02 英雄の条件

 エンジェルがやって来たのは土曜の夜で、次の日は安息日で、当然大学はない。期末試験も今更急いで詰め込んでどうにかなる内容じゃないし、評価用のレポートは粗方仕上がっている。
 そんなわけで、その晩行われた歓迎パーティは随分と夜遅くまで続いた。寮母もいないから誰も止めに入る人間がいないまま、フレデリックが酒をあおるペースは加速し続け、飛鳥は面白がって次々瓶を開ける。一方で主役のはずのエンジェルはほぼ酒に口を付けていない素面の状態で、一歩引いた様子を見せながら「うわあ……」とこれから一緒に暮らしていく二人の騒ぎを見守っていた。
 そんな調子だったから、三人が昏々と昼まで眠り続けるのも無理のないことだった。フレデリックが酒に持って行かれた自我を取り戻した頃には、もうすっかりと日が昇り、しっちゃかめっちゃかになったリビングをエンジェルが一人で片付けていた。
「あー、ハロー、エンジェル」
「ハイ、 酔っぱらい ドランク
「おいおい、せめて名前で呼んでくれよ」
 確かにしこたま酒は飲んだが、生来の酒豪であるフレデリックは殆どの場合二日酔いを引き起こさない。酔っぱらっているその瞬間は判断能力が大幅に低下し、やらかすことがなくもないが……次の日の生活に支障は来さないのが取り柄の一つだ。そう言いつくろうと、エンジェルは曖昧な笑みを浮かべて「そうかそうか」と小さく形のよい唇を上向きにした。どうも、飲み明かして昼まで寝こけていた奴に人権はないらしい。
 いつの間にか掛けられていたブランケットをソファに戻し、立ち上がる。エンジェルを手伝って空き瓶を何本か受け取り、リサイクルに出す処理をしながら、そういえば、とフレデリックは首を捻った。
「飛鳥はどこだ?」
「彼なら、フレデリックより少し先に起きてシャワーを浴びていますよ。あなたもそうしてきたらどうですか」
 シャワールームの方を指さし、エンジェルが答える。昨日と同じはきはきして丁寧な受け答えだ。しかし今日はそれがどうにも引っ掛かって、フレデリックはふむと唸った。
 昨日はまあ初対面だったから気に留めていなかったが、今やエンジェルは同じ家で酒盛りをした仲だ。おまけにこれからこの家で暮らしていく。美味い酒を酌み交わせれば(エンジェルは大して飲んでいなかったがそれはさておき)、朋友だ。少なくともエンジェルとはそうなれる予感がある。
「〝おまえ〟でいい、エンジェル」
「はい?」
「これから一緒にやってくんだ、よそよそしいのは好きじゃない」
「はあ、まあ、フレデリックがそう言うのなら……いつかは」
 だからそう言って手を伸ばすと、エンジェルはきょとんとして、すぐにはフレデリックの手を握り返してこなかった。彼はびっくり箱を開けて固まってしまったキディのような顔をして、それから、おずおずとフレデリックの手を取った。挨拶の握手ぶりに握り締めた細く長い指は女性のように整っていたが、よく触ってみると奇妙なところにタコが出来ている。
「……フェンシングでもやってるのか?」
「え? ああ、これですか」
 尋ねるとエンジェルが小首を傾げる。
「そうだ。ペンだこにしちゃ、妙な位置にあるだろ」
「そうですね。剣は握り慣れているんです。フレデリック、探偵の才能がありますよ」
 なるほど、剣だこか。フェンシングのルールには詳しくないが、相当長い年月やり込んでいるのだろう。エンジェルの手に出来たタコは随分な古株のようだった。 
 喧嘩の傷跡と同じで、こういうのも男の勲章というやつなのかもしれない。このエンジェルという細身の優男は、生まれてこのかた運動不足が解消されたためしのないフレデリックより、もしかしたらずっと身体を鍛えているのかもしれなかった。興味本位で彼の肉体を見てみたいという欲求がわいたが、それは喉の奥に呑み込む。流石に昨日の今日でそんな失礼なことを聞くのは厳しい。
「フレデリック、シャワー空いたよ」
 そんなことを考えていると、シャワールームから暖かな空気が漂ってきて風呂上がりの飛鳥が姿を見せる。折良く戻って来た親友の姿に、フレデリックの脳裏に浮かんだ不躾な疑問はあっさりと立ち消えた。フレデリックが「おう」とあごをしゃくると、飛鳥がスリッパの音をぱたぱたと立ててこちらへ駆け寄ってくる。
「あのさ、すぐシャワーを浴びて身支度を整えてきてくれないかな。アンジュの手伝いは僕がやっておくから」
「なんだ? やけに急かすな」
「うん、ちょっと出遅れちゃったけど、午後は出掛けようと思ってたんだ。アンジュが無事着いて歓迎会も済みました、ってことを先生に報告しないと」
「先生? ……ああ、例のグランドマスターか」
「そうそう。実はアンジュの引っ越しを手配してくれたの、先生なんだ」
 フレデリックの問いかけに飛鳥がこくこく頷いた。
 飛鳥の言う「先生」という言葉は、フレデリックと共に通う大学の教授達を示すものではない。飛鳥は大学教諭たちを一律で「教授」と呼んでいる。では「先生」が一体何者なのかというと、フレデリックも未だに信じがたいところがあるのだが、あの「再起の日」の警告を出し、二年前には法力を実用化させて聖皇庁を発足させた人物なのだという。
 フレデリックが大学で飛鳥と出会った時には、既に彼は「先生」なる人物に師事して長かった。だからなのか、法力の扱いに関しては飛鳥の方がフレデリックより数段上手で、フレデリックもよく飛鳥にそのあたりの教えを頼むことがある。
「お前の先生、こっちに来てるのか?」
「今日の午後からダウンタウンでアメコミ映画の試写会があるんだって」
「……お、おう」
 思ったより随分と俗っぽい理由の訪米にフレデリックは変な声を出してしまった。
 だってそんな、今や聖皇庁のトップになり世界中の崇敬を集めているような人間が、ヒーロームービーを見に来るだなんてほとんどジョークみたいな話だ。電算技術が失われた直後、パニックに陥った世界と人類を支えた天才学者なんて、コミックの超人なんかよりよっぽどヒーローに近しい存在だろうに。


◇◆◇◆◇


 支度を済ませ、昼飯もそこそこに三人でダウンタウンに出向いた。試写会は思ったより大きな規模のイベントだったようで、オースティンで一番大きな映画館の周辺は、フレデリックでも知っているような超有名アメコミヒーローの広告で埋め尽くされている。それらをふうんと一瞥して歩きながら、飛鳥とフレデリックは二人がかりでエンジェルに観光案内をして回った。どんな説明に対しても、エンジェルの反応は初々しかった。
「バーキンも知らないとは、箱入りのお嬢様かお前」
「いやまあ、あんまりファストフードを食べさせてもらう機会がなくて」
「オーガニック大好き家庭の出身か。そいつは、人生のいくらかを損してるな。まあ心配するな、これから俺達と暮らしていればいやでもファストフードばかり食べることになる。何しろアリア以外はまともに料理をしないからな」
「アリア?」
「僕達の数少ない親友にして紅一点のこと」
 エンジェルの疑問に、フレデリックではなく飛鳥が答える。エンジェルはその言葉に深々と頷いて見せた。
「友達、少ないんですね……」
「そこかよ?! ……いや、まあ。少数精鋭と言え、少数精鋭と」
「ふふ。私もあまり友人と呼べる人間は周りにいなかったから、同じですよ」
「その見た目で?」
「見た目は知りませんけど、周りが大人ばかりだったので。同年代の友人と呼べたのは、一人ぐらいかな」
「……おう。なんだその……すまん」
「いえ。だから進学に合わせてこちらへ出てこられてよかった」
 エンジェルがきらきらした笑顔を惜しげもなく向けてくる。微妙に目を合わせていづらくてそっと視線を逸らすと、通行人の何割かがエンジェルの方を振り返っていた。
 無理もない。こんな美人が歩いていたら男も女も振り返ってもう一度見たくなって当然だ。きっとエンジェルに友人が少なかったのは、高嶺の花過ぎて敬遠されていたからに違いない。しかしそれを口にするのはやめておいた。
「そういや、どこから出てきたんだ? なまりのないきれいなクイーンズだが、イギリスか」
「いえ。生まれも育ちもパリですよ」
「マジか」
「マジですよ。それを言ったら飛鳥だって、全然ドイツなまりが残っていませんし」
「まあ僕、日系も混じってるけど父の代でほぼアメリカに帰化してるから」
「あれ、そうなんですか?」
「うん。そうなんだ」
 それから二人してほんわかと微笑み合う。そうしていると、飛鳥とエンジェルは確かに雰囲気が似通っているように見えた。
 ダウンタウンのざっくりした説明が済んでいたので、それからは、道すがらで主にエンジェルの話をせがんだ。「先生」に手配されてこちらへ来ていたことから、エンジェルも飛鳥同様に彼に師事しているのかと尋ねたが、そうではないらしい。ただ飛鳥のツテでちょっとした関わりがあり、こちらへ出てくるのをたまたま全面的に支援してくれたのだという。実際に「先生」に会ったのは一度きりだし、もう会うこともないだろう、とエンジェルは言った。聖皇庁が出来て以来、正式な弟子でなければそうと知りながら「先生」に会うのは難しくなっているらしい。
 そんな話をしているうちに目的地に辿り着き、雑談が止まる。飛鳥が「先生」と約束をしている時刻までまだ余裕があり、その間に生活費を少し用立てたいとエンジェルが言ったので、銀行に寄ることにしたのだ。
 広々としたロビーに入り、通帳を取り出して列に並ぶ。ベンチで待っていようかとも思ったが、一応ついてきて欲しいと頼まれ、飛鳥もフレデリックもエンジェルに同伴して列に立つ。
 日曜の午後にやっているという奇特な銀行ゆえ、それなりの人間がカウンターに並んでいる。のほほんとしたざわめきの中、フレデリックがエンジェルに新しい話題を振ろうとした時、異変が起こった。
「——全員、手を上げろ!」
 突如、銀行内に鋭い声が響いた。それに続いて、パン、パン、と乾いた音が響く。
 ——銃だ。あたりの人間達もすぐそれに気がつき、どよめきが広がった。しかしそれを制するようにもう一度銃声が鳴り響き、人々の視線は天へ向かって撃ち出された銃弾から中央カウンターに陣取る犯人へ移っていく。
「俺には人質がいる。このガキと、そしてお前ら銀行にいる全ての客だ。出口はもう塞いだ。全員、生きて帰りたければ黙ってろ。そして……なにをぼさっとしてる。お前らはさっさと金を出すんだよ」
 犯人がどすの効いた声で叫んだ。威嚇にもう一発弾が撃ち出される。それを合図に、犯人に首を押さえつけられた少女が「ママ、助けて」と微かな泣き声を上げ、銀行員達は大慌てで動き出した。
(な……銀行強盗? こんな昼日中に、しかもオースティンで? デトロイトじゃねえんだぞ!!)
 フレデリックは呆然として立ち尽くしてしまった。頭の中だけはめまぐるしく動き回っているが、銃を持っている犯人相手にどう動いていいのか、運動不足のギーグであるところの彼には一ミリも妙案が浮かんでこなかった。
 アメリカはかつて銃社会だった。だった、という過去形がつくのは、フレデリックがジュニアスクールに通っていた頃に起きた「再起の日」以降、銃の所持が禁じられるようになったからである。その日以降「ブラックテック」と呼び習わされて禁じられたものは、何も電算技術のみに限らなかった。銃火器や核兵器など、強大な力を持つとされたあらゆる科学技術が危険物のレッテルを貼られ、国連の名のもと封印された。
 とはいえ、禁止法が言い渡されてまだたったの十一年。世界からブラックテックの全てが消えたわけではない。銃を隠し持っている人間はまだまだ世界中にけっこういるというのが大体の共通認識で、ゆえにこういう事件が今でも起こるのである。しかも旧時代と違い、同様に銃で武装した人間で対抗することが出来ないので、こういった悪質な犯罪の被害レベルはむしろ近年上昇する傾向にある。
「嘘だ……ドアが、ドアが開かない!」
 フレデリックの後ろで、恐慌しきった男の声が上がった。確か、この銀行は法力制御の最新システム採用をうたい文句にしていたはずだ。どんな手段を使ったのかは知らないが、それを逆手に取ってシステムを乗っ取りでもしたのだろう。フレデリックは法術に明るい方だが、それにしたってコンソールなりなんなりにアクセス出来なければどうしようもないし、犯人が銃を構えている状況でコンソールまで移動できるとは思えない。
(どうする。どうしたらいい。黙ってやり過ごせるなら、それが一番上策だが)
 パンパン、と再び発砲音が響く。思わず振り返ると、ドアをなんとかしてこじあけようとした男の周囲に数発の穴が空き、身を竦ませた男がずるりと床にへたり込んだところだった。犯人に掴まれたままの少女は、至近距離で発砲されたのにも関わらずもう泣き声ひとつ上げない。失禁したのかもしれない。
「ドアに群がっても無駄だ! この建物のシステムは全て掌握した。死にたくなければ俺の指示に従え!!」
(ああクソ、こりゃ、無理だ。こんなんどうにか出来るはずがあるかよ!)
 続く犯人の言葉に、フレデリックは絶望を覚えて何もかもを諦めた。
 こんな状況下じゃ、警察なんかあてにならない。銀行員は金を持ってくるふりをしながら裏で警察を呼んでいるかもしれないが、そもそも、救出に時間が掛かる。その間に犯人が見せしめに人を殺さない確証なんかどこにもなかった。フレデリックは己の無力さに歯噛みをしたが、それは同時に、この場における全ての人間に共通する感情だとも思った。
 同じ街でアメコミ・ヒーローの映画試写会をしているというのが酷い皮肉に思える。結局、ヒーローなんてこんな世界にいやしないのだ。フレデリックは普通の人間で、しかも運動不足で、けれどそれは普通のことだ。銃は怖い。死ぬのも怖い。こういう現場で颯爽と犯人と対峙するなんて、まともな神経が通っていれば出来ることじゃない。
「全員、後ろに手を組んで座れ。立たれたままじゃ、俺の目が届かないところで何をしてるかわかったもんじゃないからな。……さあ、座れ! このガキの土手っ腹に風穴を開けられたくなきゃな!!」
 犯人が再び発砲する。フレデリックを含み、手を上げて立ち尽くしていた人々がぞろぞろと支持された通り座り込んでいく。すっかり腰を下ろし、手を後ろ手に組み合わせてからフレデリックは両隣を見遣った。左側の飛鳥はフレデリック同様に座り込み、顔を俯かせている。
 だが右側のエンジェルは座り込んでいなかった。
(な——おい、馬鹿か、こいつ!)
 彼以外の全員が座り込んだという状況下で、エンジェルだけが立ったままだった。それも恐怖から動けなくなり立ち尽くしたというふうでもなく、毅然として犯人を見据えている。おい、座れ! 死にたいのか! ごく小さな声でエンジェルの足の裾を引っ張ったが、彼はフレデリックに応えない。
「なんだ?」
 遅からず、犯人も異変に気がつく。犯人はだみ声を張り上げ、銃口をエンジェルに向けた。
「てめえ、自分が何をしているかわかっているのか?」
「それはこちらの台詞です」
 対するエンジェルの声は酷く冷たく怜悧だった。少なくとも、自分の死を畏れ、恐怖している人間が出すものじゃない。
「少女を失禁させ、人々を人質に取り、金をせびる。真っ当な人間のやることではないでしょう。あなたのような人間はお縄に掛けられるべきだ」
「は!  ブラックテック こいつ に対抗する手段でもあるっていうのか、お嬢ちゃん。そいつは面白いジョークだ。尤も、だとすればおまえも銃火器単純所持の罪で豚箱行きだぜ。それともなんだ? 俺と一緒に豚箱に行きたいのか? 見た目は合格点以上だが、どうやらおつむは及第点以下のようだな」
「……。呆れた。これ以上の遣り取りは不要でしょう。もう黙っていてもらえます?」
「あ? なんだてめえ、随分な死にたがりみてえだな」
 挑発され、激昂された男がエンジェルに銃口を向けたまま引鉄に手を掛ける。フレデリックの脳裏に、一瞬にして最悪の想像が浮かんだ。飛び出した銃弾がエンジェルの身体を貫き、血しぶきが上がるのだ。生温かい血液は、きっと隣にいるフレデリックの身体にも降りかかるだろう。怖い。恐ろしい。嫌だ! しかし恐怖のあまり身体はかちこちに固まってしまい、目を閉じることさえままならない。
「ならお望み通り、死ね——!」
 そこからは一瞬だった。
 引鉄を降ろすかちりという音と同時に、ちりちりとした音がエンジェルの指先で発生する。それは青白く光る何かになり、まっすぐに犯人の方へ飛んでいった。光を見た犯人の顔が恐怖に歪む。口汚い罵り声があがり、何度も何度も引鉄を引くが、カチカチという音が鳴るばかりで何も起こらない。
 直後、青い閃光が犯人の喉を直撃した。ばちばちと派手な音が響き、犯人の身体が痙攣する。のけぞった犯人は失神した少女を取りこぼし、銃も手から離れて行ったが、両者とも地面にぶつかることはなかった。いつの間にか飛び上がり、距離を詰めていたエンジェルが少女を抱きとめて銃も拾い上げていたからだ。
「ブラックテックを使うのなら、メンテナンスぐらいしておくことです。ちょっと法術で干渉するだけで簡単にジャムしましたよ。まあ、もう二度とそれを手にすることもないでしょうが」
 そうしてエンジェルは冷たい眼差しで犯人を見下ろすと、とどめとばかりに薄目を開けていた男の首裏に鋭い肘鉄を食らわせて昏倒させた。
 あたりは一瞬しんと静まりかえった。誰もが、すぐには状況を把握出来ずにいた。十数秒ほどの沈黙。しかしやがて、それを破るように、誰からともなく拍手が鳴り始めた。
「——ブラボー!」
「素晴らしい、なんて勇敢な人だ」
「助かった! 俺達は助かったんだな?! ありがとう!!」
「すごい! ヒーローみたい……!」
 ぱらぱらとした拍手があっという間に喝采の嵐になる。先ほどまで怯え尽くしていた人々が、助かったことに安堵しきり、次々と立ち上がって名も知らぬ青年のヒロイックな行いを褒め称える様は、間もなくシュプレヒコールに変わった。フレデリックはわけもわからずへたり込んだままだった。エンジェルのことを多少知っているぶん、周囲の人々のように呑気に彼を讃える気にもなれなかった。だってエンジェルは昨日自分と酒を飲んだ新大学生で、朝は家の片付けをしてくれていたのだ。
 自分と同じ普通の人間だと、思っていたのに。
 わけがわからない。隣にいる飛鳥に目を遣ると、彼はフレデリックほど度肝を抜かれているわけではなさそうだったが、かといって周囲の熱狂に混ざることもせず、どうしよう、とマイペースに呟いている。
 その様に少し安堵して胸を撫で下ろすと、人垣の向こうから掻き分けて戻ってくるエンジェルの姿が目に入った。
「……エンジェル」
「警察がもうじきに来るそうです。早くここから立ち去りましょう」
 フレデリックの手を取り起き上がらせて、エンジェルが早口で言う。
「メディアに報道されるのは、ちょっと嫌なので」
「え? でもまだ、先生に会ってなくて……」
 これに反論したのは、それまで「どうしようかなあ」なんて独りごちていた飛鳥だった。そこでようやくフレデリックは、今日は飛鳥が「先生」にエンジェルの到着と無事を報告するため街へ出てきていたのだということを思い出す。
 そういえば、どうするんだ? ぼんやりとエンジェルの顔を見遣ると、彼はきっぱりと首を横へ振ってみせる。
「この事件が報道されれば、私の名が出なくとも、あの人には伝わりますよ」
「ああ。それもそうだね」
 飛鳥はエンジェルの言葉に手を打つとあっさりと頷いた。そして二人で頷き合い、「では帰りましょう」「そうだね、面倒ごとにならないうちがいい」とかなんとか意見を一致させる。フレデリックだけ、何がなんだかよくわからないまま置いてけぼりにされていた。フレデリックに出来たことと言えば、エンジェルに手を引かれて出口をくぐり抜けながら、クロイツと名のつく人間はどいつもこいつも変人揃いなのではないかということを遅まきに考えるぐらいだった。


◇◆◇◆◇


 自宅へ帰り着くなりどっと疲れが襲ってきて、フレデリックはリビングのソファにどかりと座り込んだきり動けなくなってしまった。二日酔いにはならないはずだが、半日以上経って、遅効性の毒が効いてくるかのように疲れが全身に回っていた。手慰みにジール式のラジオを点けると、ちょうど夜のニュースが始まっている。
『今日午後四時半ごろ、オースティンのダウンタウンでブラックテックを所持した犯人による立てこもり式の銀行強盗が発生しました。警察当局によると、銀行員からの通報を受けて現場に到着した時には、既に犯人が無力化され、人々は解放された後だったということです。これについて、当時現場に居合わせた民間人は……』
 げっそりしてすぐにラジオを切る。まったくとんだ安息日だ。ラジオも聞けないとなると何をしていいのかもわからず、朝どかしたブランケットに手を伸ばそうとしていると、家着に着替えたエンジェルがリビングへ戻ってくる。
 昨日は顔にばかり目がいってうまく確かめられずにいたが、えりぐりの比較的大きいTシャツから覗く胸部は、中性的な顔のわりにはしっかりと引き締まっていた。剥き出しの両腕にしても、細いので華奢な印象を与えがちだが、よくよく見ればフレデリックや飛鳥よりはよほど鍛えられている。
 フレデリックは首を振り、のろのろと唇を開いた。
「……フェンシングをやっている人間っていうのは、なんだ、みんなああやって『危険にも果敢に立ち向かうべし』みたいな教育をされているのか」
 くたびれきった声音も相まって、訊ねる声はやっとのことで絞り出したような調子だった。声を掛けられたことに気づき、エンジェルが振り返る。彼は「まさか」と笑うとひらひら手を振った。
「そんなことはないですよ。ただまあ、そうですね、私の周りは軍人ばかりだったので。ちょっと変わってる理由があるとすればそれかな」
「一族郎党軍人様ってか? クレイジーだな……」
「うーん、どうかな。私にとっては、それが当たり前だったし。だいたい、少女を人質に立てこもり強盗なんて、天罰が下ってしかるべきでしょう」
「天罰、な……」
 臆面もなく「天罰が下ってしかるべき」なんて言葉を言ってのけるあたり、名は体を表すとでも言うべきか。彼は割と過激な軍人の家で教育を受けてきたのかもしれない。そう考えれば、ちょっとばかり考え方がずれているのにも納得は出来る。
 改めて、エンジェルが昼間見せた光景を思い起こす。青白い閃光は、「天罰」という名を付けられても違和感がないぐらい的確に犯人の喉を狙って弾けた。しかし思い返せば返すほど謎でもある。ブラックテックではないのだから、何らかの法術ではあるのだろうが……。
「あれは法術の雷ですよ」
 唸っていると、尋ねるよりも先にエンジェルが答えた。
「……え?」
「ああ、すみません。顔に疑問符が書いてあったので……。法術で生成した雷で、まあ、ちょっと電気的なショックを送ってさしあげたんですね。もちろん命に別状がない程度に威力は弱めていますが」
「い、いや待て。さらりと言ってのけるが、法術で攻撃する奴なんか初めて見たぞ。大体四属性の中で一番扱いが難しいやつを、演算補助のシーケンサもなしに無詠唱で? エンジェル、お前、魔法使いか」
「私は『先生』に比べれば全く。それにあのぐらい、フレデリックもちょっと勉強すれば出来ると思いますけど」
「そうそう。多分フレデリックは、やろうと思ったことがないだけだ。大体の人間が、無意識下で法術の軍事転用をタヴー視しているのと同じようにね」
 キッチンから三人分のマグを持って現れた飛鳥が話に入ってくる。コーヒー二つと紅茶をテーブルに並べ、飛鳥はすとんとフレデリックの隣に腰を下ろした。エンジェルもそれに倣ってか、もう片側に座る。二人のクロイツはフレデリックを挟むとマグを手に持ち、のんびりと物騒な話を再開した。
「とはいえ、先生がパッケージを配布してまだ二年だ。攻撃転用の法術は依然普及レベルでの実用段階に至っていない。使える人間はすごく限られてる。アンジュは確か、法術適性で言えばオールラウンダーだけど、どちらかと言えばその方面に特化してるんだよね」
「先生に聞いたんですか?」
「うん。でもすごい完成度だ。あとで術式、教えてくれない?」
「少々クセが強いかもしれませんが、それでもよければ」
 話の内容に反して、飛鳥もエンジェルものほほんとしている。やはりクロイツと名の付く人間は変人揃いなのだろう。確定だ。そうでなければやっていられない。
 ……或いは、「先生」とやらに関わりを持っている人間がみんなおかしいのか。
「なるほど、つまりだ。エンジェルがああも堂々とヒロイックな行動を取るのは、特別な力があるからか。合点がいった」
 ブラックコーヒーをちまちまとすすり、小さくぼやくとびっくりしたようにエンジェルが振り向いた。
「フレデリック?」
「思い出したのさ。そういえば、俺は小さい頃、別段ヒーローに憧れたことがなかったってな。コミックヒーローなんてのは、どいつもこいつも自分から遠く離れていて、よくわからなかった。だから科学者になろうとしてるのかもしれない」
「……フレデリック」
「ああいや、そんな顔すんな。エンジェルを否定したいわけじゃない。俺は飛鳥と親友やってるんだぜ。今更変人の知り合いが一人増えたところで、何も変わらない。ただ、お前がヒーローになることがあったとしても、俺はそういうのとは無縁だろうと思ったんだ」
「…………」
 エンジェルは尚も複雑な顔を見せていたが、まとめてしまえば、本当にそれだけのことだった。
 フレデリック少年はヒーローに憧れないタイプの男の子で、親に買って貰ったテディベアを抱きしめながら、別にヒーローじゃなくても出来ることに思いを馳せていた。専攻分野は無限エネルギーの開発だが、これだって、自分がヒーローじゃない普通の人間だからやっているのかもしれない。何しろフレデリックには無限にわき出てくるパワーも強靱な肉体もないわけで。
「そうかな。でもきっとフレデリックはヒーローになるよ」
 けれど、自嘲気味に呟いたフレデリックの肩を、飛鳥は首を振って優しく叩いた。
 彼の声には自信が満ちていた。けれど当のフレデリックには、彼が何を根拠にそう言っているのかちっともわからない。
 だってフレデリックは、本当に、どこにでもいる普通の人間なのだ。しかも肉体自慢のアスリートでもなし、どちらかと言えばギーグ寄りの人種。自分の命は惜しいし、数少ない親しい人物のためならいざしらず、見知らぬ人々のために働きたいなんてびたいち思ったこともない。銀行強盗に銃を向けられて、何も喋れなくなってしまった一般人だ。
 ヒーローなんてガラじゃない。逃げ惑う一般市民役の方が遙かに向いているんじゃないかとフレデリックはそう思う。
「ばかいえ、俺にはスーツも特殊能力もないんだぜ」
「そうかもしれない。でもそれでも君は僕のヒーローだし、そうなって欲しいんだ」
 そう軽口を返してやると、飛鳥は至極真面目な顔をしてフレデリックの手を握ってくる。
 エンジェルは二人の会話に何の口も挟まず、ただ黙って、紅茶のマグに口を付けていた。