優しさは残酷さの中にあり 年の瀬が近付いてきていた。リビングにはこたつが出され、家の住人達が丸まって溜まり場みたいにしている。台所から湯飲みを運んでくる少女がその様に、「猫なんか一匹も飼ってないのに……」と少しだけ呆れたふうに溜め息を吐いてこたつに引き寄せられている面々を見遣った。 「でも、ベクターなんかは猫と変わらないかもね」 「なんでだよ」 「猫は家に懐くっていうから。あなたは遊馬がいるところに懐いてる感じがするわ」 「……べつに……」 何気なくそんな言葉を投げかけると、ワンテンポ遅れて所在なさげにベクターの視線が携帯ゲーム機に帰って行く。カチャカチャと指を動かす彼の隣では、遊馬が目を閉じて眠りこけていた。大方、ゲームで詰まってしまってベクターにその箇所クリアを放り投げ、見届けることなく寝落ちてしまったのだろう。「起こさないの」と小鳥が聞けば彼は「寝かしとけよ」なんて言う。優しい。今は特に苛立つようなこともないから、彼は遊馬に対してとみに優しかった。 (きっと)好きでもないようなアクション・ゲームを人の代わりにプレイしてギミックを解き進めているのであろう横顔は、疑うことなく少年のそれだ。どこにでもいる中学生の顔。目的も意味も見出せないままぼうっとプログラムに興じている。その様に、不意に『進路、決まってないんだって』数日前に遊馬が言っていた言葉が小鳥の中で蘇った。『はっきりしてないのは、そりゃ俺もおんなじなんだけど』。 『進路? ああ、あの……そっか。進路調査、この前やったものね』 『そう。行きたい高校とか、将来の夢みたいなのとかさ……俺は、冒険家になりたいかなってちょっと思うんだ。父ちゃんみたいな。右京先生に『冒険家になるためにはどういう技術が必要でどのような学問を修めるべきなのか考えてみたかい?』って言われちゃったけど。それで、そん時……真月のことも聞かれたんだよなあ』 『……なんて?』 『『彼の将来に対する展望だとか、何か知っていますか』って。……白紙だったんだって、あいつの進路調査票。進学希望もなりたい職業も、好きなことも嫌いなことも、なにもかも』 白紙の進路調査票が目に浮かぶようだった。 名前欄のところに、几帳面な字で学籍番号と名前だけが記されて、あとは迷ったような消し跡さえなくまっさらなのだ。まるで最初から何も書く気がなかったみたな……何も書くことが出来なかったかのような、綺麗な白い空欄達。 そこに至るまでの葛藤がわかる、と小鳥が言ったら彼はきっと怒るだろう。「おまえに俺の何がわかる」と。でも推し量ることは小鳥にも出来た。むしろベクター以外の「彼ら」が、そうやって特に思い悩んだりせず進路希望をきっちりと埋めて提出していることの方が不思議だとさえ思っていたからだ。 あの日以来、ベクターは人間になった。人外の肉体を棄てさせられ、身体はすっかりと十三歳の少年のそれになった。遊馬と色々話した後からは学校にも通っている。彼は今十三歳の少年として九十九家で寝起きし、ありふれた中学生がそうするような生活を送っている。 でも心は十三歳のそれじゃないのだ。長い間異世界人として生きた記憶、それよりもっと前の虐殺の皇子として生きていた記憶。今の彼の状態は、長い長い生涯の記録を全部胸に抱えてそれでもなお、十三歳として振る舞って生きることを求められている――とも、言うことが出来る。 どんな気持ちなのだろう。湯飲みをこたつの上に並べながらちらちらと顔色を伺ったけれど、尋ねる気分にはなれなかった。携帯ゲーム機から主人公の残機が減る音がして、彼が舌打ちをする。ベクターは別にアクション・ゲームはヘタクソじゃないけれど、それでも遊馬と比べて劇的に上手なわけでもない。どっこいどっこいだ。それなのに何故遊馬の代わりにゲームをプレイしているのか。 それを少し考えて、でもやはり胸に秘めたままこたつに足を入れた。 ◇◆◇◆◇ 進路希望調査票とかそういう七面倒くさいもんがそういやあったなと思い至ったのは、それがクラス中に配られて今から四十分時間を取るからよく考えて記入するようにと担任が読み上げたあとになってからだった。ずらずらと無遠慮に並べられた質問と回答欄を眺めながら、もうすっかりいやな気分になって俺はシャープペンシルを筆箱に仕舞い込んだ。 クラスメート達がカリカリと画一的な音を立てながら記入を進めていく中で、ぼんやりと調査票に目を滑らせる。自分の適正なんかわからないし、将来の夢みたいなのも全然なく、書きたいこと、書いてよさそうなことが一つも思い浮かばない。だってそうだろう――趣味の欄に、反抗的な人間や気に入らない奴をぶち殺すこと、なんて、書くわけにいくか? そういうあれだ。 或いはネチネチとむかつきポイントを集計して一億ポイント達成したらやはり殺してやるとでも? 馬鹿げている。そんなものを書いたら一発で病院送りだ。それでもって、某かのレッテルを貼られるのだ。 快楽殺人者だった過去だとか、そういったものを諸々全て抱えたままひょいと身体だけ人間にされたことを、「受け入れて生きていく」と決めたあとでもやはり恨みがましく思うことはあった。いっそ全て無くしてきれいなきれいな真月零としてでも再生された方が悩みもなくて楽だったんじゃないかと思うときさえある。だがアストラルがそんなことをするとは到底思えなかった。あのアストラル界の使者は、俺が知る限りそういうところでこそ底意地の悪さを発揮できる奴だ。 意味のないことは奴はしない。俺をこの条件下で生かしたことこそが、アストラルが俺に与えた最後で最大の意趣返しなのだろう。 将来の夢。なりたい職業。からごとのようにそれらの単語が頭の中を通り抜けて、意味を持たないがらくたに解体されていく。俺は確かに蘇った。十三歳の人間として九十九遊馬のそばで生きる自由さえ手に入れた。この時代の人間として生きるからには、ある程度現代社会の理に従っていかなければならない――とは、ドルベの弁だったか。 けれども。 こんな思いを引きずってまで俺は本当に生きたかったのか。 それなら別に幽霊だって良かったんじゃあないか。 (俺は……) 遊馬に生きようと言われた。だから、生きてもいいかなと思った。その隣に居場所をあいつが作っていたから、まあいいかな、と。 けれどいざやってみると、生きることにはしがらみが多すぎる。しかもだ、自分が犯した罪はなくならないから、俺はそれを抱えて生きなければならない。何故生きてるんだろう? と思うのだ。朝起きて……学校に通って……その上、将来の夢を語らされて? (未来なんてなかったはずなのに) 遊馬と共に生きるのは苦しい。喜びの傍らに、常に得体の知れない苦しみが隣り合わせになって座り込んでいる。 アストラルのことを、近頃殊更に考えてしまうのだ。あいつは幽霊みたいなもんだった。それで、そうだ……その幽霊だって遊馬のそばにはいられたじゃないか。あまつさえあいつの一番になって…… 遊馬と共に生きる悩みなんて、それならなかったんじゃないか? シャープペンシルが転がって机の下に落ちていった。だけど拾う気なんて全然しなくって、机の上に突っ伏したまま俺はただもやもやとした気持ちを抱えたまま回収の合図を待った。 ◇◆◇◆◇ こたつに入った後、小鳥は黙ったまま眠る遊馬とその脇でゲームをしているベクターを眺めていた。どのくらいそうしていたか、ようやっとのことでゲーム機からファンファーレが鳴り響いてベクターが一息吐く。プレイデータをセーブしてからゲーム機をこたつの上に置いて、ベクターは小脇で遊馬をこづいた。 程なくして眠たそうな顔をごしごしと擦りながら遊馬が顔を上げる。代行して貰っていたゲームの進捗状況の説明を受け、遊馬がすっかり冷めてしまった緑茶を手に取った。 「え、道中アイテムもコンプしてあんのか? 相変わらずベクターってきっちりしてんな。俺、ここまで結構ぼこぼこ取り逃しがあって……」 「遊馬くんと違って僕すっごいマメなんですー。ほらよ、この後は自分でやれ。シナリオ進んじまう」 「ん、サンキュー。小鳥も、お茶、ありがとうな」 「冷めちゃってるから、あったかいのが良ければ淹れ直すわよ」 「いいよ。こたつがあったかいし……」 遊馬の手がゲーム機を手に取る。ベクターが少し身体を近づけて、遊馬の手元を覗き込むような格好になった。ベクターが言った通りシナリオが進行してイベントシーンが入り、その後、ボス戦が始まる。遊馬はしばらく百面相をしながらボス相手に四苦八苦していたが、やがてあっさりと負け、コンティニュー画面を出してゲーム機をスリープモードに移行させるとこたつの上に放り出した。 隣でベクターが「せっかく俺がお膳立てしてやったのになんで負けてるんだよ」とか毒づいているが、さして責め立てているとかそういうふうではない。遊馬は気まずそうに「だって……」と口ごもった後、小鳥の顔をちらと伺い見てベクターに視線を戻すと、「あのさ、全然関係ないんだけど」と唐突に全く違う話を切り出し始めた。 「ベクターってさ……几帳面じゃんか。うんその、俺のさっきのプレイが雑だってっていうの考えてさ……思い出したんだけど」 「……なんだよ」 「俺、なんとなくさ、真月は警察になるのかなあって……思ってたんだ」 遊馬が言った。 ベクターの顔色が変わる。少しふてくされたような、だけど緩んでいたそれから緊張感と僅かな恐れさえ含んだそれに切り替わる。 「なんだよ……」ともう一度彼の口から繰り返された言葉は、明らかな動揺を孕んでいた。しかし遊馬はそれを意に介さず、話を進めていく。 「右京先生に相談されるまで、何でだろうな、信じて疑ってなかった。今思うと根拠とかそういうの全然ないんだけど。ただ漠然と真月は警察官になるんだろうなって思ってた。しっかりしてて几帳面で、色んな事をちゃんと見てて、頭も良くて。昔俺にそう言ったみたいに……いや、嘘だったんだって、今はもうちゃんとわかってるんだけど……それでいつか警部とかになってさ、そんな気がしてたんだ」 「チッ……よりによって遊馬にバラしてんのかよあの先公……。悪かったな。白紙でよ」 「でもそれって俺が勝手に思ってたことでさ。全然お前が悪いとか、そういうんじゃないのは俺だってわかってるよ」 進路調査票が白紙だったこともさ。遊馬が慎重に言葉を選んで言う。ベクターはそれを無碍にすることをせず、まんじりともしない面持ちでそれを聞くに甘んじている。 「将来何になりたいかなんて、まだわかんねえよなあ。自分が何になっていくのか……ベクターは、自分自身になっていくんだってこの前ようやく見つけたばっかりなのにそんなの余計にわかんないよな。でもそれ、いつか絶対考えなきゃいけないことだと思うんだ。だから俺は、俺の思ったこととか考えてること、どこかでベクターに言わなきゃって思ってた」 「……。言えよ」 「うん。あのさ、アストラルはさ……何度か、言ってたよ。『君と一緒に生きることが出来ないのが……』」 「アストラル?」 「――『君と一緒に生きることが出来ないのが、私は苦しいよ、遊馬』」 ベクターの表情が今までにないぐらいに強張った。 あの後アストラル界に出向いたこともあって、遊馬もベクターも何度かアストラルには会っている。そうだ、その時アストラルは確か遊馬に言っていた。その時そばにいた小鳥は、アストラルが続けて何を告げたのかも覚えている。『君と一緒に生きることが私には出来ない。時には羨ましくも思う。君と生きることが出来る彼らが……私にはない可能性を持つ彼らが』。 『しかしだ遊馬、私には、私にしか果たせない役割がある。だから私は羨むと同時に、それを喜ばしく思うのだ。遊馬……私は、君を守ろう。君の望む幸福を。君の夢見た世界を。君の描いた未来を……それが出来るのは、私だけだ。君と歩む苦しみ……君と歩めぬ苦しみ……それはどちらも、等しく存在する。私はそれ故、思うんだ。きっとそれでいいのだと』 アストラルが告げたその言葉を、ベクターは知らないはずだ。でも彼はとても聡いから、遊馬が言った短い言葉だけでアストラルの言わんとした真意を悟ったみたいだった。そして肩を竦める。唇が声なき声を形作った。「お前ら二人とも大馬鹿だよ」と、言ったように思えた。 「だから俺、お前には生きてて欲しいなって思った。それはただの俺のわがままなんだけど。俺と一緒に生きて欲しい。いっぱい悩むこと、あるよな。みんなそうだ。でも一人じゃない」 「……知ってる」 「お前さ、最近、ずっと一人で悩んでるみたいだったから」 「そうだな。お前のそばで生きることがすげえ苦しかったんだ。どうして俺は生きてるんだ? 未来なんてなかったはずの俺が、のうのうと呼吸をして、二酸化炭素吐き出して……迷いが消えないんだ。俺はずっと裁かれたがってた。なのにお前はよ……俺を責めないんだ」 ベクターが犯した罪を遊馬は一度だって責め立てたことはなかった。かつて虐殺を行った罪を、遊馬を謀った罪を、裏切って仲間を殺した罪を。遊馬はそれらを責め立てない代わりに、許したとも言ってはくれない。ただその全てを呑み込んで、真月零=ベクターに「生きよう」とめちゃくちゃなことを言う。 「許されたがってるんだ。或いは許されることなく断罪されたがった」 「そうだな。でも俺、そのどっちもしないよ」 「そう。お前はそういうやつだ。残酷で……だから俺は……」 生きることが苦しいのは、罪を精算出来ずに未来を目指さないといけないからで。 遊馬が求めているものが、最早お綺麗に漂白され直した「真月零」ではないからだ。遊馬はごうつくばりで、ベクターが今まで見た中でも一番の欲張りで。一緒に学校に通っていたお友達の真月も、自分を謀って殺そうとしたベクターもその全てをひとまとめにして欲しがった。そうまでされると、ベクターは過去の自分を身勝手に殺して負債に蓋をして生きることも出来ない。 遊馬は優しいが、それ故誰よりも残酷な少年だ。 「それでもやっぱ、お前の隣で生きたいんだろうなぁ」 しかしだからこそベクターが一度は殺してやろうとまで思った少年なのだ。 「ああ、いいぜ。そうしろよ」 「はあ……贅沢な話だな。まったくもって」 こたつに投げ出されたゲーム機。些細なことだけれどそれも遊馬とベクターが今一緒に生きていることの、証明のひとつだ。二人が協力してプレイしたデータがその中にはある。例えセーブデータが消えたとしても、二人で一緒に同じゲームをしていたことを遊馬も小鳥も覚えている。 「そうだな。本当に警部になるってのも、まあ悪くない案かもな。そういうふうに思ってたところがないわけじゃねえんだ。性分が、結構向いてるって……癪だがドルベにも言われててよ。ただ……俺が法に従って犯罪者を捕まえたりするのって、正直ギャグじゃねえかなって思ったりしてそこで考えるのは止めてたんだ」 「別にギャグじゃないだろ。信号はきっちり守るし、宿題ちゃんとやるし、挨拶が礼儀正しいってご近所で評判らしいって婆ちゃん言ってたぜ」 「そんなの当たり前のことだろうが」 「そういう当たり前のことが出来るのが、大事なんだと俺は思う」 遊馬が大まじめな顔をして否定する。その表情があまりにも真剣で、ベクターはつい吹き出してしまった。遊馬がむっとして頬を膨らませる。少し顔が赤い。 「ぷっ……は……バッカだなお前は……」 「な、なんだよ笑うとこじゃないだろ?!」 「別に笑ってねーし。そうだ、遊馬も警官になれよ。そしたら俺が上司になってこき使ってやるからよ」 遊馬と共に生きるのは、まぶしい。あまりにも。けれどそれを乗り越えて生きろと遊馬は何度でも無茶を言うし、でも一度も自害なんて考えないあたり、結局ベクターも生きたいと願っているのだ。 ならば生きてやろう、お前の分まで。ここにはいないアストラルに言い聞かせるようにそう思った。お前が味わえない苦しみと喜びを持って生きてみせよう。それがアストラルに与えられた意趣返しへのベクターの答えだ。 「じゃ、お茶とお茶菓子、新しく持ってくるわ」 話が一段落したことを確認して小鳥がこたつの中から立ち上がる。遊馬が「俺も手伝う!」とこたつを出て行ったので、「ふざけんな俺だけ置いてくんじゃねえよ」とベクターも立ち上がり、それぞれ自分の湯飲みを手にして三人で台所へ歩いて行った。 |