013:ひとがひとであるために
「本当は俺に隠し事をしてるんじゃねえか、カイ」
鋭い。カイは額を抑えて呻きそうになるのを意志の力で堪えると表面上まったくそんなことはを悟らせないような顔をして「お前に隠し立てが通用すると思うか?」と首を振った。カーゴシップに乗り込み、ではオペラハウスへ向かうべくイリュリア城を発とう……とする少し前のことだった。
ラムレザルはもちろんのこと、いつもならちょろちょろと後ろについてきているシンの姿も見えない。わざわざ撒いてきたのだろう。ここから先、「慈悲なき啓示」やベッドマンとそのバックについている存在、ジャスティスにエルフェルト……それらの問題と関わっていく上で、次にいつゆっくりと話が出来るかわからないのだ。彼は多分そのせいで、本気、なのだった。
手合わせの時は出してくれないくせに。少しだけそんな不満を抱いたが、急に口を尖らせてそう言い出すほど、カイはもう子供ではなかった。
「むしろ、お前の方こそ私に山ほど隠し事をしているんだろう? お前が教えてくれるまで、私はそれを聞き出そうとは思わないけれど」
隠し事をしているのは本当のことだ。シンと五年前に交換した眼球がとうとう肉体に侵食を及ぼし、カイの肉体はギア化が進行している。けれどそのことをカイは誰にも教えていない。勿論ディズィーやシン、そしてソルにも、出来れば言いたくない。
特にソルは……知ってしまえば彼がどんなふうに怒るのか、なまじ想像がつくぶんそれをカイは恐れていた。
「ふん……その様子じゃ、『坊や』は何も知らねえ、ってことなんだな、やっぱ。爺さんもそんなようなことを言ってたしな……」
ソルはそんなカイの心境を知って知らずか、勝手によくわからないことを言い始める。爺さん? カイは首を傾げた。彼が爺さんと呼ぶ相手にはそれほど候補がない。では彼が言うその人はもしかして……
「爺さんって……クリフ様のことですか」
「あ? あー、聖騎士団に入った日にな、爺さんが言ってた世迷い言がちっとばかり気になってた。そんだけだ。忘れろ」
「ちょ、ちょっとそんなことを言っておいて忘れろなんて……気になるに決まってますよ。無理です」
「いーから忘れろ」
やはりクリフのことらしい。彼が聖騎士団に入団した日といえば、今からもう十五年も前のことだ。そんな昔の出来事をふと思い出したからには必ず理由があるはずなのに、ソルには教えてくれそうな気配が微塵もない。
しかしカイのギア侵食に気がついた、ということではないはずだ。自分でも驚いているのだが、カイのギア化は何故か酷く緩慢で、その上今の段階ではまだ自由意志で制御が効いている。外部からの強制的なギア化手術を受けたわけではないにせよ、カイが知るギア細胞のシステムに則るならばカイは移植から五年経った今の段階ではもうとっくに全身まで完全に同化し、瞳の色を隠すような小細工さえ効かなくなっている方が自然なのだ。
この現象の理由は未だ解明されていない。相変わらず足繁く教会に通って礼拝は欠かしていないが、そんなものが理由だとはまったくもって思えないし、本当にカイにとっても不思議なのだ。
「そういやディズィーは城に残していくんだったな」
「……露骨に話題を変えましたね。ええ、そうです。彼女はまだ、病み上がりに近い。起きたばかりでジャスティスをオーバーロードさせるための大仕事をさせてしまいましたし……それに首都に何かあった時、確実に動けて遊撃も行える人材をここに残していくことには意義があります。私の転移法術は地球の裏側とを繋ぐほどの規模では行使出来ませんからね」
「あ? 転移法術?」
「言ってませんでしたか? バプテスマ13の頃には、実用化に成功していたんです。といっても人を一人、短距離飛ばすゲートを開くのが限度ですけれど」
「テメェは不機嫌になると途端に他人行儀だな」
「……! 放っておいてくれ。とにかく、昔お前に習ったことは無駄にはしてない、ということだ。ファウスト医師と話す機会もそれなりにあった。あの人のように異空間同士を繋げるなんて芸当は、まだ当分出来そうにもないけど」
カイがはっと口を押さえた後、図星を突かれた子供のような表情でぶすくれる。こんな仕草は聖騎士団にいた頃からちっとも変わらない。身長が伸び、大人になって、妻子を得、広い視野を手に入れ……カイ=キスクという存在は聖戦終結からたくさんの変化を経ていたけれど、根本は変わっていないのだ。
彼の存在が一番めまぐるしく変動したのは、きっと聖戦の最中。それもソルの思い上がりでなければ、ソルと共に過ごしたあの一年の中でだ。決定打になったローマ撤退戦の時、カイの魂はひときわ大きな変革を迎えた。
それからずっと、カイ=キスクは人間だ。今も。願うなら——これからもずっと。
「ああ、わかった。もう行け。時間がねえんだろ」
「……いいのか? 今の話で、おまえの求める答えが出たとは思えないけれど……」
「いいんだ、テメェになくとも俺には思うところがあった。なあ、カイ……テメェは生きろ。何があっても、死ぬな。俺より先にくたばるようなことがあったら承知しねえぞ」
「また無茶苦茶な。ギアは全盛期の肉体を維持したまま殆ど不老不死で生き続けると昔私にロンドンで教授してくれたのは、どこの誰だ? どう考えても私はお前よりも…………ソル?」
カイは言葉を止めソルの顔を見上げる。ヘッドギアの下、伸び放題の髪の毛の隙間から覗くソルの赤茶色の目が、仄かに金色の光を帯びていた。
ソルの目は基本的には赤茶色だ。ギア特有の赤い目。しかしそれが時折金色に変わることをカイは確かに経験として知っている。それはたとえば戦場でだったり、彼がとくべつ苛立っている時だったり、焦燥して叫んでいる時だったり、とにかく、意識が高揚している時に変わっているのだろうというのがカイの密かな見立てだった。良くも悪くもハイになっている証明なのだろう。他の人型ギアにはそんな特徴は見られないから、きっとそれはギアのプロトタイプである彼だけの特徴なのだと思う。
そんなソルの目が、今、普段とは違う色味を帯びた。彼は今戦闘を行っていないし、特別悲しいことも怒れることも起きていないはず。では何故、彼の目は金色になろうろしているのか。
何が彼の意識を引きずっているというのか?
「生きろ、カイ」
——生きてくれ、カイ。
彼の言葉の中に、声なき祈りを聞いたような気がした。
ソルの無骨な手がカイの手を掴み取る。カイが頭を撫でられるのが大好きだった手、たくさんのギアを殺してきた手、同じ罪にまみれた手、そして数多の誰かを救ってきた手。カイが救われた指先。カイが焦がれ、時に求めた、彼の——
(なんだ……お前も、祈ることが……あるんだな)
指先を指先で絡め取った。カイの指先は、ディズィーと並べた時にそれでも男性らしい骨格をしているのだなと自覚したものだが、ソルと並べるとやはり女性のように細い。あまりにも華奢だ繊細だとこの男に言われたものだから、一時、カイは過剰な筋トレに励んで見返してやろうとしたこともあったが、すぐにあまり意味がないことを知り、やめた。ソルの「華奢で繊細な坊やの指」という評は、実のところカイへの侮辱でも嘲笑でもなんでもなく本心からの褒め言葉だったのだ。
『綺麗なもんを見りゃ綺麗だと思うような、そういう程度の機能としてしか残ってねえ』
あの日ロンドンで彼に言われた言葉を不意に思い出した。その意味に今更のように思い当たって、頬が赤らみそうになる。意志の力で必死に抑えて、ぎゅうとソルの手を握った。「ばか」、と言いそうになるのも無理矢理に押さえ込んで。
(き、きれいなものを、きれいだとおもう、って)
この動揺を、上手く隠せているだろうか? いいやきっと出来ていない。繋いだ指先から心臓の音が伝わってしまうし、何より、ソルはカイのことを、知りすぎている。
「ソル……私は、生きるよ。ひととして、この先も、力の限りに」
「ああ」
「私を愛して信じてくれる、家族のために」
おずおずと顔を上げてソルの目を見た。金色の差し込んだ瞳はいつにも増して力強く美しい。彼は綺麗なものを綺麗だと思う、と昔言った。そしてカイもまたふとした折に、ソルのことをとても美しい、と思う。
だから。
(私の家族の中に、おまえも、こっそり入ってるんだ。血のつながりも何もなくっても)
行ってくるよ、と言うと行ってこい、と彼が言う。言葉に出るのはたったそれだけの遣り取り。
けれど繋いだ指先がそれ以上のことをお互いに伝えてくれる。遠くないうちに、ソルとカイはまた次の戦場で相まみえるだろう。今はそれで、十分だ。
◇◆◇◆◇
カイが出立してそう間を置かずに、イリュリア城に「あの男」の使者レイヴンが現れた。それからソルは少し忙しなさそうにしている。このぶんではソルの出発ももう近いな、とその様に感じているのはシンだけではなく、ラムレザルやそしてディズィーも、どこか落ち着かない様子だった。
「なあでも、ラムと母さん、最近二人で話してること多すぎないか? 俺とオヤジ、なんかつまはじきっぽくない?」
「あら、ごめんなさい。でもやっぱり女の子同士でしか出来ないお話って、あるでしょう?」
「ん? んん〜、まあ、そうとも言える……オレもオヤジにしか出来ない話はあるし」
「シン、でもあなたのそれは男同士というよりはカイ=キスクに知られたくないだけの秘密、の方では」
「あーうんそうそう……ってラム?! なんだよソレぇ!!」
頷いてしまった後になってシンが形相を崩して悲鳴のような声を上げた。国中で美男子の呼び声が非常に高いカイを父に持つシンは、顔のつくりそのものはかなりいいはずなのに、こうしてしょっちゅう表情を崩したりころころと変えてみせる。カイはあまりこういうふうに表情を崩さない。そんなところに、シンが大きく育ったのだということを感じてディズィーは微笑んだ。彼女の元を離れた頃のシンは、まだ表情がおしなべて堅苦しくて、お人形さんのようにじっと黙っていることが多かったのだ。
「でも、よかった。ラムレザルさん、とてもいい子で」
「最初、私はソル=バッドガイやシンを殺そうとした。あまり『いい子』では、ないと思う」
「そんなこと、ないですよ。私も……一番最初にカイさんと会った時は、自分の力がうまく制御出来なくて。大分あとになって、カイさんが言ってたんです。『今思うと結構生死の境をさまよったと思う』、って……」
「か、母さん……」
幸い暴走していたディズィーはすぐにソルによって鎮圧され、カイもソルの治療……というよりは半ば生命力の譲渡にも等しかったが……を受けてカイは後遺症一つなくディズィーの看病を受ける中で目覚めることが出来た。しかしそんなことを露知らぬシンは思いがけずバイオレンスだった両親の馴れ初めに多少なりともショックを受けたようで、ぶるりと身体を震わせる。
バプテスマ13から今回の一連の事件まで、シンは幾度かカイと合わせ稽古をこなしていた。そのたびに「基本がなっていない」「ソルは何を教えていたんですか」「そこに直りなさい。終わるまで正座です」などとぐちぐち言われ……それはともかく、カイの強さというものをシンは既に骨身に沁みて知っているのだ。
そんなカイを生死の境をさまようまで追い込む母の力とは……確かに母はギアで、かの破壊神ジャスティスの娘だ、それは知っているが、シンの知っている母の姿というものはおっとりと微笑みシンを抱きしめ、頭を撫でてくれたような優しい姿ばかりだ。なんだか、彼女に抱いていた「なんか儚そうだしオレが守ってやらなきゃ……」というイメージが音を立てて崩れていくような心地だった。
「……驚き。ここ数日、話して得たイメージと、違う。いつかあなたとも手合わせしてみたい」
「もう少し本調子になってからでしたら、ぜひ。カイさんにしばらくは止められてるの。起きたばかりで、大技も使ったあとだからって」
そういえばジャスティスをオーバーロードさせるためのエネルギーも、ディズィーの力で補ったのだったか。シンはその場にいなかったのでどんな力が母から放出されていたのか見ていないが……「見たいよーな、見たくないよーな……」とぼそりと呟くと、何故かディズィーとラムレザルが顔を見合わせて笑った。
「わかった。その時になったら、また。それと……改まって言うのもなんだけど、あなたには、感謝している。あなたと色々な話が出来て、『違う』ということが前よりももっとよくわかったと思う。……『違う』は素敵だ。それはもちろん、あなたも」
「私、ですか」
「そう、あなた。わたし……『お母さん』は知っていたけれど、生まれた時には頭の中に書き込まれていたというだけで、会ったこともなくて、識っているだけで本当はわかってなかった。けれど今なら分かると思う。『お母さん』とは、あなたのようなひとの、ことだね。あなたはシンのお母さん。……何故だろう。今私は少し、シンを羨ましく思う」
「へっ? オレ?」
「だって……シンはお母さんに大事にしてもらって、育てられた。そうでしょ? 私は『お母さん』に抱きしめてもらったことがない。頭を撫でて貰ったことも。褒められたことも。叱られたことさえない。羨ましいのは……そのせい……ッ?!」
ラムレザルの言葉が終わるよりも早く、シンの腕が動くよりも早く、ディズィーの身体がラムレザルへ歩み寄っていき、そして彼女を抱擁した。「……どうして?」ディズィーの腕の中から驚愕に顔を見開いたラムレザルが呆然として尋ねる。「どうして……泣いているの?」自分が彼女を泣かせてしまったのか? と、少し焦ったように。
しかし彼女はそれに首を振る。そして一層強く少女を抱きしめ、あの無垢なサルビアの瞳で少女を見つめた。
「もし、私がそうしても構わないのなら。私はシンと同じようにあなたを抱きしめてあげられるし、頭を撫でて、褒め、そして叱ります。ラムレザルさん、私はお母さんとしてはきっとまだまだ半人前だけど、でも愛して慈しむということ、前を向いて歩いていくための手助けをすること、そういうことは少しは出来るつもりです」
「けれど……私はあなたの子供ではないよ……」
「血の繋がった親子だけがそうしていいだなんてこと、誰も決めてないんですよ。それに最初に私にそれを教えてくれたのは、カイさんです。カイさんは私に手を差し伸べて言ってくれた。『人は、生きるために迷惑をかけていいんだ』って。だから私……シンが生まれた時に決めたの。今度は私が、誰かにそれを教えられたら、って……」
彼女の瞳の中には慈愛があった。ラムレザルがまだ知らぬ、母親の情が。彼女が夫から受け取ったものを誰かへ伝え、そしてそれがまた誰かに伝わっていく。シンがラムレザルを「人間」にしてくれたみたいに。
そうしたら——ラムレザルも、いつか誰かにそれを伝えることが出来る日が、来るのだろうか。
「……カーゴに乗っていた時、シンが、星を見せてくれた」
「シンが?」
「シンが。私は、そんなことに意味なんかないと思った。でも……それは私が、その時まで一度も星を見ようとして見たことがなかったからなんだ、って今は思う。きれいだった。それで……シンが言った。『この空は神様が作ったから美しいって言われた方が楽しい、だから神様は、いるべき』だって」
辿々しく記憶を辿って彼女の胸の中に零す。シンの父であるカイが敬虔に神に祈ることは、なんとなくソルやシンから聞いたり、本人の戦闘スタイルから見て取れていたけれど、かといってシンが父親のように敬虔であるとはラムレザルはあまり思っていない。だけど彼の言うことは、不思議とラムの胸にすとんと落ちてそのまま馴染んでいったのだ。彼の言う神様は宗教の道具としての偶像ではない。もっと何か、大きくて……広くて、雄大な……。
その一端がきっとシンが両親から受け取った愛情なのだ。
彼が星を見て綺麗だろ? と言えるのは、彼が両親や養父に、大事にされてきたからで、またそれを同じように誰かに伝えたいと思っているからで。
「私は……そうやって、シンにきっかけをもらって、『違う』ということ、私は道具である必要はないということを、知ったの。それが出来たのも、あなたがシンに『違う』を伝えられていたから、だと思う。……もう一度、言ってもいいかな」
「はい、もちろん」
「『ありがとう』」
ラムレザルが顔を上げてディズィーを真っ直ぐに見据える。シンはその様を眺めているうちになんだか少しくすぐったくなってきて、鼻頭をこすった。大切な母親と、大事な友達が手をとり親子のように抱き合っている光景はなんだか誇らしい。二人が出会えて良かったと心からそう思う。
「ふふ……なんだか、娘が増えたみたい。シン……あなたもこっちへ来て?」
「お、おう!」
そうやっていると、ディズィーがシンを手招きした。素直に駆け寄ると、彼女の腕がラムレザルと一緒くたにシンを抱きしめる。母の抱擁をふたりで受けるのは初めてのことだった。かつて彼女がシンを抱きしめている時、いつも父はきまってそこにはいないか、見守るようにそばに立っているのが常だった。
「シンは、本当に大きくなったのね。最後に会った時は、まだ私の膝ぐらいだったのに。色々なことがあなたを大きくして、今があるの。お父さんも……同じように思ってる。あの人は、シンには少し厳しいかもしれないけれど」
「最近はオヤジに『実戦はしばらくいいから勉学の向上を重点的に図って欲しい』とか直訴してたぜ。勘弁してくれって」
「それは私も少し思ってるから、シンのことを庇ってあげられないかな……」
「ウッソ……マジで……九九頑張るぜオレ……」
「シン……私が教えてあげた方が、いい?」
「マジか?! ラム九九出来んのかよ! スッゲー!!」
腕の中ではしゃぐ子供達にディズィーの頬が緩む。シンが生まれる前、そして生まれてからしばらくの間も、ディズィーはある悩みに苦しんでいた。「ギア」である自分は子供をほしがってはいけなかったのではないか、それが愛する夫を苦しめてしまうのではないかという危惧。実際にカイが連王に就任しなければいけなくなった(彼はいい機会だったと今は言うけれど)最大の理由は、聖戦の英雄たる「ギア殺し」の正義を掲げた彼がギアの妻を娶りその間に息子までをもうけたという事実だった。
それでも、今の息子たちを見ているとその苦難を乗り越えてここまで来られて本当に良かったと思うのだ。子の育つ姿のなんと嬉しく頼もしいことか。愛する人との子供が、こんなに大きくなって「未来」を感じさせてくれるのだ。
「さあ、二人とも気をつけて行ってきて。それから、帰ってきたらみんなでお茶にしましょう。あの人に習ったアップルパイ、きっと二人とも気に入ってくれるわ」
「母」の言葉に子供たちが頷いた。未来を悲観せず、その先へ連綿と続く明日を信じて。
◇◆◇◆◇
「あー! イノちゃん、イノちゃんだ! またまた、おはよー!」
「なあに寝てたの、アンタ。ここで?」
「うーん、そうみたい。なんだか、夢かな、見てたような気がするんだけど……」
あ、ベッドに乗った子とはまだ会ってないけどね! そう無邪気に手を上げて言ったジャック・オーにイノは思い切り顔をしかめた。
ヘブンズ・エッジ——あり得た未来の墓からレイヴンによって回収された彼女とイノが久方ぶりに顔を合わせたのは、ソルとの接触後にいくつかの軽い「仕事」を済ませた帰りだった。「あの男」の管轄するエリア、バックヤード内部はキューブの膝元近くで彼女は無防備にもうとうとと寝こけていたのである。
「いいの? 寝てて。あの人何か言ってないわけ?」
「うーん、もう少しで出番だから最後に好きなことしときなさいーって」
「それで寝てたってわけ? 変わってるわね……ま、変わってないわけがないか……」
「むー! その言い方、なんだか引っかかるなー。ねえイノちゃん、私のことどんなふうに聞いてるの?」
「彼に? 大して教えてくれなかったわよ。ジャスティスの復元素体であの人が作ったヴァレンタインの完成形、ってぐらいしか」
「そうなんだ。じゃ……ユノの天秤のことは?」
「さあね。そういやアンタがそれにアクセスする権限を持ってるみたいなことは、言ってたかもしれないけど」
それまで寝転がってごろごろしていたジャック・オーが突然起き上がって両腕を下に伸ばす。ジャック・オー・ランタンを模した奇妙な面をぽいと放り投げると、彼女はあからさまに唇を尖らせて「合ってるけど、ちがうー!」と抗議の姿勢を見せた。それにイノがやや辟易した調子で「じゃあ言ってみなさいよ」と返すと、こくこくと頷いて見せる。
「あのね、ユノの天秤っていうのは、すっごい重大なものなの。それで私はそこにアクセスする権限を持ってる、っていうふうにも確かに言えるけど、正確にはそうじゃないの」
「いいわよ、聞いてあげるから正確に言ってみて」
「わかった!」
イノが促すと彼女の顔つきが一変する。相も変わらずソフトが不安定だ。外へ出した後も稼働させながら並列処理でダウンロード自体は続いているはずなのだが、やはり一度出してしまうと定着率も何もかもが格段に効率が悪いと見える。
そんなイノの雑念に構うことなく、ジャック・オーは「あの男」に難色を示されたことをあえて気に掛けず「ユノの天秤」の話を洗いざらい彼女に打ち明けることに決めた。この話はそろそろ「彼女」には教えなければならない。「ユノの天秤」に記されている数多のレコードを参照するならば、ここがその最良のタイミングだからだ。
「第一の男」が舞台に上がってくると予見されるそのギリギリ手前の、今こそが。
「それじゃあ、ひとつ種明かしでもしましょうか」
「勿体ぶるわね。手品のネタばらしでもしようっていうわけ?」
「大体そんな感じね。……そう、つまり、はじめに敢えて乱雑に簡単に言ってしまえば……私自身が『ユノの天秤』なのよ」
すこぶる笑顔でそうジャック・オーが告げると、イノは思い切り不審そうな顔をしてまた顔をしかめて見せた。
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