夕暮れ時のずるいきみ




「うわ、遊矢くん何その点数」
「ひっ……人のテストの点数覗くなよ!!」
 舞網第二中の中庭に設置してあるベンチに腰掛けていた遊矢の真後ろからそんな不躾な声が降ってきたのは、数学の全クラス一斉小テストが返された後の放課後のことだった。ばっちり赤点を引いた遊矢の答案用紙に、隣に座っている柚子がどうしたものかと溜め息を吐いていたら不意に第三者の声がして、振り返ってみたらこれだ。
 答案用紙を遊矢の手の中から奪い取り、しげしげと眺めるとそいつ――沢渡シンゴは、なんだか憐れむような目つきで遊矢をじっと見、一人で頷くと「遊矢くん数学苦手なんだね」と言った。反射的にシンゴの手から答案用紙を奪い返す。堂々と赤文字で記された「24点」の字を無意味だとわかりつつも必死で隠した。シンゴにテストの点数で笑われるなんて、これはもう酷い屈辱だ。
「もうすぐ定期試験なのに、こんな調子で大丈夫なの? 座布団付いたら、高校の進学に響くんじゃない」
「うるさいな。沢渡には関係ないだろ。だいいち、偉そうなこと言ってるけどそういう沢渡は……」
「別にこのぐらいの範囲なら、普通に満点取れるでしょ」
「うっ……嘘だ?!」
「嘘じゃないって」
 馴れ馴れしく絡んでくるシンゴにそう聞き返すと、思いもよらぬ答えが返ってきて狼狽する。そんなまさか、ブロック・スパイダーをクズカードとか言うやつが小テスト満点だなんて、あっていいのだろうか? しかしシンゴがカバンから取り出した小テストには確かに「沢渡シンゴ」と意外に几帳面な字で名前が書かれてあり、その隣には「100点」の文字が躍っている。途中式も結果も全部丸がついていて、遊矢の点数の約四倍を彼が取得しているのは紛れもない事実なのだった。
 86点だった柚子も、シンゴの点数を見て驚いている様子だ。確かに今回の小テストは、範囲もさほど広くなかったので満点の生徒も少なくはなかったらしいが、それでも学年で十人と少しぐらいだったと数学科の教師はそう言っていた。
「そういえば前年度の学年末テスト、沢渡はトップ10の中に入ってたかしら……」
「おやよく覚えてるねお嬢さん。あれは確か七位ぐらいだったよ。本当はもう少し上を狙ってたんだけど、文系が足を引っ張って総合だとあまりいいとこ取れなくて」
「お、俺だって数学は下から数えて七番だったよ!!」
「遊矢、それ何の自慢にもなってないわよ?」
「遊矢くん……試験前に勉強見てあげようか……?」
「柚子も沢渡もそんな顔して俺を見ないで?!」
 答案を突っ込んだ自分のカバンで顔を隠して、二人から急いで目を逸らした。二人の思いやるような視線が辛い。ずきずき突き刺さって、痛い。
 柚子の手が遊矢の顔からカバンを引き剥がして、にわかに赤く染まった遊矢の顔をまた大気に晒し出す。シンゴの顔は意外な事に遊矢を馬鹿にしているふうではなくて、純粋に「大丈夫かな……」と思っているという顔だった。思いがけないことに目をぱちぱちさせていると柚子が口を開く。
「でも、勉強見て貰うのは悪くないんじゃないかしら。私もあんまり遊矢の面倒ばっかり見てられるわけじゃないし……もうちょっと総合順位上げたいから。せっかくやってくれるって向こうから言ってくれたんだからそうして貰えばいいじゃない」
「というか、この小テスト、またすぐに直しの提出と再試があるやつだろ。遊矢くんの予定が空いてれば今からでもいいよ」
「ですって。丁度いいんじゃない?」
「ちょっと待って、何で俺の意思を無視して話進めてるの」
「だって遊矢、このままじゃ本当にあとで困るわよ。学年トップの人がただで勉強教えてくれるなんて滅多にないじゃない。沢渡なら、まあ面倒もないだろうし……今日の塾のことなら私からお父さんに話を付けておくから」
「そうだよ遊矢くん、学生の本分は何と言っても勉学だ。デュエルも大事だけど勉強も大事だろ。それじゃ、行こうか」
 渋りに渋る遊矢をよそに二人はすっかりその気になってしまっている。柚子がこうなってしまうと、もう今からなんとかシンゴを撒いて塾へ行ったとしても修造がデュエルをやらせてくれなさそうだ。遊矢のテストの点数がいかに悪かったかが洋子と修造、ついでにアユ達や素良に知れ渡るのも時間の問題。
 逃げ場はない。シンゴの様子を伺う限りでは本人はまったくその気はなさそうだけど、完全にはめられている。
「行くって……どこに……」
 遊矢がカバンを両手で抱え、警戒心丸出しで僅かに震えているとシンゴが「時間がもったいないよ」とか言って遊矢の腕をやんわりと掴む。うまく振り払えなくて身体の向きを僅かにずらすと、柚子が隣から強引にそれを直してきた。彼女に慈悲はない。
「どこって、俺の家だよ」
 なんにも、これっぽっちも、意識なんかしてなさそうな顔でシンゴが言った。
 どうしてだろう。もう一度考えてみたけれど、やはり逃げ場はなかった。


◇◆◇◆◇


 手を引かれるままに知らない道を歩かされて、そうして知らないやたらに広い家に案内された。そういえば沢渡シンゴの父――あのはた迷惑な親ばか親父――は、この舞網市の次期市長で、なんだかよくわからないけど偉くてお金持ちなのだったか。
 家の中に入ると、メイド服を着た女性が「お帰りなさいませシンゴお坊ちゃま。そちらの方はお友達ですか」と二人を引き留める。かちんこちんに固まっている遊矢をよそにシンゴは慣れた様子で「そう。夕食前には帰す。あとでお茶持ってきて、ご苦労様」と事務的に応対をこなし、そうして彼は立ち尽くした遊矢をその場から引き離した。
「えっ、あれ、なに、なんなの」
「うちの使用人だよ。確かに珍しいかもしれないけど、あんなにガチガチに固まってガン見されたら仕事にならないでしょ」
「いや……っていうか、なんで俺沢渡の家に連れて来られなきゃいけないの?!」
「参考書とか家に帰らないと足りないし。それから図書館とかに行くと時間が勿体ない……と思……って…………」
 広々として清潔に保たれた廊下のカーペットの上を渡されたスリッパで歩き、「SHINGO」と書かれたプレートが下がった部屋に通され、部屋の中に転がっていたふかふかのクッションに崩れ落ちるように座り込んだ。遊矢の部屋の二倍ぐらい広そうで、そして雑然としつつもそれなりに整頓された部屋。壁際の書棚に、参考書や問題集、CD、漫画なんかが棚ごとに別れて仕舞われている。
 荷物をベッドに降ろして遊矢と向き合ったシンゴが、急に問いただされて理由を話す中でしどろもどろになっていき、そのうち思い出したように顔を赤らめて押し黙ってしまう。遊矢が「なんだよ……」とじっとりした眼差しを向けるとシンゴはさっと顔を逸らし、しかし意味がないと判断したのかそれとも観念したのか、赤く染まった顔のままでぼそぼそと口を開いた。
「あっ……その……べ、別に勉強見てあげようと思った以上の、その、他意はなかった……ないっていうか。み、密室にふたりっきりとかそういうのは全然、」
「え、何言ってるの……」
「あー、もう、だいたい使用人が家中あちこちにいて、しかもお茶まで頼んだんだから、べっ……勉強、するよ?! わかった?!」
「えっ、あっ、うん! よろしくお願いします!!」
 どんどん語尾が上がっていって目をぐるぐるさせながらそう言うので、遊矢も気迫に押されて礼を返してしまう。シンゴの手が慌てたように遊矢のカバンに伸びて、中から数学のノートを取り出した。
 シンゴの気がノートに向いて多少気がゆるみ、今一度部屋を見渡す。思えば友達の――シンゴを友達というカテゴリに括っていいのかはさておき――部屋に通されたのなんて、今まで権現坂にそうされた以外には経験がないことだ。その権現坂でさえ、道場にはよく行くけれど彼の私室には数えるほどしか上がったことがない。なんだか新鮮だった。
 そんなことを思ってふと横顔を覗き込むと、遊矢のノートに集中し、中身をぱらぱらとめくっていたシンゴの表情ががページを進めるごとに青ざめていくのが目に入った。しまった、と思ったが既に遅い。
「遊矢くん」
 ノートを机の上に置いたシンゴの声は遊矢が今日聞いたどの声よりも冷え切っていた。
「板書、全然取れてないじゃん。授業ちゃんと聞いてないでしょ」
 まるでそれは、敗者を見下ろす勝者の口ぶりのように冷たい。「柿本でもこんなに酷くないよ」と愚痴をこぼし、シンゴはわざとらしい溜め息を吐いて見せる。遊矢と二人きりだという事実は、どうやらノートを見た衝撃で彼の頭の中から抜け落ちてしまったらしい。
「えっと……それは……」
「むしろこんな理解度でよく24点も取れたよね。はー、まったく、仕方ないな……」
 常なら鼻につく態度も、確実に自分が悪いと分かっている状態だとまったく何も言い返せない。書棚の方へ立ち上がって歩いて行き、シンゴが参考書と問題集を何冊か抜き出してテーブルの上に山積みにした。
「じゃ、とりあえず98ページから始めるから。教科書開いて。参考書はそっちの186ページ……そうそれ、付箋貼ってあるとこ。時間ないから、絶対寝ないでよ。まったくこれじゃ、今日だけじゃ遊矢くんの数学はどうにもならないかもしれないなー……」
「そ、それって……」
「別に嫌なら今日だけでいいよ。教えるのだって楽じゃないし。でもさあ、俺を一度でも負かした遊矢くんがそれじゃ、俺が格好つかないんだよ。せめて赤点は回避出来るようになって貰えないかなってのが今んとこの考えかな。っていうか、数学で24点取るぐらい計算苦手なやつにもう一度デュエルで負ける気はぜーんぜんしないね」
「は、はあ?! なんで沢渡にそんなこと言われなくちゃいけないの?!」
「悔しかったらせめて次の再試でまともな点数取ってね。何しろこの俺が教えるんだから、70点は取ってもらわないと」
 ぐうの音も出ない。カラーペンを握ったシンゴの手が、くるりとペンを回転させてペンの尻で教科書のリード文をつついた。一次関数についての、図となんだかよくわからない解説がつらつらと並べられているそれをシンゴが読み上げていく。
 合間合間で彼は教科書にはない説明を挟んで、更にそれを勝手に遊矢の教科書に書き足していく。自分の名前以外の字も、やっぱり結構綺麗に書くんだなとそんなことを考えていると、「ぼんやりしてると何も身にならないけど」と目敏い声が遊矢の耳の中に滑り込んできた。


◇◆◇◆◇


「それで、問八の答えは」
「y=3xー1……かな?」
「はい、正解。じゃ、今日はここまでにしようかな」
「や……やったー!」
 すっかり日も沈み始め、窓の外では夕焼けを背景に鳥が鳴いている。数時間で驚くほど書き込みが増えたノートと教科書を畳んで遊矢に渡し、両手を伸ばして喜ぶ遊矢の隣でシンゴも一息を吐いた。
 参考書類を一度下げて、入れ代わりに使用人が置いて行った二人分の紅茶とケーキを机に上げる。だいぶ時間が掛かってしまったせいで紅茶は少しぬるくなっていたが、そのことでもし遊矢が文句を言ったとしても自業自得だ。
「その参考書、簡単すぎて俺はもうあんまり使ってないから必要ならあげるよ」
「あ、本当? それじゃ有り難く貰っておこうかな……でもまあ、そのうち返すよ……たぶん」
「別にいいけど」
「なんか沢渡に借り作っとくの、やなんだ。……教えてくれたのは有り難いけど、でもデュエルでは手とか絶対抜かないから」
「手加減された遊矢くんに勝っても俺のリベンジにならないから別にいいよ」
 肩を竦めて首を振ると、なんでだか遊矢はくすりと笑った。
 得意科目だということもあり、シンゴは人に数学を教えるのは割合得意な方だった。揃って文系寄りの取り巻き達がしょっちゅうシンゴに教えを請うて泣きついてくるのもあり、教え慣れもしている。しかしそれを差し引いても遊矢は本当に数学が苦手みたいで、基礎から教えるのにシンゴの想像より大分手間取ってしまった。おかげで全然何も意識する余裕などなく、今までシンゴの気持ちはかなり落ち着いていた。
 それが遊矢の微笑みで少し崩れるが、あくまで平静を装って、ケーキを遊矢の方へ押し出す。
「……それ食べたら、道分かるとこまで送るよ」
「サンキュー。この辺全然知らないところだからさ、助かるよ。それにしても沢渡に数学教わるとは思ってもみなかったな。なんか……意外かも」
「まあ……数学教えるのは、結構得意なんだ。この範囲ならこの前柿本にも大伴にも、山部にも聞かれたところだし……」
「あいつらにも教えてるの?」
「そーだよ。べ、別に遊矢くんだけ特別だとかそういうんじゃ……ないから。ただ、困るんだよね、俺が目を付けたやつがそんなことも出来ないと!」
「あはは、なにそれ。変なの」
 ショートケーキにフォークを刺して、遊矢が笑う。遊矢はシンゴのお気に入りの店の一番人気のそれを口に含んで、なんだか幸せそうな顔をして紅茶をすすっていた。あんまりシンゴが見たことのない顔だ。
 そりゃ、あんな出会い方をして、接点も普段はそんなにないし……当たり前のことなのかもしれないけど。
「沢渡はさ……なんで勉強、してるの」
 紅茶のカップを降ろした遊矢が思い出したように言う。意外な質問に思考がはっと引き戻されて、自身のケーキを食べる手が止まった。遊矢の顔色に含みはない。単純に気に掛かっただけらしい。
「別に勉強とかすごく好きそうなタイプには見えなかったけど」
「それは……一応、パパの期待には応えたいからさ。パパ、忙しくてあんまり一緒にはいられないけど……俺に期待してくれてるの、わかるんだ。だから出来ることで少しずつ応えていかないと……って」
「ふーん……」
 また紅茶に口を付けながら、遊矢がこてんと首を傾げる。すぐ近くで見せられたその仕草にどきりとして、シンゴは自分の紅茶を吹き出しそうになってしまった。なんとかそれは堪えたものの――そうでなければ遊矢の顔に思い切り紅茶をぶちまけていたに違いないからだ――相当怪しい動きをしてしまい、遊矢が今度は声を上げて笑い始める。「ごめんって」とやけくそ気味に言い放つが、あまり意味はないみたいだった。
「沢渡って、やっぱ変なやつ」
「変?! そんな……確かに今ちょっと変な顔してたかもしれないけど、全体的には遊矢くんの方が十分変人だろ?! 親の期待に応えたいって別に普通のことじゃないか!」
「いや……そうなんだけど、なんかさ。うん。変なやつだ。大体俺のテストの心配してくれるやつってだけで、変だよ。今までそんなの、柚子と権現坂ぐらいだったから」
「……遊矢くん」
「友達の部屋か……」
 「友達の部屋」、と呟いて遊矢はそれ以上もう何も喋らなくなってしまった。シンゴもケーキを食べるのと遊矢から目を離さないようにすることで必死で、お互い無言のまましばらくを過ごすことになったけれど不思議と居心地はさほど悪くない。
 夕陽が窓の向こうで落ち沈んでいく。もうすぐ夜だ。完全に暗くなる前に遊矢を返すつもりだったけれど、それはもう難しいかもしれなかった。でも遊矢が帰りたがっていたりするわけじゃないから、きっとそれでもいいんだろう。
「明日の再試はちゃんと点数取ってよ」
 ケーキ皿が二人分、空っぽになる頃合いを見計らってそう声を掛けた。遊矢がにやりと笑う。それはどうかなって言いながら、カードを繰る時の顔に似ている。
「うん。やるだけやるよ。でも、ダメだったらまた勉強教えてよ」
「試験を受ける前からそんなこと言っちゃダメだろ」
「そうだね。せっかく沢渡が教えてくれたんだもんな?」
 ……かと思えば、今度は罠カードによる追加攻撃だ。今度こそシンゴは完全に言い逃れが出来ないぐらいに顔を染め上げてしまって、思わず両手で顔を覆いながら床に崩れ落ちる。「沢渡?」遊矢の不審がる声。「どうしたんだよ。お腹でも痛いとか?」
 ――次に、遊矢に勉強を教えることがあったとして。
 ケーキが食べられなくても、お茶が飲めなくっても、時間があんまりなくっても……今度は図書館でやろう。シンゴは赤い顔を隠すために蹲りながら胸中でそう誓った。遊矢はどうも、柿本や山部や大伴とは勝手が違う。頭の中でくすぶった何かに蓋をして悶々と唸っていると、遊矢の困った声が降ってきてそれはそれで心臓に悪い。
 恐る恐る顔を上げると、シンゴの落ち着かない動きに怪訝な表情をしている遊矢の姿が目に入る。シンゴが見慣れている遊矢の顔だ。それを見ているとなんだかくすぶっていたものが晴れていくようで、「別に、大丈夫だよ」と返してのろのろと起き上がったのだった。