01 エンジェル=K=クロイツ

 ヒーローになりたいなんて思ったことがあるわけじゃない。

 名前を失った男は、ボロ屋に敷き詰められた藁の上で目覚め、あくびをした。大きく開いた口に添えられた手は、成人男性のそれと比べても少々ごつかったが、紛れもない人の形をしている。その節くれ立った指先で寝床のそばをふらふらと動かし、四角い箱を探り当てるとスイッチを捻った。
『——昨日未明、メリーランド州ベセスダの国立衛生研究所で火災が発生し、当直の医師十数余名他の死亡が確認されました。当局ではこれも〝ギア狩り〟の仕業ではないかとの見解が強まっており、引き続き、警戒を強めていくよう各地の研究所に呼びかけ——』
 そこで再びスイッチが捻られ、ニュースキャスターの朗々とした読み上げはぷつりと消える。スイッチを捻るたび、流行りのシンガーソングライターが歌うキャッチーなポップスやら老齢のパーソナリティが朗らかに笑いメッセージを読み上げる番組やら、ラジオが鳴らす音がめまぐるしく変わっていった。それを十何局ぶんも繰り返し、ようやくカチカチとスイッチが回る音が止まる。聞こえてきたのは、軽快なロック。今から百年近くも前に流行った伝説的ヒットナンバーだ。
「『ラジオ・スターの悲劇』か。おまえにしては、選曲が変わってるな。クイーンは? 今日は何処も流していないのか」
 ふと伸びてくる手があり、そいつはふわりとラジオの箱を持ち上げ首を傾げた。男は起き上がり、首を振る。床同然の場所で寝ていたせいか、肩を回すとばきぼきと派手な音を立てて骨が鳴った。超再生力を持つ不老の肉体に成り果てて久しいが、こんな些細なところは、人間と何も変わってくれない。化け物の身体なんていうのも単に不便なだけだ。
「クイーンは休業だ」
「ははあ、さては噂の〝ギア狩り〟が根っからのクイーン愛好者だと知れ渡ったせいだな。犯人を興奮させてしまうので事件翌日は放送差し止め」
「んなわけあるかよ。ギア狩りがクイーンマニアだってことを知ってるのは今や俺とお前の二人きり。それが理由でクイーンが鳴らなくなったとしたら、お前の命日がやってくる。それだけだ」
「はは、怖いな。まあ私に言わせれば、おまえはマニアなんかじゃなくて最早立派なナードだと思うけれどね……」
 妙に艶っぽい吐息を漏らし、「エンジェル」は肩をすくめて笑った。
 既に起きてから時間が経っているのか、身支度をすっかり調え終わっていたエンジェルに手を引かれ、寝床から離れた。驚くほどの短期スパンで津々浦々のあばら屋を渡り歩いている二人だが、今回の隠れ家はボロ屋としてもかなり上等なほうだ。なにしろ水が通っている。シャワーがあり、キッチンがあり、水洗トイレまでついている。電子技術が衰退して法力に取って代わられて以来、ジールの配給などでアメリカは後手に回ることが多かった。それに伴ってインフラ設備の充実などは地区によって如実な差が出てきているのだが、メリーランドはこのあたり非常に先進的で、ノースダコタから引っ越してきたばかりの二人はいたく感心したものだ。
 シャワールームに入って一時の別れを告げ、エンジェルがキッチンへ向かう足音を見送った。お尋ね者の男に代わって、物資の調達から暮らしの世話までを切り盛りするのが今のところのエンジェルの役目だった。
 エンジェル——エンジェル=K=クロイツ。ドイツ系のファミリーネームを名乗っているくせして「私は根っからのフランス人だからなあ」とか適当なことを嘯く同居人とは、八年前に出会った。いや正確には、もっと大昔から出会っていたが、彼のことは綺麗さっぱり忘れており、八年前に電撃的な再会をした……というのが正しい。八年前、はじめてのギア研究施設襲撃を行ったあとの逃亡で、ちょっとしたヘマをした男を手助けしてくれたのがこのエンジェルだった。
 別に手助けなんかなくとも追っ手を皆殺しにすればなんとかなる場面ではあったのだが、助けられたのは事実だ。それで話だけでも聞いてやることにすると、エンジェルは男の手をがっしりと握り、いきなり自分を助手に推薦してきたのである。
 たった今不法侵入と破壊活動を終えて逃亡してきた男に、助手の申し出? あまりにも都合の良い話にすぎて疑わしさが半端ではなかったが、話を聞けば聞くほど、エンジェルの存在は男にとって有用だった。まず彼は博識であり、男が専門にしている無限エネルギー開発に関わる会話にある程度ついていくことが可能だった。更に彼は法術分野のエキスパートで、その実力は男をはるかに凌駕していた。ついでに、見目も麗しい。目の保養になることはあっても、視界の妨げになることはない。
 最悪、何かあったら殺せばいい。
 そう考えて彼をパートナーに認め、それから既に八年。エンジェルは献身的に男の破壊活動をサポートし続けている。コーヒーの入れ方と目玉焼きの焼き加減に至っては教える前から完璧だ。
「おいエンジェル」
 乾燥しきっていたシャワールームを水浸しにし、身を清めさっさと身体を拭いて上がる。トランクスとシャツだけ身につけてキッチンに戻ると、ちょうどブランチが出来上がり、配膳をしているところだ。
「そういやお前、尻は洗ったのか?」
 男はエンジェルを呼び止めるとおもむろに尻を撫でて尋ねた。エンジェルの顔が露骨に曇る。
「シャワーを浴びるなりそれはどうなんだ?」
「いや、気になってな。国立衛生研究所を引き払ったのが午前四時十分前。俺がお前を犯したのが……帰ってきてすぐだから、六時か七時だろ。で、今は十二時。シャワールームは乾きっぱなし。俺に合わせてシャワーをスキップする必要はないと散々言ってるだろうが」
「いや、まあ……おまえが出したものが中に入ってることには、慣れてるからな。それほど気にはならないんだけど……そんなに急ぐということは、もしかして、今日引き払うのか」
「ああ。察しが早くて助かる」
「もうか。では、今日は少し忙しくなるな……」
 日曜大工製のダイニングに腰掛け、エンジェルは深々と息を吐いた。
 それからは、ブランチを取りながら二人で今後の行動計画について話し合った。計画的な「引っ越し」は、当局に足を掴まれそうになっての夜逃げに比べれば遙かに楽だ。少ない持ち物をまとめ、あばら屋を焼き払い、しっかりと証拠隠滅する時間が取れる。人目が少ないエリアに隠れ住んでいるから近所付き合いもないし、気楽なものだ。
 そのため、話題はもっぱら引っ越し先での新居捜しに終始した。エンジェルの強力な法術は男二人の転移さえ可能にしているが、一晩で魔法のように家を造り出すことは流石に出来ない。始末するのは一瞬だが用立ては時間がかかる。このあたり、二人にとっての引っ越しは料理に似た感覚がある。
「この家みたいに、運良く孤独死した老人が倒れている辺境の家屋なんてそうそうないだろうしなあ。あ、というか次はどこへ行くんだ? まだ行ってないあたりだとニューメキシコ?」
「いや、ギア狩りは一旦休む。次は腰を落ち着けて研究に入ろうと思ってる」
「……オラトリオ聖人、完成したのか」
「ああ。あとはアウトレイジを組むだけだ。が、コイツを完成させるには工房が必要だし、資材も山と要る。少しの間は人里に降りなきゃならねえ」
「ふむ……」
 紅茶を口に含み、エンジェルはしばし考え込む。彼は瞼を伏せるとマグいっぱいの紅茶をたっぷり時間をかけて飲み、マグが空になったところでようやく目を開けた。それから、妙案を思いついたようにひとさし指を天へ伸ばす。
「じゃあ、そうだな。国外、というのはどうだ」
「……マジかよ?」
「もちろん。我々にはパスポートも何もないから密入国になるが、まあそのへんはどうとでもしよう。最悪片端から電流を通して記憶を改竄して回るさ」
 男は大仰に驚いて見せたが、エンジェルがその気になれば本当にこのぐらいはやってのけるのも確かだ。
「お前は時々、顔に見合わないことを平然と言うな」
「おまえのためならなんだってするよ。そのために私は未来からやって来たんだから」
 頬にキスをして肩をすくめれば、エンジェルが真剣な顔をしてそう答える。未来。未来か。エンジェルが幾度となく繰り返すその現実味のない言葉に、男は口端を釣り上げて笑ってみせた。 
「あー、はいはい、二十二世紀からやって来た未来人、な。阿呆、んなもんジャパンのネコ型ロボットだけで十分だ」
 名前のない男が悪態を吐くと、エンジェルは仕方がないなあと悪戯っぽい表情で微笑む。
 微笑みは、男がエンジェルと最初に出会ったあの日と寸分違わず同じだった。微笑みだけじゃない。その聡明さも、声も、凛と咲く百合の花のように美しい彼の姿も。何一つ変わりはない。まるで彫像に閉じ込められた不変不滅の美であるかのように。
 エンジェルは何も変わらない。
 男がまだ名を捨てる前、友人に囲まれてカレッジに通っていた、あの六十三年前の春からずっと。


◇◆◇◆◇


 世界は音楽で満ちている。炎のように激しいロックンロールが荒れ狂い、ベースの激しいシャウトをドラムロールが締めくくる。お気に入りのアーティストが歌い上げる猥雑な母国語を上機嫌のハミングで拾い上げ、鼻歌を鳴らす。
「——フレデリック」
 しかしそんな夢想を遮る声が耳に届き、その瞬間、ぱんとバブルガムが弾けてあたりを取り囲んでいた音楽も全て霧散した。BPM200オーバーの豪胆なロック・ミュージックは彼方に消え去り、目の前に見飽きた友人の顔が迫っている。
 現実に引き戻されたフレデリックはやや顔をしかめ、首を振った。そうだ。この大教室はソフト化されたばかりの最先端学問である「法力」を扱うクラスで、フレデリックもそこに在籍する生徒の一人。時節は西暦二〇一〇年の春。クイーンのライブ会場にいるわけでもなし、敬愛するシンガーは十九年前に墓に入っている。
 鼻歌を聴かれていたことは気にしないことにして「なんだよ」とけだるく訊ねると、フレデリックを呼び戻した友人は「やっぱりね」と困ったように人差し指を立て、フレデリックの頬をつついた。
「期末テストの範囲と日程、もう消しちゃうって。どうせ授業、聞いてなかったんだろう?」
「あとでお前がコピーくれりゃ済む話だろ」
「だめだめ。マクドネル教授が学期始めの講義で何て言ってたか、ちゃんと覚えてる? 今期の評価は出席点とレポート、そして講義を通して培われた各々の解釈を鑑みてつけるって。僕の丸写しなんかしたら、単位が落ちるのは確実」
 肩をすくめて言い含められ、う、と押し黙った。真面目に出席している講義の単位を落とすほど虚しいことも他にない。出ていたのに耳にイヤホンが詰まっていたので分かりませんというのは、確かに本末転倒だ。
 慌てて板書をノートに書き写しはじめ、腕時計をちらりと見た。講義が始まって四十分ほど。残り時間はあと半分。義務づけられている毎回のレポートを及第点に足る内容にするぐらいなら、まだぎりぎりなんとかなるだろう。
「あのなあ、わかってんなら俺がイヤホン挿す前に言えよ」
「だって君があんまりにも楽しそうに聞いていたものだから、なんか言いづらくてね。ずっと見てたら講義の半分経っちゃって、板書を消しそうになったから慌てて……」
「ずっと見てた……?」
 何が楽しくて? と半ば呆れたように問えば、音楽に合わせてリズムを取ったり表情が微妙に変わるのが面白くて、とまっすぐ返事が戻ってくる。怪訝な顔をしているフレデリックを横目に、ご機嫌な調子の悪友は「そんなことより」と前置いてイヤホンが繋がれている最新型の小型蓄音機に横目を滑らせた。
「また懐メロ聞いてたんだ?」
 レコードに貼られたラベルの「Keep Yourself Alive」という文字列を指し示し、こともなげに言う。フレデリックはそれを聞くなり眉間に皺を寄せ、露骨に不機嫌な顔を作ってみせる。
「クイーンはカントリー・ミュージックじゃねえ」
「でも二十年以上前だろ。僕からしてみれば、じゅうぶん古い……ああいや。今のは禁句だったな。失言した。忘れてほしい」
「お前は年がら年中失言しかしてねえだろうが」
「あんまり否定出来ないな……」
 痛いところを突かれてむうと唸りながらも、ノートを綴る手は止まらない。隣に広がったノートの筆跡は、フレデリックのそれとまるで正反対に几帳面だ。
 二人は気の合う悪友だったが、性格のおおよそは、筆跡を並べた通りに相反している。言葉遣いも悪くて素行不良な部分もあるフレデリックに対して、彼は地味な優等生の典型だった。大人しく、物静かで教師からの物覚えがいい。けれど共通するところも多い。好奇心の旺盛さ、そして何より興味関心の一致。この一風風変わりな友人のことを、だから二人は互いに大事にしている。
「あー、ところで昼食はどうする? 学食のローテで言えば、今日はバーキンかなと思うんだけど」
 ぽりぽりと額を掻きむしり、彼がややばつの悪そうな声で訊ねてくる。大学に入っているファストフードチェーンの中では確かにバーキンが一番好きだが、一昨日学外でも食べたばかりだ。フレデリックの機嫌を損ねたかもしれないと気を遣っているのだろうが、実のところ、そんなに怒っているわけでもない。彼の言うとおり、クイーンが二十年以上前にデビューしたロック・バンドであることは紛れもない事実で、フレデリックがクイーンに出会ったのも父の書斎の中でだった。
「おい飛鳥、今日が何の日か忘れたのか?」
 だからフレデリックは、許すと言う代わりに悪友へにやりと笑って見せるのだ。
「夜は寮に新入りがやって来て歓迎パーティの予定だろうが。よって昼はヨーグルトスムージーに決定だ」


 フレデリックと飛鳥は、大方の大学生と同じように親元を離れ、二人で暮らしている。いわゆるシェアハウスというやつだ。気の合う友人同士——あるいは不動産屋がマッチングした相手と数人で家賃を割り、一つ屋根の下、生活を共にしている。
 二人にとってラッキーだったのは、四人用のそこそこ大きなシェアハウスを、たまたま希望者がブッキングせず、二人で占領出来たことだった。先に住んでいた上級生は四人ともフレデリックたちと入れ替わりで卒業してしまい、家中ガラガラ。二人は広い家を好き勝手に使って自由に暮らし、その奔放ぶりときたら、たまに遊びに来たアリアが「この家、早く返したほうがいいわよ」と呆れ顔で言うほどだ。
 そんな家に、今日から新しい住人が加わる。とはいっても不動産屋に斡旋された知らない人間ではなく、飛鳥の親戚の男だという。彼はフレデリックたちより三つ下で、次の秋学期から一回生になるらしい。
「親戚って言っても、ものすごい遠縁でね。僕もあまり知らないんだけど。大人しい子だって」
「迎えはいいのか?」
「そのへん、全部手配してもらったらしいね。鍵も先渡しになっているはずだから、ドアを開けたらもういるはず……あ、噂をすれば」
 カチャカチャと鍵を開け、玄関に入ると見覚えのない大きなトランクが目に入る。引っ越し荷物の整理がまだ終わっていないのだろう。そのまま二人でリビングに移動すると、「新入り」の姿がすぐ目に入った。
「……あ。お帰りなさい、いや……初めまして、かな」
 やや上ずった声と共にリビングのソファに座ってくつろいでいた青年が立ち上がる。ジーンズにTシャツのラフな格好に、ピンクの眼鏡。長く伸びた金髪は肩ほどの位置で結わえ、青いカバーを被せていた。テーブルの上には先頃まで読んでいただろうと思われるペーパーバッグが置かれている。「悲劇の誕生」の仏語版だ。
 青年はこちらへ歩み寄ってくるとにこやかに微笑み、二人に手を差し出した。
「エンジェル=K=クロイツです。ええと、あなたがたは、飛鳥と……」
「フレデリック=バルサラだ。よろしく」
「僕も一応。飛鳥=R=クロイツ、よろしく」
 順々に握手を交わし、フレデリックは改めてエンジェルと名乗った青年の顔をまじまじと見た。
 青年の面立ちは、フレデリックがこれまでに見てきたどんな男よりもずばぬけて整っており、さながら黄金比で作られた彫刻のようだ。髪が長いのも相まって、飛鳥から事前に聞いていなければ女と見紛うていたかもしれない。しかしよくよく首から下を見れば、肩幅が若干薄いのを差し置けば良く鍛えられていて無駄のない体つきをしている。
 しかしそれにしてもえらい美人だ。フレデリックは内心で感嘆の息を吐いた。飛鳥の素顔を知っているフレデリックだから「まあ確かに目元は似ているな」ぐらいの感想が出てくるが、それ以外の人間にこの二人を並べて見せても、「親戚? まるで似てないね」という感想しか出て来ないだろう。何しろ飛鳥は前髪がやたらと長く、たいていの場合、他人から目元が見えないのだ。
「……あの。私の顔をじっと見ているみたいですが……どうかしましたか?」
「いや。あんま似てねえなと思って」
 見られていることが気になったのだろう、エンジェルがおずおずと顔を上げ、フレデリックを上目遣いに見る。フレデリックは小さく呻いた。身長が数センチ違うのでこうなってしまうのだが、しかしなんだ、男だと分かっていても反則級に美しい。彼の親が、アンヘルでもアンガスでもなく、「エンジェル」なんてキラキラした名前を付けてしまった理由がわかる気がする。
 あまり似てないというセリフに合点がいったのか、エンジェルがぽんと手を叩いて視線をフレデリックから飛鳥に移す。彼は遠慮の一切ない動きで飛鳥の顔に手をやり、自分と彼とを並べて頷いて見せた。
「ああ……。飛鳥とは、はとこのいとこぐらい離れてますからね。ファミリーネームこそ一緒ですが、お互い面識もなかったぐらい。だからちょっと不安だったんですけれど、よかった、あなたがたとならうまくやっていけそう」
「ああ、是非とも。俺のことは、フレディでもフレッドでも好きに呼んでいい。エンジェル、お前は?」
「アンジーでもアンジュでも、ご自由に。でも私は、あなたのことをフレデリックと呼びたいかな。とても素敵な名前だから」
「そうか? まあなら、俺もお前のことはエンジェルと呼ぼう。これで決まりだ」
 今度はこちらから手を差し出すと、細く整った指がそこにするりと伸び、見た目に反して結構な力強さで握り返される。礼儀正しく、見目麗しい新しいハウスメイト。悪くない。今年の夏はいい思い出がいくつも出来そうだ、という予感が既にフレデリックの中に生まれつつあった。
「二人とも、挨拶は済んだかい? それじゃ、家の中を案内しなきゃね。二階にはもう行った?」
「いえ、まだリビングとキッチンを借りたぐらいです」
「そうか。この家、一階は共同スペースになってて、大体のものが同居人全員で共有……ってルールになってる。だから僕達に使われて困るものは、一階に置き去りにしないほうがいい」
「なるほど、心得ておきましょう」
「ちなみにお手洗いとバスルームは向こうの突き当たり、洗濯機と乾燥機もそこ。で、二階が各々の部屋だ。四部屋あるけど、一部屋は空き。空き部屋なんだけど、物置とかにしないようにっていうオーナーからのお達しがあるから気をつけて。そしてアンジュの部屋は僕の隣、フレデリックの向かいだ」
 フレデリックから会話を引き継ぎ、飛鳥がてきぱきとエンジェルに説明を進めていく。事前に一応顔合わせでもしてあったのだろうか。フレデリックが最初に想像していたより、飛鳥とエンジェルの距離感はずっと気安いようだった。
 飛鳥の指示で一階をぐるぐる周り、必要な場所の説明を済ませていく。それから二階へ上がり、綺麗に調えられた彼の部屋に案内した。メイキング済みのベッドと磨き上げられた床、窓ガラス、テーブル。それら調度品のたたずまいを確かめ、エンジェルが「ありがとう」と嬉しそうに振り返る。どうやら彼は綺麗好きらしい。フレデリックは一人唸る。しばらく、自室には通さない方がいいかもしれない。「潔癖症の人が見たらあまりの汚さにショック死を起こすわ」というのがアリアによるもっぱらの下馬評だからだ。
「……とりあえず、説明はこのぐらいかな。あと、何かあれば随時僕達に声をかけて」
「ええ、ありがとう。あ、そうそう、ふたりのフォンコードを教えていただけませんか?」
「構わないが、通信費が馬鹿にならないんじゃないか」
 エンジェルの突拍子もない質問に、フレデリックは驚きを隠しもせずにそう訊き返してしまった。確かに飛鳥は何かあればなんでも聞いてくれと言ったが、それにしてもいきなりフォンコードを訊ねられるなんて。第一、たいていのやつは、自分のフォンコードなんか殆ど把握していない。
 電信技術が撤廃され、あらゆるエネルギーが法力にとって代わられた現代では通信も全て法術で行う。しかしこれには大きな欠点がある。小金を積んで端末を用意しても、専門の訓練を受けた交換手を通さなければ通信そのものをろくに繋げることが出来ないのだ。現状、この交換手の数自体が稀少なこともあり、法力通信サービスは前世代の電気通信に比べると驚くほど割高で、緊急の用途を除きあまり使われることがない。急ぐ用事でなければ手紙で事足りるし、そうでなければ、学校施設や町役場に置かれた固定通信機を用いるのが普通である。フレデリックと飛鳥は趣味で一台ずつ持ってはいるが、そもそも個人用の端末を所持している人間がまず稀なのだ。
 しかしそれを問うと、エンジェルは悪戯っぽく微笑み、内緒話をするサインにひとさし指を伸ばして唇へ添えた。
「あ、大丈夫ですよ。交換手を通さずに回線を繋ぐコツがあるんです。二人ならすぐ呑み込めるでしょうし、あとで教えますね」
 とどめに器用なウインクが添えられる。その仕草に見とれてしまい、しかしすぐにはっとしてフレデリックはぶるぶる首を振った。けれどエンジェルのあだっぽい笑みはほんの一瞬で脳裏にこびりつき、なかなかフレデリックの頭の中から消えてくれそうにもなかった。