014:天使黙示録
「さあ、生きなさい、『カイ=キスク』」
彼が言った。脆弱なただのこどもである少年には、その言葉の意味は理解されてはいなかった。けれどお構いなしに彼は続ける。
「君のパーソナルはたった今書き換わった」
勝手に書き換えておいてとんでもない言いぐさだ。しかし少年は意識が朦朧としていたし、前述の通り彼の言うことは難解にすぎて理解しようともしていなかったので、あまり問題にはならなかった。
「君には——生きる力がある」
そして彼の十字架に魔法を掛けた。
ID《NNXX215711202167120416》にエクストラナンバーとしてID《EXAD215711202167120416》を付与し、少年の躯にはふたつの魂が納められる。ひとつが、『人間』のカイ=キスク。そしてもうひとつが、有り得た世界で秩序という『天使』だったカイ=キスク。ふたつの魂は寄り添い合い、彼をこの先の未来へ生かし、進ませていく。人間のカイ=キスクに対処出来ない「不幸」は天使のカイ=キスクのIDが盾となり引き受ける。《EXAD》台のIDはこの世にごく僅かしか発生し得ない管理者IDだ。ヴァレンタインや啓示の干渉をもってしても、そう簡単にカイ=キスクという存在を損なわせることは出来ないだろう。
だが何事にも例外はある。それが二一七三年に「全ての確率事象で発生する」ローマの分岐だ。
本来「天使」——人の形をした秩序、バックヤードというプログラムに創造された特殊なフラグメント——に必ずなるはずだった存在を強引な方法で「人間」にした故に、人間カイ=キスクは非常に死にやすい。それは元々「天使」の性能維持テストとして割り振られていた「試練」であるローマの戦いにおいて、最も顕著な形となって彼を襲うはずだ。バックヤードそのものの設定したこの分岐を乗り越えるには、同じくバックヤードの力を借りるしかない。さしもの彼とて、そこまでの干渉は不可能だ。
だが聖戦が生み出す最大の魔器でならば、それすらも強制採択でねじ曲げることが出来る。だから本当の問題はその先だ。もっと先——これまで繰り返されてきた演算の中で一度も採択されたことのない可能性が発展していく先。
たとえば、ラムレザル・ヴァレンタインの出現の前後。
だから「第一の男」は魔法を掛ける。本来ギア細胞というものは非常に強力な定着性を持っており、一度肉体に融合してしまえばあとは自己増殖で全身に回ってしまうようなそういう代物なのだ。ソル=バッドガイやジャスティス、テスタメントなどの希有な例がそれを示しているように、他の生物と比べると一際強力な自我を所持している人間とてそれは例外ではない。
ユノの天秤から垣間見た事象が確かなら、カイ=キスクは高い確率で息子と己の眼球を交換する。ギアの力をひく息子が人の世界で生きていくために必要だからだ。そして彼の息子の眼球は言うなればギア細胞のかたまり。高位IDを所持している「天使」たるカイはどうやらその力で完全に侵食を防いでいたようだが……本質が「人間」である今のカイが必ずそう出来るとは言い切れない。よしんば付与されたIDで防衛が出来たとしても完璧というわけにはいかないだろう。その上、最も新しく破棄された世界で「天使」は己のギア能力を全て解放してしまっている。IDには当然その状態がバックアップされているから、制御どころか酷ければ汚染をしてしまうかもしれない。
「魔法」はそれを未然に防ぐための補助であり、保険だ。カイ=キスクがこれから先ずっと祈りを捧げる「十字架」という概念に紐づけられたセーフティ。カイがもしもギアの力を必要とした時も、主体がカイ=キスクという「人間」であり続けるための措置なのだ。
「君が『人間』として生き続けることには、非常に大きな意味がある。それこそ世界を変えてしまえるぐらいに。それから、もう一つだけ……」
第一の男はぼんやりと自分を仰ぎ見ている少年の瞳を慈しむように見た。深いエメラルドの海の色をしたそれは無垢で美しい。確率事象を重ねる中で変わっていったものも多いが、変わらないものも当然ある。彼のうつくしい、見るものを魅了するこの瞳はその最たるひとつだろう。
長い睫毛に覆われた少年の瞳がゆっくりと閉じていく。疲労が過ぎたので、眠りについたらしい。前のめりに倒れ込んでくる彼の身体を抱きとめると第一の男はほっと息を吐き、そして彼に囁きかけた。
「今度こそ君は、幸せになりなさい」
◇◆◇◆◇
種明かしをしましょう、と彼女は言った。今こそ、秘匿されてきた真実を明るみにしましょう。天使たる秩序が人間になるまでのお伽話と、この世界に永遠に刻み込まれた致命的なシステムエラーのお話。そのレトリックを暴露しましょう。
「簡単に言ってしまえば、私自身が『ユノの天秤』なのよ」
言葉は気安く、気負いがない。ただ事実をつまみ上げては並べ直している。それだけといった風体だ。
対するイノは、先日イノ自身の正体を知らしめた彼女がまだこんな隠し球を持っていたという事実に今なら舌が巻けるというぐらいに驚嘆していた。びっくり箱か、こいつは。もしくはパンドラの箱。今まで誰にもわからないと思われてきた真実をこうも容易く安売りにするような、最高に悪質なたぐいのだ。
「ユノの天秤とは……即ちバックヤードの生み出した審判の秤。世界の行く末を決定する事項。世界の辿る道筋を選び取る羅針盤。世界が辿ってきた履歴を保管するハードディスク・ドライブ。そして私のルーツのもう半分。本来、ユノの天秤は意志を持たない。人間やギアのような、特定の種族に肩入れしてはシステムとしての機能を全う出来ないから。そこで『彼』はある知恵を働かせた。即ち、ユノの天秤を擬人化することを思いついた。バックヤードが例外処理を適用したID《XXAD1978112519649257》、因果律干渉体《イノ》のように。
それによって生まれた『私』はID《VVEX19992074878721114》——《ヴァレンタインエクステンド=ジャック・オー》該当個体、ユノの天秤の権限を持った人型としてこの世界に定義されたわ。でもね、彼はいくつかを見落としていたの。見落とす、というより見えなかった、の方が正しいかしら。一つは……この世界は無数に試行を繰り返す仮想空間の最新バージョンに過ぎなかったということ。それから、ユノの天秤が最も密接に人間という種族の行く末に関与した、メインHDDであったということ。そして……それを『アリア』をベースに圧縮した『わたし』は、彼の想像を超え、『識りすぎて』いたこと」
「……どういうことだ?」
「『ユノの天秤は、世界の全ての記録を保持している』。ジャック・オーは発生した段階でユノの天秤と紐づけられ、『これまでの世界で起きた全ての出来事を識っていた』。誰にも予想出来なかったイレギュラー。それが、彼に気付かせてしまったのよ。『世界はこれまでに何度も廃棄されて書き換えられてきた』。そして、その事実に彼よりも早く気がついた『誰か』が、器こそ違えど、既に一度『わたし』を定義していたっていうことにね」
イノがわからない、というふうに眉をひそめる。因果律干渉体であり、歴史を書き換えるという実行役を担い続けてきた彼女には、「世界が際限なく演算を繰り返しているという事実」がどれだけの驚愕を伴う出来事なのか、あまり実感出来ないのかもしれない。しかしそれは紛れもなく世紀どころか全確率事象で一番の発見だった。複雑に絡み合った確率事象同士がどうしようもないタイム・パラドクスを盛大に引き起こすぐらいに、だ。
人間は、「世界が繰り返している」ことを、知ってはいけなかったのだ。
「本来、生まれたてのヴァレンタインには感情がないの。バプテスマ13で最初に襲来した個体や初期のラムレザル・ヴァレンタインがそうだったようにね。エルフェルト・ヴァレンタインは稼働当初から感情のようなものを表現していたけれど、シン=キスクと出会うまでの彼女は模倣プログラムをリードしていたに過ぎないわ。これはバックヤードから生まれた全ての生命の宿命よ。私も、本当の本当に最初はまっさらだった。彼にある程度の人格プログラムとをインストールされ、そしてアリアの記憶フラグメントを持っているから、他のヴァレンタインよりは上手だったと思うけれどね。でも……そう、おかしいでしょ? 私はこの世界での稼働初期から確立された人格を得ている。それは何故だと思う?」
知るかよ、と吐き捨てた彼女にそれでもジャック・オーは話すことを止めない。因果律干渉体は世界からは逃れられない。彼女は耳を塞ぐことを許されてはいない。
「ユノの天秤はバックヤードというマザーコンピュータに接続されたホストサーバ。それを擬人化した私は……『わたし』が『ユノの天秤』で有り続ける限り、バックヤードに正規アクセスする義務を持つわ。全ての確率事象で発生した《ジャック・オー》にこの義務は課され、全てのジャック・オー個体は本能の通りにユノの天秤へアップロードとダウンロードを繰り返す。……その結果、何が起こったか? 答えは、見ての通り」
ジャック・オーが両手を広げた。彼女の立つヘブンズ・エッジを示して、世界の墓場を示して、「死ぬはずのなかった世界の残骸」を示して。
イノの顔が、これまでにないほど苦々しく歪んだ。唇は凄惨に釣り上げられており、彼女は知らず嗤っていた。
「あり得るはずのなかった《絶対確定世界》の棄却は決行され、世界の行く先は不透明になり、混沌と未知が歴史を塗り替える。かつて《天使》だったカイ=キスクが《人間》に再定義されるという致命的なバグが発生したのもそのため。ユノの天秤を擬人化するという『恣意的なエラー』そのものの行為はある意味で世界に大いなる痛みを伴わせたわ。カイ=キスクを人間にするために……人類の歴史を存続させるために、『彼』はまず第一のインテグレート・ポイントを書き換えてアクセル=ロウの過去と未来を抹消したのよ。それがどれほどおぞましく、罪深い所業かを知りながらね……」
「そうか……そういう……やりやがったな……! 発端は『あの男』じゃなく、『第一の男』の方、か……!!」
「そうね。この現状を例えるならばそう……聖書に語られた罪を彼の聖人のものとするのならば、再起の日以降の罪は全て彼のものよ。あろうことか魔法を汎用化して『法力』なんて名前に定義し直し学者達にフォーマットとして配布した挙げ句、世界を正しく導くはずだった《カイ=キスク》という秩序、この世を構成する最重要フラグメントの歯車を台座から引っこ抜いてしまうなんてね。どれほどの強欲と傲慢とを持ち合わせていたらそんなことが出来てしまうのかしら? とても考えが及びつかない。そのくせ、それは人類が存続するために必要不可欠な選択だと彼は言うのよ。確かにそれで人類は未来への手がかりを手に入れたけど……」
死ぬはずのなかった世界が死んだ代償は安くはなかった。ユノの天秤が人のかたちに押し込められているという異常事態は世界に矛盾を強い続ける。一つの矛盾が次の矛盾を呼び、やがて強大なタイム・パラドクスが発生する。そんなタイム・パラドクスの第一の犠牲者がアクセル=ロウ。そして最大の被害者がイノなのだ。
「天使から人間になって、カイ=キスクが死にやすくなったのと一緒。絶対確定世界が不完全で不安定な世界になったことで、世界そのものが滅びやすくなった。今やこの世界は細い糸の上で綱渡りをしているも同然。いつどこで足を踏み外した拍子に崩壊するかわからない。カイ=キスクの死やソル=バッドガイのドラゴンインストール完全侵食は勿論のこと、もっともっと些細な原因で全てがお釈迦になりかねないの。選択肢は数百とあるのに、その手順をちょっぴり入れ替えただけで駄目になるかもしれない。あなたがこの先、明日を目指して干渉していくのはこんな世界。これって段差に片足引っかけただけで死んじゃうゲームよりよっぽど理不尽よ。どうする? ……止めちゃう?」
「ほざきな。今更止められるんなら、私はあの甘ったれの坊やに干渉してない。それよりテメェはどうすんだよ。そっちの方がよっぽど興味があるね」
「私? 私は……ユノの天秤に定められた事を成すだけよ。ジャスティスの起動にエルフェルトを消費するなんていうのは、確かに過去の歴史に類を見ないことだから、彼の望むとおりに止めてあげるのはやぶさかではないかな。でもそれは人類と世界を存続させるための決定打にはとてもなり得ない、ただの時間稼ぎよ。そのことは、今までに気が遠くなるほど歴史を書き換えてきたイノちゃんが一番よく知ってるでしょ?」
「ああ、そうだ。その程度の介入じゃ、まだ『二一九二年十月二十六日のバビロン』は揺るがない……」
「だから結局、この世界を生かすも殺すもみんな次第、なのね。この先の出来事は私も知らない。ユノの天秤が記憶している無数のあり得た世界の中に、未だ二一九二年十月二十六日を乗り越えたデータは記されていない。あ、一つだけ例外があったんだっけ。『二十三世紀からやってきたアクセル=ロウ』というイレギュラー個体が一度どこかの世界で観測されてたはず。まあ……今の段階では、それは希望的観測と言うのも烏滸がましいほどのでたらめに近いのだけれどね」
確率事象を飛び越えていけるアクセル=ロウという存在を、どこそこの事象からやってきた存在だと断定することはユノの天秤たるジャック・オーにも不可能だ。イノが完全同一個体であるからには同一IDを持っている彼も完全同一個体だと考える事は出来なくもないが、それは現状、「二十三世紀から来たアクセルがいるからきっと世界はなんとかなるよ」という安い慰めでしかない。イノはそんなものに縋らないし、あの男もそれに頷くことはしなかった。カイ=キスクやソル=バッドガイにもしも同じ話を持ちかけても、彼らも「なら大丈夫ですね」とは言わないはずだ。
そういう意味では、条件は揃っている。これまでにないぐらいにだ。けれどジャック・オーは「未来を悲観」はしないけれど、その程度では「未来を楽観」もしない。絶対などあり得ない。ヘブンズ・エッジにうち捨てられた確率事象の数がその証明だ。
「頑張って、イノ。今度こそ、世界がその先の未来へ進むことを私は祈っているわ。この祈りが何度打ちのめされ、何度ユノの天秤へ集約されたのか、もう私は覚えてないけれどね」
覚えていないというより「識らない」と言った方が正しいのかしらね。人の似姿をした世界の天秤が言った。図らずもその様はかつて人の似姿をした「天使」が口にした、最後の祈りに、とてもよく、似ていた。
◇◆◇◆◇
西暦二一八七年十一月七日。イリュリア連王国を発って二日後、カイはオペラハウスに到着していた。元老院の違法研究施設が、まさかこんな……イリュリア国土内に堂々と居を構えていたとは。灯台もと暗しとはまさにこのことであろう。終戦管理局の支部だって人里離れた場所に点在していたのに……という思い込みがカイの勘を鈍らせたのだ。己の不甲斐なさに歯がみをこそしたが、今は足を止めている暇はない。
剣を交えた後ツェップのポチョムキンとも合流し、オーパスの設計とその配備に関する書類もつつがなく手に入れた。危惧したとおり、設計図から読み取れたのはドクター・パラダイムが指摘して見せたままの事実だ。オーパスはギアそのものの構造をした半生体兵器で、既に世界中のあらゆる場所に配備されている。現在、オーパスのない区域はウイグル自治区などのごく限られたエリアだけだ。
今はまだオーパスたちは大人しくしているが、彼らがもしもジャスティスの再起動により、イリュリア城で暴れた時のように世界中で一斉に暴動を起こしたとしたら? 世界中の半分を人質に取られているも同然というポチョムキンの話はちっとも笑えない現実だった。あまりにも話が馬鹿げすぎていて最早目眩さえどこかへ通り過ぎてしまいそうだ。
しかし悲観している場合ではない。幸い、カイには「イリュリア連王国第一連王」という、この世界でも上から数えた方が早いほどの権力がある。先の戦いでカイが一人、ソルが合わせて二人撃退済みのため元老院の中枢メンバーが今までのように強引な干渉を掛けてくることはもうないと見て差し支えないだろう。であるならば、こちら側についているA国大統領とツェップのガブリエル大統領を説得するだけで概ね国連の総意としてカイの意志を通すことが出来る。
まずは一刻も早く、国連議会での提唱を。そう考えていた矢先にカイの足下を縫い止めたのは、予期せぬ来訪者……チップ=ザナフのくないだった。
「わーかった、どうやら、本気みてぇだな。試して悪かったよ。お前の覚悟が知りたかっただけだ……まあ、その調子なら心配ねえ」
いきなりけしかけてきたチップの相手をつとめること数分、カイのマグノリア・エクレールⅡが何度目かの閃光を放ったあたりでチップが急に動きを止めた。先ほどまで強硬的な姿勢を見せていたのとは対照的に両手を押し出し、「これでおあいこだ」と言わんばかりにそんなことを言う。カイは首を傾げた。彼の目的がさっぱり読めない。
「……何故、こんなことを?」
尋ねるとチップは首を横に振った。遊んでいるわけでも、ふざけているわけでもなさそうだ。彼もまたこの数年で大きく己を変えた一人。話を聞く価値は十分にあると判じ、カイはその先を促す。
「事件はまだ終わってないって言ってたろ? なら、敵はまだいる。いわゆる真の黒幕ってやつがな。——『慈悲なき啓示』……そいつだな?」
「ど、どこでその名を……」
チップが言った。その通りだが、よもや彼の口からその言葉を聞くことになるとは思ってもみなかったので意表を突かれて言葉端がゆらぐ。「慈悲なき啓示」といえば、ヴァレンタインシリーズやあの男、元老院などごく一握りの存在からしか出てこなかった超級機密の権化のような単語だ。しかし彼は肩を竦めて「ここら辺のもんをちょいと漁ってな」と答えを返した。なるほど、確かに元老院の本拠地であるこの地下施設にならば関連書類が残されていても不思議ではない。驚くべきは、そこに正確に辿り着いたチップの能力だろう。
「ファイルのいくつかには、それについて『無意識の存在』……とか、なんとか書いてあったがよ。だが一連の騒動を振り返ってみろ。こいつは感情もないやつの仕業じゃねえ。……多分、人間だ」
「そんな……」
「とにかくだ……お前は今や世界の王様なんだ。お人好しも結構だが、何かあった時に動じるんじゃねえぞ……」
少なくない驚きに動揺するカイを一瞥してチップは用は済んだとばかりに「じゃあな」と手を振り、闇に溶けるように何処かへ消えていった。
会話を横で聞いていたポチョムキンは、「お人好し」というチップの評をカイよりも重く受け止めていた。カイは人を信じすぎる。人を、ギアを、甘やかしすぎる。決して清廉な一枚岩であったとは言えない国際警察機構に身を置き、連王就任にも脅迫が絡んでいたという噂のあるカイだ、信じた果てに裏切られたことがないわけではあるまいに、それでも彼は人を信じることを止めないのだ。それこそが彼の正義に根付くものだから……止めることが出来ない。
お人好し。カイ=キスクとは、まさにその言葉が似つかわしい男だ。能力も人望もある彼がこの先追い詰められる事があるとしたらその甘ったるさが原因であろうことはまず間違いない。チップはそれを危惧している。
「『慈悲なき啓示』が……人間? ……気安く流せない何かを感じている。だとしたら、一体誰が。いや、私は……」
——それでも、私は私の信じる正義に正直でありたい。
そんな警句者の真意を推し量りながらも、カイは噤んだ先の言葉を彼が残していったくないとともに握りしめた。
西暦二一八七年十一月十七日。イリュリア城を発って八日後、レイヴンに連れられてソルたちは見たこともないような場所を訪れていた。レイヴンの言うことには、この場所の名は「ヘブンズ・エッジ」と言うらしい。意味は、と聞いたが知らないとの即答。はぐらかしているのか本当に知らないのか、そのどちらかなのは怪しいところだ。
レイヴンの捜し物はそこにいた。奇妙な仮面を被った白い服の女の形をした何か。ソルは眉をひそめる。帰りたくないと駄々をこねたそれを押し込めるように暴力でいなそうとし、疑心は更に深まる。こいつはなんだ? 人間ではないだろう。それは確かだ。情報密度と質量はシンと並んで傍観をしているラムレザルのそれとほぼ同質。であるならばヴァレンタインか……しかしヴァレンタインというのは、慈悲なき啓示によって造られた尖兵だったはずではないのか。
それにこの、言い様のない「感触」。だがそんなはずはない。ソルは自分の胸に拳を当てて言い聞かせた。「あいつ」にこんな馬鹿げた戦闘力なんざなかった。
「私はジャック・オー=ヴァレンタイン!」
女が仮面を外してソルににこりと幼女のようにあどけない笑みを向ける。ジャック・オー=ヴァレンタイン……ヴァレンタイン。そこまでは、予測出来ていたところだ。しかし仮面の下の女の素顔が、それさえどうでもよくなるぐらいにソルを動揺させていた。
この胸の痛み、動悸は、バプテスマ13の時にも味わったものだ。一番はじめのヴァレンタインを見た時と同じ。
「そう。ヴァレンタインシリーズの完成形。ジャスティスの完全なる適合成体。だから、私はアリアの半分こだよ!」
こいつは——こいつは、あまりにも「アリア」に似すぎている。
「正確には、フラグメント化されたアリアの記憶データを統合し、ジャスティス個体としての情報セクタを上書きする……素体復元ユニット。ユノの天秤を人類に還元する役目……」
生き写しだ。あんまりなぐらいに。ソルはこの場にいない「あの男」への憎悪がますます募っていくような心地を覚えた。フラグメント化されたアリアの記憶データ? ジャスティス個体としての統合セクタを上書きする素体復元ユニット? ……ジャスティスを素体に復元するのに、何故、アリアのまがいものが必要だ? 自問自答の答えはすぐに返ってくる。そんなものは問うまでもない、アリアがジャスティスの素体であるのならば、全て理屈が通るではないか。
だが感情が追いつかない。ソルは怯えをさえ含んだ声音で押し殺したように「ありえねえ」と呟いた。あっていいはずがないことだった。
「そんな……そんな、はずはねえ。それが本当だとしたら、お前は……アリアはジャスティスの素体だったってことか?! そんな馬鹿な話があるか!!」
「……貴方の心を感じるわ。とても……激しい。背徳の炎と戦っているの……? でもごめんなさい、これ以上は、今は、まだ……」
「——もういい、ジャック・オー。礼を言おう、背徳の炎よ」
ジャック・オーの言葉を遮ってレイヴンが左腕を上げる。ソルが噛み付くように吠えた。しかしレイヴンは取り合ってやるつもりはないとばかりに彼女を下がらせ、黒い闇をそこへ呼び出す。
「な……待て!」
「吠えるな。必ず事情は話す。『あのお方』が解放されるまではしばし待て。いずれにせよ、これから起こることに、貴様は大きく関わるのだからな」
転移する気だ。ソルはすぐさま逃すまいと手を伸ばしたが、レイヴンの転移が完了する方が早かった。
後に残されたのは、何がなにやらというふうに後ろで見ていたシンとラムレザル、そして激しい怒りに似た衝動をもてあましたソルだけだ。
「——くそっ……!!!!!!」
やり場のない怒りと共に、ジャンクヤードを打ち付けた。飛沫が迸り、シンが「うわっ」と小さく声を上げる。
「ジャスティスは……ジャスティスはアリアだってのか? なら俺は……俺はあいつを……アリアを殺したってのか……?!」
ソルの怒りは、自分自身にも向けられていた。かつて二度にわたりジャスティスを機能停止に追い込み、最後にはとうとう殺した自分自身が今この瞬間は最高に呪わしかった。思えばジャスティスは、第二次聖騎士団選抜武道大会で完全にぶっ壊したあの時に何かを言っていやしなかったか?『また、語り合おう』。ソルはその時戯れ言と気にも留めなかったけれど、確かに言っていた。『今度は……三人で』。まるで自分がアリアであることを、知られたくないけれど気付いてほしいとわがままな願いをするみたいに。
『もう、いいよ。……フレデリック』
『違う。だが、彼女は……』
『……僕も、君も、殺したんだ』
ヴァレンタインを倒し、バックヤードから帰還する前後に聞いた「アリアのような誰か」と「あの男」の言葉が脳裏に鮮明に蘇った。ヴァレンタインシリーズのモデルは全てアリアで、その理由は、「アリアがジャスティス」だから。もし、あのヴァレンタインもアリアの一部なのだとしたら……ソルは一体何人のアリアを殺したというのか? 一体……
そしてあの男はソルが知らずに犯していたその罪の深さを知っていたのだ。当然か。アリアを最初に「殺し」て、「アリアでない」なにかにしたのは、彼女をギアの女王「ジャスティス」に変えたのは……奴なのだから。
「何考えてやがる、あの野郎は……!」
ソル=バッドガイの虚しい叫びに答える声はない。ふとソルは、カイの姿をそこに見た。それも十年も昔の坊やの姿だ。警察機構長官のくせにまだ聖騎士団の制服を着て、ソルを見かけるたびに口うるさくやかましくて、でもいつの間にか大人になってどこかへ行ってしまった、あの少年の面影だ。
『おまえにも正義があるのだろう、ソル』
幻の中のカイ=キスクはあの澄み渡ってとうめいなエメラルド・ブルーの海のむこうから膝を突いたソルを見下ろしてきていた。「正義」。ソル=バッドガイの行動理念。彼を百年以上にも渡って衝き動かしてきたもの。あの男への憎悪。ギアへの悪意。……本当に? 本当にそれだけか?
一瞬、アリアの面影が少年のカイの幻影に被り、彼の瞳が血のような赤色にぶれた。しかしそれもすぐに見えなくなって掻き消える。幻影の中のカイ=キスクは、酸いも甘いも知らぬ潔癖症の子供の顔をして、ソルを糾弾する。
『でも私はおまえを信じているよ』
蜃気楼のような少年が笑った。啓示者の如き顔をして、彼は、ソルのヘッドギアの奥へ——笑いかけていた。
/天使黙示録
back ・ main ・