04 バラッド。/インユアナイト



 ——うまく寝付けない。

 秋だからと言って、図書室から本を借りて来すぎたせいだろうか。ベッドの上で薄い布団を引っ被ってくるまっていたカイは、意識的にぎゅうと目を瞑ったり羊の山を数えたりする試みをすっぱり止め、ベッドから飛び起きるとガウンを羽織った。時刻はまだ零時を過ぎたところで、明日は休日。少しぐらい、眠るのが遅くなってもきっと平気だ。
 少し前、ローマの方で非常に大規模な遠征があって、そのせいかここ最近のパリ近辺では小競り合い未満のような襲撃ばかりが続いている。昨日のオルレアンでのやつはカイ一人であっという間に片が付いたし、一昨日のディジョンも殆どソルがやってしまった。先週のブールジュなんて、あまりに小規模だったので、クリフの指示でカイもソルも出さず、第三小隊以下十数名の実地訓練に使われたぐらいだ。
「嵐の前の静けさにならなければ、このぐらいの休息があった方がありがたいですけどね」
 カイは一人でぶるぶるとかぶりを振る。ローマでの撤退戦はそれほどの消耗を聖騎士団にもギア側にも強いた。騎士団の戦闘人員は近年で五指に入る損傷を受けていたし、民間人にも被害が及び、カイ自身、一度は死を覚悟した。神にこの身を捧げる最後の聖句を唱えたぐらいだ。
「神よ、我らに危機あれば、我らの未来を救い給え……か」
 結局ローマでは奇跡的に窮地を脱し、血相変えて走ってきたソルに回収されて帰還した。ギアと交戦した時の記憶が何故かあやふやなのが気がかりだが、こうして生きている以上はカイがギアを殺したのだろう。何せあの場に、ギアと対峙していた人間はカイしかいなかったはずなのだから。
 己を地獄へ連れて行く死神は、あの大型ギアかとあの瞬間は思ったぐらいだが、どうやら本物の死神に会うにはまだ早かったらしい。
 ソルと出会ってからこっち、神とは何かということをはっきり考える事が増えた。それまでは形なく、漠然とそうあるべきものとして盲信していたそれを、自分の意思で信じるようになった。神に身を捧げる聖句の受け取り方も、習った時と今とではまったく違う。だからあの瞬間、カイは確かに、自分が信じるたった一人の神に祈りを奉じていたのだ。
「はあ……」
 とりとめのない思考を一度横に置き、机につくと書棚から本を取り出す。栞が挟まれたページを開いて置き、ノートも開くとペンを握った。どうせ眠れないのなら課題を片付けてしまいたい。遠征前に出されたものがまだ残っている。中途半端な進み具合で出掛けてしまったから、ずっと気がかりですっきりしなかったのだ。
「……とはいえ、出来ないから残ってるんですけど……」
 しばらく本を熟読し、ノートに書かれていた書きかけの法術式をペンでなぞり、たっぷり五分ほどうんうん唸ってからカイは一人ぼやいた。
 初夏の頃にちょっと不思議な遣り取りがあったものの、カイとソルの関係は概ね良好に続いている。相変わらず仕事に対しては恐ろしいほど不真面目だが、それ以外は特に文句もない。ギアが出たら一緒に討伐しに行くし、そうでない日は勝負を申し込んだり、勉強を見て貰ったりする。今手を付けている課題も、ソルに出されたものだ。
 不定期に続いている図書室での勉強会で、最後にソルが出した課題は初歩の転移法術に関わるものだった。ただ、初歩とはいえそもそもが難解な術式に関する内容のため、術式の整理と安定化が難航しているのである。
 カイは自分で入れた赤字だらけの方程式を忌々しげに見つめた。一度この式で転移を試みたものの、転移対象のインク瓶はうんともすんとも言わなかった。教師役のソル自身も基礎中の基礎しか出来ないらしいのだが、あの男はそんなことを言いながらコーヒーマグを机の端から端に瞬間転移させている。
「ソルに出来て私が出来ないのは、ちょっと、いえかなり、プライドに関わりますからね。……でもやっぱり、この式のままじゃダメだな……ソルの式をこっそり見ても、どう編纂したらいいのかよくわからなかったし。ここは恥を忍んで解答解説から見せて貰うのが一番いいのでは……」
 無意識のうちにペンを指で弄びながらぶつぶつ独り言を重ねる。ソル曰く、緯度と経度が一致している場所への転移は物理学にちょっと長じていればそれほど難解ではないらしいが、まるっきりの嘘だと思う。
 彼はたぶん「ちょっと長じている」の具合を履き違えているに違いない。素粒子物理学の学位を持っていて、そこから無限エネルギーの専攻にいった人間の物理方程式に対する見識の深さが、独学で本を読みあさっているだけのカイと同等だとはとても思えない。
「単に意地悪なのか、はたまたどこか抜けているのか……後者かもと思ってしまうのが、ちょっと癪……。
 ………はあ、とはいえ深夜に一人で悩んでても埒があかないな。食堂に行って何か飲み物でも貰ってこよう……」
 結局十五分も経たないうちに秒針が刻む音を聞き続けるのにも飽きが来て、カイは潔く立ち上がった。
 職員が駐在していないだけで、食堂はこの時間でも解放されている。備蓄品の一部は名簿に記載をすることである程度自由に飲食可能だし、自分で調達した食材を調理するのも自由だ。
 ホットミルクでも作ろうかな。牛乳は生ものなので、腐らせるぐらいならと名簿記載で飲食可能な食料品の一つに名を連ねている。ついでにはちみつも余っていれば万々歳なんだけど、そればかりは行ってみないとわからない。


 ごめんください、と誰に聞かせるでもなく独りごちて食堂の戸を静かに開けた。法術式で明かりをつけようとしてから、食堂の奥、貯蔵庫があるカウンター付近に薄明かりが灯っていることに気がつく。誰か先客が? そう珍しいことではないが、その日はやけにそのことが気に掛かって、なるべく静かに、でも足早に、そちらへ駆け寄る。
「どなた——ああっ!」
 けれど、なるべく静かに……という気遣いは、カウンター席に座っていた人影の正体を見た瞬間おじゃんになった。
 思わず人差し指でさしながら大声を出してしまった後に、慌てて両手で口を抑える。とはいえ叫び声をかき消せるはずもなく、先客はのっそりと振り返るとカイの顔を見て珍妙な表情をした。
「おい坊や、こんな夜中にんなデカイ声出してんじゃねえ。迷惑だろうが」
「迷惑って、どっちが——いや、今は確実に私が、ですね……すみません……」
「わかってんならいい。……で、どうした。腹減ったのか」
「それほどは……」
「なら、夢見が悪いのか? だったらちょっとここ座ってけ」
 カウンターに載せられたランプ一つしか明かりがないので分かりづらかったが、ソルの指先が彼の座っている隣をとんとんとつついている。カイはおどおどとそちらへ歩み寄り、そっとソルの隣に腰を下ろした。
「良ければ話相手ぐらいにはなる」
「ほ、本当ですか。そうしてもらえると有り難い……って、もしかして、ソル……」
 促されるままに席について和やかに受け答えをしていたカイの表情が、卓上に置かれたものを見咎めて凍り付く。グラスに並々と注がれた透明な液体、そのすぐ横に鎮座する「VODKA」のラベルが巻かれた瓶。どう見ても、これは……。
「そのグラスの中身、お酒でしょう!」
 酒だ。見紛うことなく。
 別に団内で禁酒が徹底されているわけではない。喫煙も、喫煙所と自室では禁止されていない。とはいえ一般に流通しているのは安い麦酒が殆どで、今卓上に出ているような瓶やラベルからしっかりした類のものは滅多に手に入るものではない。
 聖戦が始まってからはワインは元より蒸留酒の生産量が目に見えて落ち込み、供給が追いついていないのだ。聖戦前に製造されたワインなど、好事家や貴族の間で法外な値で取引されているという話もある。
「まったく、どこから手に入れて来たんですか? まあ……備蓄品じゃないみたいですから、規則違反ではありませんけど」
 窘めると、ソルは口端をちょっと釣り上げ、ひらひらと手を振って見せた。
「いろいろあって礼にもらった。盗んだわけじゃない。ま、あんなことのあとだ。ここんとこ、寝酒が捗って仕方ねえんだよ」
「寝酒?」
「眠れない夜に酒の力に頼って寝ようっていう悪しき風習だな。俺は酒に強い方だから、気休め程度にしかならないが……まー、そうだな。一人で呑むのにも多少飽きが来ていたところだ。ちょっと待ってろ」
 ソルが軽く目配せをして、カウンターを立って厨房の方に行ってしまう。仄明かりに照らされて彼を見送ったカイは、急に明かりを付けられてまぶしくなった厨房の方をぼんやりと眺めた。
 出会ったばかりの頃は一も二もなく反目し合っていたけれど、こうして見ると、本当に随分距離が近くなったように思う。近づこうともしなかったカイは逆に積極的にソルを探しに行くようになったし、ソルの方も、どう付き合っていくものか図りかねていた距離が、最近はすっかり定まってきている節がある。
 日常生活においてソルが決めたカイとの距離はとても近い。たぶん、カイが今まで付き合いを持ったどんな人よりも近しい。普通の団員どころか、クリフやベルナルドでさえ踏み入ろうとしなかった領域へ、彼は平気な顔をしてずけずけ歩いてくる。
 それに困る時も多いが、いい時もある。たとえば今がそうだ。夜、うまく寝付けないなんて姿を他の人に見られるのは少し恥ずかしいけれど、相手がソルならば、それほど気にならない。それは多分彼がカイに期待をしていないせいだ。良くも悪くも、ソルはカイに期待をかけてこない。
(ソルは自分に正直なだけなんですよね……)
 人に期待されることに慣れ切っていたカイは、はじめそのことにまごついた。ソルが「頑張れよ」と言ってくれるのは勉強の時ぐらいのもので、手合わせでこっぴどくカイを負かした後、戦場へ赴く時、そのいずれでも彼から「頑張れ」という言葉を貰ったことがない。
 どうしてなんだろう。一体何故。しばらくの間、それはカイにとって大きな謎だった。けれどある日唐突にその謎は解けた。彼はカイだけではなく、自分以外の誰にも、戦うことにおいて期待も信頼もしていなかった。
(だから全部一人でやろうとするし、私の指示も聞いてくれないし)
 誰も信じていないから、何もあてにしていないから、ソルは一人で敵陣へ突っ込んで行く。カイがそうすると酷く怒って咎めるくせに。彼は自分しか信じていないが、同時に、自分をこれっぽっちも顧みない。
 ソルの言動は矛盾している。カイに「自分を大事にしろ」と叱るなら、ソルだって自分を大事にするべきだ。ソルの言うことは一貫性がなくて、法術式のように一つの数字を代入しただけでは答えが出て来ない。
(もっと私を使ってくれればいいのに。今はこんなに近いのに、戦う時だけ、急に離されたみたいで変な感じ。まるでちぐはぐで、なんだか……落ち着かないな。もっと戦いでも頼って欲しい……)
 手合わせでも、いくら頼んでも本気を出してくれない。やだなあ。胸に手を当てて小さく呟いた。この胸にわだかまるもやもやした何かの正体が掴めないことも、ソルが本気でカイの相手をしてくれないことも、そのくせ普段はすごくカイに優しいことも、なんだかうまく頭の中で処理が出来なくて……ぐるぐるしている自分がすごくいやだ。
 そうして溜め息ばかり吐いていると、乱雑な足音が近づいてくる。厨房からソルが戻って来たのだ。慌てて頭を上げると、オレンジ色の液体が注がれたグラスを二つ持ったソルが、もうカウンター越しのすぐ向こうに立っていた。
「やる。俺の奢りだ」
 カイの目の前にグラスを片方置き、もう片方は手に持ったままぐるりとソルが席に戻る。ソルの方に置かれたグラスと自分の前に置かれたグラスの中身を見比べてカイは首を捻った。
「なんですか、これ?」
「まあ、飲んでみろ。俺の方は酒だが坊やの方にはアルコールを入れてない」
「え、殆ど同じものに見えますけど」
「ウォッカが入ってるか入ってないかの違いしかないからな」
 本当に違うものなんだろうか? 気に掛かってくんくんと匂いを嗅いでみると、確かに、ソルのグラスからはつんと鼻にささるような酒気が仄かに漂ってくる。
 カイは素直に自分のグラスに口を付けた。思い切って嚥下した液体からは、カシスと炭酸の味がした。
「……あまい」
 喉を通り抜けた液体は、名残がまだ口の奥に残っているんじゃないかと思うほど甘い。こんなに甘いジュースは今までに飲んだことがない。びっくりして一口でグラスを机に戻し、ソルの方へ向き直ると、彼はほんの思いつきのような悪戯が成功した子供みたいに笑っていた。
「坊やは甘い方がいいだろ?」
「まあ、苦いよりは。でもちょっとびっくりしました……これ、なんて言うんですか?」
「シャーリー・テンプルだ。禁酒法がなくなり、堂々と家族で酒場に入れるようになった頃、家族連れの子供に向けて考案されたカクテルらしい。せっかく坊やが食堂まで来たんだ、この際坊やはノンアルコールカクテルでも構わねえから付き合え。一人でちびちび寝酒をすするのにも、飽きちまった」
 細められた目は、しかしどこか人なつっこさを思わせる。この人は、自分から人付き合いをしようとはあまりしないけれど、こういう表情を見ている限り決して人が嫌いなわけではないのだと思う。
「ソルのもシャーリー・テンプル?」
「俺のは酒入りだから、ダーティ・シャーリーだな。大人になると酒が入って汚れちまうらしい。うまく名付けたもんだ」
 ふうん、と頷いてカイはグラスを卓上に置く。大人になると、汚れてしまう、だなんて。その口ぶりは、どこか「だから自分は汚れている」と皮肉っているようでもあった。
「大人はみんな汚れてるとでも言いたげですね」
「大体みんなそんなもんだ。ごく稀にそうじゃないのもいるが……そいつはそいつで、どっか頭のネジが飛んじまってる。汚れるか、気が狂うか、その二者択一だ」
「じゃあ私も?」
「坊やはまだその選択をする前だろ」
 酒も飲めないんだから。含みのある笑いが昨年の降誕祭でのやらかしを示しているのは、尋ねるまでもなく明白だ。ホットワイン一杯で見事に酔っぱらったカイを見て以来、ソルは酒に関わるものを徹底してカイから遠ざけたがった。
(ソルは本当のところ、私のことをどう思っているんだろう?)
 それでも、酒の席にカイを伴いたい時が彼にはあるのだろうか。考えてみれば、ちょっとへんな話だ。ソルが持って来た秘蔵の酒なんてものがあれば、たとえばクリフなど喜んで晩酌の相手に名乗り出るだろう。にも関わらず、彼は毎晩ひとりぼっちで食堂にいるのだという。誰もが寝静まった頃に独りでカウンターにつき、寂しくウォッカをすすっている。
(そりゃ、普通の団員が近づかないのは、分かりますけどね。食堂に彼の姿が見えたら大抵はみんなUターンしてしまうだろうし。この人、軍神とか言われてるんだもの。触らぬ神に祟りなし、って)
 ……ひょっとして誰かを待っていたのだろうか。誰を。もしかして私を? カイは独り懊悩する。いやちょっとそれは、自惚れにすぎやしないか。
「で、寝付けなかった理由ってのは」
 ダーティ・シャーリーが入ったグラスを口に付けてソルが問う。酒が入っているからか普段より上機嫌な彼の声に現実へ引き戻され、カイは慌てて背筋を正した。
「え、ええと。ローマの遠征から帰ってこっち、多分ちょっと、高揚しっぱなしなんです。身体が。それで……羊を数えても効果がないし、諦めて机について、この前の課題をやっていたんですけれど、それもさっぱり進まなくて。ホットミルクでもいただこうかとここへ来たんですけど」
「真面目かテメェ。いや、うんざりするぐらい知ってたがよ……ただでさえワーカホリックだってのに、お勉強なんざ陽が昇ってる時間だけで十分だろうが」
「だって気にくわないんですよ、あなたが出来て私が出来ないことがあるとか。端から端までマグを移動させるのは愚か、インク瓶一つ動かすことも出来ない。……一人で考えていても埒があかないので、ちょうど、ソルに聞こうかと思っていたところでした。なのでよければ今……」
「いや、待て、待て。こんな時間にそんなクソ真面目やってられるか。付き合いきれねえ。ソイツは……まあ、そのうち手伝ってやるから、今晩は俺に付き合え」
 そのシャーリー・テンプルに免じてな。カイを静止した手のひらをひらひら振って見せ、どうにも冗談とも本気ともつかぬ調子でソルが言う。調子、狂うな。カイはむうと頬を小さく膨らませた。ソルが自分から付き合えなんてカイに言ってきたのは、記憶にある限り、初めてのことだった。これも酒の力なのだろうか。
「付き合えって、一体何に?」
「とりとめのない話だよ。夜更けの酒飲み話なんて、意味も山も落ちもなくたって構いやしない」
「無駄話ってことですか」
「与太話がいつか何かの拍子に役立つこともある。確かめておきたいんだよ。坊やが『今』、何考えて、何見て、生きてるのかってことをな」
「……なにそれ。そんなの、私だって知りたいですよ。ソルが何を考えて生きてるのかには、ものすごく興味があります」
「なら交渉成立だ」
 グラスを持ったソルの手がぐいとカイの方に押しつけられる。三秒ほど考えてから何を求められているのか理解し、カイもグラスを持って、ソルのそれにかち合わせた。安っぽくて使い古されたガラスのぶつかり合う音を聞いて、二人して同じようにグラスの中身を流し込む。寝静まったしんとした夜、ランプの灯りだけを頼りに乾杯をするのは、なんだかとてつもなく、いけないことのような気がする。
 そうしてふたりは、寝静まった夜の片隅で秘密の晩酌に興じ合った。
 酒の入ったソルはえらく饒舌だった。あまり酔わないと言ってはいたものの、カイが来る前から飲んでいたからなのか、聞いてもいないことをぺらぺら喋ってくる様子はちょっと尋常じゃない。だけど嫌な感じはしない。知らないソルの一面を見ることは、カイが常日頃から願っている、彼を理解するための一歩に違いない。
 「与太話」と前置いた通り、手始めに彼は神様の話をカイに振った。「テメェの世界に今日も神はいるか」と尋ねた彼の口ぶりは淡々としている。昨日は雷雨だったが、今日はそのぶん虹が架かったな、と言うような調子。
「いますよ、ずっと。ソルが、いた方がいい、と言ってくれた日から欠かさず」
「そうか。ならいい」
「はい。姿も声も見聞き出来ませんが、あれから私は、神へ祈りを捧げることに、躊躇いを感じません。だって、私は神様を信じていますからね」
 なら坊やは救われるだろうな、とソルが言った。
 飲みかけのダーティ・シャーリーへ瓶に残っているウォッカを注ぎ足して彼は次の質問をする。なら坊や、明日したいことはなんだ。明日じゃなくてもいい。この先、坊やがしてみたいことは。カイは首を捻る。問われてはじめて気がついたが、そんなこと、とりたてて考えてみたことがなかったのだ。
 それで「考えてみるから先にあなたの答えを教えて」とせがむと、ソルはふんと鼻で笑ったりなんかする。
「俺が未来に望むことは一つだけだ。ギアを皆殺しにして『あの男』——ギアメーカーをぶっ殺す」
 ソルの答えはシンプルだった。ソルが鼻で笑ったのは、答えをせがんだカイではなく、多分そう答えるしかないソル自身になのだった。
「ギアメーカーを」
「ああ」
「……殺したいほど憎いんですか?」
「ああ」
「……。なんか……嫌だな、それ」
「なんでだよ」
「だって、それ、ギアメーカー相手ならあなたは本気を出すってことですよね」
「あのなあ」
 いよいよソルの声も呆れたものになる。でも仕方ないじゃないか。明日に望むものが特にないカイが、今一番癪に障り続けているのが、ソルが本気を出してくれないことなのだ。だから「敢えて一番の望みを挙げるとしたら本気のソルと戦うこと」とぶすくれて言ってやったのに、ソルはまたしても鼻で笑うばかり。
「俺は坊やを殺すつもりはねえし、坊やに殺されてやるつもりもねえんだよ。今はもうな」
「ひとが真面目に答えたのに、その言い方は……」
「そんなことより、だ。あと一つだけ確認させろ。……テメェが、失いたくないものは」
 ソルの眼差しはあくまでも真摯だった。
 それで、人の悩みをそんなこと扱いで片付けるな、と言うつもりだったカイの動きがぴたりと止まる。かっとなって身を乗り出したまま、カイは金縛りにでもかけられたようにじっと固まってソルを見つめた。
 ソルの瞳が、カイの見たことがない色に染まっている。
 カイは思わずまばたきをしてソルの両目に魅入った。いつもカイのお小言に顔をしかめている、あの赤茶色がそこにない。澄み渡った琥珀の、しかしどこか過激な美しさが代わりにある。一瞬、幻覚かと疑ったが何度まばたきをしてもソルの瞳は琥珀色をしたままだ。吸い寄せられるように手を伸ばすと、指先を無骨な手のひらにつまみ取られる。
「お触りは質問に答えてからにしろ、ったく」
「で、でもソル、あなた、目が……」
「あ? 何言ってんだ? 別に痛みも違和感もねえよ。で、どうなんだ。ないのか、大切なものは」
 にべもない。ちかちかと恒星のようにこれほどまばゆく輝いているのに。自分の目のことは、自分自身では、わからないのだろうか。ねえソル、あなたの目、きれいですよ。……だけどそれを口にするのは憚られ、カイは一度口を噤むと生唾を呑み込んだ。
「大切なものは……たくさんありますよ。私はまず世界が大事です。そして、この世界に生きているみなさんが。失いたくないものといえば、まず、そういった……」
「そんな、大衆向けの演説みてえなきれい事はいい。もっと卑近なものだ。金が大事、女が大事、子供を失いたくない、そういう、スケールのちっぽけなものは」
「……団員は、一人も、死んでほしくないですけど」
「だが団員の死はありふれすぎている。慣れ切って、坊や、十字を切っても泣けやしないだろうが。そうじゃない。テメェにとっての唯一無二は? 替えの効かない、唯一絶対は?」
 ソルの言葉には言い知れない気迫がある。それでカイは適当に答えるわけにもいかなくて、あれこれ考えようとしてみたが、ソルの瞳が月明かりに照らされる星のようにうつくしいせいで、なんだか集中できなかった。
 ソルの言葉に真剣に答えなきゃと考える一方で、カイはソルの両目をじっと見つめるのに夢中になっていた。難しい話をするより、彼の琥珀色を脳の奥深くに焼き付けていたい。カイは渇望する。そういうふうに思う時点で、もう答えは出ているのだということに、うまく気づけないまま。
「そんな……わかりません。今わかるのは、あなたの目がこんなふうにそばで見られなくなったら、悲しいなってことだけです……」
 するとソルは虚を衝かれたような顔をし、「やっとか」とかなんとか彼にしかわからないことを呟く。
 それから彼は乱雑に手を伸ばし、カイの顔に触れ、そこからかたちを確かめるようにぺちぺちとカイの皮膚をなぞった。髪。耳。頬。顎。喉。首筋。肩。二の腕。胸元。鎖骨。腹部。脇腹。服の上からも触診は丁寧に行われた。腰。へそ。太もも。脚部、それから……。
 身体じゅうをなぞられている間も、カイはソルから目を離さない。今ソルは琥珀色の眼をカイの前で無防備に晒しているが、次がいつになるのかわかったものではない。でも大事なものが何かなんて質問の答えは急ぐ必要がないではないか。ならばどちらを選ぶかなんて分かりきっている。
 カイはソルを選んだ。彼を永遠に見ていたいとさえ思った。彼のことをずっと理解したいと思っていたのだから、そう考えるのも当然のはずだと自分を言い聞かせた。
 時間がゆっくりになっていって、そのぶん、カイの肢体を上から下へ降りていくソルの手つきも緩慢に感じる。無骨な指が肢体をなぞる感覚に息を呑む。彼の手つきは、それこそ、彼自身がカイ=キスクという人間の鋳型を作っているのによく似ている。
「嫌がらないのか」
 全身という全身を舐め回すように隅々までなぞり終えてから、ソルがぽつりと尋ねた。
「どうして?」
「他人に体を触られるのは、俺の感覚だと、えらい屈辱だからだ」
「そんな、今更。お風呂で散々触ったり触られたりしてるのに」
「風呂場と違って今は何の目的もないだろ」
「本当に目的がなかったら、人の身体、触ります?」
「……。正直、触っても嫌がられないかどうかの確認してるのが何割か、だ」
 ソルの弁明は消え入りそうに小さかった。
 ちょっと伏し目がちになったソルの瞳をもっとよく見ていたくて、ぐいと顔を近づける。彼の唇からウォッカの香りがする。それでも躊躇わずに顔を突き出すと、ごちんと鼻柱同士がぶつかり合った。「いてぇな」とソルがぼやいたりなんかするので、カイはにへらと笑ってしまう。なんだか無性にしあわせだ。
「あんま顔近づけんなよ」
「だって、もっとそばにいたくて」
「やめとけ……ブレーキぶっ壊しそうになる……」
「でも、ソルの目、きれいなんだもの。今日は特に。近くで見なきゃもったいない。あんなにべたべた触ったんだから、このぐらい見せたって、罰は当たらないですよ」
 身を乗り出してソルに体重を預けると、それを支えるためにソルが腰へ手を回す。腰を何かに鷲掴みにされるだなんて、あんまりにおぞましくて相手がギアだったら反射的に刺し殺してばらばらになるまで法力で痛めつけてしまうようなシチュエーションだったのに、ソルにそうされると逆にほっとする。
 カイはソルの耳元に唇を寄せた。桜色のつややかな唇は、シャーリー・テンプルの残り香で僅かに光りながら、乳幼児のあどけなさに似たマシュマロの柔らかさを誇示している。
「ねえソル、知ってますか? 今あなたの目、本当にきれいなんだから……」
 とうとう我慢しきれなくなって漏れたカイの囁きは、次第にソルの唇の中へと消えていった。ソルは己の分厚いそれでカイのふわふわしたものを啄み、カシスの甘い唾液を啜った。シャーリー・テンプルとダーティ・シャーリーの香りが一緒くたになって、ふたりの口の中で溶け、交わる。
「ああ。たった今、テメェの目の中に俺も見た」
 たっぷりと唾液を吸い、流し込み、ようやく唇を離してソルが言う。カイは軽い酩酊感に襲われながら、気がついたら閉じてしまっていた瞼をふっと開けた。再び視界に映った世界の中央では、最初に気がついた時より一層強かに光り、暗闇の中でも浮かび上がるほどに輝く黄金の相貌がカイをまっすぐに捉えている。

◇◆◇◆◇


 ——酔っぱらってたんだ。前に、何をされても許すとか言っていたのを、都合良く思い出した。すると止まらなくなった。手を出すなら今しかないと思った。あの日からずっと我慢の連続で、気が狂いそうだった。いやもう狂っていたんだが。
 ——俺が坊やに何を求めていたのか、そろそろ、本当の意味で確かめておかないといけないと信じていた。
 ——変わり始めたものを永遠の形で縫い止めるというお題目を掲げれば、この最低の欲求を満たしてもいいんじゃないか、と思ったわけだ。

「一つだけ教えておいてやるが、『あなたの目がきれいで』だなんて言葉は気安く使うな。そいつは、とびきり最低の殺し文句だからな」
 ベッドのスプリングは派手に軋み、ぎしぎしと安っぽい音を立てた。もう手遅れというところまで手を進めてからやっと出た言葉だったから、随分、気まずそうだった。
「まあ、誘導させたい答えを目の前に置いて失いたくないものはなんだとか聞いた俺が、言えたことじゃねえのかもしれないが」
「え? どうして?」
「……わからないのか。そうか。……とりあえず、ああいうことは安易に口に出すもんじゃ、ない……」
 低く息を漏らし、汗で張り付いた前髪を掻き上げる。ソルのベッドに横たわったカイの頭上には、荒い呼吸を繰り返すけだものが乗っかっている。経験に乏しいカイだったが、今自分たちが何をしているのかには、一応理解があった。教義にもとる行為として羅列されていたものの一つだ。でも、構わなかった。だってカイが信じる神様なら、きっと許してくれるだろうと確信が持てたからだ。
「あと、これは忠告だ。本当に失いたくないものは、なくしてからじゃないと、なかなか気がつけないもんだ。だから残酷なことを言うようだが……毎日ぼろぼろと死んでいくそのへんの団員達は、テメェにとって『ふつうに』大切でしかないんだよ。覚えてるか? 去年の降誕祭の時、第五小隊のアランを失ったテオドアが、事実を受け入れられていなかった様を。本当の意味で大切な相手っていうのは、ああいうものを指す」
 う、とソルが息むと、彼の喉元から汗が滴り落ちてカイの上で滲んだ。
 ちょっと説明くさい言葉は、懺悔に似ている。彼はまだ、去年のあの出来事でカイを叱ってしまったことを、気に懸けているらしい。カイは微笑んだ。今更そんなことを持ち出して、もしカイが話題を蒸し返し、「あの時はどうも」なんて嫌味っぽく言い始めたらどうするつもりなんだろう?
 でも——カイは思う。この人はずるい男だから、カイがそんなことをしないと知っているのだ。
「じゃあ、私は、失った時にそれを思い知りましょう」
「甘ちゃんが。だから坊やはガキなんだ。後で後悔しても知らないぞ」
「後悔と言うなら、ソルだって、私にこんなことして平気なんですか? あなたにも一応、良心とかそういうものがあるんでしょう?」
「……魔が差したんだ。坊やがあんなことを言うから」
「そういうの、責任転嫁って言うんじゃないですか」
「言ったな? 俺になら何されても許すだとか言ったのを、この期に及んで忘れたとは言わせねえぞ。嘘だけは吐けない守護神殿」
 ソルの言葉は確信めいている。ああ、やっぱりだ。「甘ちゃん」とカイをなじったソル自身、カイに甘えている。ソルはカイが許すことに確信を持っていて、それでカイに手を出し、言い訳に酒の勢いを使っている。
 心底ひどい男だと思う。カイは大人だから別にソルの行いを誹りはしないけれど、彼はカイのことを子供扱いしたりするのなら、そういうのをもう少し気に掛けていてもいいと思う。
 ……いや、でもそれで手を出してもらえないのなら、今のままで、カイにとってはよかったのかもしれない。ソルが自分を特別に思ってくれているとこれではっきりしたのだし。
「……うん。言いました。それに……言ってからしばらく経ってるんだから、ソルなりに色々考えてはいたんでしょう」
「我慢はした」
「うーん。あのね、今更ですけど、ソルはやっぱり野蛮ですよ」
 ソルを抱きしめ、カイは小さく笑った。
 愛用する炎は解放的にすぎるし、酒の力だと言って無体を働くし、挙げ句の果てに全部カイのせいにしはじめる。確かにカイはソルの全てを許してしまうかもしれないと告げている。裏切られてさえ、いつかは許してしまう気がしている。その気持ちは今も変わらない。
 今日のこれなんて、裏切りでさえない上、カイも自分からソルを受け入れての結果だ。ソルに求められることがとても嬉しくて、快くて、全部彼にあげたいと思って、そうして彼の誘いに興じた。
「でもそれは、ソルが賞金稼ぎをやっていたからとか、そういう理由じゃなくって。私は、あなたの自由すぎるところが、あんまり好きじゃないですけど……だから知りたいと思うのかなって、最近考えます。……ねえソル、ちょっと、自惚れた質問をしてもいいですか」
「好きにしろ」
「クリフ様あたり、誘えばいつでも付き合ってくれたでしょうに、それでも毎晩一人で晩酌をしていたのは私を待っていたからですか?」
「……まあ、そうだ」
「そうしたらお酒に酔った勢いで事を運べそうだったから?」
「その言い方は身も蓋もなさすぎるが、理由を欲しがっていたのは、まあ事実だよ」
 いっそあけすけなぐらい単純な理由だろ、とぼやく彼の言葉はひどくぶっきらぼうだ。でもそれがただの照れ隠しだということがカイにはすぐわかる。その証拠のように、ソルは押し黙ってカイを両腕で掻き抱いた。
 華奢な少年の肢体はソルの手の中にすっぽりと収まり、身体が孕む熱はいっそうの高まりを見せる。
 距離が近くなってから、およそ日常生活に限って彼は本当にさまざまなことをカイに教え、与えてくれていたけれど、これほどの充足感を教えられたことはこれまでに一度もない。返事の代わりに抱擁へ応え、カイは夢中になってソルを追った。彼の手に握られたペンが法術式を見事に編纂していった時より、降誕祭の日に手を繋いで街を歩いた時より、野営地で天文学の話をしてくれた時より、聖堂で似合わない聖歌を口ずさむ横顔を見た時より、そしてシャーリー・テンプルを出して振る舞ってくれた時より何より、今この瞬間カイを求めている男に夢中になった。
「さっき、なんでしたっけ……ブレーキぶっ壊すとかなんとか、言ってましたよね」
「ああ。んで見事にぶっ壊した。悪い」
「別に謝らなくていいですよ。私は、ブレーキ壊れてるソルの方が好きな気がするし。その代わりちゃんと、戦場でも、ブレーキ掛けるのをやめてください。具体的に言うと、もっと私を頼って」
 抱きついて肌を合わせ、高揚したまま元に戻らなくなった頬をすり寄せる。ソルの顎はちょっぴりじょりじょりした。普段あまり気にしたことがなかったけれど、この男も毎朝口ひげを剃っているのかもしれないと思うとおかしかった。
「いや、でもな、」
「そんな顔してもだめ。今はこんなに近くてやさしいのに、私を使ってくれるのに、戦場では腫れ物にふれるみたいにして一人で何でもやろうとするなんて許せない」
 唇を尖らせると意趣返しのように身体を触られる。ソルの手に身を任せ、カイは琥珀色を追いかける。今のソルは、日常生活での、距離が近いソル。この融け合いそうな距離感が愛おしいのに、また戦場へ出たら離ればなれになるのかと思うとつらくてつらくて居たたまれない。
 ソルが「図書室での物わかりの良いカイ」と「戦場での機械兵器みたいなカイ」にどうしようもない開きを感じているのと同じだけ、カイも、ソルに対して「日常ですぐそばにいるソル」と「戦場でカイを置いて行くソル」に手の施しようがない乖離を感じている。でも普段はその思いを秘めて諦めていた。口にしたって変わらないと思い込んでいたからだ。
 けれどこうやって抱き合っているとなんでも素直に言ってしまえる。
 カイはおもむろに唇を開いた。今この瞬間は、彼の前でだけ、ものすごくわがままでいたい気分だった。
「だから……ええと、そうだ。さっきの、質問の答えですけれど」
「ああ……」
「ねえソル、私、あなたと離れたくないんです。一緒にいたいな。あなたを理解出来るその日まで。つまり……ずっと」
 ソルはカイのわがままに「はい」も「いいえ」も言わなかった。

 ソルは黙ってカイを抱き寄せる手に力を込め、肉体の欲求に素直になり、全てを明け渡した。ずっと理解出来ないと信じていた自分自身はいつの間にか丸裸になり、何を考えて生きているのか得体が知れないと思っていた子供は、気がつけば人間の理屈で動くものへ成り代わっていた。
 ソルが求めていた答えは出た。ソルは間違いなく、カイの中で、替えの効かない大切なものになった。今なら、ヘッドギアの印を見せても、暴走さえしないだろうか? いや、それはまだわからない。時間を掛けなければ定着しないたぐいのものかもしれない。
 それでもカイが今、はっきりとソルを求めたことは確かだ。
 ソルは目を瞑った。ずっと一緒にいたい、だなんて。最初に打ち立てた目標には到達したが、想定を超えて、カイの求める永遠は重たかった。少女がほんの戯れのように抱き、そのくせ全身全霊で熱を上げ、至上の約束と思い込んでしまう儚い愛のような、重たく、軽く、べたついて、ふわふわした恋そのもの。
 機械の面影はどこにもない。兵器の眼差しは過去へ置いてきた。偶像の横顔さえ、ソルの前では、教会の十字架に引っかけて忘れ物にしてくる。
 笑えることに、ソルもカイと変わらない。ほんの一時留まるはずだった場所にもう一年もいる。最初の理由だった封炎剣なんか、その気になれば三日で持ち逃げだって出来た。最初の一ヶ月と少しはクリフへの義理立てだったが、降誕祭より先は、確実にカイという存在を手放し難く思う気持ちのせいだった。
 心臓より近くで触れ合い、血より濃いものを交換し、喘ぎ声に跳ねる腰を押さえている今ほど、はっきりとカイの望みが理解出来たことはない。これほど己が取るべき答えがはっきりしていたことも。でもとても悲しいことに、二つの解答は一致しない。シンデレラの魔法が午前零時で解けなければいけなかったのとそれは同じ理屈なのだ。
 ソルは永遠を約束しない代わりに、刹那的な融和をカイに与えた。とても残酷な確からしい答え方をした。たとえ、カイにはソルの行動の真意が正しく伝わらないとしても、その時ソルが出来る精一杯の受け答えはそれしかなかった。
 ソルを理解するには、カイは幼すぎる。
 理解されないことを知ってなお、ソルはまたたきの夜に消えてしまうような泡沫をカイに与え求めた。出会った頃人間未満だったカイが、ようやく人間の子供になってきたのだ。でも、それをそばで見守ってやれる猶予は、もう使い切ってしまった。今晩の行為がその決定打になった。こうして肌をすり合わせて吐息を重ねることが、ソルの決意を固くする。
「どこにもいかないで……ソル……」
 もう何ヶ月も一緒にいて、あれだけ一緒に戦って、向き合おうとして、勉強を教え街に出掛け、風呂まで入り、それを何回も繰り返したのに、こうやって身体を繋げたことでようやくはっきりした答えに辿り着く。自分でもうんざりするほど、ソル=バッドガイという男はあまりにも不器用だった。結局、自分が望んでいるものが、一番理解不能だった。カイの身体がソルを求める。それに応える度、ソルの中で何かが醒めていく。ウォッカに浮かされていた理性がかたちを取り戻す。自分がカイに何をしてやるべきか、彼と出会ってからずっと解けずにいた命題に答えが出る。
 ソルは低く呻いてカイの中へ浅ましい思いを吐き出した。あの降誕祭の日からこっち、ずるずるともてあましていた感情がようやくソルの中で名前を得る。
 ソルがカイにとっての唯一無二となった以上に、カイはソルにとって大事になりすぎた。手を出さずにはいられないほど。ソルの中の理性と名の付くものはごっそりと崩れ落ちて、最早見る影もない。
 それが、ヘッドギアの下に隠れていたものを見てしまったカイの反応で目に見える形になる。結局カイはソルの額に刻まれた印についての記憶をすっかりと失ってしまっていて、表面的には何も二人の関係に変化は起こらなかったが、それは上っ面だけの話だ。そこが不可逆のターニングポイントになり、ソルはもう、カイに抱いた歪んだ欲望から、目を逸らせない。
(このままずっと一緒になんかいたら、今度こそ、テメェは大人になれねえよ)
 それは嫌だ。その未来を回避するために、ソルは大嫌いな我慢と努力を絶え間なく己に強いてきた。今この瞬間も、本当は、ヘッドギアを取って今一度その下を見せつけてやりたいという衝動が確かに存在している。そうして確かめてやりたい。カイがもう、ギアだと知ってもソルを殺しにかからないのか。それとも——やはり、この程度では、「ギアを須く殺すべし」というカイの信仰には打ち勝てないのか。
 だがそれが今である必要はない。もっと後でいい。出来れば、ギアの女王が討たれ、戦争が終結し、世の中が平和になったぐらいが一番いい。
 カイとこの先も関わっていくのなら、いつか必ず、ソルがギアであることは露見する。その時、今更になって……とカイは失望をするのだろうか。或いはもう、ソル=バッドガイという男のことなど、有象無象の中に捨ててしまうのか。
 出来れば許されたい、と思う自分の卑怯さに辟易する。肉欲を許されたのならばこれも許容されるだろうという横柄さには吐き気がしそうだ。
 ソルは息を詰めてカイのやわらかな肢体の奥深くへ感じ入った。やっと人間になったとはいえ、こんな真似を微笑み一つで受け入れてしまうあたり、カイの抱く正義が歪であることに変わりはない。相変わらずカイは真っ白で、純真無垢で、正しすぎて、気が狂ったように凶暴で、だから余計に、ソルの卑劣さを糾弾してくる。
「起きたら宿題、見てくださいね」
 とろとろとまどろむ声でカイがせがんだ。ソルは乾いた笑みを漏らし、ウォッカの匂いがする唇をカイに再び寄せる。何も知らない子供の肢体は穢れを持たず美しい。それを踏み荒らして貶めてやりたい。ソルは願う。執拗なマーキングを施し、いつか今度こそ逃れられない邂逅の時が訪れた時、カイの中の「ギアを殺す」という信仰が上書きされていることを確かめ、彼にとっての神に打ち勝ってみせたい。
 あまりにも傲慢で浅はかで大それている。愚かな思考だ。自分が酷く矮小に思えて滑稽だった。人と関わらないことで目を逸らしていた部分が、まずカイという少年の手によって詳らかにされ、見せつけられている。
「緊急招集がかからなければな」
 何もかもを呑み込んで、カイの唇に口を付けた。何度目かのキスは、それでもまだ、はじめての時みたいに甘ったるいキャンディの味がする。

◇◆◇◆◇

 結局カイは宿題をソルに見てもらうことが出来なかった。ルーマニア遠征からさほど日が経っていないというのに平気で緊急招集の放送が入り、ソルもカイも揃って戦場へ駆り出された。
 課題の解決は先送りにして、二人してベッドから跳ね起き、服を着替える。べたついて嫌だとカイが駄々をこねるので、最低限、夜の内に汚れた身体を処理しておいたのは幸いだった。口ひげを剃るどころかシャワーを浴びる猶予さえ残されていない。こういう時でもなければいくらでも相手をしてやるのに、ギアも時間を選んで襲撃を掛けて欲しい。
 身支度を整え終わったら大急ぎで部屋を出て中庭へ走る。途中ですれ違う人員皆がソルとカイの方へ振り返った。理由は知らない。カイの部屋とソルの部屋は向かい合わせだから、別段、こうして二人並んで走ることは珍しくないはずなのだが。
「坊や」
「なんです」
「今日からしばらく、首元には気をつけろよ」
「どうして」
「あー、言いにくいが、噛み痕がまだはっきり残ってる」
 気まずい声で告げると、カイは白々しいほどにこりと微笑み、わかりましたと頷く。
 ソルは気まずくなってカイから目を逸らした。あんまり嬉しそうな顔をされると、どうも居たたまれなくなって、辛い。


 予想通り、スロヴァキア中西部での戦いは熾烈を極めた。あとからあとからギアがわいてきて、一人、また一人と部隊の人間がやられていく。戦線崩壊まで時間の問題だ。有象無象のようにわき出てくるギアに対し、騎士団の兵は限りが見えすぎている。
「指揮官に相当脳味噌のデカイ個体がいるな」
「奇遇ですね。私もそう考えていたところです」
「まず頭を叩く。俺が前衛だ。いいな」
 普段ならカイが一人で突進していくところを、ソルが機先を制する形で飛び出した。自然と後を追う形になり、ソルの背から追い縋ってくるギアを蹴散らしながら走る。ソルはひたすらに前進し、後ろなど振り向きもしない。
 前にだけ集中していられたからなのか、炎の制御がいつもよりも綺麗だ。思わず息を呑む。憧れの背中は、いつもと違い返り血一つなく、白いままカイを先導している。
(私を信用してくれた、ってこと?)
 指先は機械的に法術を手繰ったまま、考えごとだけが頭の中で爆発的に広がっていく。まずソルが「前衛」なんて単語を使ったのが初めてだし、動き出す前にカイに声を掛けたのも初めてだ。カイを頼って行動したのも、あれもこれも何もかも、今までのソルらしいことが一つもない。
(うれしい。嬉しい……これで、本当に、私達は仲間になれた気がする。図書室や食堂、ベッドの上でだけの友人じゃなくて。戦地でも)
 それをソルに起こった心境の変化だと前向きに捉えてカイは次の術式を構えた。後方百メートルにちょっと変わった中型ギアがいる。恐らくは、この戦場で指揮を執っている個体がカイとソルを始末するために寄越したものだ。これを予め始末しておけば、こちらの勝率がぐっと上がるはず。
「嵐に吹かるる民草の前に——我らは盾となり巌となろう。聖騎士団奥義!」
 雷で形作られた刃が鋭い軌跡を描いて後方へ放たれる。数秒もしないうちに直撃の手応えがあり、破裂音と共に断末魔が上がった。「行って!」カイが叫ぶ。
「前方斜め二百五十メートル、座標が動いていないギアがいます。それが指揮個体でしょう。後ろは絶対に大丈夫ですから、早く!」
 叫び声に押し出されるように、ソルの身体が飛び出した。炎を推進力にして猛烈な勢いで進み、彼が纏ったあまりの熱量に陽炎が起こる。
 光が屈折し、ぼやけた世界の中央で、ソルの身体が恐ろしく巨大なものに見えた。
「……あれ?」
 慌てて顔を拭う。ソルが吼える。獣の如く雄叫びを上げ火柱が幾本も噴き上がる。カイはまた顔を拭った。拭っても拭っても、顔を覆う違和感が消えなくて、ごしごしと顔を擦り続けた。
「ソル……?」
 ソルがいつにない猛威を奮っているのは、カイに背中を預けているから。理屈ではそのはずだ。カイはソルにはじめて戦場で頼られて、とてもとてもうれしい。感情もそれを肯定している。うれしい。嬉しい。気持ちがいい。昨夜の行為と同じぐらい、いやもっと、全身に稲妻が走ってもおかしくないくらい。
 なのにこれは——この感情は、一体何なのだろう?
「やだ……ソル……怖いよ……」
 巨大なソルの幻が酷く遠く感じる。まるで蜃気楼だ。手を伸ばしてもそこにはなく、ふっとすり抜けていく、あの。
 ソルはカイを信じてくれているはずなのに、彼の心が、もう二度と触れられないほど遠くへ行ってしまった気がする。
 複数の火柱が膨らみ、混ぜ合わさり、一つの巨大な炎のストームを造り上げる。それがあたり一帯のギア達を全て呑み込み、ばくりと嚥下する。炎に食まれたギアたちは、悲鳴さえ轟かせることが出来ない。全て咀嚼され、野蛮で、自由な、火の中に消えていく。
「——っ、」
 やがて火柱が収まり、ソルの身体が露わになる。それを認めるや否やカイは弾かれたように走り出した。正体の見えない恐怖が身体を衝き動かしている。一秒でも早く彼に追いつき、手を握り締め、そこに彼が存在していることを確かめなきゃ。心拍数が高い。早鐘になった心臓は、どくどくと足へ手へ脳へ血を回し、カイを操る。
「ソル!!」
 名を叫び飛びついた背中は、火傷しそうなぐらい熱い。それでも構うものかとソルの身体を抱きしめた。息が荒い。まだ、まともな呼吸が帰ってこない。
「なんだ、そんな、息せき切って」
 ソルが尋ねた。背中にへばりついているカイを後ろ手に支え、でも、後ろへ振り向いてはくれなかった。
「なんだか……今すぐ、こうしないといけない気がして……」
「ふん……」
 軽く頭を振り、ソルがカイの身体を前方へ抱え直す。赤茶色の瞳はどこか物寂しい。けれどそのことを口にするより早く、ソルの顔がカイに迫る。
「あふ……ふ、ぁ、ん、ふぁ、あ……」
 ソルはカイに口付けた。キスは噛み付きから始まり、まずカイの唇の皮を強引に破いた。その後すぐ口腔内へ舌を差し込み、カイの舌を絡め取り、二人分のものがもつれ、すっかり酸素がからからになるまでそれが続けられた。
 酸欠になったせいで視界が揺らぎ、頭がくらくらする。昨夜の甘ったるいキスと正反対の血なまぐさいキスからは、焼けた生命と苦い煙の味がする。
(なんでこんな、泣きそうな気持ちなんだろう)
 ソルが日常的に纏う煙草の香りが、今日は妙に鼻についた。慣れ親しんだはずのものが、急に知らんぷりをして、見知らぬ他人のそぶりを始める。居心地が悪い。腕の中でもぞもぞとたたずまいを直すが、一向に居心地の悪さが消える気配はない。
(かみさま——)
 だらだらと血が滴り落ちるキスの最中、カイは心の中でだけ祈った。かみさま、わたしを、あなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、諍いのあるところに赦しを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を。誤っているところには真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、そして悲しみのあるところに喜びをもたらすものを。アッシジの聖フランシスコの祈りを一字一句違わず読み上げる。慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを……。
(私はあなたとずっと一緒にいたいのに)
 祈りを捧ぐ言葉がほんの一瞬だけ詰まる。愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。……愛されるよりは愛すことを? 一体何をどうやって? 彼の野蛮を、自由を、いつか裏切るかもしれない放埒を、それでも愛を求める傲慢を、カイは、どのようにして、愛せばいいのだ?
(……でも、わたしは、あなたを愛するし、赦すし、時に慰め理解したい。この気持ちはきっと変わらない)
 わたしたちは与えるから受け、赦すから赦され、自分を捨てて死に、永遠の命をいただく。平和の祈りを捧げ終え、恐る恐る顔を上げた。ソルの眼差しは優しく、慈愛に満ちていた。そこにカイは、名前も顔も知らない父親の蜃気楼を見た。そういうことは向いてないって昨日言ったくせに。うそつき。大人はみんな汚い。
 ウォッカの入った、シャーリー・テンプルと一緒で。
「ソル、どこか、行くつもり?」
「俺が行く場所は、決まってる。ギアがいるところだ。やがてはジャスティスの座る玉座に、必ず」
「……いつ?」
「坊やが到達する時には、俺もそこにいるさ」
 嘯く横顔は紛れもなく嘘つきのそれで、だけどやっぱり、嫌いにはなれなくて。
「約束してくださいよ」
 せめてもう一度血なまぐさいキスをしておきたくて最後に自分からソルの唇へ噛み付いた。


 スロヴァキア遠征は少なくない犠牲を払ったものの、聖騎士団における「平常」の範疇に収まってつつがなく終わりを迎えた。陽が暮れ始めていたのでその夜は生き残り全員でキャンプを組んだ。カイはベルナルドに断り、わがままを通してソルと二人だけにしてもらった。
 他の団員達が固まっている野営地から少し離れた丘の上で、中央に火を起こし、一切清めていない身をソルに預けた。大地を背にして男に組み敷かれながら見る星空はそれでも見知った美しさを誇っている。あれはアンドロメダ、ペルセウス、カシオペア。だけどベツレヘムの星は見つからない。ふてくされてソルの胸へ顔を埋める。変わらないものでいてほしいなんて言っていたくせに、真っ先に変化を突きつけてきたのは、結局、ソルじゃないか。
 一昨日まで何も知らなかった身体にソルを迎え入れ、小さく呻く。今のカイには、とてもではないが、不変のものなど見つけられそうにもない。
 かがり火のそばで二人丸まって目を閉じた後も、カイはなかなか寝付けなかった。出されたまま始末していないものが気になったのもあるが、消えない不安が胸を衝いて、世界一安心出来る場所にいるはずのカイにまどろみを許さない。


 その翌日、ソル=バッドガイが神器「封炎剣」を持って姿を消した。
 二人が出会った時と同じ、どしゃぶりの夜だった。








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