05 サヨナキドリの末路



「——あれ、どうしたんですか、カイさん。急にお掃除に精を出したりなんかして」
 自室を訪れた少女が、ちょっと驚いたように小首を傾げて訪ねる。その声にはっとして振り返り、まあ、少し思うところがあって……とカイはやや困ったふうに笑って見せた。うららかな午後の陽射しに、ティーセットを持って現れた少女。もう、そんな時間なのか。時計を確かめて手に持っていたものを棚に積み上げると、そそくさとソファの方へ移動する。
「この間、あんなことがあった後ですからね。出来る事は時間がある内にやっておくべきかなと思って」
「そうなんですか。あんまり大規模だから、てっきり、お引っ越しのための身辺整理でもしているのかと思って焦っちゃった」
「それは……すみません」
 少女が上目遣いにそんなことを言うものだから、カイは困ったように笑って、まなじりを下げた。

 例のスウェーデン撤退戦で大変な目に遭って以来、目も回るような忙しさに見舞われていた。
 夜を徹したフレデリックの治療により一命を取り留めた二人は、身体が快方へ向かい始めるとまず長いお説教を彼から喰らうはめになった。曰く、あと一歩間違っていたら二人とも死んでいた、だの。少しでも判断を誤ればディズィーが助かったとしてもカイは確実に手遅れだった、だの。そうしてつらつらと怒鳴り散らしたあと、最後に彼は、珍しく弱り顔をして、頼むから俺より先に死ぬな、と低い声で言い含めた。
 生まれてこの方十五年ずっと過ごした相手だったが、こんなふうにして頼み込むようなフレデリックの姿というのは、カイも、実の娘のディズィーでさえ、見たことがないものだった。
 それに二人して顔を見合わせているところに、随分遅れて飛鳥が帰還する。フレデリックを先に行かせた分イングランドの後処理が長引いたらしい彼は、「そろそろお説教も聞き飽きただろう?」と言ってフレデリックを研究室の奥へ引き摺って行き、しばらく外には出て来なかった。
「すみません、ディズィー。どうも父さんは何か企んでいるみたいだから……そのせいで、フレデリックがいつもよりぴりぴりしているでしょう? だから仕事もろくに回って来ないし、暇をもてあますぐらいなら掃除でもしようかなって。そうしたら思っていたより、処分出来るものが多くてですね……」
「それで、もう二度と使いそうにもない書類とか読まなそうな本が積み上がってるんですね。取ってあるものも、カイさんらしいですけど」
「まあ、私物は元から大してありませんからね。ディズィーみたいに着るものに気を回すことも殆どなかったし、こうして見てみると本当に必要最低限しかなかったりして、それはそれで驚きでした」
 ディズィーから渡された紅茶を一口含み、カップをテーブルに戻す。改めて確かめた私物は、本当に少なかった。ここに子供が一人暮らしているとは信じられないほど何も無い。書類と、本と、制服と、ペン。玩具もなければぬいぐるみもない。時代柄物資が少ないという以前に、カイが自分の意思で欲したものが、ひとつも置かれていなかったのだ。
 それに気付いて初めて、物が欲しくておねだりをしたという経験が自分にないことを知った。ディズィーは、そうではなかったはずだ。彼女は少女らしく、でも良い子だから本当に少しだけ、父親にないものねだりをした。彼女を愛している父親は出来うる限り娘の要望に応えようとした。彼女の部屋には、カイの部屋と違ってちゃんと生活感がある。
 その事実にカイは打ちのめされたような気持ちがした。ディズィーが兵器でありながら少女であるように、自分も兵器という少年なのだと信じていた。でも人間だったのはディズィーだけで、カイはそうじゃなかったのかもしれない、と思うのだ。だって彼女はきちんと母と父がいるふつうの子供なのに、カイには母親がいない。十五歳まで、自分が欠陥を抱えていることを自覚しなかった瞬間はない。
 それは育て方の違いだ、と多分フレデリックは言うのだろうけれど。
 けれど今ある結果がカイの全てなのだ。
「……ねえ、ディズィー」
「はい。どうしたんですか、カイさん」
「私は、果たして本当にあなたの善き隣人であれたのでしょうか?」
 思い詰めた表情で急にそう尋ねると、ディズィーはきょとんとして目を丸くした。
 善き隣人。聖書に記された人間の規範。汝の隣人を愛しなさい、人よ。右の頬をぶたれたのならば、左の頬を差し出すのです。この質問は、そういう意図のものなのだろうか?
 ディズィーは首を振る。違う。きっとカイが尋ねているのは、そういうことではない。
「……カイさん、何か、隠していることがありますね?」
 だから初めにそれだけ確認すると、カイは図星を突かれたように言葉を詰まらせた。
「え。そ、それは」
「ううん、聞きだそう、っていうことじゃないんです。ただ、そうなら納得出来る、っていうだけ。急に身辺整理を始めたことも、それを尋ねたことも、全部。
 ……カイさんは……ずっと、私にとって大事な、素敵な人です。世界で一番。私はカイさんが大好きだし、カイさんが私を大切に思ってくれていることがわかるから、それを尋ねてくれただけで、うれしい」
「ディズィー……」
「でも、カイさん。だから私は、あなたを束縛しようとは、思いませんよ。カイさんが決めたことなら、止めません。何をしようとしているとしても、決して。例えあなたが世界を滅ぼすのだとしても、私はカイさんの味方です。だってカイさんが考えて決めたことだもの。あなたが何を言っても——私はそれを信じます」
 少女の指先が、カイの頬に添わされた。スウェーデンで人々を撤退させようとした彼女は、この手で数多のギアを殺戮した。この身は兵器。そのようにあれと育てられた。それはカイが、兵器であれと産み出されたのと同じように。
 〝かみさま〟。
 姿なき偶像ではなくある男の姿に、カイは心中で問いかける。かみさま、どうしてあなたは、兵器に人の心を与えようなどとしたのです。
 彼女がこんなに人間らしい少女でなければ、この心は、痛まなかったのだろうか。
「ごめんなさい、ディズィー」
 頬に触れる手を取り、離して、手の甲を向けさせる。彼女の目は澄み渡っている。その中に映っている自分の目を見るのが怖くて、そこからそっと目を背けた。何をどう言いつくろっても無駄なことだ。どれほど心が痛んでも、痛まなくても、カイが選ぶ答えは一つしかない。ずっとそうだった。これまでの五千百八十九兆六百五十二億千九百八十一回がそうだったように、これからも絶対に。
 手の甲に口付けると、ディズィーは全てを悟ったように眼を細めた。カイは彼女から幸せになれるはずだった未来を奪う。彼女の思い描いていた幸福への未来予想図を破壊する。幸せにしてあげられなかった——などという思い上がりでさえなく、事実として、単純に、彼女の幸せをこの手で壊す。
 だけど少女はそれすらも、承伏してそこに座っている。
「私はもうすぐ、あなたを裏切ることになる」
 唇はこんなに重いのに、心はどこまでも残酷に正直だった。
 ディズィーが止めてくれないのなら、カイはもう最後まで止まれない。この心が叫ぶ限り、カイは必ず、ナイフを持って彼の前に立つしかない。死ぬのは怖くない、でも。五千百八十九兆六百五十二億千九百八十一回の死の中でいつも、彼女を裏切らなければならないことだけは、こんなにも後ろめたい思いになってカイを苛む。


◇◆◇◆◇


「いいの? 彼、出て行っちゃったわよ」
「君の顔を見ているのが辛いんだって、ヴァレンタイン。でもその方が都合がいいし、追いはしないよ。そもそもフレデリックに全部聞かれたら困るのは君だろう」
「そう、ね。私の成り立ちからして、彼絶対に許せないでしょうから。ましてや私達が望む結末に、あの子の死が必要不可欠とあってはね……」
 研究室の奥に気安く腰掛け、ストーンヘンジに現れた女・ヴァレンタインは資料を手に取った。この研究室で培養されて生まれたある男の子の十五年についてが記されたものだ。彼がどういう意図の元生み出され、どのような思想に添って育てられたのか。資料を捲りながら、ヴァレンタインは度々フレデリックが口にしていた「ろくでなし」という言葉を思い出す。なるほど、これは、ろくでなしの所業に間違いあるまい。
「時間があまりない。バックヤードから観測できた因果の収束時刻まであと一時間もないんだ。次にフレデリックが現れた時点で、カイは決着をつける気だろう。それまでにこちらはこちらでやることをまとめておかないと」
「フレデリックには悪いけど、そうするしかないか。えっと……大筋は、私という存在が含有している蓄積情報をエネルギーにバックヤードの強制書き換えを行う、ということでいいのよね」
「そうなるね。不完全とはいえ、君の喉元には『ユノ』が埋まっている。バイパスにするのにこれ以上適した物もない。その代償に君という存在は消滅してしまうだろうけれど……」
「いいわよ。元々、私は次の世界の住人。この世界に流れ着いた時点でもうどこにもいけないし、使えるものは有効に使わないと」
 飛鳥の一応の問いかけに、ヴァレンタインが頷いた。


 イングランドで回収した規格外生命体・ヴァレンタインが自ら語ったことと観測データを総合した結果、概ね以下のような事が判明した。
 まず彼女は、アリアの遺伝子情報を複製した肉体にアリアの魂を半分入れた存在であること。残り半分の魂の在処について、彼女は「自分が元いた世界のジャスティスの内部」だと断定し、更に製造者が飛鳥であることも認めた。
 そして、彼女がこの世界を訪れた——現れてしまった理由は、行き詰まりかけている世界を正しい形に戻すためである、ということ。
 平たく言えば、世界が歪み、ループを繰り返しているのでその現状を打破するために飛鳥がこれから何らかの対策を講じ、その対策の結果次の世界で生まれたのがヴァレンタインなのだという。しかし飛鳥が対策を講じるにはヴァレンタインが次の世界からやってくるという干渉が必要になる。飛鳥がヴァレンタインを作ると世界は次に進み、世界が次に進んだ故にヴァレンタインは一つ前の時代へ落っこちてくる。
 鶏が先か、卵が先か。それはともかく、ヴァレンタインが来てしまった以上、はっきりしているのは世界が詰んでいるという事実一点だ。

「まあ、そんなわけだから僕も出来る限りの手は尽くすけど、正直な所成功率はそれほど高くないと思う。それは因果の逆説に呼び寄せられた君という存在自体が証明しているだろう?」
「そうね。私がいた世界では、結局、あの子は死んだわ。けれどあの子の死に抑止力が干渉しなくなったことで、世界は最後の可能性を得る。つまり、バックヤードそのものを押し留めた森羅万象の擬人化……人の意思を持つ魔器が」
「自在に時空転移を繰り返し、気まぐれで世界の流れを操作出来る上位権限者か。最初からそれが現れてくれれば良かったんだけど」
「それは無理な相談ね。だって彼女が生まれるための『明日を生きたい』という願いを凌駕するほど、貴方の息子が抱いている『こんな思いをするぐらいな死んでしまいたい』という願いが強すぎたのよ」
 ヴァレンタインが小首を傾げると、飛鳥は困ったように短く唸る。
「だから僕が聖騎士団に関与する、なんていうバグが起きてるんだっけ?」
「恐らく。でも……同時にこうも言えるのよね。彼が何千兆とループを繰り返し、蓄積された願いが途方もない量になったからこそ『I−NO』は発生し得た、と」
 女は肩をすくめ、諦観気味にそう述べた。
 ヴァレンタインと飛鳥二人の力でバックヤードからかろうじて読み取ったログには、はっきりとカイの死を中心に世界再生が繰り返されている旨が記されていた。それにより、今までバックヤードのことを朧にしか把握していなかった飛鳥はこの世界の成り立ちを遅まきに理解する。世界とは即ち、バックヤードに演算されているシミュレーション。期待値通りの結果が出なければ、シミュレーションは中断される。設定されている演算上の期待値は何種類かあるが、カイの生存もその中の一要素に含まれていたのだ。だからカイが死ねば歴史も巻き戻る。彼の死が確定した段階で、人類史が立ちゆかなくなることが証明されてしまう。
「要は欠陥構造だった、というわけだ。ただ、最初に値を設定したのが誰なのかは分からないが——仮にそれを神とするとして、神にはわからなかったんだろうな。どんな値を入れれば事故が起こらないのかどうか。その代わりリソースが膨大にあったから、何回も試行していけばいずれ洗い出しが完了してバグフィックス出来るはずだった。だが、ことカイに関しては想定を超えて頑強なバグだったせいでシステムによる自浄作用が働かず、修正が行われないまま闇雲にリソースを喰らい果たした……」
「或いは、そのリソース浪費の果てにイノちゃんを生み出すこと自体が、自浄作用が最終的に目指していた目的だったのかもしれないわね」
「かもしれないな。なにせ、リソースをギリギリ、あと一回残したという段階で事態が発覚するようになっていたんだ。どう足掻いても、あと一回はカイの死によるループを発生させなければ成功式に変更出来ない。まったくうまく出来ているよ。二回あれば成功出来るから、まあ、いいんだけど……」
「随分な自信。一回は無理でも、二回で成功するとは確信しているのね」
「これだけ情報を貰ってるんだよ? それぐらい出来なきゃ、こんな役回りを引き受けてない」
 その答えに、ヴァレンタインはカイという名前を与えられた兵器の製造書類を机に戻し、れやれ、と首を振った。
 ここのところ、ほぼ謹慎に近い処遇をされているカイはずっと身の回りの整理に時間を費やしているのだという。元々会話の少なかった飛鳥とは元より、フレデリックに何らかのアクションを起こすことも以前より減った。彼が着々と「自殺への準備」をしていることは、フレデリックはつゆほども気がついていないようだが、状況証拠から見て確実だ。カイという少年が、何故そこまで思い詰めるのか。元いた世界の情報ではわからなかったが、これだけのデータが揃えばヴァレンタインにもその理屈は理解出来る。
 彼は絶対に叶わない恋に手を出してしまったのだ。
「自覚のない病、か。自覚されてしまった今、あなたはそれをどう呼んでいるの?」
「実を言うとまだ決めかねてるな。恋患い、じゃあまりにもあんまりだろう。かといって、名前に悩んでいる時間はもうなさそうだけど」
「あなたって本当ろくでなし。私を造った理由は、もっと人間じみてたんだけど。カイを造ってフレデリックのそばに留まった理由は、ちょっと私を造った飛鳥からは想像出来ないわ。値をズラした結果、あなたの定義そのものも僅かに変動したってことなのかしらね」
「なら、悪いのはフレデリックだな。罪作りな男だよ、彼は。何しろアリアが自分を忘れないのなら永遠に憎まれていたいって言ったぐらいだ。その彼の立ち位置が変わるのだとしたら、僕も聖騎士団なんか作る気にならないだろうさ」
「……かわいそうなフレデリック。こんな人の言い訳にされちゃうんだから」
 小さく溜め息。この、己のエゴイズムだけでつま先からてっぺんまで構成されているような男が、それでも確かに息子を愛していると何度か繰り返していたことを、ヴァレンタインはあまり信用出来ずにいた。何しろ、今目の前にいる彼より遙かに「いい人」だった次の世界の飛鳥でさえ、己のエゴに従いアリアとフレデリックをギアに改造した事実は変わらないのだ。しかも次の世界の飛鳥はフレデリックから了承さえ取らなかった。目的のために手段を厭わないその様は、サイコパスそのものである。
 純粋な願いに端をなしている存在のやることほど恐ろしい物はない、とヴァレンタインは確信している。彼らは純粋であるゆえに決して矛盾を起こさない。つけいる隙がないのだ。だから飛鳥は、ギアメーカーは、どれほど心優しくても世界の敵だ。
 彼の師がそうであるように。
 自覚のない病を抱いているのは、彼もまた同じ。
「あなたは純粋。あんまりにも、純粋なの。だから怖いわ。だってあなた、自分の子供でさえ道具にするために造ったんだもの。私が、道具として生み出されるのはいいのよ。アリアを人に戻すためのツールに相違ないんだから。でも……」
 ヴァレンタインが恐る恐る飛鳥の目を見遣る。エメラルドの瞳は綺麗だが、その実、何も映していないように思えてヴァレンタインには恐ろしい。
「だけどね、ヴァレンタイン。道具であるということと、愛を注ぐか否かはイコールの問題ではないよ。僕にとって息子のカイという存在は確かにフレデリックを繋ぎ止めるための楔だった。けれどその代替は何にも務まらないし、欲しいとも思わない。そういう意味で僕はカイのことを世界で一番愛してるんだけどな」
「歪ね、すごく」
「君はさっきから随分と次の世界の僕を過大評価しているみたいだけど、多分君が知らないだけで、君を造った僕も同じくらい歪だと思うよ。でもね、こういう人間だから、世界を書き換えようなんて馬鹿げたことが実行出来る。適材適所だ」
 話している最中もずっと走らせていたペンをそこでようやく止め、飛鳥が息を吐いた。大抵のものは詠唱いらずで発動できるからと言って滅多に書かなくなった法術式を、久しぶりに羊皮紙いっぱいに長々書き留めた力作だ。覗き込みに来たヴァレンタインが一目見て苦い溜息を漏らした。およそまともな神経をしている人間が書き上げる術式ではない。発動条件がばかばかしすぎて夢物語にさえなっていない。
「因子の消滅——自殺に合わせて『ユノ』を消費し、バックヤードへ帰納される彼の魂を虚数域に一時的に拘束。自分と同じ遺伝子を目印にしてあなたもそこへ飛んで続きの式を実行、か。考えた人間は間違いなく変態よ……」
「アリアに罵られてると思うとかなりの褒め言葉だな……。僕なりに綺麗な術式になるように頑張ったんだよ、これでも。まあ欠点もあって、次の世界はカイが死んだことを全員が正しく承認出来ないと無意味に演算が続いてしまうんだけれど……こればかりはバックヤードが意思を持った魔器を作ってしまうせいだから僕の責任じゃない。事と次第によってはフレデリックが相当苦しい思いをするかもしれないけれど、仕方ないよ」
「酷い話……。でも、そうね。あなたって昔からそういう人だったわ、飛鳥=R=クロイツ」
「非道いな。アリアの記憶にはそんなことが書いてあるのか? 僕はただ、フレデリックに僕一人を見て欲しいだけだ。うん、その願いは、カイと同じだな。やっぱり親子なのかな……」
 独り言を呟く横顔は、確かに思い悩むカイと同じ同じつくりをしている。その様に、アリアがどうして飛鳥を放っておけなくて、でも選んだのはフレデリックだったのか、ヴァレンタインは記憶としてではなく感情として理解した。結局、飛鳥もフレデリックも同じぐらい純粋なひとなのだ。純粋だから、一人きりで世界の敵を選べる人。純粋だから、一人では生きていけなかった人。きっとアリアはその寂しさに惹かれた。
 アリアだけではなく、カイや飛鳥も。
「じゃあ、頑張りましょうか。最初で最後の親心を見せるために」
 冗談めいて言うと、飛鳥は大まじめに頷く。彼は何に対しても真剣だ。フレデリックを求める行為にも、カイを思う言葉にも何一つ偽りはなくて、その分最高に性質が悪いが、どうも憎みきれない。
「うん。たった一度きりの奇跡を起こすために、ここが一世一代の頑張りどころだ。よろしく、ジャック・オー=ヴァレンタイン」
「……それ、もしかして私の名前?」
「そう。今考えたんだけど、いやかな」
 こてんと首を傾げて可愛らしく彼が尋ねる。カイの病について名付けるのは放棄したくせに、そんなことはすぐに口にする。それがどうにもおかしくて、ヴァレンタインはくすくすと笑う。
「ううん、全然。でもどうせなら、次の次の世界でも、そう名付けてちょうだいね」
 だってもう一時間もしないうちに私は消えてしまうし。そう言うと、飛鳥は急にはっとした顔つきになって下を向き、気まずそうに「ごめん……」と言った。


◇◆◇◆◇


 苛立ちが酷い。床を蹴り上げる度に響く靴音を気にも留めず、フレデリックは廊下を歩く。ストーンヘンジから拾ってきた女の顔を見るだけで頭がざらついて仕方ない。
 彼女はあまりにもアリアと顔立ちが同じすぎて、まともに目も合わせられなければ、声を聞くのさえ苦痛だった。飛鳥はそれについて「理屈で言えばカイが僕と同じ顔をしているのと一緒」だとかなんとか言っていたが、クローンであることを了承した上で十五年間も子供として育てたカイといきなり「次の世界」とやらから現れた女では条件が違いすぎる。バックヤードを知っている以上闇雲に女の存在を否定はしなかったが、感情だけで物が言えたのなら、フレデリックはもっと悪し様に彼女のことを罵っていたに違いなかった。
「邪魔するぞ」
 ぶっきらぼうに言い棄てて、ノックもせずにカイの自室へ押し入る。フレデリックを迎え入れたカイはその行為にやや顔をしかめ、「あなたにノックを要求しても無駄でしたね……」と首を横へ振った。
「ディズィーならいませんよ。さっきまで一緒にお茶を飲んでいましたけれど、もう自分の部屋へ帰ったんじゃないかな」
「ディズィーを探しに来たわけじゃない」
「じゃあなんでここに来たんです?」
「俺にもわからん」
「ええ……何それ……」
 机に向かって本を読んでいたらしいカイが困ったような声を出す。カイの言うことは尤もだったが、自分でも自分の感情が整理し切れていないフレデリックには、それに反論する言葉は思い浮かばない。
 フレデリックがそのまま何も言わずに煙草に火を点けたことに気がつくと、カイは彼の言葉を待つことをやめ、様子を伺うようにフレデリックの顔を見た。
「何にも、用事はないんですよね」
「ああ」
「このあと急な遠征とかも入りませんよね?」
「あ? ああ。しばらく大がかりなギアの観測反応は見られてねえからな。スウェーデンでジャスティスを叩いたおかげだろう」
「じゃあ、丁度良いかな。ずっと言いたかったことがあるんです」
 ずっと? その言葉に違和感は覚えたものの、その正体がわからず聞き流す。カイは辛抱強い性質だが、ことフレデリックに小言をつける時は我慢などしたためしがない。今更、室内で煙草を吸うなという事に対して「ずっと」という形容は使わないはずだが。
「あ? なんだ? 小遣いなら、テメェの父親に言えよ」
「違いますよ。ただ、色々と準備も済んだし、ディズィーも許してくれたから」
「ああ……?」
 ディズィーも許してくれた?
 急に出てきた娘の名前にフレデリックが訝み、なんだよ、とつっけんどんに尋ねるとカイが椅子から立ち上がる。
「ちょっと、遅くなってしまいましたけれど」
 何かと思っていると、彼は引き出しからものを取り出し、手に持った品物がよく見えるようにこちらへ振り向いた。
 それから何の躊躇いもなく、鈍く光るものを喉元へ押し当てる。
「あなたにお別れをしなきゃ」
 フレデリックは血の気が引くのを感じながら急激に立ち上がった。カイが手に持っているのは、よく研がれて銀色に光を跳ね返すナイフだった。





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