天使黙示録

002:遺言を聞く男


「ひとごろしがうまくなったな、坊や」


 そう、言われた、気がした。


 ソル=バッドガイが騎士団へやってきてからいくつかの季節が過ぎた。カイ=キスクは晴れて守護天使から守護神の位へと昇格し、次期団長の座も堅いと噂されるまでになっている。一方でソルは入団した当初の通り平団員のままだ。ソルが実戦であげている功績はカイに劣らず多いが、なにぶん本人が堅苦しい仕事や役職を嫌っているので、昇進話は大概が来る前に素行不良で取り消しにされているか(おそらく、わざと取り消されるようにしているのだ)、まれにおりてきたとしてもすぐに辞退をしていた。
 ここのところずっと、ギアの襲撃がいつにもまして激しい。昇進の話題が来るのには、無論功績もあるのだろうが兵力の不足が常に影をちらつかせている。この前も支援部隊の小隊長と突撃隊の大隊長が死んだ。ソルが名も知らないような末端の兵士たちは、それこそ有象無象とその命を散らしていく。戦場はいつも無情だ。ただ、強いものが生き残る。ギアも人も関係なく。
 そういった経緯もあり、カイもソルも常に忙しく飛び回っているせいで顔を合わせるのは最前線でギアどもを狩る時ばかりだった。カイは守護神となり大きな隊を預かる身になってなお前線へ自ら赴く。後方で指示を出しているだけというのは性に合わないのだという。実際、カイが前線へ出なければ狩れないギアがある。ソルの加入でそれでもずいぶん楽になったと彼はよく言ったが、ギアを打ち倒すときのあの鬼気迫った雷には言葉だけでは計れないいたみがあった。
 前線へ飛び出しすぎて、二人きりで踊り出ることもしばしばだった。事前の打ち合わせなど特にしたこともなかったが、先行しすぎて他の騎士たちがついてこれないのだ。だがその方が都合がいいことも多かった。まわりに余波を受ける心配のある者がいないので、背中を互いに預け合うだけで思い切り戦うことが出来る。
 カイの背中をソルが守り、ソルの背中をカイが守る。そうしてギアを皆殺しにする。それがここしばらくですっかり定着してきたおきまりのやり方だった。
「こちら、カイです。このあたり一帯のギアは全て片付きました。ええ、はい、そうです……問題ありません。ソルもぴんぴんしていますよ。……全体の負傷者は? わかりますか?」
 炎と雷にギアの暴力でもって焼け野原同然になった大地に立ち、カイは懐からメダルを取りだして指令本部へ通信を飛ばす。報告を済ませ、通信を聞いていたカイの表情が次第に曇っていくので、ソルはそれで通信の内容をおおまかに察した。死者が出たのだ。それも少なくない数の。今回の侵攻はかなり大規模だったから、仕方ないのだろう。指折り数えている彼の指先を目で追ってみたが、この規模にしては少ない方だと思った。大型を殆どソルとカイで対処仕きれたのが効いたのか。
 通信を切ると、カイはメダルを仕舞って入れ替わりに胸元からロザリオを取り出した。彼は戦いに入る前と終わった後、きまってロザリオを胸に掲げて祈る。祈る先に神などいないのに。ソルはいつも思う。神がもしいるのだとしたら、この世にギアなど生まれてはいけなかったのだ。
「ロイ、ハイマン、ケリー、ユリウス、アラン……」
 ソルの知らない名前。カイは自分の直属でなくとも末端に至るまで全ての兵士の名を覚え、そして死を弔う。聖騎士団では死が日常茶飯事だ。死した騎士たちは合同の軽い葬式を上げて共同墓地に葬られ、そして忘れられていく。忘れられなければ、この死のにおいにまとわりつかれた組織は存続していけない。クリフでさえ——あの老人は年季が特に長いから——今までに聖戦のために命を落とした者たち全ての名は覚えていないだろう。騎士団は死を見過ぎた。死に慣れ過ぎてしまったのだ。
 だからこそ、カイが捧げる十字架はひどく重たいものにソルの目にいつも映った。あの十字架に、カイが唱えた死者たちの残滓がずっと繋がっているような気がしたのだ。
「坊やは本当に祈るのが好きだな」
 黙祷を終え、ロザリオを法衣の下に仕舞ったカイと目があった。カイは死を悼もうとさえしないソルの姿に苦笑しながら、「お前のぶんまで私が祈っているんだ」と冗談なのか本気なのかわからないことを言う。祈りをソルにまで強要しないのは彼のいいところだった。しょせん、この行為は自分の独り善がりにすぎないのだということをカイはわかっていた。
「私に力が足りなかったばかりに、失ってしまった。私が祈るのはごくあたりまえのことだ」
「馬鹿が。世の中、テメェ一人でなんとかなることばかりじゃねえよ」
「……知っている。でも……だから……私は、祈るんだ。私は神に祈るが、しかし祈っただけでは神が何をしてくれるわけではないのだと知っている。であるならば私の母はこのロザリオを置いて死ななかっただろう。だが、祈りというかたちが必要なんだ。きっとそれは、私がこれからも戦っていくために」
「贖罪がしたいのか、坊や?」
「どうかな。けれど、私は死んでいった者たちのぶんまで祈り、これからも戦うだろう。私の正義のために」
「ふん……エゴイストが」
 肩を軽く叩いた。幾千万の命が掛かっているとは思えないほどやわらかく、軽く、ちっぽけだ。ソルが触れただけで壊れることはもうなさそうだとはいえ、カイがひどく脆い存在であることはソルの中でちっとも変わる兆しを見せない。この命を損なわせてはならない、という漠然とした使命感は今でもずっとソルの中にある。この感覚がなくならない限り、ソルは封炎剣に手を出さない。それはカイと離れた後に手に取るべきものだ。
「テメェはテメェの正義を貫けよ。例えエゴでもな。ソイツは裏切るべきじゃねえ」
「どうした、ソル。お前がそんなことを言うなんて。何かよくないものでも食べたか?」
「うるせえ。ただ……坊やが俺のぶんまで祈ると言うのなら……根性見せてみろ」
 だから俺を裏切るな。そう言いかけて、そこで口を噤んだ。
 かつてソルは最愛の恋人を不治の病によって失っている。そして親友だった男にも裏切られ、あの時からずっと誰かと親密になることを恐れていた。何かに裏切られることが、何かに置いて行かれることが、怖い。失うのが怖いから、はじめから何とも関わらないでおこうと思った。結果、残った昔馴染みは殺しても死ななそうなやつらばかりだ。クリフにガブリエル、それからスレイヤー。それに彼らにはわきまえがある。もし何かの要因で彼らが眠ることがあったとしても、それには納得出来る因果があるだろう。けれども。
 目の前の少年には——まだ、どこからどう見たって、「少年」に過ぎないのだ——ふとしたきっかけで斃れてしまいそうな儚さがあり、あどけなさが消えてなくならない。消えてはいけない命のはずなのに、いつ消えてしまうのかわかったものではない。ソルは自戒するように目を瞑った。特別なものは作らないようにしてきたのに。今、もし、この子供がソルの名を呼び、いまわの言葉を遺すことがあったとするならば……ソルはそれを、決して無碍には出来ない。
「坊や」
「ソル?」
「坊や……いや、カイ」
「……そ、ソル?」
 目を閉じたまま、カイの身体を抱き寄せた。ソルの腕の中にすっぽりと収まってしまうほどに小さい。クリフが言うとおり、本当にこの躯の中にふたつも魂が入っているのだろうか? この容易く手折られてしまいそうなからだの中に?
「お前は死ぬな」
 目を閉じたままでよかった、とソルは思った。今自分がどんな顔をしているのか、それをカイの瞳の中に確かめるのは嫌だった。透き通ったエメラルドの海に糾弾されるみたいでかなわない。きっとカイの目は言う。言葉よりも雄弁に、ソル=バッドガイという男を悪びれもせずまっすぐに見て、この世に呪いつけるが如く。

 ——そんな遺言を聞く男みたいな顔を、しないで。


◇◆◇◆◇


 二一七三年十一月、カイ=キスクがまだ十六の誕生日を迎える前のある日にひとつの歴史の転換点が存在する。ローマ会戦、或いはローマ撤退戦。本来の歴史ではその日はローマ会戦と呼ばれていた。聖騎士団の若き英雄、未来への希望を背負った少年カイ=キスクが戦場で命を落とした日として。
 或いは、騎士団上層部に明るい人間ならこうも言うだろう。
 「ソル=バッドガイが、呪いにかけられた日」だと。
「おい、坊や……お守りに来たぞ」
 嫌な予感はしていた。その日のカイの演説はいやに遺言めいていた。不透明で、危うくて、おかしな調子だった。これから死にますと暗に示しているような薄暗さがあった。カイは死にたがりではまったくなかったし、おいそれと死んでやるつもりはどこにもなかっただろうが、その演説には彼もあずかり知らぬような薄幸さがあった。
 イタリアのローマ支部から緊急要請があったかと思えば、メガデス級が三体、大型が約二百体も出現したのだとか言う。前もって出現を察知し対策を講じる時間があったとしても厳しい戦いを強いられることになっただろう。それがいきなり、何の前触れもなく現れたのだ。
 その上、そこにはイノがいた。あの紅の楽師、忌々しい魔女。カイの死について、ソルははっきりとイノを憎んでいた。あの女さえいなければカイは生きていたのかもしれなかったのに。
「っ……は……遅刻癖の……直らない子守り……が……」
「テメェ……」
 声が震えて先走っていた。目の前がぐらつく。嘘だろう、という言葉を必死に飲み込んで耐えた。嘘ではないのだ。嘘だったらよかったのに。これは現実だ。
「流石だな……最後まで……お前には勝てなかった……」
「……黙ってろ!」
 カイは血まみれの身体を晒して血に伏せっていた。どこを見ても致命傷ばかりだった。部下たちには撤退を指示していながら、自分一人だけ突っ込んでいって。いくら天才カイ=キスクでも、強くても……限界はある。彼は人間だ。傷を負ったら、それが積み重なれば、死んでしまう。
「っ、たのみが、あ……」
「黙れと言っている」
「クリフ団長のあとは……おまえが聖騎士団を……継いでくれ……!」
「やめろ。それはテメェの仕事だ!!」
「やくそく……してくれ……」
 声が見る間に細っていく。遺言だ。これが本物の、カイ=キスクの最後の言葉だ。それがソルだけに向けられている。ソルはかぶりを振った。冗談でも言って欲しくなかった言葉が連ねられていく。カイは自らの死を悟り受け入れていた。それを認められないのは、ソルの方だった。
「……ちくしょう……!」
「おまえが……っ、う、おまえ、なら……でき、る……」
 カイの青ざめた唇が中途半端に閉じられる。頭が力を失って垂れ落ちた。地面に頭がぶち当たるどさりという音。
 それはまさに事切れたと言うにふさわしい有様で。
「……おい! どうした! ——おい!!」
 腕の中に抱き起こしたカイの身体は、まだ、なまぬるかった。
 だけどもう、返事をしてくれない。
「カイ————ッ!!」
 絶叫は誰もいないローマにむなしく響き渡る。ソルはカイの亡骸を抱えたまま、通信も忘れ、雄叫びを上げた。あらゆる負の感情が渦巻いていた。無力感と絶望に苛まれ、カイの言葉ばかりがソルを絡め取り、縛り付ける。
 カイ=キスクの遺体はソル=バッドガイによって聖騎士団本部へ連れて行かれ、本人はまったく望んでいなかっただろうに、盛大な式でもって弔われた。遺体は聖騎士団の共同墓地に特別な一角を設けて葬られ、法衣や最後に握っていた剣などの遺品もそこに納められた。
 だがロザリオだけはソルの傍らに常にあった。カイの祈りを受け、幾千の死者の怨を宿した十字架は、ソルを縛るいばらのように彼の似合わない法衣の下に提がっていた。

 その後十年経っても聖戦は続き、ジャスティスを屠ってもそれは終わりを見せずにいる。ジャスティスの死を間近で見たディズィーは最強最悪のギアの後継者となってギアを指揮し、戦況はずっと悪くなっていた。カイ=キスクの死によりこの世界は滅びの一途を辿った。ソル=バッドガイは失われた少年の面影を追い求め続け、ギアは増殖し、人間は死んでいく。世界は救われないし、ソルも、カイも、ギア——ディズィーも、誰もかもろくな終わりを許されない。
 カイこそが、この世界を存続させるために二一七三年に最も必要とされるピースだったのだ。その事実を知り、この救いようのないろくでなしの世界に「飽きた」イノはやがて「あの男」に出会い、ここで初めて大規模な歴史の改竄を行った。聖戦における人々の「明日を生きたい」という願いをありったけ集めて生まれたイノは明日が存続する世界を望む。だから救われない世界から——救われる世界へ。
 歴史を書き換えた。
「ったく……腑抜けてんじゃねえぞ。避難は終わった。撤退だ」
「あ、ああ」
「あ? なんだ、気色悪ィ」
「いや……お前がいれば、安心だ」
「チッ……。この甘ったれが……」
 カイ=キスクという名の希望が、もう二度と奪われることのないよう縫い付けられた歴史へと。


◇◆◇◆◇


「奇妙なものですね」
 カイの言葉は簡素だった。衝撃を受けているふうではあったが、どこか淡々としている。肩透かしに近いその態度にイノはつまらなそうに息を吐いたが、それだけだった。これにショックを受けて立ち上がれないようなら、それこそ「期待はずれ」、だ。
「ソルは……あの男は、私の遺言になど耳を貸さないと思っていました。私は確かにあの男に期待を寄せていましたし、今ならはっきりと理解出来ます……慕っていたんです。全てを託すなら彼しかいないと、だけどあれはほんの、最後のわがままのようなものでした。……あの男もわかっていたはずだ。ああして自分が向いてもいない司令職につくことと、前線への投入を制限されるデメリットを。何一つとってもましなことはない。あれなら、ベルナルドが繰り上がった方がまだ妥当だった可能性さえあります」
「ハァ……そっちかよ? 仕方ないだろ、求心力って点じゃあ、圧倒的な強さを見せた上に『カイ様』の勅命を受けたヤツの方が勝ってた」
「それは……確かに事実です。でも、本当に私が……」
「あーあ、まだるっこしいねえ。あの化け物にとっちゃ、あの時点でアンタはそれだけ大事なもんだったんだよ。そんだけだろうが」
 イノのあきれ声を受けてカイは黙った。カイの胸元に今はもうロザリオはないので、代わりに彼は指先で十字を切る。
 二一九二年、十月二十六日。崩壊を迎えた未来のバビロンに彼らは立っていた。イノによってこの時空へ連れてこられたカイは、ろくな説明も受けぬまま歴史の転換点の様を見せられて今に至る。
 見渡してみたが周囲には人の姿がまるで見えず、車は転倒し、しかし建物は比較的損傷も少なく綺麗に残っていた。バビロンは「二一八七年を生きている」カイの記憶する限りでは多くの人口を抱えている経済的繁栄都市のはずだったが、ぽっかりと生き物だけが抜き取られたような町並みは廃墟というには整いすぎており、かえって不気味だった。
「とにかく、あなたの能力については理解出来ました。歴史を改竄し、時を自在に渡る力……あなたの力は、随分と直接的で、その、剛胆ですね。通りで手強い。パーソナルIDの違いでしょうか? 私に割り当てられているらしいそれとはカテゴリが違うようだ」
「そういうことだよ、クソッタレ。まったく……第二インテグレート・ポイントの不具合野郎が。私にここまで面倒を見させるなんて、滅多にないことなんだから……」
「心得ていますよ」
 カイは寂しく笑い、その瞳をまっすぐにイノへ向けた。
 ラムレザル・ヴァレンタインの「宣戦布告」以来、あらゆる物事が須く迅速に動き、世界の様相を様変わりさせていた。イリュリア連王国の初代第一連王として立ち上がったカイは、ここに来て「初めて」実子を預けていた馴染みの男をイリュリアに呼び戻し、対抗布陣を取る。建国以来大きな争乱を経験したことのなかったイリュリア首都はパニックに陥り、第二連王レオ=ホワイトファングの助けがあってなんとか機能の維持に努めているところだった。今ここにいるカイはそういった状況の中、一人イノに連れ出されてこの場にいる。
 イノがカイに告げた事項はきわめて簡潔で、また、突拍子もなかった。有り体に言うと彼女はカイに対して「無抵抗で死ね」と言っているに等しかったし、「そのままテメェを慕って縋り付いてきた世界そのものを裏切って道連れにしろ」と脅迫していた。カイ自身も知らなかった秘密をぺらぺらと喋り、揺さぶりをかけながら。

『テメェは人間じゃあねーんだよ』

 彼女は言った。
 「I(わたしが)−NO(ない)」という名を冠した彼女が薄々自らをそうではないのかと疑っていることよりも、もっと明白で純然たる事実としてそれはカイの前に突きつけられた。彼女がこの時点では未だ自らの正体を知らないでいられるのにも関わらず、目を背けることさえ許されなかった。いいこと、人間じゃない坊や。魔女は嘯く。けれどギアですらなかった坊や。
「ずうっと人間のフリして生きてきたのに、かわいそうね。人間と同じぐらい脆いくせして、本物の人間には絶対になりきれないなんて」
 こんなに人間そっくりで、誰も気がつかないぐらい完璧に模倣出来ているのにね。彼女の言葉は嘲笑じみていたが、どこか他人事ではないかのような響きを持っている。もしかして人間でありたいのか、この人は。カイは素直に驚嘆していた。まさか彼女から「そんな思考」を感じることがあるだなんて。
 カイ=キスクは人間ではない、しかし単なるギアでもない、では一体カイ=キスクとは何なのか? カイは二一八七年には齢三〇を数え、それまでの記憶されている二十年ばかりの人生の中で、人間とまったく変わらない生命活動を繰り返し、時に傷つき、あまつさえ子供までを得た。彼の妻はギアだったから、子供もまたギアだったが、純粋なギアは生殖活動では増殖出来ない。カイは今までその疑問を、自らと妻の半分が人間であるからだと解釈していたのだけれど。
 イノはその問いにせせら笑いでもって答える。それじゃ、ヴァレンタインの名を戴く小娘共は人間なのか、と。
「誰かが創ったのさ、『カイ=キスク』という名前の英雄をな。ヴァレンタインを『慈悲なき啓示』が創ったように、世界の行く末を決定するフラグメントとして」
「俄には信じ難い話ですね」
「アタシも酔狂でここまで言い切ったりはしないさ。でもそれにしては、確率事象の原因があなたに集中しすぎてるのよねえ。ラムレザル・ヴァレンタインとゆりかごの出現をズラしたいだけなのにどうしても辿り着くのはいつもここ。あなた、いくら神様に愛された子だって数百万回の試行を繰り返して同じ結論に至ることはないのよ。神様の愛はいつも気まぐれ。魂は不平等。あったりまえだよなあ。神様なんざこの世にはいねーんだからよ」
 だがバックヤードはある。この世を演算し続ける書物、法術のアクセスによって人間がようやくその存在に触れた未知なるブラックボックス。イノは自らに与えられた傲慢な能力で幾度となく演算を繰り返し、そして半ば確信に至る。カイ=キスクに人間としては規格外なシードIDを付与しているのはバックヤードだ。ヴァレンタインもバックヤードで生まれた上位因果IDを所持しているがカイのナンバーの方が上なのだ。だからヴァレンタインの確率事象を操作しようとした時、こいつが絡んでくる。
「『あの男』を舞台に引きずり出すにはこの確率事象は邪魔。そしてあの男を引っ張ってこれない時点で歴史の変革要素はほぼ死滅し、世界の明日は閉ざされる。何度遡り、どのルートを通って、どこへ分岐して、どう遠回りしようともな」
「だから私そのものを使い、目障りな歴史を根本から抹消してしまおうと。なるほど仰ることは合理的ですが」
「ああ? うるっせえな××××坊やが。テメェに拒否権はないんだよ。私は明日が欲しい。明日を生きようとするこのクソッタレな思考回路の正体と、それを構成する理由であるはずの過去を知りたい。そのためにチンケで、つまらなくて、邪魔な歴史は殺す。過去も未来もそのためならいくつブッ潰したって構わない」
「理解しています。ここまでもつれ込んだ時点で、『私』にもう退路がないのだということは」
「あら〜、思ったより素直なのねえ。わかってくれればいいのよ」
 カイが逆らうつもりはない、と制止をするとイノはころりと態度を変えてべたりと作り笑いをした。僅かにカイが眉根を潜める。彼女の本来の笑みはいつも酷薄で凄惨だ。媚びを売るような笑みの中に本性はない。
「しかし、わかりません。あなたは一体私に何をお望みで? 因果律干渉体のあなたと違い、私自身には確率事象に干渉する術はありませんよ」
「あるでしょ、あなたにしか出来ないコト。人間社会のヒエラルキーで見れば単なる一個人に過ぎない私には逆立ちしたって出来ないけれど、世界何十億人の命を握る連王様になら出来ること……」
「……まさか。あなたは」
「そういうこと。いいからテメェは黙って××××××しな。そうすりゃ、最終的には世界を救わせてやるよ。当然出来るよな。お利口で聡明で、誰よりも見知らぬ隣人の明日を憂える坊や? 見捨てらんねえもんなあ、名前も知らねえ雑兵だけじゃなく、明らかに力を持っていた私を気遣って一度は死んだんだもんな。今更ここにきて、尻込みしたから出来ないとは言わせねえよ」
 イノの笑みは今度こそ凄惨で、暴虐で、実に彼女らしいものだった。もしもカイがごく普通のありふれた人間で、人間らしい思考回路に基づいて行動していたならばきっと彼は首を縦には振らなかっただろう。けれどここにいるカイは。「バプテスマ13を経験せず、よってラムレザルを人間に出来る理由のなかった世界へ因果を固定させる役割を負っていたカイ=キスク」は。
「本当にそれを実行したら、私は歴史に名を残す暴君……いえ、そんななまやさしい言葉では済まされないな。史上類を見ない大反逆者として蔑まれることになるでしょうね」
「心配いらないわよ。すぐに、そんな歴史は『なかった』ことになるんだから。閉じてループした世界はいらない子。そんなもの、グシャグシャにしてポイしちゃえばいいの。だから最終的に採択される歴史における『カイ=キスク』は潔癖そのものってわけ……」
「ですがそれは私ではない別の誰かですよ」
 それを選択出来る。彼にとって世界とは見ず知らずの隣人のことであり、またそれは「自分が生きていけない世界」にも適用される概念なのだ。彼は仕方ありませんね、と少し困ったように笑うと左目に手を当て、複雑な法術陣を展開させた。五年前、自らに施した封印を解呪する。こんなかたちでこの戒めを解くことになろうとは。
「でも……私にだって、ソルがああなる世界が避けられず、どこまでもずっと続いていくのは嫌だなあって思うぐらいの『心』はあります」
「あっははは……! この期に及んでその言葉を選ぶなんて、随分と笑わせてくれるわね」
「だって本当のことだ。私の命はソルに救われた」
「救われるように配置されてたのよ。当然でしょうが」
「それでも、事実には変わりない」
 イノはやれやれとばかりに肩を竦めるとカイの背後、街角のさらに向こうに見える巨躯を仰ぎ見た。命なき二一九二年のバビロン市街に、唯一強大な生命力を誇示して佇む「怪物」。それはドラゴンインストールに浸食されて何もかもを失ったソル=バッドガイの末路の可能性の姿だった。「あの男」が予期していた「最低最悪の可能性」であり、世界が「詰み」を迎えたことを示す墓標でもある。
 今までに何度再試行しても、あれが出現する未来が廃棄されたことはない。ラムレザルを抑止するものが出なければ未来は変わらない。イノがラムレザルを殺したところで、カイのIDがルート分岐を放棄させてしまうからだ。
「あなた、昔聖騎士団で天使って言われてたらしいわよ。知ってた?」
「え? ……い、いいえ。初耳です。誰がそんなことを」
「色々な人がよ。カイ様はこの世に神が遣わされた最後の希望、あの方は天使だ、ってね……」
「……ソルは?」
「言うと思った。もちろん言ってないわよ。だってあなた、別に天使でもなんでもないただの坊やだものねえ?」
 その言葉に、カイの紅く染まった双眸が見開かれた。
「一度ぐらい堕天使になっておくのも悪くないわよお? 無限に広がる確率事象のたったひとつだもの……あなたもう、なーんにも知らないチェリーじゃないんでしょ。あら、そういえば聞き忘れてたわ。でも、やめといてあげる。それは最後に採択された世界のカイ=キスクにたっぷりと聞き出してあげることにしましょ」
「我がことながら同情しますね」
「安心しなさい。最期はちゃんと看取ってあげる」
 イノがカイの背中を押す。観測が楽しみだ。こんな確率事象は自然発生では絶対に起こり得ない。この世界が破棄されるまで、退屈はせずに済むだろう。
「精々楽しませてちょうだいよ、お坊ちゃん」


 かくして、二一八七年十一月七日。
 その日、第一連王カイ=キスクは心からの謝罪の言葉を述べた上で全人類を裏切った。
 




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