※映画後日談本のweb再録
※闇表ぽい要素と海→闇ぽい要素あり






ファラオの





 君が「ボク」を見ていないことは、知っていたよ。

「海馬くん。君に伝えなきゃいけないことがあるんだ」
 残されたパズルのピースを自らの手ではめ込んでいく。長い間ずっとボクと共にあったそれの、欠落を埋める。そうしたってしょうがないんだってことは、本当はもう、わかっている。あの雨の交差点でピースに触れたその時からずっと……。
 けれどセラやディーヴァ、プラナの子供達、そして海馬くんは……きっとしょうがなくない、って思っているのだろう。疑ってみてもいないはずだ。頑なに信じている。ボクとは違うものを、彼らは、信じているんだ。
 パズルを正しく、「ファラオの器」が完成させれば。彼が、「アテム」が……戻ってくるって。
 だけどそこにはその実、なんの根拠もない。
 最後のピースをはめ、形を整えると、千年パズルは完璧な姿を取り戻してボクたちの間に佇んだ。ずっとボクの胸元にあった、彼が宿っていた時と同じ、完璧なかたちで……けれど最も大事な「目に見えないもの」だけが欠如して。静かに、いっそ恐ろしいほどの静寂を伴って、パズルはそこに在った。まるでボクと海馬くんの両方を冷徹に見つめてでもいるみたいに。
「この千年パズルに、もう彼は……アテムは、いないんだ。ピースにはじめて触れた時から、ボクにはもうそれがわかっていた……」
 「本当のこと」を告げ終わると海馬くんが激昂して叫んだ。彼がこの世のどこにもいないのはどうしようもない事実なのに、それなのに、「認めない」だなんて。ちょっとだけ呆気にとられる。
 説明すれば、現実を目の当たりにすれば、わかってくれるかなと……期待していたから。
 だけど――そうだね、君はそういう人だ。
 デュエルの続行を受け入れてディスクを構え直す。君がボクのことを「ファラオの器」としか見ていないこと、そう呼んで憚らなかったこと、それほどまでにアテムを求め焦がれていること……それらは、究極、ボクの決意やなすべきことには関係がないんだ。
 そう。わかっていたよ。
 君がボクのことを容れ物としてしか見ていなくとも、彼の魂を現世へ押し留める肉体の牢獄としてしか求めていなくとも、何も変わることはない。
 アテムはもういない。
 ボクが彼を打ち負かし、ボクが彼を冥界へ送り、ボクが彼を看取った。
 本当はずっと現世にいたくて、神のカードをも駆使して全力でボクを倒そうとしていた彼を、それでもボクは黄泉へと送らなきゃいけなかった。彼の心をボクという牢獄に閉じ込めていくわけにはいかなかった。ボクだって本当は彼と離れたくなかった。彼がボクのそばにいたいって思っていてくれたのと同じかそれ以上に……!
 だから――ボクは彼と約束をした。
 ボクはそれを守りたい。他の何に代えても……。


◇◆◇◆◇


 卒業式からしばらくが経った、よく晴れた日のことだった。その日遊戯は祖父に代わり店番をしていて、平日の真昼間だからか客足も少なく、店先でデッキの調整をしているところだった。目下の課題は、新しいマジシャン・ガール達をどうデッキ構成に活かしていくか。
 そんな長子で黄金櫃のそばにばらばらとカードを並べていたその手が、不意に、入り口のベルが鳴ったことでぴたりと止まる。
「いらっしゃいませ……あれ? モクバくん……?」
「……遊戯。今ここ、お前一人だけ?」
「う、うん。じーちゃんも出掛けてるし、お客さんも一段落付いて……何かあったの?」
「じゃ、店先の看板、クローズにしていいよな。遊戯にだけ……話があるんだ」
 突然現れたモクバの発言は強引だったが、遊戯には彼を咎める気が起きなかった。ここのところずっと彼が着込んでいる真白いスーツはややくたびれたふうで、それに着られているモクバ自身、心なしか頬が痩けて疲れ切っているように遊戯には見えた。
 
 少し早い店じまいを終えて奥のリビングに通すと、モクバは大人しく腰を下ろし、じっと、遊戯が席に着くのを待った。何か、ものごとを切り出すタイミングをはかりかねているようだった。小さな背中にたくさんの重責を背負い、海馬木馬はさりとて親しい仲とは言い難い相手の領域に踏み込み、留まっていた。
 ホットココアを用意して渡すと、おずおずと手に付ける。遊戯は敵ではないし、特別親しいわけではないとは言え因縁もない相手だが、それを差し引いても、今の彼は、どうしてもくたびれてしまう何かを、抱えているのだろう。
「それでモクバくん、話って」
 出来る限り柔らかい口調で静かに切り出す。しかしモクバは依然として緊張を孕んだままで、厳しい面差しを遊戯へ向けた。
「……遊戯、おまえ、口は堅いよな」
「え? うん……もし君が望むならここで聞いた話は誰にも口外しないよ。決して。……どうしたんだい?」
 言葉端も緊張でがちがちに固まっていて、遊戯はおずおずと訊ね返さねばならなかった。モクバは、全身がそうであるのと同じように言葉じゅうを硬質に強張らせていた。彼はココアを飲んでいるはずなのに、舌が乾いて仕方ないようなふうに顔をしかめて、俯いた。
「…………。兄サマが行ってしまったんだ」
 モクバが言った。
 彼自身の様子に反して言葉の示す意味はしっかりとしており、遊戯はたまらず、固唾を呑んだ。
「どこへ」
「兄サマはアテムとの再戦を諦めなかった。……あとはわかるだろ?」
「まさか……だってアテムは、確かにあの一瞬ボクの元へ再び現れたけど……彼はすぐに帰ってしまったよ。冥界に……」
「だから兄サマ、その冥界へ向かったんだ。冥界って言い方、兄サマはしないけど。藍神……ディーヴァから押収していたキューブを解析し、昼も夜もなく急ピッチで研究を進め……ディメンション・デュエル・システムを科学の力で再現した。それで出来上がったのが次元領域エミュレータ。兄サマの理論では、それが成功すればアテムとの真の意味での再戦も夢じゃなくなる」
 モクバは尚も語り続ける。ぞっとしないものが背筋を駆け抜け、遊戯は遮る言葉もなく、彼の言葉を呆然と聞くしかなかった。
 取り憑かれたようにシステムの開発を急ぐ海馬の姿が、ありありと浮かぶ。アテムがここにいないということを告げてなお認められぬと一蹴した彼の姿が脳裏に蘇る。
 そうだ。遊戯は知っている。
 彼の信じる力の強さ……信念の、巌のような頑強さを。
「でも」
 話し続けるモクバはやはり俯いたままだった。顔を上げぬまま、語調だけが少しずつ荒くなっていった。遊戯が知っていることをモクバが知らぬ道理などない。海馬兄弟の間に何があったのか、遊戯にも段々と分かりはじめ、遊戯は再び息を呑んだ。
 モクバには兄の信念を遮ることが出来ない。たとえどんなにそれを怖がって、恐れてもだ。
 遊戯があの日アテムを冥界へ送らねばいけなかったのと同じぐらい確かな理由で、モクバは兄を見送らねばいけなかった。そこには片道切符しかないとわかっていたのに。
 身を引き裂かれるような思いにじっと耐え、兄を肯定し、後ろ姿をじっと見ていることしか、彼には選べなかったのだ。
「次元領域エミュレータは現状では殆ど未知のブラックボックス。何があったっておかしくないし……むしろ、何もない確率の方が、よっぽど低い。ねえ遊戯、オレさ、本当は行って欲しくなかったんだ。兄サマに。だって死んじゃうかもしれないんだぜ? 不安要素だらけの新システムの実験に、人間を……それも兄サマ自らを使うなんて……ばかげてるんだ。やっちゃいけなかった。なのに兄サマはそれを選んで、そうしてオレに言った。『あとは頼む』――って」
「モクバくん……」
「でもオレ、わかってる。兄サマはそうまでして、どうしても、絶対、自分の手でアイツを倒したいんだ。海馬ランドでお披露目した新システム、あれを兄サマが作った理由も遊戯にはわかるよな。そうだよ。あれだって、アテムに会うためだった。結果は失敗だったけど……」
 海馬瀬人の記憶から取り出された『アテム』の再構築は、理論的には一片の曇りもなく成功していた。海馬瀬人自ら、pあの忌々しい態度までもが同じだった」と言い棄てたように、「うわべ」だけならば、限りなく本物に近いなにかをトレース出来ていた。
 だがあの幻には魂が足りていなかった。
 オカルト嫌いで名高い海馬瀬人はそれにより、「魂の存在」を肯定したのだ――恐らく。魂という概念を肯定しないことには、海馬の記憶から構築されたアテム(完璧であるはずのそれ)の失敗を説明出来ない。だから……。
「でも兄サマは、薄々ソリッド・ヴィジョンシステムだけじゃなんとかならないんじゃないかって、感づいてたんだよな。だからオレを現場指揮にして、エジプトの発掘も並行して行ってたんだ。再現出来なかった『アテムの魂』を手に入れたくて。魂が一から作れるものでないのなら、本物を引きずり出すしかない」
「それじゃ君たち海馬コーポレーションは、やっぱり……あの墓を荒らしたんだね」
「……ごめん。遊戯はそれ、怒っても仕方ないよな。だけど必要だったんだ。どうしても……パズルが必要だった。パズルさえ完成すれば、きっと目的が達せられると、兄サマは信じてたんだ」
「ううん、怒っているわけじゃないんだけど……ちょっと驚いてる。ファラオの墓は幾重ものトラップに厳重に守られていて、ボクらだって墓守の一族であるイシズさんやマリクの先導があってやっと辿り着けた場所なんだ。それに、最後は……あ」
「うん。入り口が崩壊し、トラップも壊れてた。あの墓の主が冥界に無事旅立った今となっては、侵入者を阻む理由がなかったのかもな、もしかして」
 そこまで話し終わり、モクバは俯いたまま、唇を閉ざしてしまった。
 そういうわけで海馬コーポレーションは堂々と墓を暴き、パズルの発掘に成功した。あとは遊戯も知っての通り、パズルのピースを巡って幾らかの諍いが起こった。ディーヴァは二つのピースをすり替え、その後、紆余曲折を経て、千年パズルが完成する。
 けれどそれでもファラオは帰還しない。何故ならそこに彼の魂など、もう、一欠片も、ありはしなかったからだ。
「ボク、ひとつだけわからないことがあるんだ」
 遊戯は小さく唸り、呟いた。
 堰を切ったように話し続けた反動か、疲れ切ったように口を閉ざしてしまっていたモクバがその言葉で顔を上げた。疲弊の色濃い顔は、背伸びをしてもどこかあどけなさが残る、少年期の終わりの頃の顔をしている。
「海馬くんは、オカルトが嫌いだったよね。彼は、全ては科学の力で解明出来ると信じていたんだ。だからこそ彼は、千年パズルを手にしてなお、そこにアテムがいないことがわからなかったのかな……って、これはボクの勝手な推論だけど。
 ……ともかく、その彼が魂を肯定し、冥界へ向かおうと思ったこと自体、まだ納得が出来ないんだ。確かに彼は、あのお披露目の時、魂と肉体についての演説をしていたよね。『肉体とは魂の牢獄。人々は争いを繰り返すが、勝利に至ったところで、肉体という牢獄から逃れることは叶わない』。――でもさ、だとしたら……彼の目指していたものって一体何? 海馬くんはとてもじゃないけれど、魂が死以外のルートで肉体から離れることがあると、わかっていたとは思えない」
「――それでも兄サマは、その方法に至ったんだ。科学の力でね。そして魂を呼び戻せないのなら、こちらが魂となり、向こうへ行けばいい、って考えた。
 あのさ、遊戯。千年アイテムの力でお前とアテムが肉体から出たり入ったりを繰り返してたのは、オレも一応理解してるんだ。兄サマも同じ結論に至り、だから実用化に成功した」
「……確かに、海馬くんはすごい人だよ。彼がその気になれば大抵のことはなんでも出来るんだろう。だけど信じていないことを現実にするのは、はっきり言って、魔法を使うようなものだ。一体どうやって?」
「だからディメンション・デュエル・システム、なんだ」
 放たれた言葉は、今度こそ重みを伴い、遊戯の胸に落ちた。
 ディメンション・デュエル・システム。
 プラナの子供達が構築していた集合意識ネットワーク、ひいては、ディーヴァの用いた不可思議なキューブを海馬が「解析」し、彼の論法で「昇華」され、形を為した、「次元を超越するための力」……。
「いいか、遊戯。自分たちが住んでいる世界以外にも宇宙や次元が無数に存在し、それゆえ別の宇宙には他の自分が存在しており、それらは無限に広がっていくという多元宇宙論――マルチバース理論は、実はきわめて『科学的な』考え方なんだ。そこで兄サマはこう考えた。ディーヴァ達プラナが高次領域からの迷い人であるのなら、アテムもまた、『冥界』という異なる宇宙からの来訪者だったんじゃないか、って。
 要するに、兄サマにとってアテムが死者かどうかなんてのは、どうでもよかったんだ。生きてるか死んでるかを全部すっとばして、ただ、兄サマは信じた。『アテムのいる別次元は必ず存在する』、って」
「そ、そんなめちゃくちゃな。アテムは確かに、三千年前の死者だよ。この世界の。他のどの次元でもなくて……」
「どうかな。それさえも、思い込みに過ぎないのかもしれない。兄サマの理論が成功しているのかどうかは、外でモニタリングしてるだけのオレたちにはわからないけど。……だけど兄サマの考えはいつも正しいから。もしかしたら今頃、兄サマはアテムの座ってる玉座の前で、ヤツとデュエルをしてるかもしれない」
 兄の正しさについて口にする時のモクバは誇らしげで、そこにだけは、唯一、背伸びがなかった。それはきっと、真っ直ぐで嘘偽りのない、モクバの本当の気持ち。
 だからこそ、彼の持つ痛ましさというものが切々と遊戯に訴えかけてくるような気がする。
 海馬がいない今、モクバは彼ひとりで海馬コーポレーションを支えねばならない。BIG5という内部不穏因子こそとうの昔にいなくなったものの……海馬瀬人という強大なカリスマが不在であることが万が一外に露見してしまえば、どんな輩が牙を剥くか、わかったものではない。
 それらと、彼は日夜、たった一人で戦っているのだ。
 もちろん、磯野など、モクバを支えてくれる人もいるだろう。けれど海馬瀬人の誇りを守ることはモクバにしか出来ない。かつて遊戯がアテムを守ろうとしたのと同じように。
 その意味で、モクバと遊戯は似たもの同士だった。二人はお互いに命よりも大事なものを守ろうとして、戦いを続けている。
 モクバが再び項垂れた。
「……だけどさ遊戯。実を言うと、兄サマが『魂』というものについてどう考えてるのかは、オレも全然自信がないんだよ。魂が、デジタルに数値化出来るものじゃないらしいってことは、既に証明された。兄サマとデータによって再現されたアテムのデュエルをあとから見たんだけど、ひどいもんだった。そのデュエルでアテムのデータは、ごく初期に流通していたような古いカードしか使っていなかったんだ。『サウザンドナイフ』、『エルフの剣士』、『黒魔術のカーテン』……みんな大昔の戦術だ。デッキの中身自体は最新版にしてあったのにな。
 ――データには、新しいタクティクスを取り入れることが出来なかったんだよ」
 少年の指先が、小刻みに震える。怒りでも悲しみでもないものからもたらされるそれは、恐怖と、畏れとの慟哭だ。
 海馬木馬は、今にも泣き出しそうな顔をして、それでも嗚咽ひとつ漏らさなかった。
 遊戯はその指先へそっと触れる。つめたい。とてもつめたく、怯えきって、怖がっている。
「でもオレ……オレは、思うんだよな。『魂』っていうものは本当に目に見えなくて、数値に出来なくて、だから結局、人の手が触れられる領域にないものだったんじゃないかって、今になって思うんだ。自分の魂を抜くなんて馬鹿げてるって、今更、怖くなってるんだよ。
 ……次元領域エミュレータは、宇宙へ行くためのロケットとは違う。だから肉体ごとどこかへ飛ばしてしまうわけじゃない。海馬コーポレーション本社ビルの中には今も兄サマの身体がある。エミュレータの中で眠って、外部から点滴で栄養素を摂取し、まるで魂が抜けたような兄サマの身体が、今もそこに横たわっている」
 あの頃みたいに。
 モクバの最後の声はひどく弱々しかった。海馬瀬人には、意識の戻らぬ虚ろな瞳を掲げ、魂の抜けた肉体を晒していた時期が二度ある。一度目は、DEAT-Tでアテムに敗北し、心を取り戻す旅に彼が出た時。そして二度目が、ペガサスとのデュエルで敗北し、千年眼の持つ闇の力でカードの牢獄に魂を囚われていた時。
 ――そうか。
 そのことに思い当たって、遊戯は小さく息を呑んだ。
 物質論から外れた精神論の拠るところである、『魂』というものの欠落を誰よりも味わっていたのも、実のところ、海馬瀬人なのだ。
 そしてそれをそばでずっと見ていたのが、彼のたった一人の弟であるモクバ。
「それでも。一度目は、遊戯……アテム、が心のパズルを解き明かした時に帰ってくるって言ってたし、実際、兄サマは帰ってきた。二度目は……オレもカードに魂を抜かれてたし、すぐに再会出来た。けど、三度目は? 三度目も兄サマはちゃんとオレのとこに帰ってきてくれる? それがわかんないよ!
 ……遊戯、オレ、こわいんだ。オレは誰より兄サマを信じてる。兄サマの全てを、世界で一番オレが信じてる! けど……けどさ、だからって怖くないわけじゃない……!!」
 モクバが叫ぶ。遊戯だけが聞いたその叫び声は悲痛そのものだ。
 遊戯は黙って彼の小さな身体を抱きしめた。それが遊戯に出来る精一杯だった。悲しみに暮れた少年は、遊戯の手の中で静かに泣き続けた。


◇◆◇◆◇


 エジプトのカイロ国際空港を訪れたのは二度目だった。一度目は、忘れもしない、彼を冥界へ送り出すためにやってきたあの日だ。
 あの時はルクソールにある王家の谷を目指しての渡埃だったが、今回の目的地はカイロ市内にある。遊戯は気を引き締め、待ち合わせの先であるエジプト考古学博物館へと足を向けた。
 エジプト考古学博物館、通称カイロ博物館は首都に存在する国立の施設であり、エジプト考古局長官であるイシズ=イシュタールが深く関与する場所でもある。そう考えると、「彼ら」との対話を今一度持とうとした遊戯が彼女に頼った結果、ここを指定されたのも、当然のなりゆきだ。
 博物館内部へチケットを買って入り、展示を順に見ていく。歴代のファラオ達の遺品、黄金のマスク、カフラー王座像、ラムセス二世のミイラ。
 それらを通り過ぎて更に奥、ある壁画の前に、二人組の男女が立っている。
 遊戯は彼らを見つけると急ぎ足で駆け寄り、手を振った。
「ごめん。待たせちゃったかな、藍神く……いや……」
「藍神で構わない。もちろん、望むならディーヴァでも」
 遊戯に声を掛けられ、藍神が振り返る。彼はにこりと笑い、それから、隣にいる妹の手を引いた。
「また会えて嬉しいよ、遊戯」
「再びお会い出来て光栄です、武藤遊戯さん。政府から連絡が来た時は驚きましたが、あなたが許すなら今一度話をしてみたいとは私達も思っていました」
「ボクこそ。藍神くん、そしてセラ。ボクの呼びかけに応えてくれてありがとう。……ええと、元気?」
「はい。……私達が力を失ってしまったこと、知っているんですね」
「うん。なんとなくね」
「確かに、プラナの子供達はあの日以来力を失いました。けれどそれで良かったと今は皆思っています。あなたはやはり、私が信じた通りの方でしたから……」
 セラが微笑む。つられて遊戯や藍神も笑み、三人は壁画前のソファに腰を下ろした。


 プラナの子供達が力を失ったことについて、はっきりとした根拠はなかった。ただ漠然と遊戯にはその予感があり、彼らとの対話を持てれば、と考えていた。先日モクバから聞いた海馬瀬人の話も、そう考えた理由の一つだ。
 多次元宇宙論。
 プラナ達が目指していたという高次元領域について、彼らに話を聞きたかった。
 アテム――ファラオの魂は、あの時、ほんの僅かな間であったとはいえ、あるべき形を棄てて現世に蘇った。この世の理を破ったアテム自身は、そのことについてさほど悪びれていなかったのだがそれはさておき。ファラオが蘇ってしまった以上、プラナたちは、彼らが目指していた未来――「理想郷」へ至ることが出来ず、現世に留まっている可能性が高い。
 そう踏んで遊戯はイシズに連絡を取った。そして墓守の一族でありエジプト政府の高官でもある彼女の尽力を得て、戸籍を新たにして暮らしている彼ら兄妹の所在を掴むことに成功したのだ。
 兄妹が遊戯からの呼び出しに応じるかどうかは、正直言って賭けだった。しかし兄妹はこれを快諾。待ち合わせ場所を、件の……ファラオと神官の決闘を描いた石版の前に指定したのは兄妹の方だったのだが、果たしてそれが因果なのか、もしくは単なる彼らの興味でしかなかったのか、真偽のほどは不明である。
「あの時、遊戯さんにお礼を言えなかったことが、気がかりだったんです。改めて……私の兄を救ってくださってありがとうございます」
「ううん、結果的にそれを為したのは、ボクじゃないし。ボクは最後、諦めかけちゃったから」
「けれど、既に現世から消えていたファラオを呼び戻すなんて奇跡が起きたのは、あなたが武藤遊戯さんだからなのだと私は思います。あれこそ、本当に、奇跡という名で呼ぶのにふさわしい」
 セラが言った。彼女の表情はすっきりとしており、晴れ上がった空のようだった。遊戯は少し照れながらも、そうか、と彼女の言葉に頷いた。
 それから遊戯は、かいつまんで、海馬瀬人の挑んだ研究と実験について彼らに話した。瀬人が現在、意識を閉ざして機械の中に横たわっているという情報は伏せて話したが、それでも、途方もない話には違いない。
 兄妹は黙って遊戯の話に耳を傾けてくれていたが、その表情のめまぐるしい変化を追えば、彼らが衝撃を隠し切れずにいることは明白だ。
「……というのが、ボクが聞いている内容。ちょっと突拍子がないかもしれないけど、本当のことだよ」
 遊戯が伺うように言うと、藍神が頷いた。
「まさか、と思いたいところだけどね。相手はあの海馬瀬人だろう? 僕を拘束した時、彼は既に、プラナの力を一時的に封じるゴーグルを用意してきていたんだ。とても驚いているが、確かに彼ならあり得ない話じゃない。
 僕がシン様にいただいたあのキューブは、プラナの力でしか起動させることが出来ないんだ。だから実は、使っていた僕自身、キューブの仕組みについてはよくわかっていない。海馬瀬人は確かに類い希なる精神力の持ち主だったが、それでもプラナに比べれば大元の自我領域は少ないし、そもそもこの次元に、プラナの力を使える人間はもういない。だからこそ、奴が僕から押収したキューブを解析したと言った時、僕は言ってやったのさ。次元領域は海馬コーポレーションの技術力を持っても踏み込める場所ではない、とね。
 ……それでもなお、科学で強引に組み立てなおそうだなんて。はっきり言って正気の沙汰じゃない……けれど」
「はい。けれど遊戯さん、『正気の沙汰ではない』からこそ、私はその実験は成功しているような気がしています」
 兄の台詞を継いでセラがそう言い切る。何故、と遊戯が問うと彼女は少し考えるような素振りを見せ、それからまた口を開いた。
「まさか冥界を、この世界と並行した、異なる次元として定義するだなんて。私達にはとても思いつけない、あまりにも大胆極まりない発想です。彼は神を信じていないし、神秘というものにも理解がありません。遊戯さんも知っての通り、彼が何よりも強く信じているのは、己のみ……。ですが、だからこそ、狂気を結実させてしまうほどに確固たるその信念ならば。不可能を可能にすることもあるのかもしれない」
「それにだ、遊戯。城之内が一度、ファラオに会ったというのは本当なんだろう?」
「あ、うん。そうだよ。言葉を交わしたわけじゃないし、逆光みたいに眩しくてはっきり顔が見えたわけじゃなかったけど……ボクらの記憶の中にある彼の姿を確かに見た、って城之内くんは言ってた」
「なら、それが海馬の成功を裏付ける根拠になるだろう」
「……どういうこと?」
「『他の誰からも認識されない世界』というのは、言うなれば、存在の否定、死と同じだ。あの次元領域において、城之内克也は限りなく死んでいた。それはつまり、死者の次元というものがあるのだとしたら、城之内はそこに肉薄していた可能性があるということ。……もちろん遊戯、君が言ったように、絆とやらも作用したのかもしれないが」
 指先を組んだ両手をもぞもぞと動かし、藍神が慎重に言葉を選ぶ。自らが一度復讐者に身をやつしていた経緯もあり、仲間を傷つけられた形になる遊戯に、今の彼は引け目を感じているらしい。
 藍神はなおも辿々しく、言葉を繋いでいく。
「その……思うに遊戯、君は実のところ、海馬瀬人の心配は、していないんじゃないかな。誰より未来を信じている君の、その思い描く未来の中に彼がいないとは思えない。海馬が正気だろうが狂気だろうが、それは既に海馬瀬人という男にとっての通常でしかないんだ。
 ……あのさ。僕からして見ても、あいつは狂ってるよ。いいとか悪いとかじゃなくて。ただ事実としてあいつはおかしい。でもそうじゃなくなった時、きっと海馬瀬人はこの世から消えてしまうだろう。この次元の集合意識は、海馬瀬人をそういうふうに認識し、定義しているのだから」
「……藍神くん?」
「だから……その。僕が思うに、君が本当に気に掛けているのは、そんなことじゃないんだ」
 どこか慮るような声音に、遊戯はびくりとして、はっと息を呑んだ。再び見つめ直した藍神の眼差しは、戸惑いを含み、揺れている。
「本当に知りたいのは、別に多元宇宙論の講義なんかじゃなくて……何故海馬がそこまでするのか、ってことなんだろう? 奴がそこまでして冥界への道を辿る理由。何というかそれは、墓を暴く人間への、墓守の憤りみたいなもので……」
 彼は躊躇いを感じているようだった。考えをうまく言葉に表せないもどかしさと、それを口にしてもいいのかという戸惑いが同居し、藍神の言葉は、より、慎重さを増していた。
 けれどそれでも、彼は言葉を止めない。あの琥珀色の眼がはっきりと見開かれ、遊戯を射貫いている。
「あの時。リングの邪悪なる意思に汚染されていた僕は、それでもきちんと自我を持っていたし、何が起こっていたかを覚えているんだ。自分が一体どんな言葉を投げかけて、どんな気分でいたのかも。どれほど世界を呪わしく思い、どれほど人々を滅ぼしたかったのかも……全て。ファラオが現れた瞬間ともなれば、尚のことだ。
 あの、ファラオが再びこの世に降り立った瞬間。彼は世界中全てを見回し、そして遊戯を見た。――遊戯だけを。君だけを見ていた。そしてファラオは君に宿り、君を救い、今度は自分が大切なものを守るために、しもべを呼び出した。……そのことを、自らにターゲットを集中させて遊戯を残した時点で、海馬は予期していた。……。その意味を君がどう受け取ったのかは知らないが……だから、ええと……」
 そこまで来て、ようやく藍神が口を噤む。それから彼は大きく息を吸い込み、深呼吸をして、遊戯の手を握った。それから、一ミリたりとも視線を逸らすことなく真っ向から遊戯を見据え、再び口を開く。
「ごめん。これ以上は、言葉で伝えるのは難しそうだ。だから、遊戯――いや、《決闘王》武藤遊戯。
 もしよければ、僕と今ここで戦って欲しい。魔術の札、あなたとファラオが愛した『マジック・ウィザード』で」
 藍神の言葉に、遊戯は静かに頷いた。
 

◇◆◇◆◇


 あれからずっと、考えていることがある。

『お前もまた誇り高きデュエリストだった』
『海馬は予期していた。その意味を君がどう受け取ったのかは知らないが』
 全てが終わったあと、海馬くんに言われた言葉。それから、たった今藍神くんに言われた言葉。
 それらがぶつかり合い、まるで化学反応でも起こすみたいに作用し合って、何かをボクの前に示そうとしているんじゃないか、って。
 そんな気がしている。
「フィールド上の三体の方界胤ヴィジャムを墓地へ送り、手札より《方界超獣バスター・ガンダイル》を特殊召還。バスター・ガンダイルの攻撃力は三〇〇〇アップし、更に一度のバトルフェイズ中に三回攻撃が出来る。……バトル!」
 あの、デュエルの時。ボクへパズルを託し、「ヤツを呼べ」と海馬くんが言い残したことについて。
 ボクは単純に、それは彼が勝利を信じているからだと思っていた。諦めかけてしまったボクと違い、ただひたむきに勝利のみを信じているから、僅かにでも残された勝ちの可能性を拾おうとしたのかなって。
 だけどもし、それだけじゃなかったんだとしたら。
 彼の信じていたことが、勝利のみではなく……もう一つ、あったのだとしたら。
「墓地の《クリアクリボー》の効果を発動! 相手の直接攻撃宣言時、クリアクリボーを除外することでデッキからカードを一枚ドロー。ボクのドローしたカードは《ブラック・マジシャン》。現れよ、ブラック・マジシャン!!」
「だが、まだバスター・ガンダイルの方が攻撃力は上! そんなことで――」
「更にリバースカードオープン、《師弟の絆》を発動。自分フィールド上にブラック・マジシャンが表側表示で存在する場合、自分の手札・デッキ・墓地から《ブラック・マジシャン・ガール》を一体特殊召喚。続けて速攻魔法、《ブラック・スパイラル・フォース》を発動! このターン、ブラック・マジシャンの攻撃をしない代わりにブラック・マジシャン・ガールの攻撃力を二倍にする!!」
 藍神くんが言葉を尽くす代わりにデュエルを提案してきたその意味は、ここまでの遣り取りで伝わってきている。時に、言葉よりもデュエルが雄弁であることを、ボクは身をもって知っているから。
 彼には伝えたいことがある。
 つまり、海馬くんは何故、アテムを求めたのか――ということについてだ。
 ……確かに、アテムと海馬くんは好敵手同士だった。しかもアテムの勝ち越しで、彼は遠くへ行ってしまう。挽回の機会もなく勝ち逃げされたら、そりゃあ、面白くないだろう。
 ボクはずっと、そういうふうに思っていたんだ。それは仕方ないよねって。海馬くんはまだ、アテムとの勝負に納得出来る終わりを見つけられてないんだ。そういうふうに、考えていた。
 けれど藍神くんの目は、彼の一手一手は、そうじゃない、とボクに訴えかけてきている。海馬くんの理由は、それだけに留まらないって。もっと深いもの、もっと剥き出しで、がむしゃらで、それからちょっとわがままなぐらいの熱情が彼の中にはあるはずだ、と。
 ボクは段々と、藍神くんがいつか、シン様――「シャーディ=シン」について語って聞かせた時の様子を思い出していた。藍神くんは、ボクから見てもはっきりと明らかな程、シャーディに心酔していた。純粋すぎるほどに。だからこそ彼はシャーディの言葉と影に囚われ、あのような姿になってしまったのだ。
「くっ……攻撃を中断し、」
「させないよ。トラップオープン、《立ちはだかる強敵》! このターン、相手は選択したモンスターしか攻撃できず、全ての表側攻撃表示モンスターで選択されたモンスターを攻撃しなければならない。ボクが選択するのは《ブラック・マジシャン・ガール》。さあ、バトルだ」
 つまり。海馬くんはアテムに囚われているって、そう、藍神くんは言いたいのかな。
 今もまだ。だからこそ、ああまでして命も省みずに彼の元へ行こうとしたのだと。
 それに、もしかして、だけど……。
 彼は――自分の手で、アテムを見送りたかったんじゃ、ないだろうか?
 アテムが冥界だか、どこにだかに還る運命だったとして。それならそれでも、良くはないけど……理解は出来たんだろう。そして、彼を還す役は、自分をおいて他にいないと信じていた。何故なら彼はアテムの好敵手だったから。なので海馬くんは、アテムにとってもそれは同じだと考えていたわけだ。
 それなのに、勝手にボクが彼を見送ってしまったから……ボクに対して、彼はちょっぴり、怒っていたのかもしれなくて……。
「黒・魔・導・爆・裂・波!!」
 ――これは本当に「もしかして」なんだけど、そのことにほんの少し嫉妬して、ボクをあれほど頑なに「器」と呼んだのかもしれない。
 そう思うと、奇妙なほど、何もかもが腑に落ちる気がした。もちろん、海馬くんがボクのデュエルの実力をさほど知らなくて、アテムのおまけぐらいに思っていた(んじゃないだろうか、たぶん)のも、大きな理由だったんだろうけれどね。
 ブラック・マジシャン・ガールの攻撃が決まり、藍神くんのライフがちょうどゼロになる。次元領域デュエルでも闇のゲームでもないただの野良デュエルの終わりは、あっさりとしたものだ。ソリッド・ヴィジョンシステムの終了アラームが鳴り響き、システムの展開が消える。それだけ。
 藍神くんが新型デュエル・ディスクと連動しているゲイザーを取り外して一息吐いたのを確かめると、ボクはディスクを腕に付けたまま、彼の元へ走り寄った。
「藍神くん」
「……僕の言いたいこと、伝わった?」
 見守っていたセラがこちらへ駆け寄ってくるのを確かめ、ボクは藍神くんの問へ静かに頷く。「海馬くん、もしかして怒ってるのかな」と小声で囁くと、藍神くんは一瞬だけ呆気にとられたような顔をして、可愛らしく笑った。
「ああ、そこからか。……これは僕の見立てだけどね、確かに、海馬は怒っていたと思うよ。でもそれを直接遊戯にぶつけることはしなかったはずだ。どっちかというと海馬は、自分を選ばなかったファラオの方にこそ、怒りを感じていただろうね。憶測だけど」
「え? アテムに?」
「うん、王に。僕もね、シン様に心酔していて……シン様だけが絶対に正しいと思って、シン様の教えに盲従していただろ? だから奴の気持ちは、わかる気がするよ。そりゃ、今でもシン様のことを尊敬しているし信じているけれどね? それだけが絶対じゃないということを、王は遊戯を通じて僕に投げかけたんだ。……そう、『遊戯』を通じて。遊戯を依り代に、遊戯と共に」
 藍神くんがセラに目配せをすると、セラがボクの手に触れてまっすぐこちらを見上げてくる。二人は最早集合意識を共有するプラナではなかったはずだが、この兄妹間においては、今も、きちんと何かを共有しているみたいだ。
 セラが兄にかわって唇を開き、彼の言葉を引き継いでいく。
「ファラオは常にあなたと共にありました。三千年間でたった一人、王の器に選ばれたあなたは……言い換えれば、王が選んだ唯一の相手だったんです。パズルが紐解かれた瞬間から、そして冥界へ還り、奇跡を起こしたその瞬間も。王は常に遊戯さんを選択し続けました。私は、あなたがパズルを手に入れたことさえ運命だったのかもしれない、と思います。……遊戯さん、あの時、あのまばゆい光の中で、王と対話を持ったのですよね。王は……あなたをなんと呼びましたか?」
「それは……『相棒』って。だってボクは彼の相棒だもの。彼がもう一人のボクでなくなったってそれは変わらないし、ボクも彼もそればっかりはちょっと譲れない……あ!」
「うん。だからさ、それが答えなんだ」
 藍神くんがちょっと苦笑いをしながらそう呟く。
 その瞬間、光の中で彼と交わした、夢のようなほんのひとときが……ボクの中で鮮烈に蘇った。
 光の中へ還っていった彼はやはり光の中に立っていて、ボクに微笑みかけ、ボクと彼は短い言葉を交わした。元気そうだった。もう二度と会えないと思っていた彼が、たった数分にも満たない短い間でも共にいてくれたことが、本当に本当に嬉しかったんだ。
 その役目を、ボクは他の誰にも譲ることは出来ない。
 だって彼と苦しみを共にし、喜びを分かち合ったのは他でもないボクなんだから。
 アテムはボクの相棒だ。
 それを理解したから、あの時海馬くんはパズルをボクに託したんだ。彼が信じていたのは勝利だけではなく、その先であり、その過程。
 そこに例え彼がいなくとも、ボクの元へならば、絶対にアテムが現れるという確信を彼は抱いていた。
 もしかして、だけど。その時彼は、ようやくボクを一人の人間――デュエリストとして認めて、だからこそ、冥界へ行く決断をしてしまったのかもしれない。
 ボクはふるりとかぶりを振り、様々なことに想いを馳せた。
「……海馬くんってさ」
「うん」
「頑固だよね。本当」
「そうだな……僕よりもずっと意固地だ。僕はシン様を僕らから奪ったバクラを――たとえそれがリングに宿っていた悪意の仕業だったとしても――今も完全には許せないでいる。けれどもう復讐をしたいとは思っていないし、ましてやシン様を探してシン様のいらっしゃる次元領域を探そうなんて、思ってもみない」
「けど海馬くんは、それをやったんだ」
「そう、それこそが、海馬瀬人の執念さ。海馬の前に不可能とか未知だとか、無理という言葉はまるで意味を成さない。遊戯、僕も思うよ。海馬なら必ずやり遂げる」
「そして、またあの良く通る声で靴音を鳴らしながら、童実野町に帰ってくる。うん。ボクもそう思う」
 信じるまでもなくね。その意見には兄妹も異論がないらしく、うんうんと大きく首を縦に振って頷いた。ボクらの思いはそこで完全に一つになった。
 それからボクらは、三人で他愛のない話に興じた。
 せっかくエジプトまで来たのに本題が案外のことあっさりと解決してしまったので、話題は本当にどうでもいいような、微笑ましい内容で、多岐にわたった。たとえば、ボクたちが高校を卒業したあとの進路の話とか。城之内くんが次の町内デュエル大会では優勝すると意気込んでいるという話をすると、藍神くんとセラは顔を見合わせて、頷き合っていた。
 その次は、藍神くんとセラの近況について訊ねた。彼らは、プラナの仲間たちと、それほど裕福なわけではないが手を取り合って日々を送っているんだそうだ。近頃では政府主導の奨学生制度の普及が進んでおり、藍神くんは大学への進学を考えているらしい。
 新しい理想の世界へ、行けるし行くべきだと信じていたディーヴァは、当然学校へ通ったことがなく、この世界のこともシャーディに教わった以上には知ろうとしてこなかったのだという。けれど「藍神」として童実野高校へ潜り込み、またこの世界の悪意に触れた経験から、彼は世界のことをもっと知りたいと考えた。そしてそれが、今の藍神くんにとっての夢なのだとも。
「夢といえば、ボクにもあるよ、いくつか」
 思い出したように手を叩くと藍神くんとセラが両サイドからボクの顔を覗き込んだ。二人とも、興味津々といった様子だ。
「遊戯の夢? よければ聞かせて」
「うん。元々ボクは、じーちゃんの家の手伝いをしながらドイツでやっている新作ゲームのコンペティションに応募して、ボクが考えたゲームを世界中のみんなにやってもらえたらいいな、ってことをずっと考えていたんだ。でも実を言うと、今日、もう一つ夢が増えたよ」
「へえ、どんな?」
「海馬くんと『武藤遊戯として』もう一度ちゃんとデュエルをすること。それから、話を聞かせてもらうんだ。冥界で、再開した彼と一体どんな話をしたのか。どんなデュエルをしたのか。それから、彼が元気そうにしていたかってことも――出来たらお土産つきでね」
 ボクはすっかり悩みが晴れたふうに、ちょっとだけ悪戯っぽくそう笑う。すると藍神くんとセラはくるりと顔を見合わせて微笑み、ささやかな新しい夢に賛同してくれた。


◇◆◇◆◇

 
 武藤遊戯が、この、清潔感というよりは度を超した潔癖症に近い何かを感じさせる、白く滑らかな廊下を歩くのは――随分と久しぶりのことだった。この場所を暫定的に取り仕切っていた少年もたいそう綺麗好きだったが、彼の兄が住まうフロアは、それに輪を掛けてあまりにも「清潔」にすぎる。
 海馬コーポレーション本社ビルの地下秘密研究フロア、許可された一握りの人間しか足を踏み入れることが許されないそこを闊歩し、辿り着いた先のドアを開く。専用のカードキー、パス・コード、そして指紋と声紋の認証。きちんと正規の手続きでそれをパスし、遊戯は室内に歩を進めた。
 生活感のない部屋だった。白い床、リノリウムに照り返すあかり、壁に埋め込まれたいくつもの装置。それらの中央には、まるでコフィンのようなケースが鎮座している。
 成人男性一人がすっぽりと収まる、硝子であつらえた棺をどうしても連想させるその機械。それこそが件の「次元領域エミュレータ」なのだということを、遊戯はモクバから聞いて知っていた。
 集合意識ネットワークを利用・接続するデュエル・リンクスシステムを、次元領域理論により改良・再構築したディメンション・デュエル・システム。かつてデュエル・リンクスに接続し、高次思考領域まで飛んで行こうとした兄を、モクバは安全装置のバーを勝手に下げることで引き留めた。あのまま行ってしまったら、兄が死を迎えるであろう事はまず間違いなかったから。
 だが、ディメンション・デュエル・システムを動作させた兄を、今度こそ、モクバは引き留められなかった。そもそもこのシステムを起動するとき、彼は引き留められることを嫌ってモクバ以外の研究者たち全員をその場からしめ出していたのだ。
「君に会うのは、いつ以来になるかな……」
 棺の上に腰掛けている男の姿を認め、遊戯がゆっくりと口を開く。彼の身体には生命維持のためのチューブが繋がれたままで、当然寝たきりだったものだから、肉が落ちてやせ細り、病的な面影を見せていた。
 しかし、覗き込んだ先の瞳は、ぎらぎらと光っている。とてもじゃないが、今まで死人同然に眠っていた男のする表情には思えない。弱った身体と正反対に、眼球にのみ異常なほどの生命力と活力とがみなぎり、その威圧だけで、彼は肉体の衰弱がもたらす弱々しさをまったく塗り替えてしまっているのだ。
 棺に座る男は間違いなく生きていた。そして遊戯の思い違いでなければ、何か大きな山場を乗り越え、ある一つの正解に辿り着いた人間の表情をしている。
「ボクの記憶が間違いでなければ、あの海馬ランドでの事件以来だ。そこからずっと君には会ってなかった。……あれからね、君の言葉の意味をボクなりに考えていたよ。そうそう、エジプトに行って、藍神くんやセラと話もしてきた。藍神くん、今、カイロで大学に通っているんだって。時々メールもしてる」
 元気そうだよ、とそこまで声を掛けても男は頑なに返事を返さない。ただ強烈なまなざしだけを遊戯に向け続けている。常人であれば耐えきれぬのではないだろうかと言わんばかりの圧力だったが、遊戯のほうは特にそれにこたえたふうもなく一人で勝手に話を続けた。ここに訪れることが出来たのはモクバの手引きによるものであること。そしてモクバがいつか遊戯の前で吐露した言葉……。
 人の話をろくに聞かない印象の強い彼だが、遊戯に向けられている視線の意味からして、今の彼はちゃんと遊戯の声に耳を傾けている様子だ。だからこそ押し黙っているのだろうし。そうして、悟りを開いて涅槃に至った仏とは真逆の顔つきで、冥府より生還した男は武藤遊戯の前に佇んでいる。
「ボクや城之内くんたち、その誰もが君が死ぬはずないって信じていたけれど……そういえばいつだったか藍神くんが言ってたっけ。そうやってボクらが君という存在の生を『認識』している限り、ただでさえ強靱な精神力を持っている上に集合意識に支えられた君は、死ねないだろう、ってね。でも本当に良かった。先に君に会ったモクバくん、そこの外で涙ぐんでたもの。モクバくんは廃人同然の君を昔にも見てたことがあるから、やっぱり辛かったし、怖かったって。まあこんなこと、ボクが言う必要なんてないんだろうけど」
 どうしよう。ちょっと今日のボク、お節介だよね。そう困り笑いで鼻頭を掻いてもやはり彼は言葉を寄越さない。もしかして口がきけないのかと思ったが、よくよく見れば、そもそも声を出そうとしている素振りがないことに気が付く。
 なら、喋る気にしてやらないといけない。
 遊戯は少しだけ緊張した面持ちで、深呼吸をひとつした。遊戯には彼に確かめたいことがあり、そしてあの日新しく増えた夢を、今も抱えている。
「おかえり、海馬くん。君にずっと、聞きたかったことがあるんだ」
 遊戯は唇を小さくすぼめ、その先をそっと彼に耳打ちしてやった。
 それでようやく、彼はまばたきをした。それから長い長い溜息を一つ吐くと、ゆっくりと唇を開き、遊戯の謎に、答え始めたのだった。