春騒ぎのありふれた日々に




 四月になって桜が咲き始めた頃、俺達はなんとかみんなで揃って一つ上の学年へ進級を果たした。年度末の成績発表で、俺とアリトの通知表に「進級:可」のはんこが押されているのを見たベクターが、大まじめに目を丸くして驚いていた姿が記憶に新しい。
 ミザエルとドルベの二人は中学校を卒業して高校に進学した。高等部は中等部と少し離れた所に敷地がある。行き来出来ないほどじゃないけれど、前みたいに頻繁に会うことはなくなるかもしれないな、とドルベが言っていた。
「アリト達も、随分制服が様になってきたわよね。と言っても、ドルベとミザエル以外はそんなに違和感もなかったんだけれど……」
「あーそっか、俺が初めて遊馬達に会った時も制服だったもんな」
「そう。ベクターなんかは、こっちの方がしっくりくるぐらいよ」
 始業式が終わって、早々に解放された俺達は今四人でぞろぞろ歩きながらハートランド・タワーへ向かっている。カイトの家だ。役員会議があるとか何とか言っていた璃緒達は少し遅くなるだろうけれど、後で来るだろう。だから今は四人。
 そこで俺はちらりと、さっきから黙りこくったまま一言も喋らない四人目に視線を投げかけた。いつもなら口やかましく会話に割って入ってくるはずのこいつが、何でだかは知らないけれどやけに静かなのだ。そのことに、会話を交わしている小鳥とアリトも少なからず違和感を覚えているようで時折俺とそいつの顔を交互に見てくる。俺は仕方なく、二人に向かって首を振って見せた。ダメ、返事、全然ないぜ。
「それで、今日の用事って一体なんなんだろうな?」
 アリトが空気を変えようとしてか、新しい話題を振ってくる。カイトに集団で呼び出されたはいいものの、実は俺達はその目的を一切知らされていないのだ。ただ、「いいから全員で放課後来い」とだけ伝えられていて、持ち物の通達とかもなかったし、そんなわけで身一つでタワーに向かって歩いているのである。
 頭の後ろで手を組みながら、アリトが「あいつの考えてること、難しくてよくわかんねえんだよなあ」とぼやいた。確かに。カイトは割といつもすごく難しいことを考えていて、俺は時々カイトの言葉が魔法の呪文を唱えているふうにしか聞こえないって時さえある。
「カイトのことだから、また何か突拍子もないことかも……。それか、アストラル界に関することじゃないかしら。全員集めるって、余程のことでしょう?」
「どうだろ。案外、みんなで集まってお花見しようぜとか、そういうのかもしれないし」
「まさかぁ……」
「トロンとかが言い出したのなら、有り得ると思うけどなあ」
 アークライト家の家長であり、相変わらず子供の身体のままのトロンはお祭りごとが好きで、少し変わった人だ。その息子達も何かと父には甘く、Xの弟子であるカイトが頭が上がらないまま謎の企画を通されていたことは、今までにも何回かあった。盆と正月とクリスマスが一気に押し寄せてきたかのような謎忘年会とか、新春カラオケ雪合戦餅つき大会とか、突然のデュエル・アスレチック大会とか。多分あの一家は地元に住んでいた頃も目的が暴走したパーティを開いていたのに違いない。
「や、でも俺はアストラル界に関係することだと思うぜ」
 アリトが後ろ手を組んだまま小鳥の考えを支持する。俺としては、まあそれはどっちでもいいというか、なんだって構わなかったので、「ま、行ってみればわかるよな」と答えを返して、どうしたもんかと首を傾げながら、唇を頑として開こうとしないやつにまたちらちらと視線を送るのだった。


◇◆◇◆◇


「なんだ。お前達にしては早かったではないか」
「えっ、俺達なんでミザエルにケチつけられてんの?」
 集合場所で腕組みをして待っていたミザエルの尊大な態度にアリトが素で首を傾げる。何かを言いかけたドルベを牽制して凌牙はまだか、と俺に向かって尋ねてきて、はずみで視界にその姿が入ったのか、ミザエルがぎょっとした顔つきになった。
「シャークは、多分妹シャーク待ってるから遅いと思う。ギラグも。……で、そんな顔してる理由ってやっぱ……」
「決まっているだろう。なんだその、隣の気持ち悪い物体は」
「酷い言い様ね……」
「ここまで言われて文句の一つも言い返してこない辺り更に気持ち悪いぞ。フォーマットの初期化でもされたのかこいつは」
「なに? マシンナーズ・フォートレス?」
 カイトと色々やるようになってから難しい言葉をよく使うようになったミザエルが、しまったという表情をして「ちがう」と訂正を入れてくる。「端的に言えば、頭でもおかしくなったのかと私は訊いているのだ」とかぶりを振り、つかつかと歩み寄ってきて突然デコピンをかます。
「?! み、ミザエル何してんだよ!!」
「そうだぞミザエル、暴力はよくない」
「いやこの程度で暴力にカウントして貰っては困る。親愛の表現だ」
「目が全然笑ってねえけど」
 しかしこんな状況になっても、あいつは一切返事をしなくて、「なんだよ」も「痛ェんだけど」も言わないし、面一つあげようとしない。そのまましばらくみんな黙りを決め込んでいたのだが、ややあってからミザエルが眉間に皺を寄せ「本格的に病気なのではないか?」とドルベに振り返ったところで、ようやく反応があった。
「……なんなんですか。用があるんなら、そんなところで高みの見物を決めたりなんかしてないで、直接こっちに来てくださいよ……」
「べ……ええと、真月?」
「ええ、ええ、遊馬くんに言ってるわけじゃないですよ僕にデコピンしてくださったロン毛のことも今は別にいいです。僕がずーっと不機嫌だった元凶のひとに言ってるだけです。あなたわかってるんでしょう、なんとか言ったらどうなんですか」
「や、っていうかそっちには誰も……」
「アストラル」
 その一言で、今度は水を打ったように張り詰めた静寂があたりを支配した。
 ベクター――真月零と、今はどちらの名前で呼んでいいのか、少し迷う――が口調だけはあの真月のもので、けれど声と目の鋭さは全然愛嬌を振りまく気も作り笑いもない冷めた調子で言い放った言葉の先で、何かが揺らめいた。はじめ俺は空気が揺れたように感じたのだけれど、どうもそうではなかったらしい。
 その場所から、今までとうめいな大気に溶けていたガラスに色が付くようにして、見慣れた姿が現れ出てくる。少し前までは、いつも俺の側にいたやつだ。アストラル。でももう今はアストラル世界に帰ってしまった。
 そのはずだ。
『相変わらずだな。きみが一番目敏く、敏感だ。神経過敏と言い換えてもいいほどに。参考までに訊いておきたいのだが、何故わかったんだ? 私がここにいることは、まだカイトとクリストファーしか知らないはずだ』
「勘だよ、勘。いやな感じがたから。それだけ」
『きみはよほど私のことが嫌いなようだな』
「べつに。なんだっていいだろ」
 取り繕っていた真月の口調もどこかに転がっていって、元のぶっきらぼうな言葉遣いで険悪な雰囲気を醸し出しながらベクターがアストラルを睨んでいる。俺は二人の会話の意味をうまくくみ取れなくて、ベクターの腕を掴んで目線で訴えかけてみたがふいと顔を横に逸らされてしまった。
『久しぶりだな、遊馬』
「おう久しぶりアストラル……って、なんでこっちにいるんだ? 滅多なことじゃ、戻って来れないとかじゃ……』
『今はドン・サウザンドが大人しいぶん私の仕事も少なくてね。休暇を貰ったのだ。というのもアークライトの方が、また何か面白いことをするというので私もそれを見ておこうと思って』
「あ、やっぱまたトロンが何か言い出したんだ?」
『それで来てみれば、これは予想外の事態だ。私としては、不本意だな。何もしていないのに』
 アストラルが肩を竦めて言った。
 ベクターは相変わらず敵に威嚇をする動物みたいな態度で俺の隣からアストラルを見続けている。ぴりぴりした空気が辛くて、助けを求めるように小鳥たちの方を振り返った。アリトがお手上げのポーズを取っている。ベクターの問題には、首を突っ込みたくない、という意思表示だ。
「なあ、ベクター、なんでそんな怒ってるのか、知らねえけどさ……」
「怒ってるとか、そういうんじゃない」
「じゃあなんなんだよ!」
 むすっとして不機嫌極まりないベクターに恐る恐る話し掛けてみると、ベクターは急に俺の腰にぐいと手を回してきて、そしてこともあろうか、
「こういうことだよ」
 俺の顔に自分の顔を近づけてきて、それで――
 部屋中が阿鼻叫喚の渦の中に叩き込まれた。


◇◆◇◆◇


 その時運悪く部屋に入ってきてしまったシャークを取り押さえるのに璃緒とギラグが横から手を出し、ドルベとミザエル、それからアリトが入り口の方へ飛んでいって頭から覆い被さるようにして重なっていった。スローモーションのように視界に映ったその行程は実際はほんの一瞬のもので、たぶん三秒も掛からなかったと思う。俺のそばには小鳥とアストラル、それから密着したままのベクターだけが残っていた。
 入り口の方からうまく日本語になっていない怒声が響いてくる。シャークは相当にお冠みたいだ。間違いなく元凶であるはずのベクターは素知らぬ顔で俺にぴとりとくっついて、シャークの方めがけて子供みたいにあっかんべーをした。
「なあ、ベクター! どうすんだよ、シャークすげえことになってるぞ。俺は別にもういいんだけどさ、これじゃ、カイトが後で困るって」
『いや遊馬、きみも怒るところだろう、ここは』
「真月はもっと滅茶苦茶に色々やってくるやつだったから、今更っていうか……」
『すまない遊馬。私の表情筋がそろそろ限界に至りそうだ』
 騒乱が収まらぬまま、開きっぱなしだった扉の向こうからまた人がやって来て、シャークの上に覆い被さって人間ピラミッドみたいになっている一山をぎょっとして見、彼らは次々に視線をこちらに移して溜め息を吐いた。カイトとV、W、それからX。この集まりの言い出しっぺであるだろうトロンの姿だけまだない。
 この短い時間で何が起こったのかを察したVが、やれやれとあからさまな息を吐いて俺とベクターをじろりと見た。目が笑っていない。それから彼はアストラルににこりと微笑みかけると、「やあ、なんだか酷い有様ですね」と言葉だけは穏やかにわざとらしく首を傾げた。
「凌牙がああなってるところを見るに、原因は彼ですかね? もうここまで来ると修羅場を通り越して滑稽ですね。ねえ兄様……兄様、無理ですよ。あの山から凌牙を引きずり出すのは絶対得策じゃないです。え? 大丈夫ですよあのひとしぶといから潰れたりなんかしませんって」
『V。私にはどうにもベクターの意図が掴めないのだが、きみのその反応、何かわかるというのか?』
「ええ、まあ。簡単な話ですよ。嫉妬です嫉妬。ウイスキーボンボンを間違って食べちゃった子供のような、そういう。だってアストラルが来ると、遊馬をもってかれちゃうもの。それに関してだけは僕も同意出来るかな。だからって、許していいこととそうでないことの区別ぐらいは弁えてるつもりですけどね」
 Vの手がベクターの腕をガッと掴み取り、俺からベクターを引きはがそうとする。でもベクターの方もてこでも動こうとしないので、Vは割とあっさりその試みを諦めてアストラルに何かを耳打ちした。
 アストラルの顔色が変わる。同時に、人間ピラミッドが上の方向に持ち上がって瓦解し、五人が部屋中に飛び散った。中から現れたシャークがここで会ったが百年みたいな形相でこっちに襲いかかってきて、それを止めようと間に入ったWが六人目の犠牲者となって宙を舞う。
「春ってみんな、浮かれてますよねえ」
 ねえ、そこのきみもね。Vの表情はどこか達観しているふうでもある。俺にしがみついているままのベクターの態度は、まるで親の背中に隠れている子供みたいだ。カイトが呆れて仕方ないっていう声で、「まったく見苦しいことこの上ないな」とぼやいて何かのスイッチを入れた。展開されるホログラフィックみたいな謎の壁。シャークの身体がそれに勢いよくぶち当たり、バウンドして、舞い上がる。これで七人目だ。
「私いやよ……こんならんちき騒ぎみたいな春なんて……」
「僕達、年がら年中こんな感じのような気もしますけど」
『さて……ベクター、Vから聞いたところによると、私はきみと一度しっかり話をしないといけないようだ。先の遊馬の唇を奪った件、問いつめるべきことがまさかこれほどあろうとは』
「余り五月蠅くするならよそでやってほしいものだな。アストラルもだ。まったく、来てみれば……これは何の騒ぎだ?」
 屍の山のように積み上がったシャーク達を一瞥してカイトが顔に濃い翳りが差しはじめたアストラルを牽制する。でも静寂はそう長く続かない。すぐ後からトロンが部屋の中へ飛び込んで来て、彼の長子であるXに思い切り飛びつくと上機嫌で辺りを見回した。
 カイトが彼の姿を認めて深く溜め息を吐く。事態の収拾が不可能に近付いたことを悟ったのだ。
「やっほー子供達、元気してるかい? 今日はね、みんなでお花見しようと思って人を集めたんだけど……ごめんクリストファー、これ、何?」
「いえ父様、私に聞かれましても」
「スプリングフェスティバルの一種だと思います」
「ミハエル、適当に嘘を吐くのはやめなさい。父様はそういうのを簡単に鵜呑みにして便乗する……ああほら、いわんこっちゃない」
 トロンがXの背中から飛び離れて、人がわちゃわちゃしている方に自分から突っ込んで行く。「花見とはもっと静閑なものではなかったのか」と嘆くカイトの背中をXがなだめていた。アストラルも調子を削がれたのか、注目がすっかりベクターからトロンに移ってしまっている。
「結局、なんだったのかしら……ベクターのその……嫉妬? って。アストラルが来るってだけで? あなた本当にそんな理由でなの?」
「や、俺、わかんないけど」
「そりゃ、遊馬に訊いてるわけじゃないもの。でもだめそうね、答える気なんか全然なさそう」
 小鳥が、どうしたものかと俺とベクターを交互に見遣ってそれから少し距離を詰めて俺の方へ寄ってきた。「手のかかるわがまま猫みたいよね」と小声で零している。混迷を極めようとしていた人だかりがそろそろ大乱闘へ移行しようとしていたが、勿論カイトもクリストファーも、ミハエルも止めに行こうとはしない。
 それで仕方ないから俺が止めに入ろうかと思うと、ベクターに袖を引かれてしまってここから動けない。困って後ろを向き、ベクターの顔を見た。俺にひっついたベクターは、昔真月が「遊馬くんで充電したいです」って言ってきた時のような……そう、確かご満悦そうだとか、そういう感じの表情をしている。
 それに俺はなんだか拍子抜けしてしまって――でもそういえば、最近は二人きりでいることはそんなになくて、ベクターもあまりよかれと思ってべたべたしてきたりはしなかった、というか出来る状況でもなかったように思う――脱力してしまう。すごく簡単な幸せを見つけた時のような、そんなささやかな気分だ。
「……後でタンポポの綿毛飛ばしに行こうかなあ」
「どうしたの? なんでまた、そんな急に」
「いや、なんか……そういう感じの気分になったんだ。ベクターも。アストラルも小鳥もVも、カイトも、シャークも……みんなでだけど。みんなでだよ。そんな不満そうな顔するなって。それでさ……」
 声に出さないまま嫌そうな顔で無言の抗議をしてきたベクターの顔に自分から口を寄せて(もちろん、それを俺からこの場でくっつけたりはしないけれど)ひそひそと耳打ちをする。「しかたねえな」という小さな妥協の言葉がすぐに返ってきて、俺からベクターの手が離れていった。「何の約束?」小鳥が目敏く訊いてくる。でも内緒だ。これは今晩家に帰ったあとの、俺とベクターと二人での秘密の話だからだ。
「小鳥さんでも、ちょっと教えられないですね」
 俺の代わりに上機嫌になったベクターが答える。小鳥は急に機嫌が良くなったベクターを見て、「いつものことだけどあなたって変よね」と不思議そうな顔をした。