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08


 過去に戻りたいと思ったことがないわけではない。
 警察機構に移籍し、ソルと再会するまでの間は幾度かそういうことがあった。だけどその度に否定をしてきた。過去に帰りたいと願ったところで、時は戻らない。世界は変わらない。ソルは帰って来ない。
 ソルは他人だ。彼はカイの家族ではなかった。
「でも、家族になりたかったんでしょう? 本当は」
「さあ……どうでしょう。もうわからないな。昔のこと過ぎて、忘れてしまった。私はソルと再会したし、ディズィーと出会い、シンを得た。もう、家族がいます。世界で一番大切な……」
「けれど羨ましかったんだ。シンがソルの息子同然に育てられたことが。ソルが……自分のことを、はっきり、シンの育て親だと自覚していることが……」
 己に問うている相手もわからぬまま、カイは茫洋と返事を返した。カイは私服を着て、誰もいない部屋でソファに腰掛けていた。目の前には山積みにされたアルバムがあった。見覚えのないアルバムから漏れたフィルムには、幼いカイの横顔が連続して納められていた。
 明らかに異質な空間だったが、カイにその自覚はなかった。状態の把握が上手く出来ていなかったというか、許可されていないのだった。
「育て親、だなんて。ソルはあなたに対して、絶対にそんなこと言ってくれなかったのにね」
「当然でしょう。私は子供扱いを嫌いっていました。あの男だってそこまで底意地が悪いわけではない」
「本当?」
「……どういう意味です」
「あなたが大人になりたがったのは、子供としての愛情——父親が見せる無償のそれ——が、ソルに期待出来なかったから。別種の愛情を、手に入れようとしたから。そうじゃないんですか? ……ねえ、そういうことにしてしまいましょうよ」
 ふと視線を横へ向けると、誰もいなかったはずのソファに子供が腰掛けている。ちょうど、五、六歳ぐらいの年頃の男の子だ。奇妙なことに顔つきはカイにうり二つだった。記憶にない、十歳以前の自分がもし姿を得てそこに現れたら、まさにこの通りの形になるのではないかと思った。
 カイはそこではじめて、疑問を抱いた。
「……誰?」
「あなたの時を奪いにきたものです、わたし」
「時……」
「あなたの願いを聞きました。父として不出来だと叱咤していた声を聞きました。親の愛が欲しいと嘆く声を聞きました。過去の自分が享受出来なかった幸福をねだる声を聞きました。手に入らなかったものを羨む声を聞きました。然らば、願いを叶えましょう。わたしはあなたになり、あなたの望みを現実にしましょう。まずはその一端としてあなたの息子を幼い姿に戻しました。どうでした? あなたは自分の望む、理想の父親になれましたか」
 子供は謳うようになめらかに言葉を読み上げる。その言葉達を聞いているうちに段々と意識がはっきりとしてきて、カイは弾かれたように目を見開いた。異常が発生している。この世界の原則を外れた、起きてはいけない現象が目の前に現れている。
 それに、だ。
 今この子供は、はっきりと、シンを幼い姿に戻したのは自分だと言い切ったではないか。
「何者です」
「あなたですよ。依り代としてあなたの人格を得ました。私とあなたは既に同一です」
 尋ねたカイの声はひどく冷たかったが、子供は意に介した様子がない。彼は楽しそうに鼻歌を口ずさみ、カイの肩に手を置いた。
「次はあなたを幼い姿に戻しましょう。あなたの願いが叶うように。十四ぐらいでしたか? ソルと出会ったのは。そのあとの記憶は……あなたの場合、必要ないですね。邪魔なだけです。大人の理性は、夢と泡沫を否定します。降ってわいた幸運を冷静に分析し、危険物として処理してしまいます。それじゃあ意味がない。奇跡を起こす価値もない」
 鼻歌はまだ続いている。バッハのマタイ受難曲、その第一部。十字架の死の予告。これから奇跡を起こそうと宣うにはあまりにミスチョイスなその選曲を、しかし恥じることも誇ることもなく、高らかに。
 カイは見開いた目を細めた。肩に掛けられた手をはね除けようとしたが、うまくいかない。危機感を覚え誰かに何かを届けようと思考を試みるが、それも邪魔されて綺麗な形を為さない。
「奇跡を、あげますよ。あなただけに」
「……そうか。ここは……『バックヤード』か……!」
「はい。でも——気付くのがちょっと遅かったですね」
 肩に触れていた指先がめりこみ、洋服を貫通し、カイの肉に沈み込んでいく。そのまま指と肩が融け合い、一つになっていく。
 同化を拒もうとしたが、身体がちっとも動かない。「暴れないでくださいね?」何かが囁く。「そうしたら、失敗して、歪な形にしてしまうかもしれないから」。
「どうして……私の願いなど、それも私自身自覚にないぐらい些末なものを叶えようなんて……」
 朦朧としていく意識の中、せめてそれを尋ねた。何かの肉体は既に八割型カイの中に侵食を果たし、同化していた。「カイ」という意識に巣くい、その中に格納されたデータを根こそぎ奪い取っていた。記憶が消えていく。十五歳のあの日、ソルを失った時の痛みが。十八歳のあの日、聖戦が終わった瞬間の思いが。二十三歳のあの日、ソルと再会した憤りが。二十四歳のあの日、ディズィーと出会い、恋した幸福が。
 思い出が喪われていく。
 そうして最早「カイ自身」に成り果てた何かは、カイの内側から満足げに呟いた。
「決まってるでしょう? バックヤードに記述されている人格の中でも、あなたがとりわけ特別な名前だからですよ」


◇◆◇◆◇


 バックヤードの深奥部、何らかの思惑によって隔離された空間で飛鳥=R=クロイツは眉をひそめた。思っていたより悪趣味な歓迎を受けたのもあるが、自分より遙かに甚大な衝撃を受けているであろう母子にどう説明したものかと、瞬間、考えあぐねていた部分もあった。
「カイを返さない、だって?」
「ええ」
 五、六歳そこらといったところの、愛らしい男の子の姿をしたものがにこりと笑む。外見こそ幼児そのものだが、受け答えはしっかりしていて、むしろ度を過ぎて老成している。飛鳥が聞いていた限り、確かにカイ=キスクは大人びた子供だったらしいが、それにしてもこんなに異常な老熟さを見せていたという話はない。
「それは困るな。というか、そんな権限、ないだろう。『君は正確にはカイじゃない』わけだし」
「なんだ、ばれてるんだ。……ここに来るのも、思ったより早かったし。それもやはりあなたの手引きがあったからですか、ギアメーカー」
「いやいや、これでもかなり骨を折ったんだ。僕もバックヤードに間借りしているだけで、隅々まで精通しているわけではないからね。こういう隠された空間をノーヒントで見つけ出せるわけじゃない。でもパスが繋がっていた。途中で途切れていたが、十分だ。それに拒絶の扉も、僕達を追い返すためのものだったのだろうが、逆効果だよ。かえってわかりやすかったぐらいだ」
「ああ、『カイが』出していたパスか。いけない子……」
 男の子はカイの頬に手を掛け、うっとりとなぞった。幼いカイの姿をしたものが成人した現在のカイにそうやって触れている図というのは、倒錯じみていておぞましかった。
「おいアレ、なんなんだよ。カイ……みてーな顔してるけど、めちゃくちゃちびだし……まずカイは二人いない。何者なんだ」
 会話が途切れたところに、シンが焦りからか苛立った声を上げる。飛鳥は顔を横へ振った。
「半々、かな。これは僕の推測だけど……まず磔にされている方は正真正銘の本物だ。ただし十五歳から二十九歳までの記憶しかない、現世から切り離されたデータの一部。そしてもう片方も、半分は本物から吸収したカイの情報で出来ている」
「カイはあんなこと……」
「『言わない』とは誰にも言い切れない。そういう可能性を、人格の模倣をするために引っ張ってきているんだろう。人間は何にでもなれるんだ。神にも、悪魔にも。君の父親の中に秘められているそれらの不純物を濾し取ったわけだ」
「な……なんで?」
「多分、大元が不純物の塊だから親和性が高いんだと思う。あれは……バックヤードのキャッシュ。キャッシュメモリ内で蓄積され、廃棄される寸前だったトラッシュデータだ」
 飛鳥がはっきりとした調子で言った。
 バックヤードは無数の試算を繰り返す世界の演算器としての側面を持つ。であるからこそ、バックヤードそのものを擬人化した存在とも言えるイノは試算を強制的にリセットし、繰り返させる権限を持っているのだ。
 しかし演算を繰り返せば繰り返すほど、廃棄される可能性は積み重なっていく。その大半は過去のログデータとしてヘヴンズ・エッジに送られるが、不要と見なされたり、零れ落ちてしまったりして、ログとしては保管されないものもある。幼いカイの姿をしたものは、その化身なのだ。
 しかし、飛鳥の説明に理解が追いついていないらしいシンが首を傾げた。
「キッシュ? 母さんの得意料理じゃん」
「キャッシュ。君の母親の得意料理ではなく。まあ、要は、バックヤードの残りかすだ。とはいえ本来は使用済みの、機能的にはゴミに過ぎないから僕も手を着けていなかったんだが……確かにキャッシュの中には古今東西の奇跡が含まれている。それが依り代を得て集積されれば一角の神格だ。なるほど奇跡ぐらい起こしてみせるだろう」
「ええと……なんでカイのかっこしてるんだ」
「カイの格好をしているわけじゃない。逆だ。カイのデータを奪った結果ああいう外見になったんだ。カイを狙った理由は明快だな。適当な人間の人格を奪っても意味がなく、権能が発揮出来ない。だがその点、カイは特別で都合が良い」
 何しろカイは歴史の分岐点を握っている存在だ。バックヤード上の記述でも、他の人間とは異なるものとして記録されていただろう。バックヤードのキャッシュがその特異性に目をつけ、利用しようとしたというのはわかりやすい理屈である。
「とにかく、キャッシュが人格を得て活動出来るようになってしまうのは非常にまずい」
「なんで」
 シンの疑問に飛鳥は明快に答えた。現世が求めている歴史の流れはカイを必要としているが、キャッシュはカイの特別性を利用すると同時に危惧した。目的が食い違い、ちぐはぐな狙いがこのまま肥大化していけば待っているのは破滅あるのみ。
 バックヤード側から干渉された結果、イノの任意巻き戻しさえも機能しなくなってしまえば目も当てられない。
「詳細は省くが、歴史が歪むんだ。プライオリティを無視して、未来へ続かない形に改竄されてしまうかもしれない。そもそも、カイが子供のまま元に戻れなくなったら、王を失ったイリュリアはどうなる? ましてや支持率九十二パーセントの第一連王だぞ」
「……なんか、やばいような……」
「やばいんだ。実際、かなりね」
 掲げられた飛鳥の指先に魔法陣が浮かび上がり、そこからエネルギー波が射出される。だがそれらは全て、カイと、それに抱きついているキャッシュに触れる前に霧散した。バックヤード内ではよりバックヤードに親和性の高い者が有利になる。バックヤードそのものであるキャッシュが上位の行動権を持っているため、攻撃が通用しないのだ。
 たとえヴァレンタインを連れてきていたところで、相手があれでは歯が立たなかったに違いない。
「無駄ですよ。カイは返しません。やっと……やっと手に入れたんだもの! 特別な名前、特別な肉体、特別な存在。廃棄されるはずだったわたしに姿形と理由を与えられるもの。用済みになったわたしに新しい目的を与えた異端。
 だからせめてもの慰みに、幸せな夢を見せてあげたでしょう? かつて叶えられなかった願いを現実にしてあげました。幼い息子との、ささやかだけど満ち足りた休日。さぞ幸せだったでしょうに」
「そりゃ、幸せだったっていうか……楽しかったけど……」
「永遠にそのままでいたいぐらい、ね。だからバックヤード上の記述はそのように書き換えておきました。カイは永遠に大人にならないし、シン、あなたも子供のまま。そうしたら、ずっと一緒ですよ」
「は、はあ?! なんだよそれ! そんなの……おかしいだろ。間違ってる!」
「仕方ないでしょう? カイの力を奪ってわたしという自己を確立させるにはそうするしかなかったんだもの。大人の彼は、歴史に干渉する力が強すぎる。事象のプライオリティがあり得ないぐらい高いし、あの純粋すぎる願いがわたし以外の何かにアクセスしてしまったらたまったものじゃありません。更なる波紋を避けるためですよ、ギアメーカー。あなたならわたしの言っていることが正しいと理解出来るでしょう」
「それは片側の理論だ。僕はその反対側にいる。残念ながら、交渉決裂だな」
 飛鳥はかぶりを振って否定をした。
 ここまでに立ててきた仮説の最後の証明がこれでようやく終わった。発端はやはり、カイの抱く願いがあまりにも純粋だったことに始まっている。本人さえ自覚出来ない高純度の願いが何らかの要因でバックヤードにパスを繋げてしまった結果、これ幸いとそれに接触を図ったものがあった。それが廃棄処分される時を待っていたキャッシュデータ。
 キャッシュはカイの持っている「特別な」力を利用しようとした。自分の中に蓄えられていた奇跡の残りかすをカイに与え、代わりに、カイの人格を得た。かたちのないトラッシュログに過ぎなかったキャッシュは意思を持つ存在になる。
 ではそうまでして、キャッシュは何をしたいのか? 
 決まり切っている。腐ってもキャッシュはバックヤードの一部。無数の可能性を持つ演算器であるバックヤードは、歴史を未来へ進める役割を担っている。カイは危険すぎたのだ。ただの願いがキャッシュにアクセス出来るのなら、本体がもっと深部にアクセス出来てしまう可能性だって有り得る。人間がエゴで世界に干渉しかねない。あの慈悲なき啓示でさえ、システム上、不可能だった領域に到達する可能性がある——とバックヤードの残りかすは思案した。
「あなたも大概わからない人ですね、ギアメーカー。カイの願い一つで歴史が歪む。祈り一つで世界が動く。ソル=バッドガイに後を託したから滅んだ歴史があり、ディズィーと出会わなかっただけで消えた世界がある。一体何度、カイのせいで巻き戻された歴史があるのか、お抱えの魔器にでも一度尋ねてみたらいい」
「いや、やめておこう。イノはそんなこと、数えたがらないだろうし。それより、カイに何をしているんだ。『現実のカイは寝ている』のに、今そこにいるカイに全くこれっぽっちもパスが繋がらないなんてあり得ない」
「やだなあ、そのぐらい対策を講じているに決まってるでしょう。ギアメーカーと第一の男が出てきたら、理詰めで突破されてしまうのは目に見えていますからね。あとはもう本当に奇跡でも起こさないと無理ですよ。ここにいるカイは目覚めません。世界を救えないのは彼の願いに反する結果でしょうが、彼が世界を救おうとすればするほどキャッシュが増えるんだから、無理もないですよね」
 けらけらとキャッシュが嗤う。勝ちを確信して、カイとは似ても似つかない笑い声を上げる。
 シンはその様を見つめ、やがて、そっと母親の手を握った。
 そうして母の顔を見遣り、母さん、とキャッシュに聞こえないように名前を呼ぶ。
「……あのさ、オレ、今ちょっとほっとしてるんだ」
「どうして?」
 母の声は優しく凛々しかった。この状況で、ディズィーもまた、カイを取り戻してあの暖かい家族の家へ帰ることを確信しているとわかり、シンはますます強く彼女の手のひらを握りしめた。
「オレがちびになったのも、カイが小さくなったのも、切っ掛けはカイのちょっとした願望だったかもしれないけど……本意じゃなかった、みたいだから。それがはっきりしてほっとしたんだ。だってオレ、こんな身体じゃなんも出来ない。もしオレがこの、無力で、無様なカッコで居続けることを本当にカイが望んでいたのだとしたら、カイは一体どんな子供がほしかったんだろうって」
「カイさんは、シンが成長したことを喜んでいますよ」
「うん。わかってるよ、母さん。けどオレ、ここに来る途中で言ったよな。オレ達はとっくに家族だし、カイもわかってるはずだ……って。でもやっぱり不安だった。オレは必死になって自分にそう言い聞かせてるだけで、カイは本当は、何も出来ないオレをあやしてる方が楽しかったらどうしようとか、そういう恐怖が消えたわけじゃなかったんだ。……裏切られたらどうしようって」
「シン……」
「でもオレ、本当に家族が——カイが大好きだから。それを信じてよかった、って今思ってる。あとそれが、今オレに使える一番大きな力だったことにも感謝してる」
 握り締める力を強くした。飛鳥の魔法が効かないんだから、シンの黒雷だって、この場では何の力もなかっただろう。武器を持って突進したところで、キッシュだかキャッシュだかわからないあの子供にはきっと通用しない。
 だけど家族が大好きだという気持ちは、あんなわけのわからない何かには絶対に負けないのだ。
「なあ、ギアメーカー! カイを起こせばいいんだよな?! だからとりあえずあのわけわかんねえちっこいの押さえといてくれ!!」
「え? あ、ああ。あそこで磔になっている彼の自意識をバックヤード内から解放しなければ、現実のカイは元に戻れない。だが、プロテクトが強すぎる。パスも繋がらないんじゃ、生半可なやりかたでは……」
「そこは——あー、なんとかする!」
「いやいや、なんとかって……」
「大丈夫。全部心得ています。だってシンは私達の息子で、私はカイさんの妻だもの。家族の絆は、奇跡だって起こすんですよ」
 シンの支離滅裂にも聞こえる叫びをディズィーが捕捉する。ややあって、飛鳥は頷いた。奇跡に懸けるなら、もうここしかない。
「……そうか。わかった。なら、三分だけ……なんとか!」
 頼みを請け負い、パスを繋ぐ試みをすっぱりと諦めると飛鳥はキャッシュへ強引に接続を掛けた。
 位置情報の強制書き換えをしてカイから引き剥がし、簡易の結界で距離を確保する。それを確認するより先にシンとディズィーが十字架の元へ走り去った。ディズィーはたちまちカイの拘束を解き、十字架から夫を降ろし、抱き抱えたまま地面にくずおれる。
「まさか——出しなさい、ギアメーカー! あの小娘、何をするつもりで——」
 結界の中からそれを見ていたキャッシュが急に青ざめ、雄叫びを上げた。
 本能的に、終わりの時が迫ってきているのを悟ったのだろう。余裕たっぷりだった相貌は見る間に崩れ、無惨な有り様だ。飛鳥は黙って結界の補強をしていく。口にした手前、三分だけは何が何でも確保しなければならない。
 膝の上に力なく横たわる夫を抱え、ディズィーはカイの顔をそっと抱き上げた。シンがそれを横から手伝う。人形のように美しい成人男性の横顔に、ディズィーは目を瞑ってそっと口を近づけていく。
「奇跡の可能性さえもバックヤードの内に内包されているのだとすれば、キャッシュがそれを知覚することもあるのかな。では、彼女たちの行いは間違いなくイレギュラーをイレギュラーで覆すのだろう。バグをバグが正すなんて結末も、まあ、なくはないか」
「だめ——だめです、やっと、やっと欲しかったものが手に入ったのに——」
「でも、仕方がないよね。メモリリークが起きてる状態は、ただのバグだ。いくら権限を手に入れたところで、恒常化出来るものじゃない。……キャッシュデータなんて、いずれはみんな、永久にハードディスクから消え去る運命だろう?」
 キャッシュが悲痛な面持ちで叫ぶ。飛鳥は目を細め、結界に最後の補強を終えた。十字架のもとではディズィーがカイの唇に柔らかなそれを重ね合い、シンは横から父親の頬にキスをしている。まったく卑俗な光景だ。だが暖かい。飛鳥には縁のない温もりがそこにある。
「家族、か」
 耳元に手をあて、通信用の法術式を展開した。飛鳥は見届け人として、もう一人、奇跡を目の当たりにするであろう男に話をつけておく必要があった。


◇◆◇◆◇


「……ああ、そうだ。ならいい。そっちの後片付けは任せた」
 通信を落とし、ソルは長椅子に横たわった少年に目を遣った。十四歳の姿をした、過去からそっくりやってきたような形の少年は、しかしもう、そのあどけなさを瞳の中に宿してはいなかった。
 彼は不可思議そうに指折り数え、それから聖堂の外をぼんやり眺めていた。何が起こったのかを整理する時間が必要だというのが、彼の言だった。
 ソルが通話を終えたあと、聖堂内部では長いこと沈黙が続いた。ソルも彼に声を掛けなかったし、彼も、放心したように外を眺めるばかりだった。
「手に入らなかったものは……いつもきらきらしていて、まぶしいんだ」
 少年が口を開いたのは、それからしばらくが経ってからのことだ。
「あ?」
「いや、うん。やっと整理が着いた。私がこの大きさになる前、今回の真犯人と話を少ししていてね。それが言うことが、あまり実感を持てなかったんだが。……子供に戻って、おまえと共に過ごして、……いやちょっと……だいぶ……大人になりたいと思えないよう昔よりわがままになっていたようだが……だからこそ自覚もしやすかった。私が抱いていた願いは、本物だったんだなと」
「そうかよ」
「そうみたいだ」
 少年は確からしく言った。声音はまだ声変わり前のボーイソプラノだったが、口調は成熟しきり、もう丸っきり、ソルの記憶にある最近のカイ=キスクのそれと遜色がなかった。
「たぶん、羨ましかったのは、本当なんだ。私だっておまえに育てられたのに、おまえは私とシンに対してそういう区別を付けるんだなと、少しも思わなかったわけじゃない」
「仕方ねえだろ。シンはマジでガキだった。だが……坊やはもう、ある意味での完成を見ていた。常識で埋め尽くされ、自我は確立しきり、一丁前に戦っていた。そういう部分には敬意を払うべきだ」
「そう。おまえはそういう男だな。今の私は、そういう部分をとても好ましいと思う」
 少年——カイが起き上がり、ソルの手を掴む。ドイツくんだりまで真夜中に飛んでいったり、かと思えば蜻蛉帰りで面倒を見させられたりと振り回されっぱなしの数日間だったが、相手がカイだと思うと何もかも仕方ないような気がしてくる。
「今の通信、ギアメーカーからか」
 カイが尋ねるとソルは頷いた。
「そうだ。坊やの自意識の確認が取れたんで、お役ご免ということでヤツはシンとディズィーを送り届けた後帰るらしい。バックヤード内での後処理は、レイヴンあたりを駆り出して向こうで始末をつけるとよ」
「そうか。申し訳ないな」
「世界中にクソでけぇ借りがある男だぞ。やらせとけ。ヤツ曰く、代金は奇跡の見物という形で払って貰った——だそうだ。『黒幕』とやらの最後があんまり呆気なかったもんで、個人的に調査したい部分もあるらしいしな」
「そうか……」
 カイが目を醒ましたのは、ソルが聖堂内部にカイを連れ込み、祈りを捧げるカイの意識を奪ってほんの数分後のことだった。バックヤード内部で何が起こっていたのかは聞いていないし聞きたくもないが、まあ、手はず通りに進んだらしい。事件は一件落着と相成り、一応の解決に向かい始めている。
 目覚めたカイは、肉体こそ未だ十四歳のそれであるものの、中身はすっかり元のそれに立ち戻っている。通信先の飛鳥が言うには「中身につられて夜が明けるまでには元に戻るはず」とのことだから、放っておいて大丈夫だろう。思考回路はともかく魔法使いとしては右に出る者のいない超一級の相手だ。
「小さいシンを抱っこして頬ずりとかしたかったのも、まあ、本音ではあったしな。シンが本当にあのぐらいだった頃は、もうろくに触らせてもくれなくて……」
「そりゃテメェ、可哀想だが自業自得だろ」
「まあ……うん。でもいいんだ。今はもう、シンもわかってくれているし。二度と、昔に戻りたいなんて思わないよ」
「そうしてくれ。三度目の子育てはやらねえぞ、俺は」
「もうさせないって。次の子はちゃんと私とディズィーで面倒を……」
「……いやそういう意味じゃねえよ」
 むっと頬を膨らませて言い返してきたカイにげんなりと肩を落とし、大きな溜め息を吐く。気がついたら娘がいて、その娘が母になっていたという事実をソルはまだ受け止め切れていないところがあるのだ。そういう話を真正面からされてしまうと、どう返していいのか、困ってしまう。
 だからソルは言葉を尽くす代わりに、カイに寄り添った。昔、本当に十四歳だった頃のカイにそうしようと試みていたのと同じように、或いはもっと親密な意味合いを込めて、カイの手を取った。
 手のひらを握り返してきたカイは、ソルに返事を求めようとはせず、一人で、勝手にロンドン観光の振り返りを始めた。それはまず朝の騒動から始まり、花のような笑顔で、「本当にかっこいいから、毎日、こういう服を着ていてもいいんだぞ?」と悪戯っぽくはにかむ。
 服を仕立ててもらったこと、でもライオットで揃えて貰えなかったから、次の機会こそお揃いのメーカーを着てみたいという話。ジェラート屋での話。ソルと父親の話。十四歳のカイ=キスクが、過ぎ去った過去の幻が、ソル=バッドガイという男にあの頃抱いていた憧憬。
 私の理想の父親は、でも結局のところ、おまえでもなければクリフ様でもベルナルドでもなかった、とカイは言う。ソルはそれに黙って頷く。ただそれを踏まえた上で、今日ソルと交わした全ての会話は、多少誇張されていたにせよカイの偽らざる本心だった、と最後に結ばれた。
 カイは顔を上げた。改めてはっきりとソルの顔を見た。そうして、それまで求めてこなかったソルの答えを、今度はしっかりとねだった。
「それで……どうだった? ソル、おまえは……私の父親には、なれたか?」
「無理だな」
 ソルは、十四歳のカイと過ごしたここ十数時間のことを今一度思い返して即答した。
 ジェラート屋の店主に父親だと思われていたあの瞬間、街を巡り手を引いていた瞬間、朝方何気ないカイの言葉を聞いた瞬間——そのどれを思い返しても、ソルはカイの父親としてあまりに不適格だった。
「俺はテメェのいちいちに欲情してたんだ。十五年前からな。こんなんで父親なんか名乗れるか」
「……ぷっ、はは、あははは! そうか。なるほど。この十五年間で一番納得出来る答えだ。なら、仕方がないな。おまえは確かに私の父親にはなれまい」
 だから素直にそう答えると、カイは怒る代わりに泣きながら大笑いして、ソルの手を握り締めた。