02 起源のない少年
※軽いR-18描写を含みます。高校生含む18歳以下の方は閲覧をご遠慮ください。




 飛鳥=R=クロイツ。日系ドイツ人の三世。フレデリックとアリアの同期で、後にギアメーカーとなり、聖戦を引き起こして世界人口を六十数億から二十億まで減らすことに成功した、ある意味世紀の大虐殺者だ。
 そいつと喧嘩の約束をした。シンはもう戦う必要なんかないじゃないかと言ったが、ことあの男とソルの間には、最早理由などというものは意味を成さないのだ。そこに意思さえあれば遣り取りは成立する。ソルは喧嘩を売られ、それを買った。ごくシンプルな理屈だ。
「——……ッ、」
 腸壁のきつい締め付けに促されるまま精を吐き出し、息を呑む。この頃そんな時間を取っている余裕もなくて、身体を重ねることそのものが久方ぶりだった。やわらかくみずみずしさを失わないカイの身体は危惧したほど抵抗なくソルを呑み込んだが、そんな様子とは裏腹に、ソルの意識は散逸気味で明後日の方向を向いている。
 カイも恐らく、ソルが乗り気じゃないというほどではないにせよ——どちらからともなくそういうことになったわけで——そぞろになっていることには、気がついているだろう。それを口に出さずに身体でだけ言ってくるあたり、なんというか、そこに少年の面影はもうあまりないのだと思わざるを得なかった。昔は性交中どころか手合わせの最中でも考え事をして手を抜いているとやかましかったのに。どこを見ている、今おまえの前にいるのは、わたしだぞ、とかなんとか叫んで……。
 しかし組み敷いた端正な顔はそんなことをおくびにも出さず、ただ肉の淫靡なうねりだけでそれをほんの少しなじってきている。別に怒らないけど、考え事があるなら話してくれてもいいのに、と言う代わりに自らを犯す陰茎を食い締めている。一体誰があの祈りと美しいものとで出来ていた少年をこんな淫猥な大人にしてしまったのだ。無論犯人は考えるまでもなくソルなのだが。
 だがそれでも、このわだかまりを口に出して告げることははばかられた。とてもじゃないが言いたくない。乱れた呼吸に合わせて腰を打ちつけながら、しかし己の唇は真一文字に結んだまま、じっと逸らさずにこちらを見つめてきている海色の瞳に、あの男の顔を重ねているなどと、自分でも認めたくないのに。
(ただの思い過ごしなら、それにこしたことはないんだがな……)
 シンを伴って訪れた場所でフードを取り去って現れたその顔は、やはり、フレデリックの記憶にある飛鳥の顔とは異なっていた。まず奴は少し沈んだ灰まじりの白髪だったし、前髪はちょっと長すぎるぐらいだったが、右目が不可思議な羽根に覆われているようなことはなかった。もちろん前髪に赤い十字が浮かんでいたことも、両サイドになんだかよくわからない赤いけものの耳が生えていたためしもない。それになにより、あの金髪の下からまっすぐに見据えてくるエメラルドの瞳……。
(ああ、くそっ。気のせいにしちゃ、よく似てるんだよ、テメェらは)
 あんなに似ていたか、カイと飛鳥は。似た面差しに自然と惹かれてしまっていただとかそんな阿呆な理由などではない。「ソル」にははっきりとわかっていた。あの相似性は、あそこまできてしまえば、それはいっそなにがしかの血の繋がりが……。
(馬鹿か。あるわけねえ)
 ぶるりとかぶりを振り、ソルはくだらない空想を洗い流そうとするかのように自らの腕の下に横たわる男の顔を見た。そしてばかげた考えを否定するため、獰猛に唇を奪う。むしゃぶりついた先の唇は抵抗一つせずソルの分厚い舌を受け入れ、奥へと招き入れる。その際に自然と全身が圧着し、ソルはその事実にほっとする。
 これだけ密着してしまえば、あのうつくしい面差しも視界に映らない。ただ、下半身をゆすると跳ね上がる嬌声が聴覚をくすぐり、繋がった肉のもたらす触覚が全身を鋭敏にする。そして汗と白濁に加えて木蓮のような甘ったるい匂いが嗅覚を刺す。そればかりだ。今はただそれだけに満たされていたい。他のことは、何も考えていたくない……。
 怒張し、決壊を訴えてくる逸物を予告なく胎内で解放する。どくどくと流れ出る精液が彼の内側を満たし、肉と肉の隙間から零れ出る。その瞬間を口づけたまま迎えたソルの唇の下で、カイの唇がなにがしかの言葉を作ろうとするように動いた。動きからして四文字だ。しかし何と言いたいのか、それが今ひとつ判然としない。
「カイ——」
 唇を離し、身体を起こして名を呼んだその先の青年は絶頂を迎えたばかりのうっそりとした顔のまま、左目を数度しばたかせてから「何か、私に言うことが?」と悪戯っぽく微笑んでいる。


「ちょっと、それ、初耳なんだが。というかシンを連れて何をしているんだ。喧嘩の買い方より先に教えるべきことがあの子にはたくさんあるだろう」
「九九なら八の段に入った」
「そういうことじゃなく。いや、それも重要だが」
 何も、巻き込む必要があるのか? と首を傾げ、ベッドサイドに腰掛けていたカイが水の入ったグラスをサイドテーブルに戻した。一糸まとわぬ姿のまま、それを特に恥ずかしいと思っている様子もなく平然としている。昔はもっと恥じらいがあったのに。散々乱れたあとだろうと慎みを見せていたくせに、シャワーも後回しにしてソルの匂いを体中に纏わせたまま顔色一つ変えずにいる。
「坊や」
「久しぶりに聞いたな、それ」
「昔はもう少しかわいげがあったように思うんだが、いつ棄てた? 俺の記憶では七年くらい前はまだ大して変わっていなかったような……」
「なあソル、最近お前、昔懐かしみすぎだろう。いやでも、仕方ないのか。孫まで出来たとなれば……」
「いつまで引っ張る気だ。昔懐かしんじまうのは全部テメェが子供をやめたせいだぞ」
「は? 私が一体誰のせいで大人になってしまったと思っているんだ?」
 お前のせいだぞ、お前の。今度はそうはっきり口に出して、カイの手がソルの下半身を握った。「なんでまだ上を向いているんだ」という眉間に皺の寄っていそうな声を漏らしてからぱっと手を離す。いたいけな少年に男に抱かれる悦びを教えた張本人はそれに悪びれるふうもなく「あんまり煽ると夜が明けても終わらなくなるぞ」なんてのたまい、そのまま話を真面目な方へ持ち込んだ。
「俺とあいつの決着だけが残ってるんだ。ソイツにはキッチリ落とし前つけなきゃならねえ。シンを連れて行ったのは俺についてきたがったからで、テメェがどうしてもというのなら首輪で父親に繋いでおいてやる」
「まずシンに首輪を付けようとするな。でも、そうだな……私がいくら言っても、シンは行きたがったら止めてくれないからな。それに関しては、まあいい。で、それはいつなんだ?」
「わからん」
「え」
「まあ近いうちに、だ。あの男にもやることはあるだろうし、俺の方も、アリアはまだ目を醒まさないし……」
「……ディズィーもそのことはずっと心配している。彼女……ジャック・オーの言うことが確かなら、ジャスティスの中に残されていた魂の半分は、自責の念に堪えきれず狂ってしまっていたのでしょう。幸せな目覚めになればいいけれど」
 青い瞳が悲しげに伏せられる。ジャック・オーとの融合を土壇場で拒んだアリアの悲しみの深さを推し量り、彼は心からの思いでそう呟いた。
「願わくば、な。俺は……あわせるツラが残ってりゃ、いいんだが……」
「……ソルは大丈夫だよ。私はむしろ、アリアさんがどうして人に戻ることを拒んだのか、その気持ちが少しだけわかる気がする」
「あ? 何故だ」
「だって。……知られたくないだろう。自分の醜い姿は……」
 心臓の位置に手を添えてカイが俯く。隠したい傷口を覆い塞ぐようにして床を見つめ、それからおもむろに振り返り、ヘッドギアの、ちょうどギアの証が彼の額に刻まれているあたりにそっと触れる。
「私はフレデリックの過去を探ろうとはしない。前も言ったけれど、相手を理解したい気持ちと全てを知ることは全くの別物だ。けれど、フレデリックという男の過去が満たされるのならば、それはソル=バッドガイという男にとってもいいことだと思うよ。そのために私が出来ることがあるのなら、どうぞ遠慮無く言ってくれ」
 カイが言った。
 こんな時ばかり、あの、彼と初めて出会った頃とちっとも変わらないような、澄み渡った目で見つめてくる。溜め息が自然と口から漏れたが、触れられた手を振り落とすことはしなかった。指の先に隠された紋様をカイが初めて目にしたのは、第二次聖騎士団員選抜武道大会の終わり、ジャスティスを今度こそ完全に葬ったはずだった、あの時だ。全てのギアに等しく刻まれているその「証」を、今まで粗野だなんだとなじりつつも人間だと信じていた男の身体に見るカイの姿は、いっそかわいそうなぐらいに動揺しきり、震えていた。
 あの時カイはまだ幼かった。肉体年齢こそ二十を超え、少年期から青年期へ移り変わり、公人としての彼は既に完成されつつあったが、内面はまだまだ、ソルが彼を置いていった時から変わらない十五歳の少年性を引きずっていた。子供のまま背負う責任だけ大人の重たいそれに取り替えられ、脆弱な、とても幼稚で一面的な正義ばかりを信奉していた。
 しかしカイは、額の印を理由にしてソルへ剣を向けることは、ついぞ一度もしなかった。それもまた、カイ=キスクという少年が大人へ成り代わるために踏み出されたステップの一つだったのかもしれない。
「……。いや、テメェは俺より先にくたばらなきゃあそれでいい。第一なあ、今更遠慮するような仲か、俺たちは」
「何を言う。私はこれでも時々遠慮しているんだぞ」
「うそつけ、俺の胸ぐら掴んで部屋の外に放り投げたろうが」
「シンの教育方針のことでなら、本当は言いたいことが山ほどあるんだ。だがあそこまで元気に育ててもらった恩があるから……」
「……この話はやめだ」
 まだまだ抗議したりないと言いたげな唇を言葉が出てくる前に摘み取り、ふとソルは、カイがこの十五年間で違えたもののことを考える。一つ、背丈。二つ、正義について。三つ、精神。四つ、立場。五つ、家族……。
「家族、か……」
「うん? どうか、したのか?」
「両親について、まだ、知りたいのか」
 この前言っていたように。問いかければカイはのんびりと首を傾げる。少し考え込み、そうして彼は穏やかな表情で口を開く。
「知りたくないわけじゃない。けれど、優先順位で言えば、さして高くはない。知らなくても生きるのには困らないからな。私にはもう妻がいて、子もいて、それからお義……」
「やめろ」
「……おまえがいて。十分すぎるぐらいだ。クリフ様はもう他界されてしまったが、ベルナルドは今も私を支えてくれている。それに、あの時は言わなかったけれど、本当を言うと真実を知ることをほんの少し、恐れているところもある」
「恐れ? 何故」
「クリフ様が私の本当の両親について、一度も答えを教えてくださったことがなかったから」
 カイの言葉はごく簡潔だった。その先を促すと、「少し長い話になるぞ」と前置きをされる。ソルに対して長話をしないくせが出来ている(あんまり長いと、昔のソルは興味を失ってどこかへ行きかねなかったからだ)カイが先にそうやって釘を刺すということは、本当に長い話なのだろう。剥き出しの肢体を抱き寄せると、少し冷え始めた皮膚の感触がソルの熱に混ざった。
「話せ。どこにも行かねえから」
「ああ。……私の記憶はね、ソル、騎士団の医務室から始まっている。ベッドの上に横たわり、上体を起こすと、ベッドサイドにクリフ様が腰掛けていて私に名を尋ねるんだ。問われるままに名前を口にして、それから次の質問に答えようとして、私は驚いた。……何もわからなかった。今日の日付も、出身地も、母の名も父の顔も、何もかも全て。それまでどうやって暮らしていたのか一つも思い出せない。見聞きして話す分には何の支障もなかったにも関わらずだ。私にはその時何もなかった。私がその時持っていたのは、この身体とカイ=キスクという名前、そして妙に重たいあのロザリオだけだった。
 ……これは後から知ったことだけれど、クリフ様は長い間、私の出自について随分懸命になって探ってくださっていたそうだ。聖騎士団の団長であるという立場をフルに使い、キスクというファミリーネームを持つ人間にはじまり、とにかく私にかけらでも由縁がありそうな人物について徹底的に調べたらしい。何しろ私は、自分で言うのもなんだが、ちょっとばかり才能がありすぎたから、親に棄てられたという可能性も考慮して洗いざらいさらわれた。しかしどこにも私ぐらいの年頃の男の子が収まりそうな場所がなかった。急にいなくなった男の子なんてものは、世界中探したってどこにもいなかった。偽装を疑って同じ年頃の女の子についても調べられたが、それもあまり結果は芳しくない。クリフ様が私を拾ったのは南フランスの農村地帯だったらしいんだが、勿論、ギアに滅ぼされたその村に、私にゆかりある人物など影も形もなかった。聖戦が終わったあとだったか、警察機構に移ることになってようやくクリフ様は私にそれを教えてくださった。手を尽くしたが、私の家族のことは最後までまったくわからなかった、と……」
 本気か、と思わず尋ねてしまったその言葉は、ソル自身驚くほど低い声音だった。カイは真顔で肯定する。この場にいたってソルに嘘を吐く理由は、どこにもない。
「その時クリフ様は笑いながらこう仰っていたよ。こうなってしまっては、元老院や聖皇庁に秘匿されているか、或いは空から落っこちてきた可能性の方がいくらも高いのではないかと。実際、ジャパニーズの個人情報なんかはあのあたりの権限で隠匿されており、私の現在の権限でも閲覧には時間が掛かる。まあ、気の流れからしてジャパニーズとは無縁そうだともクリフ様は見立てておられたが」
「空から落っこちるたあ、随分な言いぐさだな。聖書の天使じゃあるまいし……」
「尤もだが、それで少し怖くなってしまってね。国際警察機構長官、連王、と私自身が動かせる権力もどんどん大きくなってはいったが、その度に少し考えては調べることをやめてしまっていたんだ。連王就任以降は普通に暇もなかったしな。覚えのない父母よりも、目の前の家族と臣民の方が大事だったわけだ。……他に何か?」
「いや……」
 ソルはかぶりを振った。
 カイが生まれたであろう時代は、混乱を極めた聖戦の最中だ。国連や聖騎士団、その他組織が持っていたデータベースを全て併せても、あの時代全ての人間について記されているわけではないだろう。焼けてしまった書類、そもそも登録されていない子供たち、そのような例は無数にあるはずだ。
 だがカイがそれらの有象無象と一線を画す点は、彼が規格外の法力を宿す異端児だったことであり、そしてその後全世界に名の売れた英雄となったことにある。あれだけ有名になれば、実は縁者だったのだと名乗り出てくる人間は、嘘か誠かはともかく少なくなかったはずだ。それこそ騎士団にいるうちから。実を言うと、ソル自身もその手合いをクリフが追い返すところを見たことがある。連王にまでなってしまえば(そもそもあの時点で元老院の監視下に置かれていたわけで)それもなりを潜めているのだろうが……。
「……なんとも頭の痛い話だな」
「ああ。そうかもしれないな」
 ソルの言葉にカイが苦笑いで応える。
 彼の頭の中に描かれているあの男の素顔など、知りもせずに。


◇◆◇◆◇

 
「親の顔が見てみてえもんだな」
 苛立ちから思わずそう口にしてしまい、後になって後悔した言葉だった。ソルは白と赤を基調にした法衣を着ており、その眼前にはソルより一回りも体躯の小さい少年が立っている。ソルが聖騎士団に入団していくらも経たない頃のことだ。カイはまだ十四歳だった。
「……親の顔、ですか」
「ああ、そうだ。一体どんな親に育てられたら坊やみたいな鬱陶しい上に諦めを知らないガキに育つ」
「その言われ方は心外ですけれど。……親の顔を見てみたい、という思いに関しては、わたしも同じです」
「はあ?」
「知らないんです。わたしの、両親のこと。この前もそうだと名乗るひとたちがここまでやってきて、わたしは今度こそ、そうなのかもしれないと思ってみたりしたんですけれど、顔を見る間もなくクリフ様が追い返してしまわれたから。……また、わたしとは全然関係ない方たちだったみたいで……」
「……」
 いたって真面目な口調で続けるカイの話を聞き、ソルはげんなりとした顔で肩を落とし、口を噤んだ。まるで喧嘩でも売るように口からぽろりと零れ出たなんでもない台詞だったはずが、思わぬ貧乏くじを引いてしまったらしい。こいつ、みなしごか。それも物心がつくより前からの。十から団にいるのは、天賦の才を持っていたのはもとより返すべき親元が既にないからだとは聞かされていたが、まさか親の顔も知らないとは。
「……悪かった。嫌なことを聞いたな」
「いえ、いいんです。そんなことよりわたしはあなたが書類を提出してくださらないことの方にもっと困っているので。だいいち、わたしがこうして『しつこく』あなたを追い回しているのは、書類の期限が過ぎているからです。早く報告書を上げてください」
「同行した大隊長がもう出しただろ」
「武器損壊の方です! あなたの謝罪とサインがないものでは受け付けられませんので!!」
 またふくれっ面で騒ぎ立て始めたので手のひらで口を塞いでやると、しばらくはもごもご動かしていたものの息苦しくなったのかすぐにそれを止めた。
 解放されたカイはまだ何か言いたげにソルの方を半ば睨み付けてきていたが、ソルがまるで気にしたふうもなく何処吹く風という顔をしているので、とうとうこの場での追求を諦めたらしい。彼は力なく両腕を降ろし、しかしむくれ顔のまま、ソルが逃げないようにか、だぼついた法衣の裾を握りしめる。
「そうカッカするな。それより、この前もじいさんが追い返したってのは」
 はぐらかすように別の話を持ち出すと、カイは一層顔をしかめたがちゃんと質問には答えた。
「言葉の通りですけど……大体の場合、血液型が全然違うので利権ほしさの嘘だってすぐにわかるみたいですよ」
「血液型?」
「わたしはAB型のRH−です」
「ああ……なるほど」
 ソルが得心したとばかりに頷く。何しろ世界で一番少ない型だ。それは確かに、大方の嘘をすぐに見通してくれるだろう。
「そりゃ、適合者を探す方が難しいな。めんどくせえから、輸血が必要になるほど血を出すなよ」
「余計なお世話です。それにあらかじめ非戦闘協力員の方たちの中から、同型の献血を募ってあります。大丈夫です。それより、ソル、あなたの……」
「俺は出血多量で死ぬようなヘマをしねえからどうでもいいんだよ。んなことよりも」
「……なんですか」
「家族が欲しいとか、羨ましいとか、そういうのは、ないのか」
 それを尋ねると、カイはあどけなさの残る丸い瞳をぱちくりと見開き、まるでソルがそんなやさしい質問をしたことを疑るように二度三度じろじろとソルの全身を見回した。悪いものでも食べたんじゃないかと疑われているのは明白だった。その時になってソルはようやく思い当たったのだが、他の団員たちが割とカイを甘やかしている素振りがあったのも手伝って、ソルはここに来てからというもの、あまりカイを甘やかしてやろうと考えたことがなかったのだった。
 それに頭ではたった十四歳の子供なのだということをわかってはいたが、彼の戦場での働きが、ソルのカイに対する評価を年相応以上に押し上げている節も少しあった。
「え……どうでしょう。考えたこともなかった。ということは多分、あんまり思ってないってことなんじゃないですか? そりゃあ、いるなら会ってみたいなあぐらいには思いますけど。ここにいれば、わたしは一人ではありませんし……」
「まあそうかもしれないが」
「団の皆さんは本当によくしてくれますから。寂しいと思ったことはありませんよ。それに……クリフ様やベルナルドと話していると、時々、父親ってこういう感じなのかな、と思うんです。贅沢ですよ、これ以上を望むなんて」
 カイの口ぶりからして、彼が本心から、それ以上は望むべくなもないと感じているだろうことは確かなようだった。そういった自分に関わる事柄には高望みしないくせに、どうして戦場では救えない命まで救おうとして、結果、危ない橋を渡りにいってしまうのだろう。この少年は、自分の命のことをどう捉えているのだろう。
 彼と話をするようになってまだひと月も経たないが、しょっちゅう、そう思う。この子供は自らの命を軽んじすぎてやいないか。一部の団員たちは、彼をまるで神の子か何かのように思ってすらいるというのに。
 自分が死んでしまったとして、そのあと世界がどう傾ぐのか、きっと彼は考えたことがない。誰の心にもさりとて影響を与えることなく、世界はそれでも回っていくと信じているような、そういう幼稚さがソルの胸に酷く引っ掛かった。
「ああ、でも、養子縁組のお話はよく頂くんです。偉いひとたちが、どうもわたしのことが欲しいみたいで。でも全てクリフ様がお断りしてくださっています。わたしも、今のところその手のお話を受けようと思ったことはないな。わたしは地位にもお金にも興味がないんです。それと引き替えにしがらみに取り囲まれて、わたしの信ずる正義に奉じることが出来なくなる方がずっと嫌だ」
 ただ、ぱっと顔を上げてソルの目を覗き込んでくるカイの顔は、少なくとも今は死にたがってはいなかった。この坊やが死にたがっているわけではないのに死に急ぎなのは、多分、大人ばかりのこの組織に放り込まれて、一秒でも早く一センチでも高く、大人に近づこうと背伸びをし続けているせいだ。子供でいていい、と彼の周りの殆どの人間は教えてくれない。背伸びをするなとも、誰も言ってくれない。
 ならば誰かが、彼を子供扱いして、まだ子供なのだからと言い含めてやった方が、きっといい。
「だからと言って過度なトレーニングを行うのは、感心しねえがな」
「な……何故あなたがそれを、」
「身体壊しちまったら元も子もねえだろうが。大体あんだけ鍛えてるのにその身体ってことは、坊やは体質的に筋肉が付きにくいんだろう。俺みてえになりたいのなら、まあ、諦めるこったな」
 わざとらしく上から見下ろして頭を突っつくと、カイは露骨にむっとした顔を見せ、「今にあなたの身長なんか追い越してみせますからね!!」とむきになって唇を尖らせた。この前の検診では、カイの身長は一六五センチを少し超えたところらしい。たけのこのようにめざましく背丈を伸ばしている最中とはいえ、ソルの一八二センチにはまだ遠く及ぶべくもない。
「将来的にも抜かれてやる予定はさらさらないな。とにかく、無茶はするな。坊やが倒れたら、困るのはテメェ一人だけじゃねえんだぞ」
「……。ソルも、わたしが倒れたら、困るんですか」
「寝覚めが悪くなる」
「そう、……ですか」
「あ? なんだよ、気持ち悪ィ顔して……」
 カイが言い淀んでさっと顔を下げる。それに眉をしかめ、ソルは袖を掴んだままのカイの腕を上に持ち上げ、顔を覗こうとする。するとカイはぱっと袖から手を離し、ぶるぶると首を振って、取り繕うように面を上げて努めて気丈な顔をしてソルを見遣る。
「い、いえ、なんでもありません。……それより! 報告書は出してください。何なら出すまであなたの部屋にわたしも立ち会います」
「勘弁してくれ」
 げっそりとしてあからさまに嫌そうな顔をすると、カイは再び、ソルを逃すまいと今度は尻尾のようにぶらりと伸び下がっているソルの髪の毛を握りしめた。


◇◆◇◆◇


「AB型のRH−、なあ……」
 カイが子供だった頃のことを思い返す最中でふとそれに気がつき、ソルは胸の中のもやもやしたものを押し流そうとするように酒を流し込んだ。だがどうしたことなのか、人並みに酔える身体に、人並み以上に強い酒を注いでいるにも関わらず、まったく酔いが回る気配がない。このまえの酒宴からずっとこうだ。こんなに酒がまずいとあっては、たまったものではない。
「……あの野郎の血液型も、確か同じだったな」
 あの時は気にも留めなかった情報を今になって反芻した。酒がまずい原因はわかりきっている。カイ=キスクと飛鳥=R=クロイツの、あってはならない相似性。一つ思い浮かべば、それに連鎖するようにあれもこれもと不可思議な点が浮かび上がってくる。出来の悪いジョークだと一笑に付すのが恐ろしくなるぐらいに。
 シャワールームの方から、カイが水を浴びている音が聞こえてくる。ソルが吐き出した精を身体の中から掻き出して、カイは朝早いうちに執務へ戻ってしまう。大人の顔をして、「カイ」という個人から「イリュリア連王国第一連王」という公人の檻に自ら収まりに行く。
「……何も起こらねえんなら、そいつが一番いいんだが」
 だが、そういうわけにもいかないのだろう。ソルには予感があった。こういう時の嫌な予感というのは、大概当たる。アリアが不治の病に罹患した時も、こんなふうな虫の知らせがあった。