XX リラの花よりよく香る
つけっぱなしのテレビがソープオペラを垂れ流している。良く言えば古典、悪く言えば陳腐な筋書きの恋愛ドラマを洗い物のお供に聞き流し、エンジェルは泡だらけのスポンジを洗い落とすと所定の位置に戻した。エンジェル——過去の時代に滞在するカイの偽名だ——が飛鳥とフレデリックのシェアハウスに居候するようになっていくらかの時が過ぎている。秋学期の入学を控えて時間をもてあましている(という設定になっている)エンジェルと違い、飛鳥とフレデリックは多忙だ。今週末に研究室で発表会があるだとかで、毎日夜遅くまで帰って来ない。
「まあ、それは別に良いのだけど。読書も捗るし……」
寝室に山のように積まれている、図書館から借りてきた本達を思ってエンジェルはアンニュイな溜め息を吐いた。しかしまあヒマであることにかわりはない。そしてエンジェル=K=クロイツを名乗っているこの男にとって、ヒマほど扱いに困るものはないのだ。
彼の人生において、ヒマな時間というものは殆ど存在しなかった。物心ついてからはいつ警報が鳴るかもわからない戦争に明け暮れていて、今でも夜襲に備えて浅く眠るクセが抜けきっていない。戦争が終わってからは警察組織の一員としてろくに休みもないような日々を過ごした。王になってからはそれまで以上の多忙を強いられ、「本を読むかテレビを流しているぐらいしかやることがない日々が漫然と続く」状態は、経験のないものだった。
「共用スペースの掃除も、最近やりすぎて残っている場所がなくなってきているしな……」
飛鳥とフレデリックが二人暮らしだった頃は荒れ放題だったこの家の中も、今やどこに出しても恥ずかしくない綺麗好きの住み処である。エンジェルが越して来て以来、アリアはこの家を訪れる度に必ずエンジェルの手を握り取って感動の意を示した。「あなた、本当にすごいわ。一体どんな魔法を使ったらこの家のリビングを清潔に保っていられるの?」——エンジェルが知る限り、遙か未来のフレデリックだった男はここまで汚部屋作成に長けていなかったはずだが……この時代の彼は違うらしい。
「飛鳥とフレデリックの部屋に、もう一度掃除機を掛けておくかな」
悩んだ末、そんな結論を出して独り言を締めくくる。エンジェルはテレビを消し、リビングの電気を消すとスリッパの音をぱたぱたと立てながら階段を昇った。フレデリックの部屋は三日前に掃除した。彼にもプライバシーというものがあるので毎日入るわけではないが、今朝方、「掃除しといてくれ」との伝言を預かっている。やましいことはなにもない。元の時代で名前を失ったあいつの部屋にもよく入っていたし。
……聖騎士団の彼の部屋は、図書室から借りた本と書類、それから必要最低限の旅荷しかなかった。今思えばあの頃彼は聖騎士団をホームとは思っていなかったのだ。借宿だから汚せるほどの私物を置きたがらなかった——。
「……ああ、やっぱり…………こんなことだろうと思ったよ……」
そんなふうに想い出を懐かしみながら開いた扉の向こうは、見渡す限りゴチャゴチャに放置された、文句なしの汚部屋であった。
◇◆◇◆◇
「まったく! どうしてこう、脱いだ服を畳んで片付けるという簡単なことが出来ないんだ!! 靴下は脱ぎっぱなし、シャツは放置、ネクタイはねじまがって折り目が消えない、ジーンズはぬけがらみたいな形で半ば直立……下穿きだけは一箇所に集約されているのがまだ救いか。いや、これを許していては、あの部屋は永遠に綺麗になりはしないだろうな」
部屋中に脱ぎ散らかされた服を全て拾い集め、洗濯機に放り投げてエンジェルはぶつぶつと独り言を漏らす。脳裏に蘇るのはフレデリックの言葉だ。「おまえが部屋の掃除をしてくれるようになって本当に助かってる。何しろアリアには、リビングダイニングはまだしも流石に私室の掃除は頼めなかったから……」当たり前だ。男物の使用済みパンツが無造作に積まれている部屋を女性に片付けさせるなんて地獄に堕ちる行為だ。
洗濯機の前に椅子を置いて本を読み、乾燥までの終わりを待つ。そして出来上がった洗濯物をカゴに移し、フレデリックの部屋に戻って全て畳む。それら一連の行為を終える頃には、すっかり夕刻を過ぎてしまっていた。ああ、思ったより本が読めなかったなあ。今日はニーチェでも読もうかと思っていたのに……そんなふうに独りごちて手に取った最後の洗濯物を確かめ、エンジェルは小さく呟いた。
「白衣だ」
それは、フレデリックは自宅に置いていった予備の白衣だった。落ちきらなかった薬剤の染みが僅かに残った白衣は、彼の体格に合わせてやや大きめのLサイズ。あいつには白衣なんかとんと似合わないだろうと思い続けていたものだが、意外や意外、フレデリックは白衣がよく似合う。たまに眼鏡なんか掛けてると、余計に似合う。
「……私にも着られるかな」
そんなことを考えていたから、多分、魔が差したのだ。
エンジェルはゆっくりと立ち上がり、洗い立ての白衣をふわりと広げ、袖を通した。特売の日にまとめ買いした洗剤の、人工香料で再現されたライラックの香りが鼻をくすぐる。エンジェルの華奢な身体には、フレデリックの白衣はあまりに大きかった。袖はぶかぶかで、肩幅はがばがば、裾も膝下に及んでいて、人間の彼との間にでさえある体格差を感じさせる。
「むむ……」
彼の部屋の一番隅で埃を被っていた姿見の鏡に近寄っていって、白衣を羽織った自分の姿をじっと見た。ブラウンのズボンと青いシャツ、その上に真白い白衣。顔にはフレームがピンクの眼鏡がついている。ふむふむ、なかなかどうして、悪くないのではないか。持ち主であるフレデリックほどは似合っていないだろうが、少なくともあいつ……野蛮な炎がよく似合うあの男が、見慣れた装いの上に着ているよりは、ずっと馴染んでいる。
エンジェルはふわりと微笑み、すっかり丈の余ってしまっている袖口を唇に近づけた。そうして近づけると、洗剤の匂いに混じって、洗濯しても消えなかった持ち主の香りが漂ってくるような気がする。
エンジェルはしばし白衣の匂いを嗅ぐ行為に没頭した。微かに残るフレデリックの体臭は、嗅ぎ慣れたあの匂いに近しく、けれどわずかに優しくて……。
「——エンジェル?」
そんなことをしていたからだろう。
エンジェルは、部屋の戸が開く音に気づけなかった。
「……………………えっ?」
急に耳に飛び込んで来た音に驚き、エンジェルがばっと振り返る。入り口にフレデリックが立っている。大学帰りで、右肩にリュックサックを雑に背負った彼が、信じられないものを見る目でエンジェルの方を凝視している。
「ふ、ふふ、フレデリック! えらく早いお帰りで……」
「別に早くない。もう十九時だぞ。それよか、エンジェル、おまえなにして……」
「あ、ああっ!? こ、これはだな、その、違うんだフレデリック! 決しておまえの白衣の匂いを嗅いでたとかそういうんじゃなくて……部屋の掃除して、片付けてて、だな、」
「は? 俺の白衣なんか嗅いでどうする。いや、あー、そうじゃなくてだな……」
動揺したエンジェルの言葉に、フレデリックの狼狽した言葉が折り重なる。二人してしどろもどろになり、エンジェルは立ちすくみ、フレデリックはそのうち言葉を失ってよろよろとエンジェルの方へ歩み寄ってきた。すると白衣なんかよりずっと強いフレデリックの体臭が、エンジェルの鼻をつく。あ、これ、まずい。エンジェルはくらりとする頭を必死に押さえた。ただでさえ彼の匂いというものが、エンジェルは潜在的に好きなのだ。だってそれは物心ついてはじめて懐いたひとの匂いと同じで、世界で一番安心出来る場所の匂いで、何度もベッドの上で嗅いだものだったから。それは未来の——ギアと人が争うようになってからの世界での出来事だったけれど、でも、だから、フレデリック=バルサラは、エンジェルにとって……。
「その、なんだ……。テメェが俺の白衣をぶかぶかさせながら着てるのを見ると、心臓がおかしくなるから、頼むから俺以外がいるところで見せるなよ」
フレデリックが緊張を孕んだ声でエンジェルの耳元にそう告げる。
エンジェルは「ああ」と小さく頷いた。二人分の鼓動がしっちゃかめっちゃかに跳ね上がる音を聞きながら、エンジェルはフレデリックの頬になだめるようなキスをした。
「まあ、それは別に良いのだけど。読書も捗るし……」
寝室に山のように積まれている、図書館から借りてきた本達を思ってエンジェルはアンニュイな溜め息を吐いた。しかしまあヒマであることにかわりはない。そしてエンジェル=K=クロイツを名乗っているこの男にとって、ヒマほど扱いに困るものはないのだ。
彼の人生において、ヒマな時間というものは殆ど存在しなかった。物心ついてからはいつ警報が鳴るかもわからない戦争に明け暮れていて、今でも夜襲に備えて浅く眠るクセが抜けきっていない。戦争が終わってからは警察組織の一員としてろくに休みもないような日々を過ごした。王になってからはそれまで以上の多忙を強いられ、「本を読むかテレビを流しているぐらいしかやることがない日々が漫然と続く」状態は、経験のないものだった。
「共用スペースの掃除も、最近やりすぎて残っている場所がなくなってきているしな……」
飛鳥とフレデリックが二人暮らしだった頃は荒れ放題だったこの家の中も、今やどこに出しても恥ずかしくない綺麗好きの住み処である。エンジェルが越して来て以来、アリアはこの家を訪れる度に必ずエンジェルの手を握り取って感動の意を示した。「あなた、本当にすごいわ。一体どんな魔法を使ったらこの家のリビングを清潔に保っていられるの?」——エンジェルが知る限り、遙か未来のフレデリックだった男はここまで汚部屋作成に長けていなかったはずだが……この時代の彼は違うらしい。
「飛鳥とフレデリックの部屋に、もう一度掃除機を掛けておくかな」
悩んだ末、そんな結論を出して独り言を締めくくる。エンジェルはテレビを消し、リビングの電気を消すとスリッパの音をぱたぱたと立てながら階段を昇った。フレデリックの部屋は三日前に掃除した。彼にもプライバシーというものがあるので毎日入るわけではないが、今朝方、「掃除しといてくれ」との伝言を預かっている。やましいことはなにもない。元の時代で名前を失ったあいつの部屋にもよく入っていたし。
……聖騎士団の彼の部屋は、図書室から借りた本と書類、それから必要最低限の旅荷しかなかった。今思えばあの頃彼は聖騎士団をホームとは思っていなかったのだ。借宿だから汚せるほどの私物を置きたがらなかった——。
「……ああ、やっぱり…………こんなことだろうと思ったよ……」
そんなふうに想い出を懐かしみながら開いた扉の向こうは、見渡す限りゴチャゴチャに放置された、文句なしの汚部屋であった。
◇◆◇◆◇
「まったく! どうしてこう、脱いだ服を畳んで片付けるという簡単なことが出来ないんだ!! 靴下は脱ぎっぱなし、シャツは放置、ネクタイはねじまがって折り目が消えない、ジーンズはぬけがらみたいな形で半ば直立……下穿きだけは一箇所に集約されているのがまだ救いか。いや、これを許していては、あの部屋は永遠に綺麗になりはしないだろうな」
部屋中に脱ぎ散らかされた服を全て拾い集め、洗濯機に放り投げてエンジェルはぶつぶつと独り言を漏らす。脳裏に蘇るのはフレデリックの言葉だ。「おまえが部屋の掃除をしてくれるようになって本当に助かってる。何しろアリアには、リビングダイニングはまだしも流石に私室の掃除は頼めなかったから……」当たり前だ。男物の使用済みパンツが無造作に積まれている部屋を女性に片付けさせるなんて地獄に堕ちる行為だ。
洗濯機の前に椅子を置いて本を読み、乾燥までの終わりを待つ。そして出来上がった洗濯物をカゴに移し、フレデリックの部屋に戻って全て畳む。それら一連の行為を終える頃には、すっかり夕刻を過ぎてしまっていた。ああ、思ったより本が読めなかったなあ。今日はニーチェでも読もうかと思っていたのに……そんなふうに独りごちて手に取った最後の洗濯物を確かめ、エンジェルは小さく呟いた。
「白衣だ」
それは、フレデリックは自宅に置いていった予備の白衣だった。落ちきらなかった薬剤の染みが僅かに残った白衣は、彼の体格に合わせてやや大きめのLサイズ。あいつには白衣なんかとんと似合わないだろうと思い続けていたものだが、意外や意外、フレデリックは白衣がよく似合う。たまに眼鏡なんか掛けてると、余計に似合う。
「……私にも着られるかな」
そんなことを考えていたから、多分、魔が差したのだ。
エンジェルはゆっくりと立ち上がり、洗い立ての白衣をふわりと広げ、袖を通した。特売の日にまとめ買いした洗剤の、人工香料で再現されたライラックの香りが鼻をくすぐる。エンジェルの華奢な身体には、フレデリックの白衣はあまりに大きかった。袖はぶかぶかで、肩幅はがばがば、裾も膝下に及んでいて、人間の彼との間にでさえある体格差を感じさせる。
「むむ……」
彼の部屋の一番隅で埃を被っていた姿見の鏡に近寄っていって、白衣を羽織った自分の姿をじっと見た。ブラウンのズボンと青いシャツ、その上に真白い白衣。顔にはフレームがピンクの眼鏡がついている。ふむふむ、なかなかどうして、悪くないのではないか。持ち主であるフレデリックほどは似合っていないだろうが、少なくともあいつ……野蛮な炎がよく似合うあの男が、見慣れた装いの上に着ているよりは、ずっと馴染んでいる。
エンジェルはふわりと微笑み、すっかり丈の余ってしまっている袖口を唇に近づけた。そうして近づけると、洗剤の匂いに混じって、洗濯しても消えなかった持ち主の香りが漂ってくるような気がする。
エンジェルはしばし白衣の匂いを嗅ぐ行為に没頭した。微かに残るフレデリックの体臭は、嗅ぎ慣れたあの匂いに近しく、けれどわずかに優しくて……。
「——エンジェル?」
そんなことをしていたからだろう。
エンジェルは、部屋の戸が開く音に気づけなかった。
「……………………えっ?」
急に耳に飛び込んで来た音に驚き、エンジェルがばっと振り返る。入り口にフレデリックが立っている。大学帰りで、右肩にリュックサックを雑に背負った彼が、信じられないものを見る目でエンジェルの方を凝視している。
「ふ、ふふ、フレデリック! えらく早いお帰りで……」
「別に早くない。もう十九時だぞ。それよか、エンジェル、おまえなにして……」
「あ、ああっ!? こ、これはだな、その、違うんだフレデリック! 決しておまえの白衣の匂いを嗅いでたとかそういうんじゃなくて……部屋の掃除して、片付けてて、だな、」
「は? 俺の白衣なんか嗅いでどうする。いや、あー、そうじゃなくてだな……」
動揺したエンジェルの言葉に、フレデリックの狼狽した言葉が折り重なる。二人してしどろもどろになり、エンジェルは立ちすくみ、フレデリックはそのうち言葉を失ってよろよろとエンジェルの方へ歩み寄ってきた。すると白衣なんかよりずっと強いフレデリックの体臭が、エンジェルの鼻をつく。あ、これ、まずい。エンジェルはくらりとする頭を必死に押さえた。ただでさえ彼の匂いというものが、エンジェルは潜在的に好きなのだ。だってそれは物心ついてはじめて懐いたひとの匂いと同じで、世界で一番安心出来る場所の匂いで、何度もベッドの上で嗅いだものだったから。それは未来の——ギアと人が争うようになってからの世界での出来事だったけれど、でも、だから、フレデリック=バルサラは、エンジェルにとって……。
「その、なんだ……。テメェが俺の白衣をぶかぶかさせながら着てるのを見ると、心臓がおかしくなるから、頼むから俺以外がいるところで見せるなよ」
フレデリックが緊張を孕んだ声でエンジェルの耳元にそう告げる。
エンジェルは「ああ」と小さく頷いた。二人分の鼓動がしっちゃかめっちゃかに跳ね上がる音を聞きながら、エンジェルはフレデリックの頬になだめるようなキスをした。