001:彼という存在について
「だったらアンタさあ……、ギアになっちまえよ」
——それはなんて、悪魔的な……言葉だったのだろう。
「……私がそれに、頷くとお思いですか?」
「さあね。どっちに転んでもあたしにとっちゃ面白いってぐらいさ」
「なるほど……そうでしたね。『あなたは』そういうひとだ……」
否、「ひと」ではないのか。「人間」では。カイは力なく首を振った。カイ=キスクが正しくはそうではなかったように、彼女もまた。
聖戦という、あまりにも巨大な世界の病への欲望から形を成した魔器である彼女は、愛用のギターをつまらなそうにつまはじいては乱暴に音をかき鳴らす。彼女の持って来た提案はシンプルだ。そして絶望的なまでに大博打。のるかそるか、どちらを取っても安全は保証されていない。
ならば、どちらを選ぶべきか?
答えは自ずと見えてきていた。もとより、カイ=キスクという男は、何かを救おうとした時に自らを切り捨てることを躊躇わないタイプのいかれた思考回路を持っている。聖戦の時などは本当に酷かった。ある確率事象では、カイ=キスクは己の真実も知らぬまま無念の死を遂げて世界の崩壊を招いたのだ。
「そうですね。私が何になるのか、それはまだわかりませんが」
「まどろっこしいな坊や。さっさと言っちまいな、腹ァ決めてあたしに着いてくるってな」
「ええ、あなたの提案を呑みましょう。イノさん——それでソルが、シンやディズィー、私の愛した世界が救われると言うのならば……」
そして今、カイは魔女の手を自ら選び取った。複雑に交差する確率事象の先、その選択こそが、最も彼の望む未来近くへ繋がっているのだとそう信じて。
◇◆◇◆◇
カイ=キスクがこの世に生まれ「堕ち」たのは二一五七年の十一月二十日、肌寒さが深まってきたフランスの片田舎でのことだった。
尤もこのあたりの事象を正確に把握しているのは、現在に至り、「あの男」と呼ばれる存在を含めて一握りのものだけだろう。カイ本人でさえ、自らの出自について詳しいことは何も覚えていない。ただ彼は、フランスと認識される地域に存在を出現させ、この世界における観測を開始した。彼には母親がいて、父親がいて、親族がいる「設定」になっていた。そして彼が十になるかならないかの頃、大型ギアの群れが突如発生して近隣を襲い、カイだけが生き残る。母親の形見であるロザリオを胸に抱いて。
ギアは一体のメガデス級を主軸にしたきわめて凶暴な一群だった。彼らは司令塔であるジャスティスに与えられた原始的な殺人欲求に従って南フランスを焦土にし、カイ=キスク以外のありとあらゆる人間を捕食し、虐殺した。
唯一カイのみが生き残った理由は上位存在の作為にあり、またロザリオにあった。ロザリオにギアの爪が掛けられた時、カイはその身に宿っていた法力を本能的にありったけ放出してギアを退けたのだ。周辺に存在した小型のギアはそれで死滅し、生き残ったのはメガデス級と僅かな大型機体のみになる。そしてその「時間稼ぎ」のおかげで一人の賞金稼ぎがその場に間に合い、カイは一命を取り留めることに成功したのだ。
生き残ったカイを拾ったのは、メガデス級の発生を関知して現場へ向かっていたソル=バッドガイだったが、カイ=キスクはそのことを知らない。自らのキャパシティを遙かに凌駕したギアどもに襲われた「かわいそうな十歳の子供」は、目の前で母親を殺された精神的ショックで気絶してしまい、その上前後の記憶も大半を失ってしまっていた。
ソルは発生したギアを一匹残らず全て駆逐したのち、遅れて到着した聖騎士団に子供を引き渡した。幸いなことに駆けつけた隊には騎士団の全てを預かり、またソルとは昔馴染みであるクリフ=アンダーソンの姿があったため話は円滑にまとまった。
従って、カイ=キスクが次に目を醒まし、はっきりとこの世に「定着」することになった場所は聖騎士団本部の医務室のベッドの上だった。
「お前さんは幸運にも生き残り、あの場所で倒れとったんじゃ」
クリフはあえてカイを拾った男の存在は伏せ、少年にそう話した。簡単なあらましを説明し終えると、「次はお前さんの話を聞く番じゃの」と言って言葉を促す。生まれた場所、家族構成、好きなもの、嫌いなもの。おかしなことにカイにはそのいずれにも心当たりがなかった。カイにはパーソナルがなかった。それはひるがえって、カイには心が備わっていないのと同意義であった。
「参ったの」
クリフはそう言ってぼりぼりと頭を掻くが、言葉に反して口調はさほど困ったふうでもない。彼はしわがれた手で少年の首元にさげられているロザリオを手に取ると、それを裏返した。「愛するわたしの子へ 11/20/2157」と走り書きのような筆致で彫り込まれたそのロザリオは、中央に聖母マリアの偶像を象った子供には重たすぎる十字架だった。
「ふうむ……ま、体格から言っても、これがおそらくお前さんの生まれた日なんじゃろうな。バプテスマを終えた証じゃ、それは。礼拝に普段遣いするためだけのものにしちゃあ重たすぎる」
「……」
「それじゃお前さん、自分の名前ぐらいはせめて分からんかの? 名前——お前さんをこの世界で識別するためのものじゃ。おそらくそれが、今お前さんにとって最も重要なパーソナルじゃろう。名は体を表す。もしそれさえも失ってしまったというのなら、わしが何かつけてやってもよいが——」
「カイ」
「……ん?」
「カイ……カイ=キスク。それが……名前です」
それまでずっと黙りを決め込み、首を振る動作だけでクリフとの会話を続けていた少年はその時初めて唇を開き、声を形作り、唯一たらしめるパーソナルを宣告する。
その瞬間、カイ=キスクは確かに「この世界に存在する」ものになった。浮かび上がっていた爪先が、かかとまで全て地にひっついた。定着する。確立される。かたちある奇跡になる。
名無しの幽霊が人間になるように、「カイ=キスク」になる。
「いい名前だ」
クリフが快活に笑った。カイの鈴が鳴るような声は、まだ変声期を迎える前の少年特有の軽やかさと危うさを兼ね備えている。それも酷く希有なものをだ。こいつぁえらいものを拾ってきおったな、ソル——既にその場を発っていずこかへと旅立ってしまっていた悪友の名を内心で呼び、クリフは笑い続ける。
気属性を操る類い希な法術の使い手であるクリフは、その時既にカイの瞳の向こうに眠る何かに気がついていた。
そうしてその数日後、カイは聖騎士団に歴代最年少となる若干十歳の若さで入団を許された。はじめは見習いとして受け入れられた彼だったが、あらゆる知識を身につけ、力を手に入れ、正式な騎士として任ぜられるまでにそう時間はかからなかった。
◇◆◇◆◇
「カイの躯の中には魂が二つある」
ソル=バッドガイが似合わない制服に袖を通し、大嫌いな集団生活に身を投じてまで騎士団への入団を決めた理由の一つがそれだった。
もちろん、最も大きな理由は悪友であるクリフが「時期が来れば封炎剣はくれてやる」と言い切ったことにあるが、その言葉もそれなりにソルの決意の中で大きなウェイトを占めていた。
幼い体躯に二つの魂を宿している坊や。しかし本人はそんなことなどつゆ知らず、今日も与えられた使命の通りにギア殺戮に精を出している。今年で十五歳(ということになっているらしい)カイは既に守護天使の座に任じられ、そのまま守護神の座へと昇進するのも時間の問題といわれているほどの有望株だ。騎士団に入団してからたったの五年で、ソルが拾った子供は両手いっぱいではとても抱えきれぬような数のギアを殺してきていた。
「ギアを殺した数じゃあ、負け知らずのつもりだがな」
「今はまだそうじゃろ。だがお前さんがこの後サボるというのであればその限りではないかもしれん」
「ああ、分かっているさ。だから俺は今ここでコイツに袖を通してるんだ……」
「なんじゃその不満そうな顔は。なかなか似合っとるぞ」
「柄じゃねえ。こんな、潔癖症みたいな白は」
それより、坊やの身の上話だ。渋々ボタンを留め終わったソルはクリフに話の続きを急かした。
聖騎士団の制服はひどく窮屈だった。その窮屈な服を少しでも馴染ませようと試みるソルに、クリフはカイの五年間をかいつまんで話す。カイ=キスク、十五歳、やっと変声期を終えたばかりの少年。驚くほど貪欲に知識を求め、華奢な肉体からは想像も付かぬほど過剰な法力を宿している。
カイは特に法術に関して天才的な閃きを見せていた。入団して一ヶ月も経つ頃には五属性全ての基礎を理解し、三ヶ月で実戦で耐えうる使い方を身につけ、五ヶ月で雷属性を自らの得意分野に選んだ。そのうえ選出理由が「難解さにロマンを感じるから」とかいう馬鹿げたもので、それを知った一部の団員はやっかみ半分に法術の組み手をカイに申し込み、そして無様に敗北した。
カイの雷は苛烈で美しく、そして何より繊細だった。わずか十歳の子供が手足のように雷を操る様は、それまで忘れていた呼吸の仕方を思い出したとでも言うかのようにごく自然で、だから、その頃からだ——密かにカイのことを「天使」だなどと呼び慕う者達が現れたのは。
そうしてはじめの一年間こそ主に本部に帰還した負傷兵の手当に当たっていたカイだったが、十一の誕生日を機に正式に聖騎士の誉れを賜って戦場へ後方支援役として赴くようになった。それが前線へ飛び出して自ら身体を張ってギアを屠る役目へと変わっていく過程は想像に難くなく、ありありとソルの目にも映るようだった。
「あの坊やにギア殺しの才能がそれほど豊かにあったとは……おかしなもんだな」
「おかしいかの? あの子はギアに親を、故郷を滅ぼされとる。その憎しみが半ば復讐のような形になって後押しするのは何もそう珍しい話でもなかろう」
「あいつの顔は復讐者のそれじゃねえよ」
カイの中にあるのはもっと違う何かだ。三階にある司令室の窓から中庭で訓練に励むカイをちらりと覗き見てソルは深い溜め息を吐いた。
聖騎士団でめざましい活躍を遂げたカイは、しかし彼を拾ってクリフに引き渡した男のことは一切覚えてはいないのだとクリフは言った。だがまあ、その方がかえって都合がいい。ソルとカイはこの瞬間までお互いに見知らぬ他人で、この日ようやく出会う。実際、ソルはカイのことを何も知らなかったし(五年前に南フランスで祈りを捧げるようにして死にかけていたこと以外は)、カイの方なぞ、本当にソルのことは名前さえ知りやしない。
「交換条件はもうわかっとるじゃろ」
「ああ。俺に子守りなんざ任せて、坊やがどうなっても文句は言うなよ」
「あの子は既に一通りの倫理と道徳とをわきまえておる。今更誰かに感化されて変われる子ではない」
「ふん……めんどくせえ……」
クリフの言葉の裏に「そう簡単に変わらないからこそお前に変えて欲しい」という含みがあるのは明白だった。本当に心底面倒くさい。ソルは他人の面倒を見るのが嫌いだし、苦手なのだ。遙か昔に大学教授をやっていた頃も、着いてこれない生徒は無言でふるい落としてしまうようなそういうタイプだった。
結論から言ってカイ=キスクは非常に優秀な生徒のたぐいに分類された。彼は確かに一通りの倫理と道徳とをわきまえており、教科書通りの戦闘技術と、やや教本を逸脱した法術技能とを備えていた。あまりにも出来がよすぎて、人形みたいだな、とはじめソルはそう思った。よく出来たビスク・ドール。殺人技能とお小言ばかりが秀でている。
「こら、ソル! 今日という今日は……あ、ちょっと、待ちなさい!!」
ほら、まただ。ソルはカイの声を耳に挟むや否や、猛烈な勢いで逃げ始めた。彼の小言の内容はだいたいいつも決まり切っていて、やれ「規則を守れ」だの「書類を出せ」だの、「備品の損壊が」「損害賠償が」——聞き飽きている。
聖騎士団内部で密かに憧れのプリマドンナみたいな存在になっているカイを、そうやってあしらうソルのことを快く思っていない連中がいるのも知ってはいた。細っこい坊やに心酔している連中。だが彼らも腐っても騎士だ、力量差というものを弁えていて、よっぽど私情を拗らせたものでなければソルに口出ししたり突っかかってくるようなやつはそういなかった。
「——緊急時を除き、廊下は走るべからず、ですよ。それにカイ様があなたをお探しのようだが」
「チッ……ベルナルドか」
「カイ様が教えを請おうと人を探すことなど滅多にないのです。お付き合い願いたいものですな」
……カイの手助けをする形以外では。
「一五一号室があいていますね。カイ様には私から通信を入れておきましょう」
「勝手に話を進めんな」
「『それも』織り込み済みの条件のはずですよ。実際カイ様はよくあなたに懐いておられる」
「猫を飼った覚えはねえ」
「虎の子です。……猫にまったく似ていないわけでは、まあ確かにないですが」
ソルを引き留めたベルナルドは含みのある笑顔で笑った。
クリフの腹心であるベルナルドは、ソルには珍しく苦手な相手だった。彼はクリフを心から崇敬しており、また、自分よりふたまわりも年下のカイを敬称で呼び常に立てる。だが、彼の態度は団で横行している「カイ様崇拝」とはやや趣を異にしていた。彼のそれは確かに信仰であったが、安易な偶像崇拝ではない。
だからこそ厄介なのだが。
カイをアイドルに見立てた偶像崇拝は、まあ、原理としてはソルにも理解出来る。ただでさえむさ苦しい男所帯だ、若く美しく、どこかあどけなさを残し少女めいた横顔を見せるカイにそういった感情が集中するのは致し方ない。その上カイは見目麗しいだけでなく団でもトップクラスの実力者であり、それに驕ることなく下位騎士から騎士見習いまでを平等に扱う。
憧れがさらに上塗りされて、カイ=キスクへの崇拝になる。けれどその先に本物のカイ=キスクはいない。彼らは皆、自分の中に培養した存在しない偶像に勝手な愛情を重ねているのに過ぎない。
だがベルナルドは違う。カイが入団した頃からずっとクリフの腹心を務めている関係で、彼の中には非常にリアルな「カイ=キスク」の認識がある。カイは結局のところまだ幼い子供で、その正義は非常に脆く、硝子の城のように危うい。カイは何でも出来るわけではないし、神の子でもなんでもない。ベルナルドはそれを熟知してなお、カイを「カイ様」と呼び、齢十五の少年を己の信仰を捧げるに足るものと信じているのだ。
「テメェは一度でもカイを妬ましく思ったことはないのか?」
諦めたように首を振って、仕返しとばかりにそう尋ねた。ベルナルドは思いもよらぬ切り返しに僅かに驚きの表情を見せたが、すぐにそれをどこかへ消し去って微笑んだ。
「何をです? 私はあの方の全てを信じています。そこに年齢の差や、その他種々の要素はなんら関わりがありません。もし私が妬ましく思うことがあるとするのならば……それはあなたにだ。ソル=バッドガイ」
「……」
「カイ様に替えの効かない存在として必要とされているのですからね。……いいですか、一五一号室です。私ではもう、あの方の知識欲に応えてさしあげることが難しいのですよ」
ソルは確信した。この男は最後の一瞬まで、全てを賭してカイに添い遂げることが出来るだろう。そこに一切のためらいもなく、だ。
一五一号室の戸を開けると、既に席についていたカイが書物から顔を上げた。法術の専門書が横に積み上げられている。ソルの姿を認めたカイはぱっと表情を明るくし、「来てくれないかと思った」と嬉しそうに言った。
「ベルナルドがたまには信じてみては、と言っていたけれど……珍しい。本当に、そんなこともあるんですね」
「帰るぞ」
「うそ、冗談です。あまり怒らないで。この時間に付き合ってくださるのなら、ここのところためにためこんでいた始末書のたぐいはなしにしますから」
そんなことを言うが、実際のところ、急を要する書類はだいたいカイの権限で既に立て替えられているのをソルは知っている。本当に本人しか始末出来ないようなものはまれだ。
法術書の山の中から一冊を抜き出すと、カイはおもむろにソルの目の前にそれを開いて差し出した。転移法術の項目だ。転移法術は、理論上はある程度確立がされているもののあまりにも複雑かつ高度なプロセスを踏む必要があり、実際に行使出来る術者は数える程しかいないような代物である。「こんなもんに興味持ってんのか」と尋ねると、「少しでも戦術の幅を広げられないかと思いまして……」と至ってまじめな顔で返された。
「本当は、人間を転移出来るようになれば、兵の損失をもっと減らせると思うのですけれど。この前やっと林檎が転移出来そうになったところなので……当分は無理でしょうね」
「それでなんで俺を」
「団長が、あなたは簡易転移が出来ると仰っていたものですから」
「あの爺さん余計なことを」
漏らすとしたら確かにそこだ。ソルは隠そうともせずに溜め息を吐いた。これは長丁場になりそうだ。
◇◆◇◆◇
ソルにはカイ=キスクがわからない。
カイを拾った日のことは今もよく覚えている。ギアどもの死体がばらばらと転がり、あるいは降り積もって、その下の人間の死体を覆っている。むせ返るような血とギアの死臭。硝煙が立ちこめ、まるで絵に描かれた地獄のようだった。かつて命あった農村は死に絶えていた。生きているのは、ギアの気配ばかりで。
そのギアたちの群れに囲まれてうずくまり、身体じゅうから法力を放出して泣き叫んでいた子供がカイだった。正確には、名前も知らない子供だった。カイ=キスクは、あの瞬間はたぶんカイではなかった。子供はそこに存るようでいて、どこにもいないかのような、ある種の「とうめいさ」を孕んで泣いていた。
はじめ、あまりにも場違いなその光景に、ソルは子供をギアかどうか疑ったのだ。あれほどの法力を持つ子供などそうそういるものではない。だがメガデス級ギアが体勢を取り直して子供に襲い掛かろうとしていることに気がついて反射的に間に割って入った。殆ど何も考える暇もなく生き残っていたギアを殲滅し、子供を腕に抱いたのは、南フランスにある農村が子供とソルを残して命なき村へと変貌しきったあとだった。
とうめいな子供は、全てが終わった頃には意識を失っていて、だからソルは彼の瞳を覗くのに少し苦労した。まぶたをそっと開かせ、眼球を染める色を確かめる。深いエメラルド・ブルー。赤ではない。——ギアじゃ、ない。
そのことに、多分自分は胸をなで下ろしていたのだと思う。
子供をそのまますぐに聖騎士団へ預けることが出来たのは、騎士団にとってもカイにとっても、そしておそらくソルにとっても幸運なことだった。あのうつくしくとうめいな子供を、ソルはずっと見ていられる自信がなかった。触れれば、壊してしまう。そんな予兆ばかりがあった。
この子供を壊してはいけない。それは明らかな確定事項だった。根拠はないが確信があった。この子供を死なせてはならない。これは生きなければ。生きて——その先へ続いていかなければならない生命。
この命が損なわれる時がもし訪れたとしたら、その代償としてソルは一生醒めない悪夢の中を生きていくことになるだろう。
隣に座ってペンを走らせ、メモを取っている幼い横顔をちらりと覗き見る。カイ=キスクは変わった。彼は人間になった。騎士団に預けた時のようなふわふわとしたとうめいさはなりを潜め、その代わりに利己的な正義といういつ崩れるかもわからない柱を抱きしめている。しかしそれを信じているからこそカイは人間らしかった。このカイには触れられる。触っても壊れない。
ある程度転移法術についての基礎をソルから聞き出したカイは、自己解釈と研究を後日に回して今度は実戦投入している雷の攻撃法術についてまとめているようだった。ペンはなめらかな筆致を描き、何個目かのピリオドを打ったところで止まった。
「雷以外は使わないのか、坊や」
なんとはなしに問うた。そこに深い意味はなく、単なる思いつきだった。カイがソルの目を見る。海より深く静かなエメラルド・ブルーの瞳がソルだけを映している。
「雷が好きなんだ。水も風も、条件を選べば便利だけれどどうも今ひとつ威力に欠ける」
「炎も威力はある」
「炎は……好きじゃないんだ。開放的で美しくない。そのうえ、お前のそれは輪を掛けて野蛮で醜い」
「たいしたいいぐさだな」
カイの答えに、ソルは両手を後ろ手に組んで自嘲的に笑った。ソルの炎が一般的に行使される炎の術式より大雑把で適当なのは事実だった。
「私には向いていないよ」
「ああ。坊やには雷の方が向いてる」
「だから……炎はお前が使っていればいい。エキスパートは、なにもふたりいなくたっていい」
カイの指先がソルの手をつかんだ。
炎は向いていないなどと言ったくせに、その指先はまるで熱を孕んでいるように熱い、ような気がした。坊や、と思わず呟く。何故かいつものように坊やじゃない、と返ってこない。子供のように体温が高くなっているのを自覚しているのかもしれない。
そのままカイは少しうつむいて顔を見せないようにし、次の遠征の時も私の背中を、と小さな声で言った。彼の法衣の下に隠れているロザリオが、机に当たって音を鳴らした。