着せ、綺麗になった寝台に寝かせ付ける。 事が済んだ後に俺はいつも一人でシャワーを浴びる。それは自己嫌悪と甘美な一夜への陶酔の時間だった。隼に抱かれることに安心している浅はかな自分に、吐き気を催しながら酔っている。 だから、その場所に自分以外の誰かがやって来るという計算をしたことがなかった。それが俺の最大の誤算で、詰めの甘さで、醜さだったのだと思い知らされる。 「ユート」 シャワールームの戸が俺の意図とは離れた場所で開かれる。何故。俺は生傷だらけの身体を隠すように扉に背を向けた。しかし傷跡は背中にも及んでおり、意味はなかった。 「こんな時間に……目が覚めてみればシャワーの音がして、お前がいなかったから……見に、来たんだ。それで、これは、なんだ? この傷は……誰が付けた?」 「じゅ、隼、違うんだ、これは……」 隼の指先が俺の傷跡をなぞった。セックス中のあの熱に浮かされた指ではなく、デュエルをする時の冷めた指先だ。怖気が走った。怖い――すごく、怖い。彼に何を言われるのもその時恐ろしかった。 「これは……俺が、自傷行為に走って……そうだ、自分で付けた、傷なんだ。見ないでくれ……隼、頼む、おねがいだから……」 「……」 隼の指先は尚も俺の皮膚の上を走っている。血の後も新しい、生々しい剥き出しの傷跡の数々に隼の眉がひそめられたのが振り返らずとも分かった。 無言で俺の腕を彼が掴む。そして強引に俺の顔をこちらへ向かせ、隼が厳めしい顔をして、問う。 「俺が付けた傷なのか、ユート」 瞬間、世界に響く音がシャワーの落ちていく鳴き声だけになった。 「答えてくれ。お前がその答えを私にくれるまで、俺はここを退かない」 元々乏しい表情がゼロになり、マイナスになって、俺の表皮から零れ落ちていくのを感じる。青ざめた顔で、俺はシャワーの雨に濡らされ続けたまま隼の顔を見ていた。隼がもう一度繰り返す。「俺が付けたのか、それは」。 「記憶がないんだ。寝る前の記憶が……ただ、身に覚えのない陶酔感のようなものだけが残っている。身体の火照りさえあるんだ。教えてくれユート。その傷は俺が付けたものか。俺達は……何をしていた?」 「それは……」 言えない。隼の弱さにつけ込んで、浅薄にも自らの欲望と願望を満たしていたなんて、とても。 隼は退かない。だが俺も、真実を口から出すことがどうしても出来ない。金色の目が、いつもより翳って見えて、唇を噛む。 こんな時でも隼の瞳から目が逸らせない自分が、すごく嫌だった。 |