※中学二年の夏休み
※ED後九十九家居候ベクター
※夏なのでそういう零遊






時代





 蛍だ。遊馬がはしゃいで口ずさむ声に引っ張られるようにして、そちらへ振り向いた。八月の蛍。少し遅い、夏の終わりを惜しむような、ヘイケホタルの煌めき。雨上がりの夜、激しい風もそう吹かぬ、凪いだつごもりの夜に飛ぶ光たち。
 蛍という虫のことを彼に教えられるまで知らなかった。祖国にはいない虫だったし、光る虫を愛でようなんていう感性も持ち合わせていなかったから、ハートランドシティに降り立った後も、図鑑で見たことのある虫、というふうにしか思っていなかった。加えて、その習性が、何か異様なまでに気にくわなかった、というのもある。月のない夜を好んで飛ぶだなんて。まるで――あてつけてきているみたいで。
「俺さあ、ほんとはさ、蛍も、真月みたいだって思ったこと、あったんだ」
 背高く伸び揃った草むらをかき分けてこちらへ戻って来た遊馬が言う。「蛍も」。その含みのある言葉に、俺は指折り数え、かつて「真月みたい」「真月くんみたいだね」と言われたものを思い出す。海鳥、幽霊、入道雲。七日の繁栄を謳歌して地に落ちる蝉。その瞬間は確かにそこにいたはずなのに、気がつけば、どこにもいなくなってしまう、はかないものたち。
 そこで改めて蛍を見た。突き出した尻をぴかぴか光らせながらあちこちをふらついている蛍たちは、なるほど確かに、明日も明後日も確かに、そこにいるという保証をくれる存在には思えなかった。
「でも言うの、やめたんだ。そう思ったのが、真月零が本当の姿じゃないんだってことを知ったあとだったから。その年に蛍を見たのは、俺の友達が、本当は、人ではなくバリアン世界からやって来た誰かなんだって聞かされた後だった。姉ちゃんとふたりでテレビを見てて、今年の夏も蛍がきれいだった、なんていう番組を見ながら、後ろでアストラルが俺にしか聞こえないように言った。月のない夜に光る蛍、まるで彼を思い出すな、遊馬、って。……俺はその時、なんでだか、それがすごくいやだった」
「わけもわからないのに?」
「そう、わけもわからないのに。アストラルにそう言われたから、っていうのも、あったのかな。今思うと。俺が思ったことじゃなくて、それはアストラルの感想だったからさ。けど、ほんとの理由は、それだけじゃないんだよな。それに気がついたのは、結構後のことだったけど」
 遊馬の指が蛍へ伸びる。掴もうとして、けれど指先に触れる直前に彼はそれを引っ込めてしまう。
「今思うと、あれは、俺の記憶の中にしか真月がいないって言われてたみたいで、いやだったんだ」
 遊馬が言った。月のない夜、公園へほたる観賞に訪れている彼を照らす光は、あたりに等間隔で設置されている蛍光灯と、彼の周りを無数に飛び回るヘイケホタル達。まばらな明かりのもと浮かび上がった遊馬は、輪郭がところどころ夜闇の中に溶けてしまいそうなところがあるくせして、絶対的な存在感を持って空飛ぶ光と戯れている。いつも光の中にある少年。光を束ね、光を従え、その身を光に変え、どれほど暗い闇のなかだろうとお構いなしに突っ込んできた、あの向こう見ずの横顔。
 そんな遊馬を見ていると、不思議と、アストラルの方へ感情移入してしまいそうな気がして俺はなんだかそれがおかしかった。遊馬の言うことは大抵の場合理解が追いつかないが、アストラルの言葉は、理論に裏打ちされている分理解がしやすい。光で何もかもをねじ曲げて己の願った未来を手にしてしまうような少年の考えていることがわかる奴なんかいてたまるか、と思うが(しかし恐ろしいことに理解出来ると思い込んでいるやつは時たま存在する)、それに根負けして寄り添っている者の考えることは手に取るようにわかる。皮肉だが、彼の隣にいると、それがわかってしまう。
「そりゃあ、アストラルは、心底そのつもりでお前にそう言ったんだろうなァ。真月零なんてハナからいなかった。いちゃ、いけなかった。だから露と消え、夢幻のように、想い出のあとさきにだけ顔を出す蛍の光を奴はそう言ったんだろうさ。夏休みの最後の日を昼寝に費やして、目が覚めたと思えば夕暮れ時にただぼんやりと長い影が伸びているばかりで、気がつけば、最後の夜がやって来てしまうかのような。何度も言ってるだろ? あれはそういう役回りだったんだ。初めから死ぬために生まれてきた。いや……死ぬため、ですらなかった。あいつははじめからどこにもいなかった」
「そうだな。お前はそういうこと言うの、大好きだもんな。じゃあ、俺がそのたびになんて返してきたかも、もうわかってるだろ?」
 すらりと伸ばされた指先を、止まり木か何かと勘違いしたのか一匹の蛍がそこへ腰を落ち着ける。投げかけられた含みのある言葉と相まって、そいつはまるで「じゃあこれがおまえだ」と言われているようだった。止まり木のつもりで虫取り籠の中にまんまとおびき寄せられていたことを、もう一度知らしめさせているみたいな。
「……おまえが殺しておまえが引きずり出したんだ。幽霊を蘇生させるとか、もう、ただの変態だっての」
 しかし彼はただの一度もそんなつもりで蛍を――幽霊を騙したことはない。それが九十九遊馬という少年の一番最悪なところだった。最初からどこにもいない幽霊なんて、一体誰が蘇らせるっていうんだ? そこにないもの、どこにもいないもの、この世のはじまりにも終わりにも姿なきもの、そうであったはずの幻を九十九遊馬は殺して生かした。殺す事によって生かした、と言い換えてもいい。サルガッソでのあのデュエルのあと、頑なに俺を真月零とは呼ばなかったあの期間。あの時間の中で、真月零は一度死んだ。それを生み出した俺の与り知らぬところで勝手に殺されていた。
 つまり彼は死を逆手に取ったのだった。「生きていないものは死ねない」。では、殺す事が出来れば、それは、どんなかたちであれ、「生きていた」ということになるのではないか。九十九遊馬は無意識に真月零を殺す。完膚無きまでに殺害する。それにより、「どこにもいない」幽霊は、「どこかにいた」男の子に、成り代わる。
 消えたはずの幽霊が蘇る。この世に確かに足を付けていた少年として。
「俺がヘンタイだったら、ベクターはさ、じゃあ何になるんだよ?」
 精一杯恨みがましい声で言ったのにも関わらず、返ってきた遊馬の言葉は明るく、笑い調子でさえあった。どうやら大して面白くもないジョークか何かだと勘違いしているらしい。そういうところが変態なんだ。自分を棚に上げて俺のことを変態呼ばわりしてくるところが、俺は、きらいだ。
「だって俺真月と行きたいとこがまだいっぱいあったんだ。来年の花火大会も一緒に行くつもりだったし、五十メートル泳ぎ切れるようになるまで面倒見ていてやらなきゃって思ってた。俺達はまだ夏しか一緒にいなかった。俺はさ、秋も過ごして、長い冬を超えて、春の桜を見せてやるつもりだったんだぜ」
「お前の計画なんざ知ったことかよ」
「それ言ったら俺だってベクターの悪巧みなんか知らねえもん! それなのに実はそんな奴いなかったんだって言われたら、ゴメンとか言われたって、納得出来ないだろ。なんだか夏の日に――お日様がいっぱいにまぶしくて雲一つない大空の下にさ――ひとりぼっちで急に投げ出されたみたいな気がしたんだ」
「裏切られたって言いたいのか?」
「ううん。夏休みのやりたいこと全部書いた計画帳を置き忘れてきたって感じ」
 聞くだに最低な理由だ。俺は既にこの話に藪蛇突っ込んでしまったことを後悔していたが、その後悔は、ここへ連れられてきて蛍を眺めてしまっている時点で後には立たないというか、もう、決まってしまっていた末路のような気もどこかではしていた。この子供ときたら、夏休みの予定が狂ったので肝試しで出てきた幽霊を生き返らせてみました、というようなことを平気な顔をしてやらかす。
 どうしてそっとしておいてくれなかったんだろう。あいつはどこにもいなかったんだ、ということは懇切丁寧に十回は言い含めていたはずだったが、よく考えてみると、それは尋ねたことがまだない。友達なら、その気持ちを慮ってそっとしておいてくれたって良かったんじゃないか? お前は一人でいたい時とかないのかよ。お前にだってあるだろう。誰にも邪魔されず、孤独でいたい時が。アストラルに鍵の中へ入っていろと言った時間が、あったはずじゃないか。
「あ、それ?」
 すると遊馬は指先に止まった蛍を俺の方へ近づけ、なんでもないように微笑み、満面の笑顔で蛍を夜へ放す。
「そんなの、一つしかないじゃん。――寂しそうなやつを、放っておけるわけないだろ!」
 蛍が星明かりに紛れてどこかへ飛んで行く。こいつ、本当、最低だ。だから思い切り口に出して詰ってやったのに、遊馬ときたら、でれでれと照れくさそうにまた笑うのだ。


 月は出ていないが、星は綺麗に空へ散らばっていて、それに蛍が合わさり、夜空は星屑を敷き詰めたように視界いっぱいへ広がっている。台風一過の雨上がり、今日は蛍が出るらしいと連れて来られた俺は、夢の中を歩くようにして帰り道も遊馬の後をついて歩いた。夏の終わりが近づいてきている。一年前のそれは、真月零の消滅を知らせるサインだった。夏が終わると俺は、九十九遊馬の憧れの中をさまよっていた真月零を、汚い花火を打ち上げてボロボロのバラバラに引きちぎるみたいに、どこぞへ消した。二度とあいつの手が触れないように、だ。
 もう二度と、永遠に、彼の手に触れられたくなかった。
 触れられたら捕まえられてしまうということを、真月零は知っていた。
「二学期になったら、また、プールの授業があるだろ。今年は泳げるようになろうぜ。五十メートル……とは言わないから、二十五メートルはさ」
 去年置いてきたはずの「夏休みの計画帳」に書かれていたと思われる事柄を指折り数えて、遊馬が前を歩いている。汗っかきの彼は、首筋に僅かに汗を滲ませながら俺の手を引く。繋いだ手のひらも汗ばんだまま。
 あの喉を噛み千切ってやりたいと、今でも、思わないわけじゃない。
「二十五メートル平泳ぎなんか出来なくたって死なねえよ」
「クロールが出来るんなら、それでもいいんだけどさ。犬かきも覚束ないんじゃ、やっぱ心配だって」
「うっせ。俺のことなんざ放っておいて一人でバタフライしてろよ、バカ」
 喉元へ歯形を付けてやりたいという欲求を繋いだ手の中に隠して、同じ道を帰る。蛍のようだとアストラルに言われた真月零が帰る道を、九十九遊馬は知らなかった。翻って、帰る道を同じ先へされてしまった時点で、真月零は彼の虫取り籠の中に入れられてしまったようなものだと、言えるのかもしれない。けれど俺は知っている。九十九遊馬は、死ぬまで虫籠の中に捕まえた虫を閉じ込めてはおかない。生きているうちにどこぞへ放ってしまう。それも虫が遊馬を飼い主と認識し、懐いてきた頃、急に思い立ったかのように無責任に。
 自由を与えたのだと、誰かは言うだろう。
 俺なら一度捕らえたが最後、二度と離さないのに。それはかえって残酷な答えに成り得るとお前は知らないのか。合わさった指先の温度は高い。熱を孕み、胸の高鳴りを伝え、少年の生き様を刻みつけるが如く。
 ふと、風が吹いた。それに続くように音が響き、振り返った向こうでは川沿いのエリアで花火の打ち上げが始まっている。あれを見に行きたいか、と遊馬が尋ねる。俺はいいや、と首を横へ振る。あの花火を二人で見る時は、俺達の過ごした夏が、少年として生きる時間が、終わったその時でいい、と俺は思っていたから。