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エピローグ


「で——なんで、オレだけ、まだ小さいんだよ。おかしいだろ。絶対おかしいって。オレはおかしいと思う」
「えー、いいじゃない、かわいいし。シンが元に戻っちゃったら、もう抱っこ出来ないし……」
「そう。元に戻れる見込みはあるのだから、気にしない。こういうのは楽しんだ方がお買い得」
「その言い方、多分だけどちょっと使いどころが……いやまあ、そんなのはどうでもいいんだけど……」
 そこまで言うと、シンは殆ど全てを諦めたような顔をして後ろに振り返った。今自分を抱きしめて離さない少女に切々と訴えかける眼差しを向け、なんとか、解放を願う。しかし少女にその思いは届かない。
「この状態ぐらい、せめてなんとかならねえ?」
「むり。んー、いいこいいこー……」
 非情にも懇願を切り捨て、ラムレザルは抱き抱えたシンに頬ずりをした。
 

 あれから一晩が経ち、翌朝あちこちに散っていた面々が再びイリュリアの家に集まってくる頃には、カイはすっかり元通りの大人に戻っていた。幼くなっていた頃の記憶はぼんやりと残っているらしく、彼はまず、「その節は本当にすみませんでした」と頭を下げた。
 あの後、飛鳥に伴われてバックヤードを離脱したシンとディズィーは、待機していたヴァレンタイン姉妹と合流して普通に帰宅したが、聞くところによればカイの方は、事件解決後も夜が明けるまで身体は子供のままだったのをいいことに「父子ごっこ」を追加で楽しんでいたらしい。ソルはなんだか疲れたような顔をしていたが、カイはものすごくつやつやした感じで、すごくいいことがあった時の顔をしていた。
 シンはその話をざっくり聞いてただよかったなあと思った。ピクニックに行った日、シンがソルから得たものをカイは手に入れられなかった……という話を聞いていたので、そういうのも全部ソルと一緒に見つけられたのなら、それに越したことはない。
「でもまあ、ホント、なんとかなってよかった。オレの身体はまだだけど。……まだだけど。本当にこれ、戻るんだよな?」
「ギアメーカーの言伝によれば、支障はないそうですよ。曰く、奇跡の代償、だそうで。……何かしたんですか?」
「べつに。オレは家族が大好きだって大声で言っただけだし」
「ふふ、なるほど」
 笑顔のカイは、一人で頷くとラムレザルからシンを受け取り、ぐりぐりと頬をすり寄せてくる。ここ数日、シンは何かと頬を擦られてばかりだ。この調子では、元に戻っても頬をずりずりされてしまうかもしれない。そんな危惧を覚えつつ、しかし幸せそうに顔を緩めているカイを咎めることも出来ず、父の愛に甘んじる。
 今日も私服を着ているカイは、敏腕執事の奇跡的なスケジュール調整によって三日目の休みをもぎ取ったらしい。その反動で明日以降の執務が常軌を逸した宇宙大戦争の如き有り様になっていると半笑いをしていたが、カイが言うことには「レオが本国で溜め込んでいるぶんに比べたら大分マシ」ということだそうで、今日は何としてでもホームパーティを開く腹づもりのようだった。
「しかし、よかった。このままシンが大きくなれないなんてことになったら、どうしようかと一時は危惧したものですが……」
「カイさあ、言葉の割に名残惜しそうなんだけど」
「まあ結局、ソルに大雑把にやられてしまった教育を正す……という方の目的は、あまり果たせませんでしたからね。確かにそれが残念と言えばそうです。……けれど、それは別に、あなたが小さくなくても出来ることです。ね? シン」
「いやその、『ね?』って何? 何その……笑顔?」
「ね?」
「……。あのなあ! そんな、なんか、かわいー風な、おねだりするみてえな感じで言っても、ダメ! オレもうやだからな、宿題が二倍四倍八倍って増えてくの!!」
 何を言っているんですか、まだまだ先がありますよ、とカイが言うので、とうとうシンは絶句して青ざめ、父の胸に顔を埋めてしまった。今にも泣き出しそうな顔をしていたが、そこで泣かないのは、ソルの教育の賜だとカイは思った。
 カイにシンを渡した後、ヴァレンタイン姉妹がホームパーティの準備をしているディズィーの方へ行ってしまったため、カイとシンが揃って黙ると部屋の中がしんとしてしまう。今日はみんなでのホームパーティということを家主のカイが強調したので、姉妹も変に気を利かせないでしっかり参加してくれるらしい。家事一通りをディズィーに習っている最中だというから、期待してもいいだろう。
「……おい、カイ」
「ん。あれ、戻ったのか」
「今な。ケルンとイリュリアをここ数日で何度往復したかわからん。転移魔法陣がなければやってらんねえな」
 そんなことを考えながらシンをあやしていると、後ろから声を掛けられた。ギアメーカーと某かの話を付けに行くと言っていたソルがそこに立っている。玄関扉が開いた気配はしなかったから、ギアメーカーの転移法術が屋敷内を座標にしていたのだろう。
「寝てんのか、そいつは」
「え? ああ……みたいだな。どうもこの体格だと、体力が落ちているらしい。さっき宿題を減らさないという話をしたからかな……」
「…………」
「あ、そうそう。言っておくが、おまえにも責任を取らせるからな。絶対に逃がしはしないぞ、ソル? 三日前にも言った気がするが、もう随分前のことのように感じるので一応釘を刺しておく」
「…………あ、ああ…………」
 カイの腕の中でいつの間にか寝入ってしまったシンをあやすように撫でていたソルの手が、そこで止まった。都合の悪いことが起きた時、歯切れの悪い返事をして動きが固まるのはソルの癖だが、シンも割とそういうところがある。これもソルの教育の賜か。
 ただし、すぐ立ち直って開き直るところがあるぶん、ソルの方がシンより悪質だったりする。
「で、どうだった?」
 カイが尋ねると、素早く状態復帰したソルはかぶりを軽く振ってみせた。
「どうもしねえよ。後始末の話をしただけだ。言っていた通り、あとのことは野郎と鴉野郎が受け持つ。俺達はもう関与しない」
「ふうん……」
「ああ? なんだ、その顔は」
「うん? いやね。随分嬉しそうな顔をしていたから。ギアメーカーがおまえにとって、そういう顔の出来る相手であるということを、私は素直に嬉しく思うよ」
 どこか含みのあるカイの言葉に、しかしソルはそれほど気を悪くした様子も見せず、にっと口の端を釣り上げる。この数日で慣れない父親業をカイに対してしてみせたり、或いはカイの方がソルにいじらしく求めてきたり、色々なことがあったが、戻ってみれば単純なことで、今の二人の距離感や立ち位置はもう変わることがない。
「は、知ったような口ききやがって」
「おまえこそ」
「いいんだよ、俺は坊やの『親』もやっただろ」
「思ってもいないくせに。まあ、教会で最後に聞いたおまえの本音を思えば、仕方がないな。どんなに親子らしいことをしていてもあんな思いがあれば……」
 結局のところ、シンを育てた時とはまったく違う考えややり方だったが、ソルがカイに色々なものを教え与えていたことには変わりない。ただ、それにどんな名前を付けるかなのだ。今のカイはそこに親子ではなく友の名を書きたがるし、ソルもまあ、それでいいかなと思っている。
「ソルの頬は硬いな……」
「テメェは歳のわりに柔らかすぎる」
「柔らかさなら今のシンが一番だぞ。触っていくか、おじいちゃん」
 この数日間ですっかり頬ずり癖がついてしまったカイがソルの頬にも己のそれを擦りつけると、ソルは溜め息を吐きながら、しかしまんざらでもないふうにカイのやりたいようにやらせていた。ソルもまあ硬い方なので、幼いシンに「オヤジはさあ、髭のそり跡がじょりじょりして痛いんだよなあ」などと言われたことがあるぐらいだが、それと比較しなくともカイの柔らかさはかなりのものだ。
 しかしそんなソルの平和でぼんやりした考えは、最後に落とされた爆弾発言で掻き消されてしまう。
 ソルはかっと目を見開いた。
「……二度とその名前で俺を呼ぶんじゃねえ!」


◇◆◇◆◇


「これでよし、と」
 ケルンのラボで記録装置にデータを落とし込み、飛鳥は大きく背伸びをした。思わぬところで後回しにしていた課題が一つ片づいたといったところで、割と実りのある結果に終わったと思う。
「よろしいのですか、骨折り損だったようにも感じますが」
「いいんだ。必要な身辺整理のうちの一つが済んだとも言えるしね。アメリカ政府に出頭するまえに、バックヤードの整理も済ませておかないと。あんまりブラックボックスを残しすぎるとあとあと僕がいなくなってからフレデリックが困るかもしれない。それを、意図せずあぶり出せたんだ。むしろラッキーかな。それに……友達の友達は、友達って言葉もあるだろう?」
「はあ……そういうものでしょうか」
 積まれた書類を手にしたまま、レイヴンが茫洋と言った。
 今世紀最大の大罪人、聖戦の元凶、ギアを造りし男——そのように広く語られるギアメーカーという男は、現在身辺整理を進めている真っ最中だ。友人にして宿業の相手ソル=バッドガイと一つの決着を付けるという選択も含め、償いを立てる上での禊ぎというべきか、下準備を粛々と進めている。
 バックヤードに関する情報や手段の整理と多少のソフトウェアパッケージ・及びマニュアル化も、飛鳥が身辺整理の中に含めていた内容だった。法力とバックヤードを発見した「第一の男」が失踪してもう随分と経つ。未だ生きているとも死んでいるともわからぬかの師が、万が一世界の敵対者として現れたとき、飛鳥が動けない状況下で人類側に武器を残しておかねばならない。
 その武器にあたるものの筆頭である、高プライオリティの存在——ヴァレンタイン姉妹やカイとその家族——のケアと確認が一気に出来たので、今回の件は一種の僥倖とも考えていた。
「そういうものだよ。それに、フレデリックとも久しぶりに長話をしたんだ。あんなの、院生時代以来だぞ。大学を卒業してしまってからは、なかなか、中身のない空論をずっと討じているような時間はなくなってしまったからね」
「一番楽しかった時代、ですか。顔に書いてあります」
「そうだね。老人の昔話、ってやつさ。僕もフレデリックも、年の割に身体が動くってだけで老人に変わりはないからなあ。旧世代の化石——なんて、フレデリックは自らとジャック・オーを指して言っていたっけね。まさしくその通り。僕だって日がなお茶でも啜りながら昔話に花を咲かせていたかったと思う時はある」
 だけど、と言い置いて飛鳥が振り返る。金髪の下に見え隠れする海色の瞳をしばたかせ、レイヴンに優しい眼差しを向けて。
「化石にも、現代に復元出来るものとそうでないものがある。僕は後者だ。新しい知己を得て、家族の枠組みに入れ込まれたフレデリックはこれからも誰かに必要とされるだろう。だけど僕の役目は、アリアを元に戻して概ね終わりに向かいつつある」
「そして我々の道行きも分かたれる。わかってはいましたが、いざその時を迎えると寂しいものですな」
「寂しいか。うん、そうだな。寂しいね……」
 飛鳥はこれまでの半生以上を友のために生き長らえてきた。不治の病を患ったアリアをいつの日か治療し、フレデリックの隣に立たせる。それを叶えるために親友の時を歪めた。取り返しが付かないほど長い戦争を起こし、望まず、世界の流れを左右する存在になった。そのせいで恨みを数え切れないほど買ったが、それは当然の報いだ。
 飛鳥は歴史を歪めた。意図的に事象の流れに干渉し、時にプライオリティを書き換え、望む形に流れを動かした。
 あの時飛鳥は、バックヤードのキャッシュから生まれた存在に「メモリリークなど、いつかはバグとして除去されて然るべきだ」と言ったが、その言葉はそっくりそのまま飛鳥に返ってくるものでもある。
「……レイヴン。僕はもうすぐいなくなる。だから僕も、君に残したい言葉がいくつかあるんだけど——」
 飛鳥は「友人」の顔を真っ直ぐ見て目を細めた。けれど言葉は最後まで続かない。レイヴンが人差し指を立て、それをそっと唇に添えたからだ。
「今は、まだ。その続きは別の機会に聞かせてください」
「……! ああ、わかったよ」
 飛鳥は静かに頷いた。「身辺整理」は、まだ道半ばに来たばかりだ。別れの言葉は、何も今すぐでなくともいい。


◇◆◇◆◇


 気がついたら寝落ちちゃってたオレが目を覚ました頃には、もう家中すっかりホームパーティの準備が整っていて、みんな、今か今かとオレが目を開けるのを待っていたみたいだった。
 オレが目を覚ますと、まず真っ先に母さんがオレを抱き上げ、おはようって挨拶をすると頬ずりをしておでこにキスをしてくれた。カイからはじまった頬ずりは、どうも家族じゅうみんなに伝染してしまったみたいで、みんなやたらとオレの頬に自分のほっぺたを擦りつけたがった。
 そのあとはラムとエルに挟まれて、ダイニングテーブルのセットをし終え、オヤジと雑談してたカイのところに輸送された。いや、ホント、輸送っていう言い方が相応しい運び方だった。空輸って言ってもいいかもしれない。オレと散々遊んだあとだからか、小さい子に対する遠慮とかそういうのが消し飛んで、ラムもエルもオレに容赦がない。いいんだけど。オレが元に戻ったら、もうラムにもエルにも、オレは多分抱えらんないし。
 カイのとこまで空輸されたオレは、カイの腕の中にぽすりと手渡され、カイは涼しい顔をしてオレのことを抱っこした。この三日間で、カイの手に抱かれ、カイよりちょっと低いところに目線を置くことに大分慣れたように思った。
「ん。あれ? そういや今日、みんなおんなじ匂いするな」
「ああ、全員分の服を同じ柔軟剤で洗ったから。ソルとシンの普段着も一緒にね」
「あー、そっか! 母さんとカイからしてた花の匂いと一緒なんだな。なんか、あっちこっちからいい匂いがしてると、わかんなくなっちゃう」
「花の……匂い……? カイからか……」
「うん。母さんが使ってる柔軟剤がフローラルなんとかの香りって名前らしいんだけど……オヤジ? 何その超サディスティックな顔。すげー面白いことになってるぜ」
 そのあと、カイがオヤジに「抱っこするか」って聞いてたけど、オヤジは頑として首を縦に振らなかった。カイはすごい残念がってたけど、これは仕方ない。一緒に旅してた時、オヤジはくたびれて歩けなくなったオレをしょっちゅう抱っこしてくれてたからな。きっとそういう苦労を思い出しちゃうんだろう。
「昨日は、疲れた私をおぶってくれたんですけどねえ」
 カイが唇をちょっと尖らせながら言った。オレの知らないところで、カイはカイなりに、縮んでいた時間を楽しんでいたらしい。なによりだ。
 そうこうしているあいだに料理が出そろい、みんなで席についてオレたちは「なんでもない日のお祝い」パーティを始めた。
 テーブルいっぱいの母さんの得意料理をちょっとずつ摘んでいると、両隣に座っているラムとエルが自分が手伝ったやつを教えてくれる。カイや母さんはオヤジとなんでもないことを話しながらオレたちの方を見ている。そういや、カイはあのバックヤードでのこと、知ってんのかな。オレと母さんがカイにキスした瞬間、なんか一瞬世界が真っ白になって、気がついたらあの部屋からカイもキャッシュなんとかも十字架も消えてしまっていたから、そこらへん、よくわからない。
 まあでもそんなことは訊かなくってもいいか、と思い直し、オレは対岸のカイに全然違う話を振った。
「なあカイ、オレ、この騒動の間、ずっと考えてたことがあるんだけど」
「え? はい。なんでしょう」
 カイの声はちょっとだけおっかなびっくりな調子だった。何か、身構えているらしい。
 オレはなるべくカイを待たせないようにさっさと本題を切り出した。
「家族って何だろうって。一回、カイにも聞いたけど」
「ええ。私は確か……」
「その時オレが感じてることが答えだって、言ってた。でもなんかそれもすぐにはぴんとこなくて、まだ考え続けてたんだ。でさ、今こうやってみんなでご飯食べてたら、ふっと思ったんだけど」
 喋ってる間に、テーブルじゅうの視線がオレにどんどん集中していく。こんなに見られてる状態で言うの、なんか照れくさいな。
 でも、いいんだ。なんとなくだけど、これをちゃんと言えるまで、オレのちび化は、治んない気がしている。
「やっぱ家族って、カイが言うとおりなんだなって。オレは、一緒にいると嬉しくて幸せになって、自然と笑顔になっちゃうような——そういう、『魔法』をかけたりかけられたりする相手が、家族なのかなって。
 あ、魔法って、なんか小難しい途中式とかいらないやつ。母さんやカイ、それにオヤジがオレに教えてくれたやつだ。だから——ここにいるみんな、オレの大切な家族なんだなって、思ったんだ」
 オレがそう言ってにっと笑うと、まず母さんが「そうですね」って控えめに笑ってくれた。その次に、エルとラムがめちゃくちゃ嬉しそうな顔と声で両側からオレをハグした。エルとラムの次は、オヤジがまんざらでもなさそうに「好きにしろ」とか言う。
 オレは最後に期待の眼差しでカイを見る。カイはほんの少し目を潤ませ、びっくりしたように、けどものすごく綺麗な顔をして、小首を傾げるとオレの名前を呼んでくれる。
「大好きですよ、シン」
 うん、そう。これだ。オレは椅子から飛び跳ねそうな勢いで大きく頷いた。この三日間いろんなことを考え直したけど、オレがちっちゃくなったことに意味を見出すとするなら、たぶんこの結論にもう一回辿り着くことがそうなんだとオレは思う。
 あの小さなカイの形をした何かが歪めてしまう前の、本当のカイの願い事。
 それに気づけたから……きっと明日目が醒めたら、オレたちはまたいつも通りの日常に戻れるだろう。






/イノセントファミリア・END