さよならサンクチュアリ 『あら、いけませんよ、そんなふうに慌てて走っては……転んでしまったら、大変ですもの』 『ですが母上、私はどうしてもこの花を母上に綺麗なままお届けしたかったのです。この花をお渡しするまで、私は決して転んだりしません』 『あらまあ……元気なこと。嬉しいわ、私のかわいい息子』 「……あー……」 ――今でも、時折あの棄て去った遠い過去を夢にみることがあって、その度俺は気怠い身体の重さと共に目を醒まし、部屋じゅうを見渡した。寝起きの俺の視界に映るのはいつもあの雑然とした九十九遊馬の部屋で、すぐそこには寝相といびきの酷い遊馬の姿が見え、俺はそのことに安堵する。その繰り返し。単調な確認作業。俺が今どの世界に生きているかを、そうして確かめる。 幾度も繰り返す朝と夜の中で、この夢だけはいつまでも俺につきまとい、時に俺を脅かそうとした。あの夢を見ることが、俺は少しだけ怖かった。母上への慕情を前面に押し出した在りし日の投影は、俺がもしかしてまだ「還りたがっている」ことの示唆に他ならないのではないか? とそれを恐れたからだ。 九十九遊馬が生きるこの世界に足を付けて、その大地を踏みしめて一歩を踏み出したあの瞬間から、俺の生きる世界をこの場所に自分自身で定めた。遊馬のいる世界。過去はもう過去であり、それは踏まえるべきものではあるが、戻るべき場所にはならない。そう思って思い出のアルバムの中に母親の偶像を仕舞い込んだ。記憶の奥深くに、もう二度と勝手に出て来たりしないように。遊馬が前を見て生きろと言うから、そのように。 ……或いは、俺は母上のことを忘れたがったのだ。 母上という存在それそのものが俺の過去の全てを象徴しているようなものだった。 「二人とも、今日はお買い物に行きましょうか」 「え、買い物って、何の。なんか、足りないもんあったっけ……」 「そうねえ、急を要するものは今はないのだけれど。お父さんは今日いないし、三人で内緒でお出かけしたいって思ったのよ」 九十九未来が朝食の席で話を切り出したのは、俺がもう何度目かもわからない例の夢を見た日のことだった。彼女が九十九一馬と夫妻揃って九十九家に帰還したのは俺がこの家に来た少し後のことで、実のところ俺は未だに彼女の性格と言うべきか、思考を把握出来ていない。彼女は不可思議な女だった。何しろあの遊馬の母親だ。それで然るべきなのかもしれないが。 一馬を初めとした遊馬の家族は皆そうだったが、彼女はことさらに俺を九十九の子供として扱いたがる節があるというのが俺の感じるところで、実子である遊馬と俺を常に平等に扱い、服も、菓子も、何もかもを均等に一つずつ与えた。その中には多分愛情も含まれていた。彼女の中には俺に対するよそよそしさというものは一切なく、出会った当初からまるで俺の事を自分の腹を痛めて産んだ子供のように扱った。 「三人で?」 「そう。二人とも、また少し身長が伸びてきたんじゃないかしら」 未来の腕が伸びて、遊馬と俺の頭を順繰りに撫で回す。俺達は中学二年生。育ち盛りの成長期にあり、背は日々健やかに伸びていく。俺の背丈が最終的にどのあたりまで伸びるのかは過去の記憶から大体予測がついているので洋服を買う時は常にそれを意識してサイズを選んできているが、環境の差なのか、幾分か誤差が生じているのは事実だ。つい最近も、着られると思ったシャツが微妙に小さくなってきていた。尤も、俺が計画だてて服を選んでいるそのことを彼女が知っているはずはないのだが……。 遊馬も遊馬で、最近になってまた随分背が伸びるようになってきた。昔は小鳥とさほど変わらなかった背丈が、今はもう結構差が付いてきている。先日、小鳥が「随分遊馬と差がついちゃったなあ」と寂しそうに独りごちていた。別にそれでいいんじゃないかと返したら、意味も分からず憤慨された。 「私が一人で選ぶとどうしても、お揃いの子供服みたいになってしまうから。二人とももう、そういうのを気にする頃でしょう。二人で好きなものを選ぶといいと思うわ」 「えー、でも母ちゃん、俺服選ぶの苦手なんだよ」 「そうしたら、零に手伝ってもらいなさい。お父さんが、遊馬もいい加減そういうことを覚えた方がいいって言っていましたよ」 「それ結局父ちゃんに言われてってことじゃんか!」 「あらいやだ。ばれちゃったわ」 「お父さんからのプレゼントなのよ」未来が言う。テーブルの上のスクランブル・エッグとフレンチトーストにフォークを刺して、もう空っぽの俺達の皿を眺めながら彼女は笑う。俺は彼女が彼女の夫である一馬のことを口にする時、ふと思う。 俺の母は父を愛していたのか。 九十九未来がそうであるように、自らの意思で、俺を産んだのか。 「お洋服を選ぶのに困った時は、自分の髪や目の色を見て考えてみたらどうかしら。遊馬は、髪も目も赤いから。赤いお洋服、随分気に入っているでしょう?」 「うん。俺、赤好きだし。ええと、それじゃ、真月は……」 遊馬が俺の方をじろじろと見回してくるのを、未来が微笑ましそうに見ている。そうして子供を――もしかしたら子供達を、見ている時の未来は母上と同じ顔をしていて、俺はそれでしばしば複雑な気持ちになる。たぶんそれが、母親が子を見る時の表情なのだという、それだけのことなんだろう。 ただ、母上じゃない誰かが俺にその眼差しを向けることがどうしても慣れないのだ。 「零の髪の毛はおひさまの色よ……」 私と同じね。未来が小首を傾げた。その仕草を見せつけられる度に、俺は忘れたい人の面影を鮮烈に想起させられて、だからやはりこの女が苦手だった。 ◇◆◇◆◇ 俺にかつて読み書きを教えてくれたのは宮廷つきの仕官だったが、俺に読み書きを使って何をするべきかを教えてくれたのは母だった。母は俺に人を愛することを教え、民を愛することを教えた。そして世界を愛することを教え、優しい子でありなさいと、……それが母の教えの全てだった。 母は静かに笑う人だった。下品に、大声でがなる父とは対照的だった。国外に船で乗り出していることの方が多かった父よりも物静かで常にそばにいてくれた母に懐いたのは、必定のことだっただろう。俺は父のことをあまり覚えていない。よく覚えているのは、俺を罵倒し、殺そうとしたあの今際の姿ばかりだった。 「何かいいものは見つかった?」 「んー……全然……っていうか、やっぱり俺、自分じゃ何がいいとか悪いとかよくわかんねえよお」 「困ったわねえ。零はどうかしら」 「俺も……べつに……」 母が愛した花の名前をストケシアと言い、あの人は、あの花のように儚い色をよく好んだ。だが母が俺に与えた色は、それとは真逆のものたちだった。俺が遊馬の元を一度離れた時に選んだジャケットの色は今思えばその名残で、そうだ、俺はあの時はドン・サウザンドの記憶操作でそれを忘れていたはずなのに、やはり母親に与えられたものに全てを支配されていたのだ。 彼女が与えた「ベクター」という名と、それから俺自身が与えた「真月零」という名。名は体を表し、時にその存在を縛り付ける。「ベクター」は基本的に色の濃いもの、黒を好んだが、「真月零」の出で立ちは白く、淡く、「ベクター」とは正反対だった。別に何か、明確な意図があったわけじゃない。なのに真月零は、ベクターから離れた正反対のカラー・サークルに骨を埋めているのだ。 「青いお洋服、二人ともそんなに着ないものね……」 白いワンピースに身を包んだ未来の色彩は、真月零のそれとよく似ている。白とオレンジ。遊馬が、昔、いいよなと言った色合い。淡い色を、俺の母と同じ儚い色を好み、それに袖を通して、俺達ふたりに色の濃い洋服を宛がう。 未来が「あなたたちはそれが似合うと思うのよ」とおっとりした顔で言い、遊馬が「これがいいな」と答え、俺はそんなふたりに挟まれている。そうしているとどうしても、「いいんじゃないか」という言葉しか出てこなくなって、それで、それで…… 「遊馬も零も黒いTシャツとか、よく着ているものね」 言い様のない感情がかけずり回って、這いずり回り、俺の視界を陰鬱に染め上げる。 俺は母上を忘れたいんだ。ああ、そうだ、母上のことを忘れてしまいたい。 だって母上をいつも想うってことは、きっと遊馬が言う未来に生きようとすることと違う。母上は喪われた過去の人であり、もう二度と俺の未来の中には現れない人で、俺の記憶の中にしかいなくて、大昔の話だから、墓も遺骨さえなくって、もしかしたら彼女は本当は存在しなかったかもしれないというそれほどのものなのだ。 それなのに彼女ときたら――九十九未来という女は、その一挙手一投足が母上を想起させて、勿論彼女にそんなつもりはないのだろう、過失のつもりなどないに違いない、だけどどうしても俺は母上の笑顔を忘れることが出来なくなってしまって、だから未来の笑顔は苦手だ。彼女に手を繋がれることも。彼女に名を呼ばれることでさえ。 彼女は俺の母ではない。 母上はもうとっくに死んでしまった。 わかりきっているのに、彼女に母上を重ねてしまう自分が嫌なのだ。 だってそれはまるで……母上への冒涜ではないか。 「零、どうしたの。そんな顔をして……お洋服、ちぎれてしまいそうよ」 ――そしてそれは同時に九十九未来への冒涜でさえあるのだ。 「なあ、おい真月、なんか……すっげえ顔してるけど、ほんとどうしたんだよ」 「うるせえ……お前には、関係ねえよ」 「いや、だって洋服買いに来ただけなのに、お前今にも殴りかかりそうな顔してるんだぜ。普通じゃないだろ」 「ほっとけ。俺が今殴りたいのは、別にお前じゃない」 自分自身だ。未来でも遊馬でもない。ことこの場合はナッシュでもなく、誰でもなく――殴りたいのは俺自身だった。 寄ってきた遊馬をにべもなく払いのけて、「今にも殴りかかりそうな」と遊馬が評した表情のままで未来を見た。こどもの身体はまだ小さく、未来を見上げる形になる。彼女は俺の人でも殺しそうな勢いの顔を見て、しかしやはり母上と同じ顔をしてそこに佇んでいる。 胸ぐらを掴み取りたくなる衝動を抑えて彼女の前に立った。九十九未来は、俺の手からハンガーに掛けられたままの店の商品を取り上げると遊馬に元のラックに戻してくるように言い、「困ったわね」と言う代わりに俺の肩を掴んだ。 「ごめんなさいね」 「……なんで、あんたが謝るんだよ」 「零が辛い顔をする理由が、私にあることを知っているからよ。あなたが何を嫌悪しているのか、何を怖がっているのか、なんとなく……伝わってくるから」 「わかったふうな……」 「勿論、あなたの全てを私は知らないわ。遊馬の全ても、知らないのと同じ。だけど家族だもの、まったく知らないなんていうこともないのよ」 家族、とやさしい声で口にして彼女は俺をその腕の中に掻き抱く。突然のことに驚いて、それを避けることは出来なかった。母親という生き物の温もりが俺の身体を包んで、おかしな感じがする。変だ。 もう何千年も昔に置き忘れてきたにおい。「なにするんだよ……」いっそ恨みがましいぐらいの声で問うと、はぐらかすようにもっと強く抱き締められる。 「だから私は、あなたに伝えたい言葉があるのよ。行きたい所へ行きなさい。過去へ帰りたいと言うのなら、私は少なくともそれを咎めたりはしないわ。遊馬がどうしたいかは、保証出来ないけれど。……だけれどね零、あなたが前へ歩こうと言うのなら、それもまた答えなのよ。私はあなたと遊馬を同じように愛するけれど、それは決してあなたが愛した人のことを忘れろというメッセージではないの。ただ、私もあなたのお母様と同じように、あなたを愛したいと願ったから」 「え……」 「約束したのよ」 九十九未来が微笑む。俺を抱いて、秘密の約束をするみたいに、小さな声で囁いて。 「だって私は母親ですから」 誰と約束をしたのか彼女は言わなかったが、その人が俺のよく知っている人で、俺の事を昔は世界で唯一気に掛けてくれた人なのかもしれないということを自ずから悟る。目を見開く俺を見る未来の悪戯っぽい表情は、今度は母上とはあまり似ていなくて、遊馬と同じそれだった。 ぶるぶるとかぶりを振り、彼女の手の内から逃れ、もう一度九十九未来の姿をまじまじと見つめる。言いつけを終えた遊馬が未来の隣に帰ってきて、実に不思議そうな顔で「なんで母ちゃんのことそんなにじろじろ見てるんだよ」と口を尖らせた。「べつに」と遊馬の手を取って未来の側から離れ、ふたりで服を選ぶ作業に戻って行く。遊馬はもう一度何かを俺に尋ねようとしたが、俺の表情を見て何故か安心したように溜め息を吐くともう何も言わずに俺にパーカーを差し出してきた。 最終的に二人で色違いのパーカーを買って貰い、家へと帰るその道すがらで俺は初めて九十九未来のことを「おかあさん」と呼んだ。小さな声で一度だけ、たった一度、もう二度と呼ぶつもりはない。その日その場限りの呼び名。だって俺を産んでくれた人はやっぱりどうしてもあのいなくなってしまったただ一人だけだし、九十九未来が産んだのも九十九明里と九十九遊馬であって、ベクターではないし、ましてや真月零でもないのだ。 ただ、そうだ、それはとても単純なことで、俺はもうとっくにその事実を遊馬に教えられていた。 家族になることに血のつながりは必要ないし、それは元の関係性を壊して塗りつぶさなければ果たせないようなものでもない。俺が面影を重ねて見たところで九十九未来が俺の母上になることはないし、その逆もやはりなくて、俺が母上のことを今でも愛していたって、それがイコールで過去に帰ろうとしているということにもならない。 「そういや、お前の母ちゃんはなんで俺の事を『零』って呼ぶんだろうな?」 「え、なんだよ急に」 「お前の親父もだが。確かに明里おねーさんと春ばあさんには真月零だって大昔に名乗ったけどよぉ、あの二人は俺の正体からベクターっつう名前から何まで、最初から知ってるわけだろ」 「あー、まあ、確かに……でもほら、お前もう学校には真月零で通ってるわけだしさ。特別、ベクターって呼んで貰いたいわけでもないみたいだし」 「そりゃ……そうだが」 「じゃ、いいんじゃないか。きっと母ちゃんと父ちゃんなりの気持ちの伝え方なんだよ」 「俺が自分でつけた日本人風の下の名前を、呼び捨てにすることが?」 「だってお前もう『真月零』って名前のこと、偽物とか仮初めの名前だって思ってないだろ?」 遊馬が俺の目をまっすぐに見て屈託のない表情で笑った。未来と同じ笑い方。母上と似ていると思ったのは、きっとそれが優しい顔だったからだ。 明日の学校の準備をしながら、今日は自分の意志で昔の記憶を手繰り寄せた。記憶の中で母上が、俺を抱きかかえながら……随分と昔のことだ……子守歌を歌い、俺に囁きかけてくれている。 『愛しているわ、ベクター……私の息子』 『ははうえ、わたしも、ははうえのことがだいすきです』 『ありがとう、あなたはとても優しい子ね』 名前を呼ぶということは、肯定なのだ、と思う。そこに自分がいるということの証明だ。少し前に、遊馬がやたらとベクターとしか呼ばなかったり、その次は逆に真月零としか呼ばなくなって少し拗ねていたことを思い出した。あれは遊馬の迷いで、そして俺のわがままで、俺は今は、遊馬にはベクターと真月零そのどちらも肯定されないと満足いかないようになってしまった、……のだろう。 どちらでも俺は俺なのだと高説垂れてくださった遊馬くんがその両方を肯定しないなどということを俺は許したくないわけだ。 「結局また色違いのパーカーか」 「いいじゃん。今度はアップリケとかそういうの、ついてないし……」 「まあな。精々神代センパイに盛大な舌打ちをしていただくとするか」 「喧嘩はしないでくれよ?」 遊馬が呆れたふうに首を振って、パーカーをタンスに仕舞うために畳んだ。 遊馬の指が俺のパーカーもつまみ上げて、勝手に畳んで二枚のパーカーを重ね合わせる。 灰色と水色の布地が重なってちょこんと正座している姿に、わけもなくおかしくなって密やかに笑う。俺の母は、この色はきっと選ばない。だが俺と遊馬で選んだから、俺はこの色を身に付けて街へ繰り出すだろう。これから先、何度もそうやって、俺は自らが作り出した母上の姿をしたくびきから解き放たれて生きていく。 さよなら俺のサンクチュアリ。 小さな箱庭の夢が終わったとしても、俺はもうとっくにずっと向こうの世界に続く道へ、手を引かれて歩き始めていた。 |