01 蝶の抜け殻

「……で、お前さんたちなぁんで揃いも揃って俺んとこの船に入り浸ってるワケ? ウチの船は原則男子禁制だ。知らんわけじゃあないだろう」
「酒がありそうな方へ来た。それだけだ。軍神だのなんだの言われて祭り上げられるのはごめんだからな」
「まアンタはいい。元々俺も一杯やりたい気分だったしな。だがしかしなあ、これはちと定員オーバーというか……」
 メイシップⅡの内部にある私室をぐるりと見回してジョニーがわざとらしく肩をすくめる。船を預かる長の部屋だ、決して狭いわけではないが、しかしこの人数はちょっとばかり多い。それでも乗船の段階で彼らを拒まなかったのだから、ジョニーも別段本気で嫌がっているわけではないのだということは皆分かっていた。ただ一つの不満を除けば、だが。
「……せめて一人ぐらいはレディがいりゃあ、このむさっ苦しい空気も多少はマシになったんだろうがなあ」
 もう一度確認をしてジョニーが溜め息を吐いた。旧時代科学の話題に明るそうなあのお嬢さんと積もる話をしたかったんだがねえ……という独り言は、誰の耳からも聞き流されていた。


 時は数時間前に遡る。
 一件落着と相成った後、第三連王ダレルの提案を蹴ってアリアを抱えたままグリンカムビ・ダーク号へ戻ったソルだったが、結局、第十三艦隊と同行する形で一度イリュリアへ戻ることとなった。行きのように急ぐ必要がなかったことに加え、船の機能が一部損傷していたからだ。道すがらジョニーの世間話を聞いたソルは、修理費を払うことになっているらしいヴァーノン大統領に僅かに同情した。ざっと聞いた限りでは、確かに直すのに莫大な金がかかりそうな構造をしていたのだ。何しろ旧文明テクノロジー……いわゆるブラックテックを、随所に組み込んだ代物である。完璧に代替パーツを見つけてくるのは骨が折れるはずだ。
 この世界で現状最も高速飛行が出来るこの船は、その機動力を確保するため、コクピットスペースはさほど広くはない。当然娯楽もなく、設備も整っていないこの状況において、後部座席で全裸のアリアを抱えたまま大人しくしているソルに、法定速度を守りつつ適度に話題を投げかけてくれるジョニーの気遣いは有り難かった。
「悪いね、ブランケットぐらいしか出せるものがなくて。備えはしておく方だが、まさかそんな格好で回収されてくるお嬢さんがいるとまでは予測しちゃあいなかった」
「構わねえよ。俺がついてるんだ、死にやしねえ」
「ははあ。ところでお前さん、ぼちぼち腹は決めたのかい? 何しろこれからずっとカイには『お義父さん』とかなんとか呼ばれることに……」
「ならねえよ」
 ……とはいえ、それはそれこれはこれだ。軽口はとりつく島もなく否定し、ソルはこめかみを押さえる。カイに「お義父さん」と呼ばれるなど、口から滑りかけていたあの一回だけでもう十分なのだ。だってそうだろう。カイの面倒はそれこそ彼が十四歳だった頃から見てきている。シンほどそばにいてやったわけではないが、二十九歳……いや、つい先日、三十を超えてしまったのか……そこまで密に友人関係を築いてきた男に今更そんな呼ばれ方をされるなど、背中がかゆくなって仕方がない。断固拒否だ。
 それにカイの方こそ、ソルとは対等な関係でいたいはず。だからこそジョニー曰くの絶叫コンテストのような惨状が起きたわけで。……とはいえ近頃更に強かさを増したカイのことだ、ソルの弱みを握るように不意打ちで急に耳元とかで言われかねないところではある。その時はまあ、実力行使で済ませよう。
 そんな内心を知って知らずか、ソルの一人百面相を見ていたジョニーが快活に笑った。
「……あ、そ。ま、良かったじゃないの。万事解決一件落着ってなあ。平和ボケしてる時間もちょっとは伸びた。そうだろ?」
「……ああ。ほんの僅かばかりだがな」
「そりゃあな。ソル=バッドガイって男は長生きだ。そのものさしで見れば僅かな時間かも知れないが」
「まあ、情報体フレアによるビッグバン発生までのタイムリミットに比べりゃあ幾らか猶予はあるだろうよ。何しろ五十二時間しかなかった。だが片付けなきゃなんねえことがまだ残ってる。……あの男との決着だ」
「なるほど。それじゃ確かに、インターバルはほんの僅かだな」
「そういうことだな」
 パラダイムやザッパと共にラボでバックアップをしていたその男の素顔を記憶の底から手繰り寄せる。無論、今はあの頃大学研究室で毎日のように付き合わせていた顔とは面差しを異にしているだろう。あの男は理を超えて長く生きている。ギアになれば肉体年齢の経過は止まるが、奴はギアですらない。
「懐かしいと思っちまうのは、歳を取ったってことなんだろうな……」
 腕の中で眠ったままのアリアに視線を落とし、それから、ソルは窓の外を見た。
 若い頃に自分の隣で笑っていた彼女の姿を思い出すと、つられるようにして青臭い自分の姿も映り込んできて、なんだか落ち着かないのだった。まだ自分がフレデリックだった頃。あの男がギアメーカーでなかった頃。アリアがTP感染症に罹患していなかった頃。全てがあったと盲信していた頃……。
 あの男は言った。フレデリックをギアへ改造したのは、アリアのためだったと。冷凍睡眠によって後世で治療を受ける可能性を「フレデリックといられる時間を増やしたい」と言って拒んだ彼女を強引に助けようとして、まず奴はフレデリックを不老の肉体に変えた。次にはアリアを。……少なくともフレデリックには何の説明をすることもなく、了承を取り付ける前に、身勝手に、だ。
 昔から時々突拍子もないことをやり始める奴だったな、と思い出して苦笑いする。天才故の論理の飛躍だ。過程の説明と検証を一段飛ばしにして結果をたたき出してしまうところが学生時代からの奴の悪癖だった。そのせいで卒論のレポートには大層手間取っていたのだ。フレデリックとアリアが大方の目処を付けた秋頃になってもまだ内容をこねくり回していた。覚えがある。
 ソルはずっと自らを改造したことについて、あの男に対する怒りを抱いていた。憎悪と言い換えてもいい。「全てフレデリックとアリアのためでした」なんて言われたところで帳消しになるほど安い恨みでもない。だが今、奴を殺したいのかと問われれば、殺意に限ってはかつてほどの鋭利さはなりを潜めているのも事実だった。ギアになって得たものが、ソルを変えたのかもしれない。
『私にとっては、フレデリックという男の過去よりも、ソル=バッドガイの未来の方が大事だ』
 執務室でウイスキーを差し出しながらそう語ったカイの声が、不思議と、耳から離れないのだった。ソルという名をスレイヤーに贈られ、いつしかソル=バッドガイという名を名乗り、それにすっかりと馴染んでしまったあとになっても、それでもやはり「フレデリック」という男は消えてなくなりはしなかった。ソル=バッドガイで上書き保存をするようにはいかない。それは確かに存在した過去の自分で、それをまったく切り離してしまっては、ソルという男も立ちゆかないからだ。
 それでも忘れたくてがむしゃらに走り、一人になろうとして周囲を全て切り捨てるように生きた頃があった。幼いクリフ=アンダーソンを助けたように、人との関わりを全く持たなかったわけではない。ただ懐には誰も入れぬようにしようと思った。誰とも親しくならなければ、もう二度と裏切られなくて済む。誰とも関わらなければ、もう、悲しまなくていい……。
 そう思っていたのに、あの坊やだけは、どうしてもソルを独りにしてはくれなかった。
『だから今は、少しだけでいい。私とここにいよう。いいな』
 執務室からソルをつまみ出し、真っ直ぐに目を見て言い含めた「大人」の表情を思い描く。昔ならあんな顔はしなかった。勝負しろだのどこを見ているだの喚いていた子供の顔はそこにはもうない。あるのは、為政者として、人の親として、一人の友として、ソルを見つめる男の眼差しだけだ。本当のことを言えば、一瞬気圧された。カイは大人になったと知っていたはずだったが、多分その瞬間まで、ソルは本当の意味でそれをわかってはいなかった。
 酒が飲める年齢になったとか(飲まないが)、妻子を得ただとか、そういう理由で人は大人になるわけではない。では何が。何がカイを大人にしたのか。その理由の一端をソルは担っていたつもりだった。あの子供のことは、あんなに突っかかってくるから……ソルにしては珍しく、それなりに相手をしてやって……だというのに……。
「坊やが、勝手に……俺の知らないところで大人になりやがって……」
 けれどそれが少し嬉しい。
 そう思うのもソルが歳を取ったからなのだろうか。
 それとも、カイが真実、ソル=バッドガイという男にとっての友であるからなのか。


◇◆◇◆◇


「それで結局、なんで俺の船なワケよ。カイがいるんなら城でだっていいじゃないの」
 それでもまだ食い下がるようにしてジョニーが今一度問いただすと、今度はソルではなく、彼のグラスに酒を注いでいるカイが振り返って答えた。
「そういうわけにもいきませんよ。聖皇の襲撃を受け、バプテスマ13の時ほどではないにせよ、城内は混乱を見せています。城下に至ってはもっとだ。心強い味方が多数駆けつけてくれたおかげで人命は守れましたが、ここのところ王都は被害続きです」
「セントエルモあたりから、あの街は標的にされすぎた。あれじゃあ酒場ひとつ開いてやいねえ」
「それに、ディズィーが久しぶりに里帰りをしたがっていたんです。これでもまだ理由には足りませんか?」
「いーや。俺もディズィーが元気にしてるところを見られたのは嬉しい。ただし、だ。俺様の秘蔵の酒蔵を開けてるわけだからな、酒代は出せよ? それとも逆さに持ってポケットを振った方が早いか?」
 ジョニーが冗談めかして言うとつられるようにしてカイも笑った。
 そんな塩梅でメイシップに集ったのは、ソルとそれにくっついてきたカイ、レオ、どこからか現れたアクセル、という一風変わったメンツだった。シンやエルフェルト、ラムレザルもついてきてはいたが、今はディズィーと一緒に別室にいる。元々ディズィーは酒好きのたちではないし、今は眠っている母親のそばにいたいのだという。
「や、でも旦那、ホントに奢ってくれるとは思わなかったよ。正直あれは言葉の綾だとか言うのかなーって……」
「自分から切り出した約束は守るぞ、俺は。ただし一杯だけだ。あとの酒代はこいつに交渉しろ」
「はいはい。俺も大概ウワバミだけど、旦那ほどは飲まないかんね、大丈夫大丈夫」
 三杯目のジンを一息にあおるソルを横目で見ながらアクセルが軽口を叩く。どうやらアクセルがこの場に現れたのは「あたり一帯の時間圧縮」などという離れ業をやってのけた後、「旦那が約束を果たしてくれそうな時代と場所」を目指した結果らしい。ほぼ自由意思で時間跳躍をコントロール出来るようになった彼だが、指定の仕方はなかなかにアバウトだ。性格が出ているのかもしれない。
 ウォッカの瓶に手を付けるアクセルの左、ソルを挟んだ向こうではカイが四方から勧められる酒瓶に囲まれ、色々と悩んだ結果クラウンローヤルをトワイスアップにして少しずつ口に含んでいる。アクセルにとっても馴染みの深い酒だ。イギリス王室が献上したカナディアン・ウイスキー、銘柄の由来はカイにぴったりだろう。口当たりも軽い。
 そういえば、とふとアクセルは思い出す。カイが酒を嗜んでいる場面は、今まであまり目にしたことがなかった。タイムトラベル先で出会ったカイは大体の場合仕事をしていて飲酒どころではなかったし……彼は大の紅茶党であり、たまに休日に会うときがあっても、ワインを一口だとか、紅茶にブランデーを垂らしているだとか、そういう姿ぐらいしか見たことがないのだ。
「カイちゃんってお酒飲めたんだ?」
 それで尋ねかけると、カイはやや赤みの差した頬をこちらに向け、唇を緩ませた。
「お恥ずかしながら、あまり……。でも、ソルと約束をしたので。少しずつ慣れていこうかなと……」
「あー、それで周りに出てるの、口当たりがいいやつばっかりなんだ」
「船長直々のチョイスだ、大船にのったつもりで飲んでくれ。それに万が一酔っぱらったとしてもウチの船には優秀なクルーが乗ってる、なんなら悪酔いして恥ずかしい思い出を作って帰っても構わないぞ? なあに、誰も吹聴したりはしないさ」
「妻と子が乗っているのにそんな姿を晒せますか。どうやら私以外は皆それなりに嗜むみたいですけれど、引き際は弁えてるつもりですよ、これでも」
「もう充分顔は赤いがな……」
 くつくつと笑いながらこぼされたソルの声は非常に意地悪い。昔のよしみでカイのアルコールに対する限度をほぼ正確に知っているぶん、今日の彼は少々たちが悪いようなのだった。
 そんなカイの様子を伺い見ながら、ほどほどに飲んでいるらしいレオが助け船を出そうとしてか、話題をがらりと変えて口を挟む。
「しかしなんだ、大変だぞ、これから」
「ダレルに後始末を頼んできたことがか?」
「……いや、それもまあ、大変だが。お前がこんな冗談を言うとは、本当に弱いんだな……ともかく、国政のことだ。これからの……ひいては世界情勢全ての」
 騎士団にいた頃は愚か、連王就任後もカイの飲酒現場を目撃する機会のなかったレオは若干動揺しながら頷いた。カイはここ数年の間仕事にかまけて祝勝会やらの祝い行事は最低限しか出席していなかったし、報道陣が押し寄せる前でわざわざ酒を飲む必要はない。たまに仕事が一緒になって飲みに誘っても家に妻を待たせているとかでいつも不発に終わり、そのうち、そもそも酒の席には誘わなくなっていたからだ。そしてそれは恐らく正解だった。レオはたった今、さしでカイに酒を飲ませるのは一生止めておこうと得体の知れない予感に後押しされてそう決めた。
「……国政か。ああ、課題は山積みだ。啓示による脅威こそなくなったが、同時に聖皇庁の権威にも傷が付いた。影響は既に後任を指名したあとだったハピヌス二十七世乱心の比ではないだろう。実際、三課の回線はとっくにパンクしてオペレーター達に受付停止の指示を出しているらしい」
「無理もないな。何しろ聖皇はイリュリア国民にとっては殆ど神のような存在だった。現人神だ。信仰を一手に引き受けることで人々の心の安寧を図っていたんだからな。それが全世界中継であんな姿を晒したとあっちゃ、まあ……そんな状況だ。次の聖皇を選ぶにしてもそうそうすぐに事は運べない」
「今は元老院もほぼ解体状態だしな。誰が次の聖皇を選ぶかという問題もある。現枢機卿は、アリエルスが聖皇に就任して以来不在だ。繰り上げようにも下がいない。いっそ聖皇庁そのものを解体してしまえればそれが一番楽なんじゃないか? 不可能だけれど」
「まー、宗教は必要だよねえ。信心って要するに希望でしょ。俺がめぐみと暮らしてた頃とは名前が違うけど、教義が概ね変わってないあたり、そういう性格、残ってるみたいだし」
 アクセルの問いにカイが鷹揚に頷いた。自称この場で最も信心深い男は、胸元の十字架が下がっているあたりを手のひらで撫で、眼を細める。いつの間にか少年のあどけなさが抜けて青年期さえ飛び越えようとしているはずのその横顔は、しかしともすると不自然なほどに美しく、若々しい。
 レオはひとつ溜め息を吐き、グラスを置いた。
「しかし……そういう意味じゃ、ダレルのあの判断は正しかったな。あいつ個人の思想はいけ好かないが確かに公明正大だよ、世界規模の損得勘定が掛かるとなれば特に」
「……どういうことだ、レオ?」
「あの時転移魔法でカイを回収したことについて。……カイは世界にとって必要不可欠な存在だからな」
 危険を知りながらソルのそばに残ろうとしたカイの声を思い返してレオが言った。あの時、自分がもしソル=バッドガイという男のことをこれほどまでに信頼していなければ、レオもダレルと同じ選択をしたかもしれない。正義を掲げるに最も相応しい旗頭をみすみすあんなところで犬死にさせるなんてことがいかに馬鹿げているのか、カイが知らない分レオはちゃんと把握しているのだ。
 これからの世界に一番必要なものは正義と希望だ。適任者は世界中くまなく探してもそうそういない。
「聖皇を失った今、自ずと信仰はお前に集まる。いいか、ソル=バッドガイという軍神は一般には知られていないし、だから英雄にはなり得ないが、カイは別だ。お前は正真正銘世界にとっての英雄であり続けた。若くして騎士団を率いて人々に勝利と平和をもたらし、次いでは国際警察機構の長官として華々しく功績を挙げ、終にはイリュリアという強大な国の王になった。それだけ表舞台で持ち上げられ続けて、信仰が集まらないほうがおかしい。敢えて言ってしまえば英雄カイ=キスクはこのかた十五年ほど信仰され続けている、今現在最も有力な人々の安寧のよりどころ……偶像だ」
「それは、人々の心をコントロールするために、か?」
「そうとも言えるし、ダレルが見込んでるのはそっちだろうな。だが俺はどちらかといえば……」
「テメェが健在なら人々は安心する」
 目配せでレオの言葉をソルが引き継ぎ、ぼそりと言い放つ。カイが朱に染まった顔ではっとしてソルを見返した。何か昔のことを、連鎖的に思い出しているようだった。
「『カイ様がいらっしゃるから大丈夫だ』ってな。テメェがまだ守護天使なんぞをやってた頃から戦場ではそうだった。このあたりは、流石に覚えがないわけじゃねえだろう、カイ」
「ええ、まあ、多少は……でも信仰なんて大したものじゃなかったでしょう、あれは。私は至らぬただの子供でした。今思えば」
「腐っても騎士団の連中は志願兵だ。自ら戦う意思を持って戦場へ向かう奴らは、流石に全責任を信仰対象におっかぶせたりはしねえよ。まあ信仰されてなかったかと言えば嘘になるが。だが……」
「だが俺達が守るべき臣民はそうじゃない。戦う力も抗う術も持たない彼らは、時に期待を膨らませすぎる。実際カイはこれまであらゆるものごとをどうにかしてきすぎた。……来期の信任投票はイリュリア建国以来の数値を叩き出すかもわからん」
 無論、見たこともないぶっちぎりの得票率という意味で、だ。レオが額に皺を寄せてその先を噤む姿にジョニーがふっと笑う。会話に参加せず耳を立てていたぶん酒の進みも早いらしく、彼の周りには早くも空瓶が転がり始めている。だがサングラスの下の肌に変化を一切見せないあたり、信義にもとる飲み方はしていないらしい。彼はなんでもない顔をしてカイのグラスに追加の酒を注ぎ込み……横目で伺っていたアクセルの見間違いでなければ、なみなみ足された琥珀色の液体は先ほどよりも随分度数の高い酒であるよう思えた……ニヒルに口端を歪ませる。
「はっは! お偉いさん方は苦労してるねえ。ヴァーノン大統領、彼も大概胃に穴でも空きそうな顔をしてたが」
「これからテメェが請求書で開けるんだろうが。イリュリアの国庫は開かねえぞ」
「書面で契約を取ってある、心配しなさんな。それより、『人類最後の希望』殿の話なら俺も何度か耳にしたことがあるなあ。聖戦末期だ、もう今から十二年は前になるか。あの頃も確かに人々は見たこともない少年に期待を掛けていたよ。一心にな」
「そのうえこのバンビーノと来たら期待を裏切らないときた」
「はあ、そんじゃ信仰はうなぎ登りってやつ」
「まあな。大体カイ、テメェは国際警察機構にいた頃だってな……」
「あ、ちょっと。これ以上昔の話を蒸し返すのはやめろ、ソル」
 どうにも流れが自分に不利な方向に向かっているらしいと気がつき、カイが露骨に頬を膨らませて抗議する。御年三十歳の男がする表情ではなかったが、カイがすると自然とおかしな感じはせず、ただレオだけがぽかんとして瞬きを繰り返した。ソルはというと見飽きたと言わんばかりの顔をして、おちょくるように唇を尖らせているカイの頭を撫でる。
 それに些か業を煮やしたのか、カイは常ならざるじとりとした眼差しでソルを見、それから、ソルの耳元に唇を近づけて囁いた。
「それより……ソル。私は是非とも、『お義父さんとお義母さんの馴れ初め』の話が聞きたいんだが……?」
 思いも寄らない言葉にソルが勢いよく酒を吹きこぼした。ゲホゲホと大げさに咳き込み、心なしか顔色も青ざめて見える。
「ああ、私とディズィーの馴れ初めが先だと言うのなら勿論構わないぞ?」
 相変わらず上気したままの頬を晒し、上機嫌でにこにこと笑っている。とてもたちの悪い笑みだ。こういう顔をしている時のカイときたら、まあ、ろくなことはしない。しかしそれにしたって、今までソル以外の誰かがいる場所でこんな真似に出たことはなかった。これも酒の力なのか。だとしたら本当に恐ろしい。大体何が悲しくて、気がついたら娘婿になっていた友人に私情を根掘り葉掘り聞かれなければいけないのだ。それも腐れ縁連中の見ている中でだ。
「いらねえよ……つうか知ってるんだよ……」
「あ、馴れ初めは知らないけど旦那の初デートの写真なら俺持ってるよん。盗撮だけどね。ヒューストンの宇宙センターでさあ、旦那ってばもう大胆ロマンチック〜に……」
「燃やされてぇのか、アクセル=ロウ!!」
 そういえばそうだった。アクセルはソル=バッドガイがフレデリックであった頃の写真を何故か何枚も持っている。免許の更新の写真とか、明らかにおかしいだろうというものまで。一体何を望んでその時代へ渡ったのだろう。アクセルのことだから、案外普通にソルの弱みを握れそうな時代へだとか考えていそうなところがある。
「ゴメン旦那、勘弁勘弁。俺も命は惜しいんで、カイちゃんごめんね、写真は今度ね」
「ええ、構いませんよ。王城へ来てくださればいつでも歓迎しましょう。……ソルがいない時にね」
「あー、出来れば俺がイリュリアに滞在している日だとなお面白い。ところでカイ。何故ソルにお父さんだのお母さんだの」
「ああ、うん? なんというか、私の妻の父親がそこの男だったというので」
「は?」
「そこの男って……ジョニーのことじゃないっしょ? じゃ、じゃあ……」
 事情を知らなかったレオとアクセルが露骨に固まる。アクセルが指さした先に座っていたソルは不機嫌極まりない表情でもう何杯目かもわからないストレートの強い酒をぐびぐびと喉奥に流し込んだ。ジョニーが後ろでにやついているせいもあり、ソルはもう半ば、その件については開き直り始めている節があった。
「うるせえ。あんなにチビだった坊やが今や人の親なんだ、俺がそうだったとして、それが何か、おかしいのか、ああ?」
「い、いや。イメージと合わないだけで……」
「でもそっかぁ、旦那ってば好きな子とちゃんと想いは遂げてたんだね。ふーん…………」
「なんだ? くだらねえ内容なら、今すぐ……」
「んん。そういや俺、カイちゃんの両親っていうのは、見たことないなって思って」
 アクセルの切り返しに一同は沈黙した。
 カイの両親。カイの親兄弟。伴侶を得る前の、カイの家族構成……。それらは、かつて聖騎士団に所属していた面々に取って、タヴー視されているきらいのある部分だった。カイに限らず、聖騎士団内で他人の家族構成を詮索することは暗黙のうちに禁じられていた。何故なら、聖戦によって誰かしら家族を欠いている人間が少なくなかったからだ。親兄弟、時には子を失い、その怒りと憎しみを理由にして志願してくる兵もザラだった。そんな中、十歳という幼さで団の箱入りになっていたカイにそれを尋ねるような無神経な人間がいるわけもない。
 もちろん、自分から切り出す分には何ら問題はない。だからカイは、レオに頭の上がらない姉上がいることを知っている。多くの団員たちは生きていれば家族の話をしたがった。娯楽が乏しく血で血を贖うことに明け暮れていた騎士たちにとり、家族の話題というのは数少ない心休まる話の一つだったのだ。
 だがカイは一度も家族の話をしたことはなかった。父も、母も、兄弟姉妹も。祖父や祖母も。そのため、確かめた者こそいなかったものの団内でカイは一人っ子だと思われていたし、両親に関しては様々な憶測が行き交っていた。
「旦那のご両親はね、実は遠目に見たことあんのよ。一回、まだ旦那がジュニアスクールとか通ってた時代に飛んじゃってね……ショッピングモールで手を引かれてた。でも……カイちゃんのそういう姿は見たことない。俺が出会うカイちゃんはいっつも、その白と青の服を着て戦ってたから。十歳ぐらいのカイちゃんとか、見たことあるんだよ? 身の丈は今のカイちゃんよりうーんと低かったけど、必死そうな顔して戦場で治療をしてた。保護者とか、いる感じじゃなかったな。その後すぐに飛んじゃったもんで、ずっと見てたわけじゃないから、その後誰か来たのかもしれないけど」
「……いいえ。聖騎士団に入団した時点で、私は天涯孤独でしたから。ベルナルドやクリフ様が父親代わりでした。それに……白状すると、私には十歳より以前の、もっと言えば騎士団に入団する以前の記憶が、ないので……」
 言いよどむカイの横顔が、あの滅多に笑うことのなかった生き急ぐ子供の姿に被り、息を呑んだ。
 カイが結婚し息子をもうけたのは、ディズィーと恋に落ちて愛し合ったからだ。けれどカイが、誰よりもギアを殺して正義に殉じて生きて来たあの少年が、妊娠状態に至るまでディズィーがギアであることを忘れていたのには、それほどまでにのめり込んでいったのには、彼に家族という名の特別がいたためしがなかったという背景もまったく関わりがないわけではないだろう。
 無償の愛を奉じられまた自らもそれを捧ぐ血の繋がった肉親の存在が彼にはなかった。ゆえにカイがディズィーに抱いた感情は、ひょっとするといつかフレデリックがアリアに抱いたようなそれよりも、ずっと鮮烈で衝撃的なものであったかもしれないというのも想像に難くない。
「……そういう意味では、自分がどこから来たのか……私はそれをまったく知らないんだ。一応公式には出身はフランスということになっているけれど、あれだって、クリフ様に保護された土地がフランスだったというだけだからな。父や母の不在を寂しいと思う暇もないまま今日まで来てしまったが、正直な所、まったく気にならないと言えば嘘になる。自分のルーツを知りたいのは、事実だから……」
 カイの瞳は彼方を見ていた。彼の顔色はまだ仄かに紅潮していたが、それを眺め見るソルの方は、すっかり酔いが醒めてしまったような顔をして、興ざめしたまま飲み慣れたはずの酒をあおり直したが、何故かいつもより随分と苦く舌に残った。