03 聖少年領域


「さあソル、剣を構えて。今すぐ。逃げ場はありませんよ、さもなければこれです。——ベルナルド!」
「ええ、ここに、カイ様」
 手品のように現れてどさりと積み上げられた紙束を眺め、ソルは聞こえよがしにうげえと唇を噛んだ。押し隠す気の微塵もない歯軋りにカイは眼光鋭く赤茶色の双眸を睨み付ける。
「そう。おわかりでしょう? あなたが半年間溜めに溜めたこの書類のなんと膨大な……眩暈がしてきますね。最低です。でも私はとても寛大なのでこうして挽回の場を用意しているわけです。ほら早く、本気で私にかかってきなさいソル!」
 いつにも増してご機嫌なカイが大声で挑発をしてくる。こんな安い挑発、乗ってやるだけソルの負けだ。付き合ってやったって不利益しかない。そうはっきりわかっているのにどうしようもなくて、ソルは痛むこめかみを抑えた。用意周到なカイの根回しにより、ソルの逃げ道はおおよそ全てが潰されてしまっていた。
「今日という今日こそは、その気にさせてやりますから。私では不服だなんて二度と言わせるもんですか。ええ、私に勝ちさえすればなんでもお願い聞いてあげますし」
「だから何度も言ってるだろうが、そういう世迷い言はまずテメェが本気出してからだな——」
「では私からもそっくりお返ししますが、私はいつだって真剣です! 何度言ったらわかってくれるんですか、もう!」
 しびれを切らしたカイが指を突き出し、二人の周囲に素早く法術の檻を形成する。これで最後の脱出経路も塞がれた。ああ、くそ。ソルは憎々しげに舌打ちをする。よりによってこの前ソル自身が図書室で改良してやったやつだ。こんなことに使われるなら見てやらなきゃ良かった。念のためディスペルを試みたが、細部のコーディングが変更されており、解析にやや時間がかかる代物になっている。
 才能の無駄遣いだ。本当に忌々しいことこの上ない。ソルは諦めて修練場の隅に転がしていた武器を手に取った。
 その瞬間、歓喜に色めき立ったカイの顔つきときたら、まったく!
「ああ、ソル、うれしい! やっと——今日こそ、手加減いっさい抜きでお願いしますからね!」
「おいおい……マジか……なんだその顔……」
 この上ない喜びに彩られた頬は紅潮し、うっそりとソルを見つめてさえいる。色恋にとち狂った女のようなその相貌! 背筋にぞっとしないものが走ってソルは慌てて武器を構えた。横に立っているベルナルドが、勝負開始のカウントを始める。
「あー、クソ、やってらんねえ! さっさと終わらせるに限る!」
 よーい始め! の合図とともにオールガンズブレイジングの術式を走らせて剣を振りかぶった。そこへカイが待ちに待ったといわんばかりの勢いで突っ込んでくる。全身に雷をまとい、きらきらした瞳で、恍惚の表情を隠しもせず。
 頭痛がする。じくじくと痛み続けるような類のそれが。一体何が悲しくて——もしくは楽しくて、そんな顔をしているのだ。あんまり見たいものではない。見るならもっと、別の場所で、別の理由を提示されてでなければ。情緒がなさすぎる。
「大体テメェの本気は、審判の合図なんか待たねえだろうが……阿呆が」
 炎と雷がぶつかり合って弾ける。それは間もなく巨大なエネルギーを生み、視界すべてを遮るような煙を生み出した。カイがそれに一瞬怯み、足を止める。ほらな。今のカイは所詮その程度。これが実戦なら……相手がギアで、戦場ならば、殺意と敵意をみなぎらせたカイはこんな子供だましで足を止めたりしないのに。
(そもそも……テメェの言うような「本気」なんか出したら互いに無事じゃ済まねえだろうが。よくて片方が生き残るかで、九割九分九厘相討ちで死ぬに決まってんだろ)
 カイの突進をシュトルムヴァイパーでいなし、襟元を引っ掴んだ。持ち上げたカイは、恍惚ながらも好戦的で、格上の相手だろうが噛み付いてみせるという気概ある表情をしている。でもそこまでだ。あくまでこのカイが見せる気概は定められたルールの中でのものであり、差し違えてでもソルを殺そうだとか、心臓を奪おうといったような、凶暴な気配は微塵も感じられない。
 まるで子供だましだ。
「坊やは……寝てろ!」
 掴み取ったカイの身体をそのまま大回しに投げ飛ばした。大きく吹っ飛んだ身体は天井に激突しそうになるが、直前でカイが張った結界にバウンドして地面に落ちてくる。ダッシュでその下に駆け寄り、受け身を取りながら落下してきたところを左腕で抱きとめた。そうして、何が起こっているのかと目が白黒しているカイの首元に武器を突きつけ、耳元で低く囁く。
「こいつでテメェは一度死んだ。俺の勝ちだ。異存は」
「ぐっ……うぅ……ありません……」
「ならこれで終わりだな。おいなんだ? その不服そうな顔は。負けは負けだろうが?」
「だ、だって! 組み手で天井まで放り投げる人がありますか! ソルには騎士道精神とか、本当に、からっきしないんですね——」
「毎度毎度言ってると思うが、俺にんなもん期待すんなよ。それよか、始める前になんか言ってやがったな。俺のお願いをなんでも聞いてくれるって?」
 唇を歪め、目を細めてそう尋ねるとカイは真っ青な顔になり、しかしがくがくと震えながら首を縦に振った。カイはバカのつく正直すぎて後から約束を反故にしたりすることが出来ない。前に何故と聞いたら、嘘だけは吐かないことを信条にしていると誇らしげに言われた。
 そんなことを続けていればいつか騙されて身ぐるみ剥がれたりするんじゃないかと常々思っていたのだが、どうも「カイ様をお守り隊」的なものが秘密裏に組織されており、そういう事態に陥りそうになった時にカイに気付かれないよう相手を謹慎なり処罰なりの形で「始末」しているらしい。
 ソルはカイを抱えたまま、ちらりと「お守り隊」の筆頭である男の方を見た。ベルナルドは含みのある表情でソルの視線に応える。声を伴わず、唇だけが何かを伝えようと動いた。……「カイ様の尊厳を傷つけない程度のお仕置きまでは、容認いたします」。
「そうか。なら、このまま風呂入って、俺の部屋な。坊やの部屋でもいいが。あとベルナルド、その書類運んどけ。俺はこのガキ丸洗いしなきゃなんねえ」
「仕方がありませんな。カイ様も、これが薬になって無計画に『なんでもお願いを聞く』というようなことを言い出すことが減るとよいのですが」
「神頼みみてえなこと言ってないで教育しろよ」
「はて、カイ様は、もう十分自立していらっしゃいますので。ではよろしく頼みましたよ。くれぐれもカイ様に無理強いはなさりませんよう」
 山のような紙束を抱えてベルナルドが微笑む。べったりと張り付いた芸術的なまでの作り笑いを見送り、ソルは腕の中で震える子羊を抱え直した。面倒だが、何はともあれこれの汚れを流してやらねばならない。天井まで放り投げて落っこちてきているせいで砂埃だらけなのだ。こんな不潔な状態で図書室は元より自室になんか入れるのは、ソルの気持ちが許し難い。


◇◆◇◆◇

 古びた本のページを手慰みに捲る。機械文明全盛期に出版された科学の専門書で、いわゆる禁書の類だ。最近どこかしらで発見されたとかで、国連にバレて燃やされる前にとクリフが回してくれた。内容はそこそこに興味深く、しかし七割ほど不要な記述であふれており、微妙にソルの読書意欲を削ぎ続けるという非常に難儀な本だった。
「おら手ェ止まってるぞ。負けたら言うこと聞くと約束したのは坊やだろうが、まさかここまできて忘れたとか言い出さねえだろ」
「うう……なんで……なんでまた……」
「言っとくが俺は常に坊やの本気に見合ったやる気を出してやってんだからな、嫌々ながら」
「う、嘘ばっかり……」
 飽きがきたので一旦本を閉じ、かたつむりのようにのろのろ線を引いている腕を叱咤する。カイは書類から目を離し、上目遣いにじっとりとした眼差しをソルへ向けた。ものすごく情けない顔つきだった。
「いいですよねあなたは……いいご身分ですよ……私もせっかくの風呂上がりにこんな悲しいことに時を費やしていないで、本を読んでいたい……」
「多分この本坊やにはつまらんぞ」
「この作業よりは確実におもしろいですよ。ああ、本当は、勝った暁には何でもお願いを聞いてくれる権利を行使して、『プリンキピア』の初版を世界中かけずり回って探してきてもらおうと思ってたのに……」
「そんなこと考えてやがったのか?! つうかだな、そもそも坊やが勝ったところで俺はテメェのお願いなんか聞かねえよ……」
「そう言うだろうなあとは思ってました……」
 声には恐ろしいほど覇気がなく、最早ゾンビのそれだ。一時間も前までは、あれほど元気にソルを追い回して首でも取ったようにはしゃいでいたのに。朱に染まった頬でとろりとソルを見つめてきていた時の面影はどこにもない。顔じゅう土気色で、今にも泣き出しそうだ。
 それはそれで——と思いかけたところで己の思考を諫め、ソルはかぶりを振った。
「というか、なんで私がソルの書類を代筆しなきゃいけないんですか!! なんですかこの始末書の数。あなた加減というものをご存じない? いえそんなはずはないですよね。だったら私は口を酸っぱくして本気を出して——なんて頼まなくてすみますもんね」
「そうだな」
「くう……この聞くからに心のこもってない……悔しい……こんな男の手抜きに負け越してる自分が心底情けない……」
「そんなんで泣くなよ……」
「泣いてません。……泣いてません!」
 むきになって反抗してくるが、瞳を潤ませながら言われても何ら説得力がない。
 仕方がないので懐から新しいアソートキャンディを取り出して「食うか」と尋ねると一も二もなく頷かれる。大きくあけられた口の中にバターキャラメルスカッチを放り込んでやると、すぐに口が閉じられキャンディは見えなくなった。ソルは大仰に溜め息を吐く。大昔に動物園で見たペンギンの飼育係は、きっとこんな気持ちで毎日餌付けをしていたのに違いない。


 風呂場での行水は、ベルナルドが釘を刺していたのとは縁遠く、色気のない遣り取りで終始した。先に「丸洗い」と言っていたように、従順な子犬の頭上へたらいおけから水をぶっかけ、スポンジでこすりつけるような、そういう調子でソルは手を進めた。
 普段は芋洗い状態の大浴場も、まだ真昼間だからソルとカイ以外に人がおらずしんとしている。毎晩あれほど狭い狭いと思って利用しているのだが、こうしてみるとそれほど手狭なわけでもないらしく、昼間に立ち寄る度、二人して洗い場の真ん中にぽつんと取り残されているような心地を味わうはめになる。
「ソルは、手合わせの後必ず身体を流したがりますよね。そんなに綺麗好きでしたっけ、あなた」
 背中をこすってもらいながらカイが呟いた。医務室での手当が必要な傷は負わないものの、ソルとの勝負に負ける度、カイは泥や埃にまみれてしまう。そんなカイを、ソルは必ず洗い場へ連れて行った。そのあと、図書室で勉強を見てほしいとカイが主張している時は特にだ。
「TPOを弁えてるだけだ。別に、戦地で何日も風呂にありつけなかったからって寝付けなくなるような繊細さは持ち合わせてない」
「知ってますよ。私だって、綺麗好きな方だという自負はありますが、こと遠征中は話が別です。川で行水にありつければいい方。ギアは宿屋を選んで襲ってきたりしませんからね」
「それと同じだろ。研究や勉学といったものごとに関わるエリアには、汚れは持ち込みたくない。つーか持ち込むと結果が出ない。尤も今は別にシャーレも試験管も面倒見ちゃいないがな……まあ、そういう意味では職業病の名残か」
「ソルの専門って、無限エネルギーの研究じゃありませんでした?」
「専門はな。応用法力学の研究室で、生命情報学の手伝いしてた時期もあったんだよ」
「ふうん……?」
 よくわかっていないふうにカイが頷く。背中についた泡をソルがすっかり流してくれたことを確かめると、彼は立ち上がってソルの後ろに回った。洗い桶からスポンジを手に取り、ソルの背中に押し付けると、そのままゆっくりと背中を流し始めた。
 ソルがカイの身体を洗った後は、カイがソルの背中を流す。最近ではこのやりとりが、なんとなくの定例行事になりつつある。はじめのうちはソルも、急に自分を負かした男の背中なんか流し始めるものだから、とうとう闇討ちでも考え始めたのかと警戒していたが、カイ曰く「やられっぱなしは気が済まない」「借りを長く作りたくないのでその場で返す」といった趣旨の行為らしい。
「もうちょい力、強くしてくれ」
 やり始めた頃は拙かった手つきも今では慣れたものだ。好き勝手に注文をつけると、カイがえー、なんて頬を膨らませた声を出す。
「駄目。これ以上強くすると、痕が残りそう」
「なら、もう五センチ右下。かゆい」
「言ってることがクリフ様とおんなじ」
 苦笑しながらも背中をこするスポンジが指定通りの位置に移動した。クリフと同じということは、要するにじじむさいということか。眉を僅かに釣り上げ、ソルは振り向かないままむっすりとした声を出す。
「クリフとも風呂入ってんのかよ」
「昔の話ですよ。私がここに拾われて間もなかったうちは、少しね。最初の少しだけは、クリフ様も、私のこと、子供のように接していて。……でもそう時間が経たないうちに前線へ出るようになって、自然とそういうこともなくなりました」
「そうかい」
「あー、なんですか、その微妙に信じてなさそうな声。だいたいあなた、私が決められた入浴時間に一人でここへ来てるの、実際に見て知ってるでしょう」
 そうして彼は、ソルの泡だった背に手のひらを当てて「仕方のないひとですね」と言った。
 表皮を通じて伝わる指先の感触はあたたかく、小さく、華奢だ。カイの手のひらは動きを止め、ソルの背に預けるように上体そのものがもたれてくる。せっかく洗ってやった身体がまだ汚れるだろうが——と言ってやると、へいきですよ、また洗えばいいもの、と背中ごしに囁く。
 それでもうなんだか参ってしまって、ソルは小さく鼻で息を吐くとそれ以上口を挟むことを止めた。
 思えば随分不思議な関係性を築いたものだ。初対面の時に言われた失言を忘れたわけではない。あろうことかこの子供は、ソルを一目見るなり、「賞金稼ぎなんてみんな野蛮ですよ」というようなことを侮蔑のまなざしと共に言い放ったのだ。
 それが、いつの間にか微笑みながら背中なんか流し、身体を——いのちを、安らかな呼吸で預けきってなんかいる。たったの半年でこんなにも気を許すなんて。そりゃ、子供同士が気を許して仲睦まじくなるペースはもっともっと速いけれど、ソルは決してカイにとって心地よいだけの存在ではなかったはずだ。
 ソルなりに、カイへ歩み寄ろうとは努力している。日常生活では出来るだけカイに付き合うようにしているし、戦場ではソルなりのやり方でカイを守っている。たとえば、一人で敵の群れにに飛び込んでいかなくても済むように予め周りを殲滅しておくとか、そういう方法でだ。
 だが歩み寄る努力をしているだけで、別段、やさしいわけではないはずだ。書類の提出も武器損壊への配慮も、はたまたカイの望む手合わせも何もかも、およそカイからの「お願い」に類するものは何も与えてやっていない。ソルがカイに与えたものといえば、勉学の知識と哲学的な問いかけ、そして幾ばくかのキャンディ、そういったものごとばかりだ。
 それだって、無償の愛情に基づいているわけじゃない。
 ソルの行為は何もかもが打算で組み上がっている。そもそもいつかは、カイを置いていくことを条件にここに来たというのに……。
「ねえソル、お風呂を出たら、どっちの部屋に行くんですか」
「まァ、俺の部屋だな。ベルナルドが書類を置いたのは多分そっちだろ」
「はーあ。約束は約束ですものね。今日の午後の予定、全部パーになっちゃう」
「予定なんかあったか? 出陣予定がないから襲い掛かって来たんだろうに」
「自習のつもりだったんです。で、私にこてんぱてんにされたソルを引き摺って、分からないところは教わろうと思ってました。まったくの真逆になってしまいましたけどね」
 わざとらしい溜め息と共に心地よい温度がソルの背から離れて行く。失われた温もりに名残惜しさを感じ、ソルは瞬時にそれを自戒した。ここのところこんなのばかりだ。カイの温度を、彼の存在を、快く思っている自分がどこかにいる。鬱陶しいだけだとばかり思っていたものがいつの間にか重みを増してソルにのしかかる。ソルの方が、夢中になりかかってしまっている。
(だが——)
 ソルは目を瞑った。わかっている。カイがこれほどまでに易々とソルへいのちを預けてくるのは、カイの中でソルが「人間」だからだ。知っている。確かめてはいないが、まだそのくびきからは逃れられていないだろう。
 あまりにも痛ましいほど、カイの中で、いやこの時代を生きる人類にとって、人間とギアの間には隔たりがありすぎる。


 バタースカッチキャンディを自分の口にも放り込んだあと、ソルはカイに干渉を仕掛けてこなくなった。カイはこれ幸いと事務仕事に打ち込み、黙々とペンを走らせ続ける。何しろ書類の枚数が多すぎる。余計な考えごとをしていては、カイの処理速度をもってしても日付変更までの作業を余儀なくされるはずだ。
 一枚また一枚と着実に片を付け、またその都度上司の権限で決裁も同時進行していき、左の未着手の山を右の完了済みへ移していく。山の高さはからすが鳴く頃には逆転し、そうしていよいよ星がまたたくといった塩梅の時間になると、すっかり全てが右側に移動した。
「ほら! 終わりましたよ! 私の努力の結晶をよくよく目に焼き付け……って、ああ! ね、寝てるですって?!」
 勝ち誇って勢いよく立ち上がり、ガッツポーズなんかしながら後ろへ振り返る。するととんでもないものが目に入り、カイは素っ頓狂な声が出るのを抑えることが出来なかった。
 ソルは、カイを優しく見守るどころか監督作業を放棄し、己のベッドの上で大の字になっていたのだ。
「ひ、ひとが……一心不乱に仕事に励んでいるのをいいことに自分だけベッドで横になって挙げ句の果てに寝落ちするなんて……なんたる野蛮……横暴……悪行……前世で功徳を積んでいなさすぎる……」
 そういえばいやに静かだったなと今更になって思う。大人しく本の続きを読んでいるのだろうと作業を優先していたのがあだになったのか。いやそれにしたって……人に仕事を押しつけておいてこの仕打ちはないのではないか?
 カイはわき上がってきた怒りのまま床を蹴って飛び上がると、ソルの上へまっすぐにダイブした。だが思いっきり体重を掛けてやっても、ソルときたら目を醒ます素振りさえ見せない。むっとして駄々をこねるようにぽかぽか背中を殴ってみたが、相も変わらず安らかな寝息を立てているばかり。
「ぜ、絶対許さない……許しませんから……」
 カイは憤慨し、ぶつぶつ呟きながらソルが被っている布団の中に侵入して彼の隣に収まった。備品のベッドは大して広くないから、ソルの図体が大きいせいもあって二人が寝転がるとかなり手狭だ。
「……ソルの身体、あつい……冬場は結構寒がりだったように思うんだけど。……やっぱり炎使いって基礎体温高いのかな……」
 下着だけ着けて寝入っているソルの肌をこれ幸いとあちこち撫で回し、身体全体をひっつける。本人が横たわっているせいもあるのだろうが、彼のベッドからは、むっと立ちこめるようにソルの匂いがする、ように思う。カイにはない力強い男の匂いだ。でも嫌な匂いじゃない。
「……ずるいな……」
 寝入る横顔は穏やかで、悔しいけど格好いい。あーあ、と呟いてヘッドギアに覆われている額をなぞった。こんな不誠実な対応を取られても嫌いになれないのは、どうしてなんだろう。格好いいから? 強いから? それとも、もしかして……。
「嫌じゃないんです。ソルに、何をされても。ああやってあしらわれても、子供扱いされても、勝手に後ろで寝落ちされても。嫌いになれたら、いっそ楽なのにね。……いつかあなたが私を裏切ったら、それでようやく、ちゃんと嫌いになれたりして……」
 応える声がないのをいいことに、独り言はつらつらと続いていく。自分ではそれほど自覚がないけれど、近頃、「カイ様は少し変わられましたね」と言われることが増えた。どういうふうに変わったかを尋ねると、大体みんな、躊躇いがちに「雰囲気が柔らかくなった」とか、「おかわいらしくなった」だなんて言う。後者は不本意甚だしいので捨て置くとして、前者は、きっとソルの影響だ。ソルはカイに色んな話をしてくれるし、あと、大体いつも気負わずだらだらしている。そういった人と一緒にいると、あんまり肩肘張りすぎているのも良くないのかなという気がしてくるのだ。
 このまま自分は、どんどん、ソルみたいになっていくのだろうか。ちょっとだけ考え、すぐに、「それは嫌だな」と思い直した。絶対にいなくならなそうな安心感はとても良いと思うが、ずぼらさはカイの信条に反しすぎている。
 うとうとしてきて、戯れに、指先を彼のヘッドギアへ伸ばした。普段はがっちりとくっついているそれが今日はちょっと緩い。
 魔が差してそれを下へ引っ張る。程なくして隠されていた部分が姿を現し、カイは息を呑んだ。
「——え?」
 額の中央に、聖騎士団本部という「聖域」にあってはならない赤色が輝いていた。忌まわしきしるし、破壊者の記号、殺さなければいけないもののあかし。カイに刃を握らせるもの。血を流すもの。
「あ、ああ、あ、ぁ……」
 頭が真っ白になる。
 それまでまともに働いていた思考が白と赤で塗り潰され、脳に激しい痛みが走る。
 赤い。鈍く光る朱色がヘッドギアの下に見えた、ような、気がする。赤い。あかい紅い朱い忌まわしいおぞましい呪わしい。あれはだめだ。あの赤はいけない。なくさなきゃ。殺してやる。生かしてはおけない。ばらばらに解体して、ぐちゃぐちゃの肉片にして、跡形も残さず、その全てを惨たらしく簒奪してやる。
 だからまず武器を持とう。法術でもいい。「あれ」を殺すには力が必要だ。余計な感情はいらない。ひたすら殺していかなきゃ。視界が真っ白になって何もわからない。でも殺さないと。殺そう。壊そう。だって怖い。こわい恐い怖いいやだ、もう奪わないで、もう殺さないで、一人にしないで——
「……死んで……死んでください……」
 理性は瞬時に崩壊し、たった一つ、シンプルな考えが指向性を持ってカイの身体を衝き動かす。カイは寝転がる「それ」に手を伸ばした。身体じゅうがくがく言っている。でも仕方がない。指先が、「それ」の首筋に当たっているのだ。
 ここは頸動脈。人型の「あれ」にとって重大な急所のひとつだ。ここへ死に至らしめる術式を打ち込めばいい。そうしよう。そうしないと。だってそれは悪だ。存在しているだけで正義に反している。生きていてはいけないのだ。
 なのに。
 なのにどうして、手が震えて、動かないんだろう。
「……わたし、なに、を……?」
 カイは呆然と呟いた。世界は真っ白で何も見えない。一体今、自分は何を殺そうとしているんだろう? 今まで「あれ」と相対していて、こんなふうになったことなんかないのに。
 ホワイトアウトした世界は何も答えない。カイはゆっくりと手を降ろす。そのまま降ろした手を己の首へ回し、そこで急速に意識を手放した。

◇◆◇◆◇

 ソル=バッドガイは辿々しい呪詛の言葉で目を醒ました。起き上がり、瞬時に状況を確認し、事態の把握に努める前に大急ぎでカイの手を彼の首から引き剥がす。
 カイの身体をベッドに横たえ、クリフへコールを入れる。そのまま通信機は放置し、カイの額へ手を伸ばした。
「過呼吸……いや、過換気症候群か」
 浅い呼吸を何度も繰り返し、手足が痺れたような症状も出ている。まずなによりも呼吸を整えてやらなければ。脳味噌の中から対処方を引きずり出したものの、今のカイは失神状態で自意識がないためペーパーバック法が使えないことに気がつく。
 逡巡の後、ソルはやむなくカイの心臓部へマッサージを施し、それから唇へ口を付けた。
 幸い軽い発作だったようで、短いキスを数度繰り返しているうちに呼吸が整ってくる。宥めるように身体をさすり、もう一度口を付けたところで、二度のノックの後返事を待たずに扉が開く。
 鍵のかかった部屋を開けられるのはマスターキーを持っているクリフだけだ。ソルは老人の姿を認めると目線でベッドサイドまで寄るように促した。馬乗りになって口づけをしているなんて状況、いつものクリフなら真っ先に茶化しにかかる場面だったが、カイの陥っている病状を把握しているのか彼は非常に静かだった。
「何があった」
「わからん。変な声で目が醒めて、確かめた時には自分で自分の首を絞めていやがった。まともな様子じゃあないのは確かだが」
「……そうか。症状が出るのは、久しぶりじゃな」
「おい爺さん、知っていたのか、このことは。……よくあるのか」
 尋ねるとクリフは弱々しく首を横へ振った。
「ごく稀になる。周期は不定期で、いつからかはわからん。さらには本人も自覚がない。何しろ戦地で発症したことはないでな、わしにも条件がよう知れんのじゃ」
「慢性的なもんか。……PTSDか? 誘発条件はなんだ? 戦地じゃ、起きねえんだろ」
「おまえさん、そいつは自分の額に聞いてみな。ヘッドギアがずり落ちとる」
「あ? あー、……ああ……なるほどな……」
 急にばつが悪くなり、カイの上から身体をどかしてヘッドギアを定位置へ戻す。ソルは首を捻った。どうやら知らない内に最悪のポカをやらかしてしまったらしい。
「ギアか。或いは、ギアの紋様か」
「だろうよ。カイが保護された時、あたりには、無数のギアの死骸が散らばっておった。カイは母親の顔も父親の名前も知らん。というより保護されるより前の記憶がない。……わしらは、ギアの襲撃に遭って全てをなくしたのではないかと、そう推察しておるが」
「なるほど。だが戦地でギアと戦っている時に症状が出ないのは何故だ」
「わからん。もしかすると、戦士としてギアと相対する際には、己の思考を機械のようにすることで自分を守っておるのかもしれん。だが、今はおぬしと二人だったんじゃろ。気が緩んでおった。心の準備が出来とらんのじゃ。幸せな状態から一転、悪魔の紋様を目に焼き付けられるという状況が、失われた過去をカイに想起させた可能性は高い」
 初めて聞く話だ。それでソルは、自分が何も知らなかったということを思い知った。数ヶ月間を共に過ごし、パーソナルスペースが近くなり、いのちを預けられるほど気を許されて、それで勝手に何もかも知ったつもりになっていたものが、根本的に何も理解出来ていなかったのだということを知らしめさせられていた。
「みなしごだとは聞いていたが、……そうか。そこまで重症だったとはな。そりゃ、まあ、腫れ物みてえに扱うわな。そのこと、団員はどのくらい知ってる」
「古株は概ね知っておるな。ただ誰からともなく箝口令を敷かれたような状態になって、カイより後から入団した者は殆どが知りもせんはずじゃ。お前さんのように」
「カイも……まあ、特別、気にはしてねえんだろう。そういうもんとして受け入れてるのか。だが、まあ、ここにきてようやく合点がいった」
「カイの戦い方がか?」
「ああ。あの効率主義の 殺戮機械 キリングマシーン ぶりが、自己防衛のためのものだ、と言うのは正直一番しっくりくる答えだ」
 今までの見立て通り、時代がそうさせた部分も大きいだろう。だが本当の理由がそちらだとしたら、降誕祭の日には随分惨いことを言ってしまったかもしれない。自分の心を守るので精一杯のやつに、相手の気持ちを考えろ、というのは要求が高すぎる。
 自己犠牲的で押しつけがましい正義感も、当然の帰結としての落としどころなのだろう。カイにはそれ以外の拠り所がなかったのだ。いみじくも本人が言った通り、カイは天才すぎた。子供でも戦わねばいけないこの世界において、貴重な戦力となるほどカイの抱えた才能は過剰だった。カイの持つ能力が、彼をかわいそうな被害者として、弱者のままでいることを許さなかった。
 そうして、自ずとカイの存在意義は殺戮兵器であることに依っていく。ギアを殺すシステムとしての自分に最も大きな価値を見出す。それ以外のことがおざなりになる。最初から不思議だったのだ。崇拝されることを喜ばないカイが、かといってそれを嫌がって排さないのは何故なのかと。ただ鈍いのかと思っていたが、今なら違うと断言出来る。
 あれは単に、そういう感情を集めたままでいた方が、悪魔を殲滅する組織を率いるには便利だったから放っておいただけだ。
「まだ……駄目だったのか」
「うん?」
「気が緩んでたんだ。そろそろ、コイツも……変わってきてるんじゃねえかってな。だが関係なかったみてえだ。結局、俺はこのガキに殺されるのか」
 思索の果てにぽつりと漏れた言葉は、しかし偽らざるソルの本心だった。
 今はショックが過ぎて気を失っているが、カイはソルの額に何が隠されているのかを見たのだ。その結果、暴走した。大切なものになれば或いはという目論見は失敗した。目が醒めた時、カイはソルを「人間」ではなく「怪物」と認識しているだろう。そうすれば、もう……。
 だがクリフは深刻なソルの言葉に対し、諫めるように「あほうが」と首を振るばかりだった。
「本当にそのつもりなら、お前さんそこで呑気に生きておらんわ。カイのギア殺しにかける執念は生半可なもんじゃあない。ありゃあ恨みでも憎しみでもないぶん性質が悪い。ギアを殺すというのは、カイにとっての信仰みたいなもんじゃからな。容赦とかそういうもんはありゃせん。相手が例え直前まで添い寝していた男だとしても問答無用で息の根止めにかかるはずじゃて。
 お前さんが生きているということは、つまりカイの認識そのものがぶっ壊れて停止したってことじゃろ。齟齬を来したんじゃ。その意味じゃ、誤認を起こさせるところまでは成功しとるとも言える」
「は、丸っきりエラーを起こした機械に対する説明だな」
「人間の思考なんぞ、感情とかいう数式で証明出来ない要素を孕んどるだけで本質的には機械と変わらんわ。ギアに対するカイの考えなら尚更じゃ。……第一そんなことをわしに尋ねて、もし仮に目覚めてそういう運びになった時はどうするつもりじゃ、おぬし」
「……さあな。その時にならねえと、なんとも言えねえ。殺されてやるか……手が滑って殺しちまうか……俺にも、わかんねえんだよ」
「ふうむ。どうせ殺す気なら、今首でも手折ってしまえと言うつもりだったんじゃが、どうやらお前さん、わしの想像より大分拗れているらしいの」
 クリフが吐いた溜め息はわざとらしかった。
 だが今のソルに、クリフのそんな態度を気に掛けている心の余裕はない。ちらりと目を遣ったカイは、すっかり呼吸も安定し、すやすやと寝入っている。しかし、安らかな寝息は逆に彼の死を想起させてソルの心を掻き乱した。カイがもし死んでしまったら。それも自分のせいで、この手から滑り落ちてしまったら? それを考えると酷く恐ろしい。
 カイと出会った頃には存在もしなかった感情だ。それが今、ソルの心を席巻し、羽交い締めにしている。
「……なあクリフ、今から一つ最低の話をするがな。最初……本当の最初にこいつが俺へ勝負を挑んできた時、はっきり言って俺はびびってた。ああこいつは俺がギアだと知って殺しに来たんだってな。殺される、とさえ思ったさ。こっちとしても……ギアメーカーの野郎をぶちのめすっていう目的が達成されてない以上、そう易々と殺されてやる気はなかったが。……なんとも笑えない話だが、ともかく、その時俺はこう思ってた。『ああ、でも、あの殺戮兵器とやり合えるのならソイツは悪くねえ話だな』ってな」
「……」
「ま、結局カイはこれっぽっちも殺意を持ってなかったもんで、拍子抜けしちまったんだが。俺は自分が思っていたよりも随分気が狂ってたんだと後になって気がついた。殺すか殺されるかの死闘を悪くないと思う程度には、頭がおかしくなってた。クリフ、俺には自信がない。あいつが俺を殺しに来たとして、そのまま喜び勇んで殺してしまう可能性が否定出来ない。……そうすれば、カイはもう、俺の知らないとこで死んだりしねえだろ……」
 ソルの言葉は加速度的に弱々しくなり、最後の方は、普段の傍若無人な態度からは考えられないほど震えきっている。
 クリフはやれやれと肩を竦めた。まったく、確かに最低な話だ。ただしソルが前置いたのとは違う理由で。
「安心せい。わしが思うに、今のお前さんにカイは殺せんよ」
「そうか?」
「不可能じゃろうな。お前さんここ数ヶ月で丸くなりすぎた。野生の獣になろうとして自分を押し込めていた枠が、もう意味を成さなくなってきておる。お前さん、人間に戻ったよ。……何しろ、カイに向ける目が全てを物語っとる」
 カイがソルと出会って人間らしさを増してきているのは、目に見えて明らかなことだ。そしてそれと比例してソルが人間へ立ち返ってきているのも、クリフからしてみれば明白なことである。二人してお互いを人間に戻して、泥臭い場所へ引き摺っていって、その果てに陥る場所は見え透いている。
「第一、どの口が『俺の知らないところで死んだりしねえ』とか言っとるんじゃ。格好つけおって。そりゃあお前さん、単なる独占欲じゃろが。カイを支配したいのか、手に入れたいのか、どの程度の欲求なのかまでは知ったこっちゃあないがな」
「は? ……おい爺さん、どういう意味だそりゃ」
「そもそもわしの見立てでは、カイは、起きたところでおまえさんが何者かなんてこと分かっとらんわ。もう一度だけ言うがな、『正確に理解していたのなら、お前さん、既に死んでおる』。まったく……途端にあほらしくなってきたわい。峠は越したようじゃし、もう大丈夫じゃろ。わしゃ、帰るぞ。どうせそう離れた部屋にはおらんしな。今晩は責任持って面倒見てやれ」
「いやだからだな……」
 カイの脈を測り、表情を確かめると、突然のことに毒気を抜かれたようになっているソルを置いてクリフは踵を返した。ひらひらと手を振って「無理矢理はいかんぞ」などと言い置くとさっさとドアを開けて部屋から出て行ってしまう。
「……どういう意味だ……」
 ばたんと閉じられたドアの他に答える声はない。ソルは困惑したままおもむろに態勢を直し、カイの顔を見遣った。健康的な赤みが差している頬はふっくらとしていて、ソルの奥底に何かを訴えかけて来る。
 ソルは努めて息を漏らさぬようにし、自分に言い聞かせる意味も含めてヘッドギアをもう一度しっかりと付け直した。

◇◆◇◆◇

 ——なんだろう、これ。あったかいな。ふわふわする。安心して……恐ろしいものが、全部どこかに消えていくみたいな。
 落ち着く香りの中に顔を埋め、すうと息を吸い込んだ。男の人のにおい。ちょっとたばこ臭いけど、暖かいお日様みたいで、すごく好きだ。
 ——さっきまで、何か、すごく恐ろしいものと戦っていた気がするんだけど。……どうしてだろう。何も思い出せない。
 世界は真っ白だ。何もない。その中にやさしい匂いとぬくもりだけがある。でもどうしてこんなに世界は白いのだろう? カイは首を傾げた。そこで、「カイ」という自我が再び形成された。カイはまず、自分が「カイ=キスク」という名前であったことを思い出した。
 ——なにか、××そうとしていたような……。
 だけど何を××しようとしていたんだっけ。
 それを考えようとすると頭の奥で鋭い痛みが弾ける。カイはやむなく別のことを考えることにした。そうだ。このやさしいものはなんだろう。カイを安堵させてくれるものだ。すごく好きな何か。名前は、確か……。
「——あ。そうだ。そる。……ソル! ねえちょっと、ソル!」
 その名前を口にした瞬間、真っ白な世界に鮮明な色があふれかえった。色彩は見慣れた部屋を描き出し、その中央に一人の男を映し出す。ざっくばらんな茶髪、赤いヘッドギア。身につけている黒いインナーはしわだらけでよれている。だらしないことこの上ない。
 男はカイと目を合わせると、驚いたように両目を見開いた。何かに掛けようとしていた手をそこで止め、ゆるく手を握ったり離したりして、「いつも通り」の顔をして男をじっと見つめているカイを伺っていた。
「……起きたのか?」
「え? ああこれ、私としたことが、寝ちゃってたんですね……。どうもそのようです。今起きました。……どうかしましたか?」
「何も覚えていないのか」
「え? 何のことですか?」
「……。いや……なら、いいんだ。それなら……無理に思い出そうとしなくたっていい……」
 それだけ言うと、ソルは弱々しくカイの身体を抱き寄せる。常の彼にあらざる仕草だ。こんなふうに弱ったソルの姿を見たことがなくて、カイは大分驚いてしまう。
「……へんなソル」
「坊やがそう思うんなら、それでいい」
「何かあったんですか……」
「うなされてたんだ。坊やがな。悪い夢を見ていたのに違いない」
 そうなんだ、とカイは素直にソルの言い分を信じた。彼がこんな顔をしてこう言うんだから、それが本当なのだろうと思った。
「どこまで覚えてる?」
「え? うーん……あ、そうだ。あなたの書類の代行、終わったんです。それで振り返ったらソルってば、寝てるじゃないですか。……そこまでは、はっきり分かるかな。でも本当いつの間に寝ちゃってたんだろう?」
「……疲れてたんだろ。何しろ手合わせのあとずっと根つめてたんだ。肉体的にも精神的にも疲労がたまって、そこにベッドと寝てるやつがいれば、誰だって寝るに決まってる……」
 ソルの言葉はどこまでも優しかった。普段なら、「寝落ちとかガキかよ」ぐらいは言ってきそうなものだが、そんな素振りは微塵もない。
 なんだか調子が狂うなと思う一方で、悪くないなあと思う自分もいる。カイは気を良くして、ソルに身体をすり寄せた。そうしているとソルの温もりが身体じゅうに伝わって、なんだかすごく幸福な気持ちになる。
 それにしても、ソルの口から「悪い夢」だなんて。寝ている間のカイは本当に酷くうなされていたのに違いない。
「なんとなく、思ったことがあるんですけど」
 気分が良い。カイは背伸びをしてソルの耳元へ口を寄せた。「なんだよ」と返すソルの声が覚束ない。普段翻弄されっぱなしのソルに対してカイがリードを取っているみたいで、ますます上機嫌になってしまう。
「私……多分ソルには、何をされたとしても、最後はきっと許してしまうんだと思うんです」
 ——もしあなたが私を裏切ったりしたら、それを許すのには、流石にすごく、時間がかかるでしょうけれど。
 そう囁くと、ソルは「ああ」、と呻いてあの大きな手のひらで彼の顔を覆った。懊悩の呻き声だった。「そういうことかよ」と弱々しく呟いて、彼はかぶりを振る。
「そういうって、どういう」
「どうやら俺は、坊やに変わらないものでいてほしいらしい」
「……なにそれ?」
「ベツレヘムの星だ。……いや違うんだ。忘れろ。忘れてくれ」
 懇願する声は辿々しい。その上、密着する男が恥ずような呻きを漏らし続けるのを聞いているうちにある変化が起こっていることに気がついて、カイまでなんだかいたたまれない気持ちになってくる。
「ねえソル、あの、ちょっと、言いにくいんですけど……」
「なんだ」
「……当たってます……その……下に……」
 腰の辺りに、布越しに何かが触れている。熱と硬度を持ったそれの正体が何なのかは、悲しいかな、カイも男なので簡単に思い至ってしまう。
「ああ……」
 指摘され、ソルも自分の下半身の状態に思い至ったらしい。彼は短く「悪ィ」とぼやいた。それからすっとカイから手を離し、距離を置くと、窓際の方へ後ずさって言葉少なにベッドを指し示す。
「坊や、とりあえず今日はそこで寝ろ。俺は頭を冷やしたい。ここで立ってる」
「え? でもここ、ソルの部屋でしょう。私の部屋は向かいですから、ふつうに戻って寝ますけど……」
「駄目だ。そこで寝ろ。うなされてるテメェの様子を一晩見ると爺さんに約束しちまった」
 ソルは頑なだ。カイの言葉を聞き入れる様子はない。
 やむなくカイはソルの勧めに従い、再びソルのベッドへ横になった。ベッドからは染みついたソルの匂いがする。その優しい温もりに包まれているうち、カイはすっかり安堵して、緩やかに眠りの中へ落ちていく。
 ソルは初夏の熱気の中、穏やかに寝息を立てるカイの姿を、いつまでも眺めていた。






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