※2014年に発行した短編集「REcollection」より再録。
※138話から一周年記念で。おめでとうございます、ありがとう。
※今のところこれ以外の書き下ろし掌編の再録予定はありません。




REcorrection





 ふわふわの綿菓子みたいな雲を渡り歩いて、それを食べるバクになる夢を見た。
 雲はオレンジ色だったり、うす紫だったり、うす緑だったり。水色やピンク色のもあった。どれもカラフルなパステルカラーで、食べると甘い。わたあめの夢たち。こうやって夢食いで、色々な人の幸せな夢を分けてもらう。食べると少しずつ幸せな気持ちになる。
 一個だけ、とても不思議な夢のわたぐもがあった。そのわたぐもは他の夢たちの中でも一際大きくて、もこもこしていて、それから変な色をしている。七色の虹のような雲。それも食べてみたけれど、どうも奇妙な感じで、他の雲のようにただ優しく甘いだけではなかった。
(苦い……)
 舐めると苦く、酸っぱく、塩辛い。頬ばると、鈍い鉄の味。この味を知っている、そんな気がしたけれど何の味なのかうまく思い出せない。
 そのうちに、その奇妙なわたぐもがもこもこめりめり姿を変えていく。やがてわたぐもが見覚えのある、懐かしい姿形を映し出そうとして――

 ――そこで真月零は、目を覚ました。


◇◆◇◆◇


「おはよ、真月。どうしたんだよ、まるでへんてこな夢でも見たみたいに妙な顔してたぜ」
「あ……おはようございます、遊馬くん。そうなんです。なんだか、すっごくへんてこな夢を見ていて…………」
 そこで零は頭をひねる。ついさっきまでは確かに、その「へんてこな夢」の全容を覚えていたはずなのに、一切何も浮かび上がってこない。残っているのは夢の後の倦怠感だけだ。
「……あれ?」
「忘れちゃった?」
「うん……忘れちゃいました。気にしないことにしましょう。それより学校に行かなきゃ」
 零は首を振ってベッドから飛び降りた。目の前の少年を待たせるわけにもいかない。彼を困らせてはいけない、というのは零の心の中で密かに定められた決まり事だった。
 彼、九十九遊馬は皆のアイドルで、人気者で、太陽で。
 だからこんなことでその手を煩わせるわけにはいかない。
「今日、ごめんなさい。僕のせいで遅くなっちゃいますね……」
 着替えをして昨日のうちに支度しておいた学校カバンを手に取り、階段を下りる道すがらにそう問うと遊馬は「なんだよ、そんなこと」と人好きのする笑みで零に応える。零はその笑顔を見ると、訳もなく幸福な気持ちになってしまう。ああ、好き、大好きです遊馬くん。そうやって口に出して伝えてしまいそうなぐらいに、幸せになる。
 遊馬の手が後ろから伸びて、零の肩を掴んだ。
「気にすんなって。俺が好きでしてるんだしさ。ほら、俺達幼馴染みなんだから」
「遊馬くん……」
「あ、いっけね。ぼちぼち急がねえとマジで遅刻になっちまいそう。真月、起きたばっかだけど……」
「はい。大丈夫です、走れます」
「そっか。じゃ、行こうぜ!」
 力強い指先が零の手を掴んで走り出す。手を引かれる体勢のまま零も彼について走り出した。今日は随分朝寝坊をして、彼に迷惑をかけてしまったけれど、ここからは迷惑をかけないようにしないといけない。
 今日の放課後には前から随分と楽しみにしていた予定がある。それには、遅れないようにしなければ。零は一人胸の内でそう誓った。


 真月零と九十九遊馬は幼馴染みだが、それに加えて最近ではもう一つ秘密の関係がある。
 といってもやましいものではない。仕事上の「パートナー」、相棒ってやつだ。きっかけは、ある日零が遊馬の宝物の「皇の鍵」のペンダントを身につけたこと。その日以来、二人は「宝探し」に身を投じるようになった。
 放課後や休みの日になると、二人で揃って「宝探し」に出かける。宝探しと言っても子供同士でやるような遊びとは訳が違うから、一筋縄ではいかないことの方が多い。まず、たいていの場合は目的地がハートランド・シティどころか日本国内ですらないのだ。
 中学生の二人ではそうそう簡単に国境を越えた探検に出かけることは出来ない。そこで登場するのが、皇の鍵。皇の鍵は宝の位置を指し示す羅針盤でもありながら、二人をその場所へ一瞬で送り届けてくれる魔法の道具でもある。
 その力を借りてこっそりと国外へ何度も向かった。中国奥地の山脈、ローマのコロッセウム、長野の山陰を訪れたこともあった。どこぞの海上の遺跡にも行ったし、訪れる場所の大概は人里離れてひっそりと佇む古代遺跡であった。
 それらの遺跡達には決まって残されてる石があった。磨き込まれた美しい色水晶の玉だ。玉石達は遺跡ごとに異なった色をしており、不思議な力で皇の鍵の中央に付いている深緑の石の中に吸い込まれて溶けていった。
 それらの遺跡に辿り着く前に、下調べや準備も入念に行った。今日の放課後は、次の遺跡へ向かうための準備をするために二人でショッピング・モールへ出かける約束になっているのだ。
「お待たせしました。掃除当番、他の人に代わって貰って抜け出してきちゃいました」
「そっか。それじゃ行こうぜ」
 冒険に出かけるのには様々なものを用意しなければいけない。食料や水分なんかはもちろんのこと、長丁場に備えて出来るだけ軽くなるようにたくさんのものを持って行く。今度皇の鍵が指し示したのはどこかの孤島の上だった。だから、虫除けスプレーから何から大事なものをきちんと見繕わなければいけない。それもいつもよりもずっと入念に。
 皇の鍵が七つ目の遺跡を示した時、二人は次の冒険が何かとても大事なものになるだろうということ予感を覚えていた。次の遺跡は、世界地図には載っていない場所にある。零が調べたところによると、それは喪われた海の王国「アトランティス」である可能性が高い、のだという。
「その正体は、クレタ文明じゃないかっていう学説もあるんですけど。今までに訪れた遺跡、綺麗でしたから。ここもきっと現代科学の手の及んでいない、未踏の地ですね……」
「古代アトランティス王国かぁ。俺でも名前ぐらいは知ってるぜ。すごい国だったんだよな。でも」
「ええ。栄枯盛衰、です。国は滅びました。今はもう苔むす遺跡があるばかり」
 苔、ないかもしれませんけど。かごにミネラルウォーターのボトルを投げ入れてぼそりと漏らす。アトランティス。オカルト・マニアの間でも名高い幻の王国だ。だがそれらで触れられているのは真実の一端にすぎない。もっと、大切なものがあの場所にはある。
(……あれ、僕、なんで……)
 そう考えて、はたと立ち止まった。
(まるでその遺跡に行ったことがあるみたい)
 足が止まるのに遊馬が気がついて、「真月?」気遣うように左手が伸びてくる。「あ、何でもないです。続けてください」と慌てて手を振ると「そっか」とさほど気にしてない様子で遊馬は陳列棚の方に向き直った。
「遺跡ってワクワクするけど、ちょっとだけ、寂しい気持ちもするよな。だって、昔は栄えていたはずなのに、もう誰もいないんだぜ。さっきお前が言った……ええと、エーコセースイ? だっけ。ずっとって、ないのかなぁ。何でもいつかは壊れちまうのかな……」
「……そんなことは、ないと思います。遺跡って、正にそうじゃないですか。壊れてなくならいで残ってます。だからきっと僕と遊馬くんが友達だってことも……残るんです。僕、それが壊れちゃうの、やだな」
「あ、悪ぃ、そういうつもりで言ったんじゃ……」
「ふふ、知ってますよ。遊馬くんは口下手ですもの」
 遊馬がちょっと拗ねたように頬を膨らませて零の手を取る。少年の、子供らしい、手のひら。温かい。零は遊馬の体温が好きだ。人間が生きている感触がする。
 この心音がやがて消え、九十九遊馬の心臓が動きを止め、指先が冷えわたって、黙する死者になるということが零にはあまりぴんとこなかった。遊馬は永遠というものに肉を与えたものであるかのように零には思えた。だが、いつか、きっと彼も死ぬのだろう。真月零がやがて死ぬのと同じぐらい確かに九十九遊馬もやがて死んでしまうのだ。
 だけど、だからって九十九遊馬がいなかったことにはなったりしない。
(そう。どんなことも、何かの形で残り続ける……)
 真月零が九十九遊馬の隣にいたことも、決して消せない事実として刻まれ続ける。
「次の冒険、楽しみですね」
「ああ! 今度は何があるんだろう。あの石、何色かな。そろそろ赤とか来ないかなぁ」
「あ……赤、ですか? 血の色?」
「違うって。俺の目の色。ああ、でも、紫もいいな。真月の色だ。真月、俺な、紫って特別綺麗な色だなってずっと思ってるんだ」
 遊馬がはにかんだ。


 遺跡は苔むしてはいなかったが、劣化が酷かった。あちこちに亀裂が走り、壁画には人為的な引っ掻き跡が散見出来る。何語で書かれているのかよくわからない文章と、その挿し絵らしき絵。満遍なくそれが読み解けないようにという意志をもって刻まれた傷跡は、泣きながら必死で悪さを隠そうとする子供や、都合が悪くなったから文面を墨塗りして取り繕おうとする大人によく似ていた。
 遺跡には幾重にもトラップが仕掛けられていて、通る道々で白骨化した死体や、ぼろぼろになった探検道具が落ちていて二人を身震いさせた。しかし、二人には自分達はこうはならないという根拠のない確信があった。これまでの遺跡で危ない時に皇の鍵が光って二人を助けてくれたというのもあったが、概ね、それは零の「だいじょうぶです。絶対に」という言葉に起因した。
「真月のその自信、どこからきてるんだ?」
「わかんないんです。でも、すごくここの空気、肌になじむというか……しっくりくる。なんだろう、ひょっとしてトランスしちゃったのかな。僕今、まるで自分がここに住んでたみたいに……あ、次の道、左です。右は圧殺トラップですよ。そこを抜ければもうすぐですから」
「なんか本当にここの構造が頭に入ってるみたいだなぁ」
「さあ、どうなんでしょうね……あぁ、ほら、そこが出口です」
 長い長い通路を抜け、零が示した先には本当に広い空間が広がっていた。大広間のようになっていて、奇妙な造りだ。中央に見せ物台が備えられ、その周囲をぐるりと取り囲むように奈落がある。そしてそれらを一望出来る位置に二人が辿り着いた広間の入り口と、玉座が設えてあった。
「……なんだこれ?」
「随分大きな鎌がありますね。それに、牢屋ですよ。もしかしてここは……古代の処刑場だったのでしょうか」
「かもな。それにしても……薄気味悪いというよりは、物悲しい感じがするな……」
 玉座の正面に回って観察するために膝を突く。探し物はすぐに見付かった。色水晶は、誰も座らない玉座の上にぽつねんと、しかし寄り添って存在していたのだった。
「双子石」
 遊馬が呟いた。
 今までとは違い、玉座の上には丸い二つの玉石が鎮座しているのだった。深紅と深紫。美しく、しかし溶け合うことのない輝くばかりの双子の石。
 そして、ふたつでもつれ合うようにしているそれらはあまりにも遊馬と零の瞳の色に酷似していて。
「ああ……そんな……」
 ――あまりにも、二人の運命によく似ていた。

 それがトリガーになって、零の頭の中を、一瞬のうちに、恐るべく量の情報がフラッシュバックして埋め尽くした。頭を抱えて膝からへたり込む。ああ、そんな、こんなことって。頭が痛い。「真月!」という遊馬の叫び声が遙か遠くで響く。
 そうだ。
 赤色と紫色は混じり合わない。真実交わることのない独り善がりの紫と高潔な赤。紫は昔赤色を欲しがり、その身を穢して自らの中に取り入れることを願ったけどついぞその願いは叶うことがなかった。
 一度は赤を捕まえたけれど、どうしても紫にはならなくて。結局その手のひらの中から零れ落ちて逃げおおせた。
 紫は激怒した。必ずや、かの赤を、世界にたった一つの美しいものを、手に入れんとして怒り狂った。
 それからは酷いものだった。ついには手段と目的が逆転し、もう一度彼とまみえた時には、彼の愛しいものを次々と手に掛けて忌むべき者として憎まれる者としてその前に姿を現すことになった。愛して欲しいという想いを自分で肯定出来なかったから、そんなふうな形でしか会えなかった。
 血で血を洗う殺し合い、お互いを騙し合う謀り合い、そういったものしか知らなかったから。
 力こそが全てだった。
 力なき正義がどのようにして惨めに滅んでいくのかそればかりを紫は熟知していた。
 ところが散々に偽善と罵った赤には恐るべき強大な力があった。自らの正義の旗印の下に紫を、神を、それどころか世界中全てを屈服させてしまうに足る力があった。結果的に紫は赤に敗れた。それは何度目かの、完膚無きまでの敗北だった。
 赤色は反吐が出るくらいの博愛を持つ人間だった。それで、本来救われるべきではなかった紫色を許して掬い上げた。彼を憎しみの鎖から解放した。それでようやく紫色は涙を流す意味を知った。
 代償に、赤色は、万物創造の理《ヌメロン・コード》を使った九十九遊馬はこの世界から消えた。
 思い出してみればこんなにも簡単で単純な事実。
 真月零にはたった一つ明確な役割があったのだ。
「そうです……僕は……僕は約束をして……泡沫のようにはかない、いつ消えてしまってもおかしくないような自分勝手な約束です。届かないかもしれないって、僕は知っていました。でも、それでも、集め続けたら君にまた逢えるかもしれない。そんな細い一縷の望みに縋り付いて……」
「真月?」
「そうして《紫色》は僕になりました。夢見がちなドジでおっちょこちょいの《真月零》。そうです。ここは僕の遺跡……古代王国の王子が惨殺を繰り返しその果てに自害を果たした《悲鳴の王宮》」
 譫言のように口走り、振り向くと、遊馬の顔は心なしか怯えているようだった。
 ごめんなさい、と心の中で繰り返す。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。だけど零はその役割を果たさねばならないのだ。紫色は――ベクターはあの結末を決して許さない。九十九遊馬に自らが許されたことも、バリアン達が皆彼に許されたことも、彼が世界を救ったことも何もかも気にくわなかった。九十九遊馬が消えた世界に意味などなかった。
 彼がいなければ真月零の世界は始まらないのだ。
 ベクターの生きる意味も最早そこにはない。
 取り戻さなければいけない、と誰よりも冷酷に誓った。
 だから真月零は夢を見た。夢食いのバクになり、ぱくぱくと夢を食む。夢を見続けることで《かみさま》の残滓を囲い込み、その消失が完全なものとなる前に現世に繋ぎ止める楔を作る。
 そうして夢を食べ終わり、夢が終わるのが全ての合図だ。
「そしてこの《悲鳴の迷宮》こそが、僕があなたを殺す場所なんです。ねえ、かみさま(遊馬くん)」
 バクが最後まで食べることをためらった少年の姿をした夢のわたぐも、その正体は夢に囚われた九十九遊馬の残滓。あの苦さと酸っぱさはベクターが舐めてきた辛酸の味。そしてあの鈍い鉄の味はベクターが幾度となく味わってきた血の味だ。
 遊馬の顔つきが歪む。ああ、聡明なかみさま。あなたはこの言葉の意味を知ってしまった。
 それを認めてからの零の動きは迅速だった。彼が「思い出した」と言う前に、「そんなことしちゃダメだ」と咎める前に、零は今度こそ躊躇いなく処刑鎌を握り締めて、遊馬めがけて振り下ろした。人肉を突き破るなまぬるい音。飛び散る血飛沫。返り血がまるで雨のように零の身体に降りかかる。
 血の雨を浴びるのは随分と久しぶりだった。かつて一国の王子であった時、無慈悲な虐殺を繰り返していた時以来だった。その久方ぶりの血の雨に知らず、高揚を覚える。何しろ神の血だ。世界の終わりを告げる貴いもの。
 ベクターがずっと欲しかった紅い色。だが、血の雨は本当に欲しかったものではない。これは「きっかけ」に過ぎないのだ。
 唇を歪めて薄く笑った。自らの手で殺めた「幼馴染み」の身体は、こんなにも生温く血腥くて羽のように軽い。
「ゆうまくん……ぜったい、だいじょうぶですから」
 死体に口づける。ぴくり、と唇が揺れた。もしかしたらまだちょっとだけ生きていたのかもしれない。だけど残った息を吸い尽くすぐらいに長くキスをしたから、きっともう死んだだろう。

「ぼく、またきみといっしょに学校にいきたいな」

 こうして神が死に、この箱庭のような世界が終わる。
 幻想の世界が朽ち果てて、現実が始まる。


◇◆◇◆◇


 《ヌメロン・コード》は万能の神の力。だけどどんな力にも代償は必要だ。ましてや「契約」で始まっていた九十九遊馬の物語にとって、犠牲を払う結末は最初からそうあるべきとして定められていた必然の終わりだった。代償に大切なものを失う、だから世界を救った遊馬は皮肉にもその世界を失う。
 必死だった。そんなことがあってなるものか、と思った。
「俺は……お前を取り戻す……!!」
「べくた、」
「許さねえぞ。どうしようもない俺をこの世界に転がし、ほっぽり出して、自分はそのまま消えるだなんて俺は絶対に許しはしねえ!!」
 ベクターは九十九遊馬に許された。あの少年は、たった十三歳のくせに、母親といういきものと同じように愛を悟ったみたいな顔をしてベクターを抱きしめたのだ。
 ばかやろう。お前は、地球の母にでもなるつもりか。
「それじゃ俺は一体何のために……んなことが許されてたまるかよ。お前が俺を生かしたいと思うのなら、俺の唯一の理由であるお前自身が生きてなきゃならねえんだ。なのに。なのに……!」
「……おま、泣いて」
「俺を幸せにするとか抜かすんならお前はずっと俺のそばにいろ。お前、俺をもう一人にしないって、一緒にやり直すって、そう言ったじゃんかよ!!」
 このうそつきが。激情のままに泣き叫ぶ。遊馬の変な顔。それから、何が面白いのかぷっと吹き出して笑った。だけどあの太陽のような笑顔じゃなくて、どこかに消えてしまいそうな笑顔だった。
「……わかった。一個だけ約束をしよう。約束っていうか、ぶっちゃけ賭だな。契約は契約だから、俺は扉に代償を払う。これはもう、俺の意志とかじゃ逃れられないんだ。だから、ベクター、お前が奇跡を起こしてくれよ」
「奇跡」
「ん、そう。お前がそれを叶えられれば俺はきっと還ってこれる。――あのさ、俺だって出来れば、ほんとは、人間のうちにもう一回真月と学校に行きたいってそう思ってた」
「――クソッ!!」
 遊馬が笑う。人間のうちに、だなんて、なんてばかな台詞なんだろう。「おまえは人間だ」震える声で囁いた。「俺があんなにおまえに……惹かれたのは……」
「俺のこと好きだって言ってくれて嬉しかった」
 それで遊馬は俺の視界の中から消えた。最後まで人の言葉を聞こうとせず、言いたいことだけ好き勝手に言って、消えてしまった。
 卑怯だ。とてもずるい。
「きせき……」
 遊馬はきっとそんなこと出来やしないと思っているのだ。俺に奇跡なんか起こせないって。手のひらを握り込む。その中に、やっとの思いで掴み取った遊馬の欠片がある。今この瞬間世界から消えてしまった少年の断片は、まんまとこの手に収まった。あとはそれを集めて繋ぎ合わせる。出来るはずだ。遊馬に出来ることが出来ないはずがない。
「やってやる。俺が奇跡を起こしてやる。だから全てやりおおせた時には、お前も」
 そこで口をつぐんだ。


◇◆◇◆◇


「遊馬くん、おはようございます! もうすっかり朝ですよ。学校の準備、大丈夫ですか?」
「――ッやばい! 全然やってない。宿題真っ白だし!!」
「あー、やっぱり……。だけど安心してください! そんなとこだろうと思ってこの真月零、よかれと思って遊馬くんのために宿題を完璧に終わらせてきました。提出までに、丸写し、どうぞ」
「うぅ……ありがとな……」
 パジャマを乱雑に脱ぎ捨てて床の上でぐちゃぐちゃになっている制服に着替え出す。これは幼馴染みの少女が気にかけてやまないわけだ、と零は随分納得した。聞くところによると彼女は週に一度はこの部屋を訪れて、制服にアイロンをかけているとかいないとか。
 中の宿題を取り出した形跡もない学生カバンを引っ掴んで、遊馬が零の腕を掴み取った。そのまま朝食も取らず、零を引きずって玄関を飛び出す。軒先を掃除していた彼の祖母が待ちかまえていたようにデュエル飯を遊馬の口めがけて放り投げた。
「あーっ、今日遅刻したらやばい、右京先生の補習決まっちまう」
「その時は僕も一蓮托生です」
「それ、慰めになってないからな……。今日はさ、デュエルしたいんだ。それも色んなやつとやりたい。まず鉄男捕まえるだろ、それからシャークともやりたいし、カイトともやりたい。今ハートランドにいるらしいし?とか?とか?とかも捕まえておきたい。アリト、俺が勝ったらおでん奢ってもらうんだ。ギラグんとこのポン太、元気かな。
 まだまだ、名前いちいち言ってたら追いつかないや。とにかくすっげえデュエルしたいんだ。めちゃくちゃ飢えてる。今俺、久し振りに起きた冬眠明けの熊みたい。小鳥に見られたらデュエルバカって言われるんだろうなぁ……」
「全然いつもと変わらないですよ、遊馬くん……」
 溜め息を吐いた。だけど、うずうずしているというのは確かに、傍目にも明らかなことだった。
 信号が青になる。二人で手を繋いだまままた走り出した。学校が近付いてきて、あの懐かしい階段が視界に映る。真月零と九十九遊馬が出会った場所だ。零は、階段を踏み外して遊馬に覆い被さる、という体で彼に接触を図った。
 遊馬も懐かしくなったのだろうか。不意に彼が「そういえばさ」と口を開く。
「俺、幼馴染みに殺される夢見たよ」
「そうですか」
「つっても、小鳥のことじゃないぜ。夢だしな。でも、全然変な感じはしなかった。だから余計に……そいつがそんなことするなんてさ、殺される瞬間までそんなこと思ってなかったからびっくりした。でも刃を刺される瞬間は、怖くなかったんだ。そいつが優しい顔をしていたから……」
「ええ」
「俺は、『ああ、こいつは本当に奇跡を起こしたんだな』って」
 振り向いた遊馬の瞳はあの綺麗な紅色をしている。いつか見た血飛沫の色と似ているけれどこちらの方がずっと透き通って深く美しい。
 ずっと欲しかったもの。今、真月零の隣にいる。
「奇跡、起こしちゃいましたよ。きみのために。ねえ遊馬くん、僕とっても頑張ったでしょう?」
「いつも体張りすぎだよ、おまえはさ」
「一番大事なことは、自分でやらないとつまらないですから」
「知ってる」
 遊馬が太陽みたいに笑った。


 ――九十九遊馬の時系列は。
 結局、一度途切れて、それがまた突然現れて繋がる形に落ち着いた。彼の記憶と記憶の間には僅かながらブランクがあって、それが彼がこの世界から消えていた時間のすべてだ。真月零が夢喰いバクの夢を見ていた時間。
 夢喰いバクが食べた他の夢は、この世界じゅうの、遊馬が存在しなかった間の記録なのだった。全てに決着がついたあの瞬間から彼が戻ってくるつい今し方までの矛盾を一人で全部なかったことにして帰るための場所を確保した。担任の右京は遊馬は昨日までもちゃんと学校に来ていたと思っているし、真月零という生徒も彼と一緒にずっと登校していたことになっている。
 とはいえ全てがなかったことに出来るわけではないから、七皇の侵攻に立ち会った者はその事実を覚えている。
 ただ、「九十九遊馬はいなくならなかった」という事象が満遍なく上書きされただけだ。
「ずっと聞いてみたいことがあったんだけどさ」
「はい。なんでしょう」
 屋上で今日は二人きりで昼食を取っていた。弁当と購買の焼きそばパン。弁当が誰が誰のために作ったものであるかは言うまでもない。
 遊馬は明日の天気予報って晴れだったっけ、雨だったっけ、と探るふうな感じで弁当のおかずをぱくついている。
「学校の、中学の勉強ってお前にはつまんないんじゃないか?」
 そして示されたのは「真月」ではなく「ベクター」への問いかけだった。顔をしかめて、しかし無碍にも出来ずに、周囲に他人がいないことを確認して渋々口を開く。
「……あー……まあ、な。一応皇族の後継者だったから、ああいうことになるまではそれなりに真面目にお勉強してたし? でも……それなりに楽しいぜ。子供っぽくてさ」
「へえ。意外だ」
「そうか?」
「うん。自分の役に立たないこと、嫌いそうだって思ったから」
「……したら、俺はお前のこと、大嫌いだな。お前はほんっと、最後の最後までちっとも俺の思い通りにはならなかった……」
 首を振った。確かに自分の思い通りに動く玩具をこそ「ベクター」は好んでいて、遊馬にちょっかいを自ら出しに行こうと決めたのも彼が「思い通りにならなくてむかついた」からだったし、「真月警部」という虚像に夢中になって何でも彼の言う通りに実行する彼のいじらしさには随分と興奮したものだ。けれど最終的に遊馬はやっぱり俺の手を離れていってしまったので、俺は必死になって九十九遊馬の影を追い求めることになる。
 半分は意地だったのかもしれない。何せメンツを幾度となく潰されてプライドはずたぼろだった。だけど、それだけじゃなかった、ということを悔しいことに今はもう自覚している。
 そのために奇跡を一つ起こせるぐらいに、俺は、遊馬を。
「……思い通りにならない、その上、俺を無理矢理引っ張ってくし、意味わかんねえし……救うとか許すとか……何を上からものを言ってるんだとか……そういう文句すら言わせないで……幸せになれとかいうくせに自分は犠牲にするし……」
「ごめん」
「それは俺じゃなくて他の奴らに言ってやった方がいいんだ、本当は」
「そうだな」
「……だけど。俺は、そういう、理解の付かないブラックボックスみたいないきものの、お前と一緒なら生きていけるって、何でか思っちまったんだ。クソだな……」
「うん」
「それで、せっかく……こんな俺でも、こうして生きてるんなら……」
 遊馬の目が俺の方をまっすぐ見ている。その瞳があんまりにも透き通って、綺麗で、あの焦がれ続けた紅色をしていたから俺はとうとう言葉に詰まってしまって続きを上手く口に出せなかった。
 「どうしたんだ?」遊馬がきょとんとして、俺の方に身体を密着させてくる。近い。息が触れ合うほどの距離で、鼻に掛かる。
「……なんか、恥ずかしいことなのか?」
「なっ……ちっげーよ! 俺は――」
「おい、いたぞ! あそこだ!!」
 屋上の扉がとんでもない勢いで、それこそ漫画さながらにどばんと開け放たれて不躾で高圧的な声が木霊する。きんきん五月蠅くて咄嗟に耳を塞いだ。ワンテンポ遅れて入り口の方を確認すると、見慣れた、俺としては正直もうあまり目にしたくないやつの姿がある。
「あ、ミザエル! ドルベに……シャーク、あれ、なんでカイトもいるんだ? っていうか、皆いるじゃん。どうしたんだよ、屋上でパーティでもするのか?」
「どうしたではない。貴様の姿が見えないとナ……神代凌牙が騒ぐので総出で探したのだ。案の定貴様が連れ出したのだな」
「ま、まあ落ち着いたらどうだミザエル、ナッシュだってそんなことぐらいで怒ら……」
 なだめようとしたドルベがそこで背後のオーラに肩を震わせて息を呑む。怒髪天を衝く勢いで、赤い幻影を纏った中学二年生男子がそこに立っている。
「……怒るな。まあその……なんだ。要は皆で君達二人を捜していたと、それだけのことだ。快気祝いのようなものをやろうと思ってな」
「マジでパーティやんのか! なあ、なんかうまいもんとかある?」
「あったりまえだろ! 俺は既におでんと牛丼を手配済みだ」
「アリト、君はもう少し栄養バランスを考えられないのか」
「……と、まあそういうわけでだな。今日は四限で授業は終わりだと凌牙から聞いたので俺が迎えに来た。想定外の大人数になってしまったが……準備はどうだ? まだ少し時間が欲しいか」
 好き勝手喋り出したのをカイトがまとめて、遊馬に伺う。遊馬はおかずの最後の一口をぱくりと口に放り込み、咀嚼もそこそこに呑み込むと元気よくその言葉に頷いた。俺はしゃくだが、この誰かのためだけではなくて複数の、あらゆる全てに向けられる表情が遊馬の笑顔の中でもとびきりの輝きを持つことを知っていて、ぶすくれながらもその横顔をじとりと見つめ続けた。
 「真月も来るよな?」遊馬が満面の笑顔のまま俺に問いかける。有無を言わせぬ笑み。拒否権は俺にはない。
 それでも尚意地で渋る態度を見せると、遊馬は一先ずカイトと凌牙の方に寄っていって、「今捕まると思うから?とか?も呼べないかなぁ」と相談を持ちかけた。一体どれだけの人数をかき集めるつもりなのだろう。そしてその集まるであろう全員が何かしらの形で九十九遊馬を認めているのだから、俺はなんとも複雑なのであった。
 ちょっとだけ誇らしいが、やはり全体的にはいやな気分だ。
 自分一人の思い通りに動く玩具にはならないのだということを改めて思い知らされるから。
 年長二人が頷いたのに諸手をあげて喜んで、そうすると遊馬はまたとてとてと俺の方に戻ってきて今度は返事を待たないまま強引に俺の腕を掴み取った。真月零が「よかれと思って」してきたのとまるで正反対に俺を振り回そうとする。むっときて「おい、」抗議のために唇を尖らせると遊馬はそれを想定していたのか、軽くいなすと逆に俺の耳元に唇を近づけた。
(な、俺のこと、幸せにしてくれるんだろ?)
 そうして、そんなことを囁く。
「なっ……?!」
「あれ? 違った? さっき言おうとしたの、そういうことだろ?」
 嬉しかったぜ。何の打算も邪心もなく屈託のない笑みでだめ押しをされる。俺はがらにもなく顔がゆでだこのように真っ赤に沸騰していくのを感じて、もう、どうしていいのかわからなくなって身体を遊馬に引き摺られるに任せた。卑怯者。昔零した言葉をもう一度反芻する。卑怯だ。とてもずるい。
 こうやって遊馬はいつも俺を乱し、容易く追い詰め、チェックメイトをかけるのだ。
 それが悔しいけど、でもやはり嬉しくて、だから結局堂々巡りで悔しいので。
「あー、くそ、おいミザエルにドルベ、ギラグもだ、お前らその制服似合わねえんだよ!!」
 照れ隠しにてんで的外れなことを叫んだのだった。



/REcorrection

| home |