※中学二年の夏休み
※ED後九十九家居候ベクター
※初めて出した零遊本が海にまつわる話だったので若干セルフオマージュ






とセントエルモ





 潮騒の音に包まれていた。ハートランド・シティを遠く離れて、大きく広がった海の前に立っている。波打ちぎわ、さざ波、地に着いた足。太陽と青空。海の色は、どこまでも透き通った紺碧。
 海へ行こうと言い始めたのは、やはりというべきか、遊馬の方だった。夏休みに入った少し後、急に思い立ったように言い始めて、はじめ俺はハートランドの沿岸部にでも行きたいのかと思っていたがどうもそれは違ったらしい。彼が望んだのはもっと遠い海だった。しかし地理的には遠くとも、ある意味でその時の俺達には最も近い海でもあった。
 そんな無茶苦茶な息子の要求を、それもお盆の時期に実現させたのが一馬。相変わらずこの男の胡散臭さと言ったらないが――今は害にならないので忘れることに努める。とにかく、そんな塩梅で俺は遊馬とその両親に連れ立たれて異国の島に来ている。
 異国だ。
 この島はかつて俺の故郷を囲むものだったが、そんな国はもうとっくに滅んで、今は現代の別の国の領土になっているのだ。パスポートに押された知らない国の入国印が、それを物語っていた。

 かつて島中を覆い尽くした火災のあともなくすっかりと緑の生い茂った陸土に着陸して、俺達は再び「悲鳴の王宮」を見た。中に入りたくはなかったから、外から。少し離れた位置から恐る恐る眺めた。あの中には暴虐王と遺跡を造った国の末路が描かれた壁画があり、しこたま設置された罠をやっとくぐり抜けた先には処刑場がある。最後期などは処刑場に籠もりきりでその外になどろくに出ようともしなかったから(最後に出ようと思ったのは島に火を放った時だ)、あの場所を「王宮」などと言われるのは皮肉に近かった。
 考古学者を生業としているらしい一馬はどう見たって墓荒らしかそれに準ずる何かにしか見えない格好をしていたが、俺達の神妙な態度に思うところがあったのか「遺跡に突入しよう」みたいなことは一度も口にしなかった。俺達はそのまま森林を抜け、島の沿岸部を目指す。観光地として整備されているわけでもないこの島には当然宿泊施設もなく、野宿も許可が取れなかったと一馬は言った。それを聞いた遊馬は俺の方を見てしょんぼりとまなじりを下げたが、俺は別にこの島に宿泊したいと思えなかったので、別に海が見られればいい、とあいつを宥めた。
 久方ぶりに見た故郷の海は相変わらず呆れるぐらいに透き通っていて、未来がきれいね、だとか言うのを曖昧に聞き流しながら手を浅瀬にくぐらせる。冷たい。そう言うと遊馬が笑う。そりゃ、そうだろ、魚が泳ぐような海なんだからさ、とか言って。
 海の美しさは俺が赤ん坊の頃から、いや、それよりずっとずっと昔から、今もまだ変わっていない。母上がかつて俺に「あなたの優しい心は、あの、海のようね」と言って頭を撫でてくれた時も、俺が本島へ軍を率いて帰還し、虐殺を開始した時も。この海は変わらぬ色合いと冷たさで俺を迎えた。だからこの海は紛れもない故郷なのだ。異国の地に立って触れる水面が、俺にとり、唯一残された故郷の全てだ。
 母上はこの海が好きだった。俺はこの海を母上が好きだと言うから愛した。母上が没した後は、全然、好きでもなんでもなくなったような気がしていた。船を出す時にどうしても目に入れなくてはならないのが苦痛だと思えるほど。
 帰還してからも沿岸部には近付きたがらなくて、陸地ばかり踏みしめていた。狭い世界の中に引きこもっていたかった。海を見るとたくさんの嫌なものを思い出すから。敵、憎むべきもの、おぞましいもの。母、愛したもの、もう二度と俺の手には帰らぬもの。たぶん、それら全てを内包するあの透き通った潮騒が、俺の心を糾弾するような心地になるから嫌いだったのだ。
 海がきらいだった。
 「海、好きか?」と遊馬が尋ねた。いつの間にか考え込んでいた俺の隣にしゃがみ込み、でも俺の顔を覗いているわけじゃなくってただ青い空を見上げている。
 俺はしゃがみ込んでさざ波をすくおうとしたまま、ぶっきらぼうに、「ああ」とだけ答えた。俺達の間にはそれで十分だ。


 夜が更ける前に一馬に連れられて本島へ戻り、手配されていたペンションで食事やら入浴やらを済ませた頃、急な雷雨が一帯を襲った。昼間はあんなに晴れていたのに、と口を尖らせた遊馬と俺を連れて一馬はペンションの二階に上がり、窓際に座る。
 窓からは港と、天候さえ良ければ遠景にあの遺跡のある離れ島も確認出来るらしい。港では停泊した船達が強い雨にしこたま打たれて濡れそぼっていた。雷が落ちる。こんな悪天候を眺めて一体何になるというのだ? 振り返って一馬に抗議の眼差しを向けると、「多分、見られると思うんだ」と例の笑顔で押し込まれる。
 船を見ていてごらん。現代漁船とかじゃなくて、あそこに何隻か止まっている帆船をね。一馬が言う。よく目を凝らすと確かに……帆船が四隻ほど停泊している。マストをぴんとはり、こんな天候じゃなければ今にでも海に出られそうな綺麗な船だ。そのてっぺんを渋々眺めていると、「あ!」と遊馬が声を上げ、マストの先端が発光した。
「セントエルモの火だ」
 一馬が言った。悪天候の時、尖った物体の先端で静電気がコロナ放電を起こして蒼白い光が見える、その現象のことだよ。解説が、右から左へすり抜けていって俺は穂先の光に目を釘付けにされる。セントエルモの火……あれが、あれは、そういうふうな名を与えられたのか。
 見たことがある。何度か、戦場で。雷雨の中船上で指揮を執り、奇襲だのなんだのは腐るほどやった。でもマストの先に光が灯る時はきまってそれらを控えた。その光の中に畏敬をみたからだ。喪われたものが光の中にあるような気がしていた。母の愛と父への盲信、世界がすべて美しいものだけで出来ていると信じていた頃、透明で冷たい海、本当は手に入れられたかもしれなかったまだ見ぬ何か……そういったものが霊魂のように集って光になっていると信じていた。
 あの中に母の魂はあるのだろうか。科学的根拠を述べた一馬の弁を借りるならばそんなものはどこにもいないのだろうが、その時俺にはあるように思えてならなかった。そこにはやはり母の愛と父への盲信があり、喪われたうつくしい世界があり、昼間触れた故郷の海があった。遊馬の手が俺の背を撫でる。そう。俺は――この手があるから、そう、信じている。まるで神に祈りを捧げる敬虔な信徒のように確からしく……。
 光は遊馬の象徴だ。遊馬が司るもの。俺が遊馬の中にみたもの。遊馬が俺に与えたもの。ナンバーズ39、あいつの魂から生まれたものは全て光の色をしている。ゼアルが呼び起こした奇跡も光に連なり、九十九遊馬という存在はすべからく光へ繋がっていく。
「……昔」
「……うん?」
「火が嫌いだった」
「そっか」
「嫌いだった。ろくな思い出がねえし……あの光も、見たことがあった。でも怖かった。俺を糾弾しようとするんじゃないかって恐れたんだ……」
「うん」
「だが今、俺はあの光をうつくしいとさえ思う。おかしな話だ」
「べつに、なんもおかしくなんかないだろ」
 遊馬の手が背中から離れ、俺の指先を繋いだ。手と手を合わせ、その先で呼吸を合わせ、心臓の音を合わせて俺達はセントエルモの火を見る。
「火をきれいだって思うの、人間はさ、しょっちゅうだよ。俺花火好きだし……あ、今年も花火大会行こうな……キャンプファイアーとかさ、怖いっていうよりは」
「ああ、林間学校の時やたらにはしゃいでたよな、お前」
「いいじゃん、楽しかったんだし。……あのさ、火をあったかいとかきれいだとか思うのは人間だからだって、俺、思うんだよなあ。確かに怖い時もいっぱいあるけどさ……」
 火災、という単語は噤んで遊馬が俺を見てくる。きらきらした子供っぽい目。口を噤んだのは俺の死因にでも配慮したのだろうか、やさしく愚かなことだ。大丈夫だという代わりに繋いだ手を握り返す。雷雨の中で天の星よりもまばゆく光り輝くそれに魅入り、静かに寄り添っている。
 光を映し込む遊馬の瞳もまた、星くずのように光っていた。俺はこの目をかつて血のようだと思い、また悪夢のようだとも思い、果ては奇跡のようだと感じたことさえあったが、今はただ愛おしい。幾度となく抉り抜きたいと願った瞳は結局俺の手の中にはなく、俺の隣にある。
 最後までこの眼球を奪えなかったことを、彼がアストラルに守られていたことを、今となっては感謝していなくもないのだ。もしほしがって抉り抜いてしまったら、途端にあの目は色彩を喪い、がらくたのようになってしまったに違いない。そうしてそんなことをしたって手に入りはしないのだという事実を突き付けられて終わる。奪うだけでは永遠に望んだものは手に入らない。父王が強奪を繰り返し、狂った後自らが暴虐を繰り返したことがその全てを証明している。……俺達父子は満たされなかったのだ。奪っても、何も本当は、手に入ってはいなかった。
「俺も火を美しいと感じて、ゆるされるのか」
「許すも何も、誰も悪いなんて言ってないのに」
「俺は火を美しいと感じる生き物なのか?」
 ふと問いかけた。この問いかけは遊馬への甘えであり、信頼であり、俺にとっての毒薬だ。俺は知っている。こう問えば、遊馬はどう答えるのかを。遊馬が俺のことをどう思っているのか、どう感じているのか、そして遊馬が俺の寂しさを知っていることをさえ……悉知していてなお問う。
 紛れもない弱さだ。けれど、それがあるからこそ、俺は火を美しいと感じる生き物なのだろう。
「ベクターは人間だよ。ずっと、最初っから、ずーっと」
 遊馬は俺に肩を寄せ、目を閉じて、謳うように俺が思った通りの甘言を紡いで寄越した。あのうつくしい瞳が伏せられてしまうことを少し残念に思ったが、永遠に開くことのない母の紫苑の瞳とは違うので、目を見せろよ、と言う代わりに小さく「ばーか」と罵り、そして何故か遊馬に笑われる。
「明日はまた晴れるかな」
 遊馬が言った。雷雨は降り始めの頃に比べるとほんの少し弱まってきている。大丈夫だろ、たぶんと返すと「てきとうだな」とまた笑う。それでなんとなく遊馬の脇腹をくすぐってやると、今度は声をひいひい言わせながら「や、やめろよお! もう!!」と、でもやっぱり笑いながら言った。
 仕返しに俺の脇腹をくすぐろうとしてくるちょこざいな手を握り止めて未然に防ぎ、遊馬の脇腹から手を引く。また遊馬が「あ」と声を出すので、つられて窓の外を見た。
 遊馬の視線はマストの先端へ向かっていて、その理由もすぐにわかった。光が消え始めている。四隻全てに灯っていた光が弱まり、やがて姿を消していくのだ。セントエルモの火が消える。俺がかつて畏れたもの、愛したもの、潮騒の中にも息づいていたものたち。
 やがて全ての光が消え失せた時、母の霊魂がそこにはもういないのだと、ようやくのことではっきり理解出来た。それは遙か遠くに俺を置いて去ってしまい、とっくの昔に消えてしまっていた。俺が畏れた光の中に最初からそんなものはありもしなかった。その時……俺の心のどこかでまだ灯っていたセントエルモの火も、確かに消えた。
 でも光が消えたわけじゃない。過去に閉じ込めようとする光が失われただけだ。今はいつも俺の隣に光があり、それは未来へ向かうもので、俺を置いてどこかへ行ったりしない。この光は俺と共に地獄へでも行けるという。そんなことを言いながら、俺の足を地上に釘付けて、留める。
 それに過去が全て消えたわけでもない。俺の過去は、故郷はあの潮騒の中にあって、昼に聞いたあの音は今もはっきりと胸中で確かめることが出来た。水の冷たさの中に母の思い出があり、息づいている。
「明日晴れたら、もう一回海、行こうな」
「ああ」
「そしたら泳ごう。水着、持ってきてるしさ……」
「いやです。遊馬くんてば、僕が泳げないってこと、忘れちゃったんですかぁ?」
「大丈夫だって。俺も一緒だからさ」
「あのですねえ……」
 溜め息混じりに苦笑いをすると、遊馬がいいものを見たような顔をして「やっぱ、笑ってる方が好きかな」とか何の気はなしに言った。そう言われるとあまのじゃく精神が疼いてきて、努めて仏頂面をしようとしたが隙を突かれて脇腹をくすぐられる。

 翌日は昨晩の豪雨が嘘のようにからりと晴れ上がった。すったもんだの末今日も海の中には入らないことになり、俺はほっと安堵する。あの透明なうつくしい海の中に、思い出を溶かしておくためにそれは必要なことだったからだ。
 だから二人で手を繋ぎ、じっと潮騒の音を聞いていた。頭には麦わら帽子を被っていたが、髪の毛が多くてあまり頭に合わないような感じがしている。不意に俺達を風がひとなでし、麦わら帽子は揃って空高くへ舞い上がり、どこかへ飛んで行ってしまう。
 もう手の届かないほど遠くへ行ってしまった麦わら帽子に遊馬が手を振った。たぶん、それが俺達にとっての、ひとまずの潮騒への別れの挨拶だった。