導きの風V もう一人の姫君



「今頃、どうしているでしょうか」
 物憂げに窓の外を見つめて、ゼルダは言った。窓から見える景色は城の中庭だけで、彼の旅立った大海原など見えようもないのだけれど、それでもつい、見てしまう。
 背後で仕事の進み具合を監視しているじいやに気付かれない程度にペンを走らせつつ、でもゼルダの思考は旅に出てしまった少年のことでいっぱいだった。
 大海原。広くて恐ろしく、そして美しいどこまでも続く蒼い海。その蒼はどこか彼の瞳に似ていた。尤も、箱入りの姫君であるゼルダは海など数えるほどしか見たことがないが……
「私も出来ることなら行きたかったです、どうせ城にいたってやることは延々と続くサイン作業だけですもの」
 だけれどそれが不可能な事象であることはゼルダ自身が一番よく知っていた。ゼルダは王族だ。この国を治める権力者であり象徴だ。
 鳥籠の鳥みたいなものだわ、とゼルダは一人ごちて寂しそうに微笑む。自由な彼が何と羨ましいことか。もしゼルダが自由になろうと思ったら王族の地位を捨てる他ないのだ。そしてそれはゼルダには出来ない。
「私に出来るのは海へと祈ることだけ、ですわね」
 思わずそこそこ大きな声で喋ってしまって、じいやにオホン! と大きな声を出されてしまう。ゼルダは慌てて執務に集中した。規定量を終わらせられなければそのことでしつこくお説教されかねない。
「何か……私の世界が変わってしまうぐらいに大きな出来事が起こったりしないかしら……」
 ゼルダの夢想とは正反対に、城の中には変わらず穏やかで変わり映えのしない、極々いつもの風景が流れていた。



◇◆◇◆◇



「ゼルダ、こちらへいらっしゃい」
「はい、お母様」
 夕食後の休憩中、母に手招きされゼルダはぱたぱたと駆け寄った。母の手には何かこぶし大の物が握られているようで、不自然に膨らんでいる。
「なんでしょうか、お母様?」
「先日、蔵の整理をしたのを覚えているかしら」
「ええ。たくさん遺品が出てきた……」
「その中にね、良いものがあったのであなたにと思って」
 そう言って母が開いた手の中にあったのは蒼い石だった。紐がついていて、首からさげられるようになっている。石の表には刻印が彫り付けてあった。
 両手でそっと受け取る。予想よりも重かった。ずっしりとした、けれど心地の良い重さだ。
「これは……?」
「確かではありませんけれど、恐らくひいおばあ様のものではないかしら」
「テトラおばあさまの!」
 この国を建国した初代女王の遺品、ということか。王の遺品であった、彼が持っていった風のタクトとは反対のアイテムだ。
「ありがとうございます、お母様! 大切にします」
「……喜んでくれて良かったわ。近頃、あなたは浮かない顔をしていましたからね。大事になさいな」
「はい!」
 はしゃいで、ゼルダはそう笑った。


 自室に帰ると、ゼルダは石を手にもったままぼふんとベッドに飛び込んだ。そのまま天井を向いて、石を高く掲げて眺める。何度見ても不思議な石だ。何処か、ただものではないような……
「ううん……ですが、石は石ですものね……」
 もしかしたら誰かの声が聞こえてきたりするかもしれない、なんて考えてでもゼルダはそれを否定する。ありっこない。それって、ちょっと、荒唐無稽だ。
 風のタクトみたいな、神の楽器ではないのだから……。
「海の色にそっくり。綺麗な蒼色……。ああ、リンクは大丈夫かしら……」
 思わずリンクの名を呟いてしまって、それから、ああ、また、とゼルダは顔を布団に埋めた。どうしても彼のことを考えてしまう。それではきっと駄目だろう、と解ってはいるのに。
「うう……やっぱり私も行きたかったです……大海原に……」
『じゃ、行きゃあいいじゃないか。後悔するぐらいならさ』
「ですが、私はこの国を離れるどころか城を出ることも出来なく……て………………あら?」
 物凄く不思議そうな顔をして、恐る恐る声の方を振り返る。すると人影――正確には、影がないから幽体に近そうだ――がベッドに腰掛けていた。それを見てゼルダは仰天する。
「て、て、テトラおばあさまっ?!」
『あんまり一人で大声出すもんじゃないよ。変人だと思われる』
「で、で、ですがですがッ……」
『いいから』
 はわわ、と恐れおののいてでもゼルダは彼女をじろじろと見つめた。自分の先祖にして建国の祖の一人である女王テトラ。その彼女が今、広間のステンドグラスにあるままの姿――つまり幼い頃彼女がしていたという恰好で目の前に存在している。
「でも、何故、あなたがここに?」
『その石に宿ってたのさ。海賊のお守りにね。で、あんたはなんだい。わたしが見えたってことは流れを継ぐ者――子孫かな?』
「はあ、おばあさまの玄孫にあたりますが……宿って、というと、おじいさまが風のタクトに宿っていたのと同じように、ですか……?」
『……おじいさま?』
 ゼルダがなんとはなしに言った単語に、テトラがぴく、と反応した。その顔が急に険しいものになる。正直いって、かなり怖い。
『見つかったのかい、風のタクト』
「は、はい、先日」
『それで、タクトは今どこに?』
「ええと……リンクが持って、海に……」
『リンク?』
 テトラの眉間のしわが更に寄った。もう阿修羅と見まがおうかというくらいの形相だ。怖すぎて何が何やらである。口に出すのはもっと恐ろしいから出来ないけれど。
『…… あ の 馬 鹿 ……』
「はう?!」
『見つけちまったってワケかい、わたしよりも早く! それで海に! あんだけ止めたってのにまったく何様のつもりだい!!』
「ええと……えと……お、おばあさま?」
『しかも後継を巻き添えにして自分の欲望を満たそうだなんて見上げた根性だよ、まったく! ――置いていかれる方の気も知らないで!!』
「……おばあさま」
 置いていかれる気持ち。おいてけぼりにされる気持ち。
 置き去りにされて、いなくなられてしまう気持ち。
 リンクは帰ってきてくれるだろうし、ゼルダもそれを信じてはいたがやっぱり寂しいという思いはかなり強かった。もしかしたら、という疑念だってゼロではない。不安は大きく、常にゼルダに付きまとっていた。
 だからテトラの言葉は実感としてよくわかるのだ。それはすごく恐ろしくて苦しいことなのだって、辛いくらいにわかるのだ。
『あったまくるねまったく! 女をなんだと思ってるんだか…………ほら、玄孫』
「わ、私ですか?!」
『他にいないだろ。何ぼさっとしてるんだい、出掛けるから用意しな』
「……は、はい? おばあさま、もう一度言ってくださいますか」
『だから出掛けるんだよ、海に。あいつをほっといたら何が起こるかわかったもんじゃないし。――ゼルダ、あんたも心配なんだろう?』
「それは、確かにそうですが……先ほど言った通り私は国を離れることが出来ませんから……」
『出来ないと思うから出来ないんだよ、そんなのはね。――というより、出来なくてもやってもらう。わたしは自力で移動が出来ないから、あんたに運んでもらわなきゃならないんだ』
「で、ですけど、」
『つべこべ言わない』
 尚も言いよどむゼルダを「いいから見てなって」と丸め込むとテトラは不意に実体化した。
『実体化もな……後継がいなきゃあ出来ないんだから不便なもんだ。――さて、行くとしよう。ま、任せときな』
「は、はあ……」
 気楽そうに、そして自信満々にそうテトラは言い放つ。その様子にゼルダはなんだか少し不安になってしまった。



◇◆◇◆◇



『はっくしゅ!』
「わわっ、おじいちゃん大丈夫?!」
『大丈夫、幽霊だから風はひかないと思う。……たぶん、噂かなぁ』
「でも変だね、そんなにおっきなくしゃみが出るなんて」
『んー、なんか嫌な予感がする……』
 幽体――まあ今は実体化しているけれど、の鼻をごしごしと擦って、風の勇者は何かに怯えるようにブルッ……と震えた。
 嵐を抜け出た後の海域は見事に晴れており、少なくとも寒くはなかったがまあ確かに風は冷たい。
『さて……もう見えてきたね。あれがとりあえずの目的地、この海域にある大妖精の泉のうちの一つだよ。上手くいけば何か情報が掴めると思う』
「う、うん」
『まずはこの海域の問題をなんとかしなきゃ。今のままじゃなんにも出来なかったとしても、せめて情報ぐらいは持ってたい』
「うん、賛成」
 だから前に進もう、という風の勇者の言葉にリンクは力強く頷いた。