01:プロローグ/真夏の夜の夢
デュエル・アカデミア本校の存在する孤島は今日もうんざりするぐらいに良く晴れていた。ぎらぎらと照りつける太陽。蝉はミンミンと五月蠅いし、日本っていう島国特有の気質のせいでむしむししている。十代は黒いシャツの襟に指をひっかけてたわませた。雨の日よりは断然晴れの日の方が好きだったが、でもこれはいただけない。もう何日雨どころか曇り空を見ていないかもわからなくなっていた。
「うえぇー、あっちぃ。どうにかなんねーのかよぉこの暑さは」
「無理無理、考えるだけ無駄だよアニキ。冬は寒いし夏は暑いって、そう相場が決まってるんだ。エアコンなんて豪華なものが付いてるのはブルー寮だけ。僕らレッドの一年坊主なんかには縁がないものなんだよ」
「そんなことはわかってるさ。でも暑いもんは暑いわけ。あー、もう、嫌になるー!」
わーっ! と叫ぶのと同時に豪快に羽織っていた上着を投げ捨てる。「ああー、皺になっちゃうよアニキぃ」、と翔が慌ててそれを拾い上げた。そのまま、服の中に顔を埋めてうっとりと匂いを嗅ぎ始める。だが十代はそれに目もくれず気付くそぶりも見せずに窓の外へと視線を移した。
レッド寮の少しガタがきている窓からは、さんさんと眩しすぎる太陽の光が自己主張をますます強めて青色に散る少量の白――雲の存在を押しやっている空が見えた。特にこれといって異変があるわけでもない。「なーんにも面白いことねえのな」十代は気落ちするように呟く。面白いこと、ワクワクすること、そういったことがない日常はあまりにも退屈だった。常に何かしていないと落ち着かない少年なのだ、十代は。
「翔も、明日で一旦お別れなんだっけか」
「あ、うん。お兄さんは今年が最後だし、一緒に帰省するよ。アニキは一人でここに残るんだっけ?」
「まあな」
「帰んなくていいんすか?」
「いいんだよ。あんまり、帰りたいとも思わない。学費払ってくれてるのは感謝してるけどさ、仕事仕事で滅多に帰ってこない人達だから帰ったって結局また一人だ。それなら移動しなくて楽な分ここに残ってる方がいい」
窓の外から視線を逸らさないまま素っ気なく答える。翔はふーんと頷いて、それからやや首を斜めに傾げてぽそっとぼやいた。
「でも、先生達もみんないなくなるのに。アニキはどうやって生き延びるつもりなのかなぁ?」
◇◆◇◆◇
陽が落ちると、アカデミアがあるこの島は昼間とは違う顔を覗かせる。いつもなら点いている照明が学園中ぷっつりと消えてしまっている今は特にそうだ。真っ暗で、だけど森やら何やら自然が豊富なものだから野生動物はたくさんいて、それらがふとした調子に飛び出してくる。天然の動物園。もしかしたら、動物園の何倍か危険だったかもしれない。
だけど十代はそんなことに構ったりはしない。野生動物は敵意を向けなければあからさまな敵意を返してはこない。だったらなんにも気にすることなんてないのだ。
小さな少年がただ佇んでいるだけで凍り付くような敵意を向けてくる生き物はこの島にはいない。
「飯、どうしよ。なんか魚でも捕って……明日からは明るいうちに木の実とか集めておこう。あー、計算不足だった」
十代は育ちざかりの少年だ。当然、食事は出来ることならたっぷりと食べたい。でもその信条で何も考えずに食べていたら購買で買い込んでおいたドローパンその他はたった一日で底をついてしまった。トメさんが「これで三日は持つと思うわよぉ」だなんて言ってたような気がするが、どうもそう上手い具合にはいかなかったみたいだ。
「ほんと計画性ねぇなぁ……まあ今更言ったって仕方ないんだけどさ……」
とっぷりと陽の暮れてしまった夜のアカデミアを、十代はとぼとぼと歩く。幸い星明りの美しいこの島では人工の明かりに頼らなくても何とか移動ならできる程度には視界が確保できていた。だけどやっぱり足元は薄暗くてはっきりと見えない。いつ転ぶかわからないハラハラの賭け事みたいだ。
「まあでも、こっから寮までは一本道だし……この辺には出っ張った木の根とかなかったはずだし。怪我はしないで済むだ……ろ……」
くっ、と足が何かに引っ掛かる。「多分大丈夫だろう」とそう言いかけたまさにその瞬間、十代は盛大に転んだ。どさりと地に倒れこむ。体の下にワンクッション、何かの存在を感じた。何だろう。つるつるしている。
「なんだよ、ったく……」
いてて、と別に患部でもなんでもない頭を後ろ手にさすりつつ直下に落ちている物の正体を見極めようと目を凝らす。だけど夜闇に紛れてしまっていまいち形が掴めない。仕方なく十代はしゃがみこんで手探りでそれを引っ掴んだ。案外柔らかく、握ると物に指が食い込むような感触を覚える。特に何も考えることなくそのまま力を込めてずるりと引きずった。
「重いな結構。ていうか、でかくねぇ?」
片手だけでは具合が悪かったので両手で握り直し、そのまま立ち上がって腹に力を込める。付近の藪に引っ掛かっていたようで、がさがさと茂みがざわつく。
しばらくして、枷が外れたかのように勢いよくそれが引っ張り上げられた。そして十代はやっとの思いで引きずり出した物の正体を悟った。
「嘘だ。人間じゃん」
通りで柔らかいわけだ、布越しの腕を引っ掴んでいたわけなのだから。暗闇に溶けてしまってはっきりとはわからなかったが、身なりはそんなに悪くなさそうだ。それと恐らくだが、東洋系の人間ではないだろう。髪の毛は多分エメラルドグリーンだ。直感的にそう思った。理由はわからない。
でも、なんで人間が、それもアカデミアの関係者ではなさそうな奴がこんなところで倒れているのだろう。この島の人間は今現在十代以外全員出払ってしまっているはずで、その上服は十代が見たことのないものだった。少なくともここの制服ではない。似てるけど。
「昏睡してなきゃ話が出来たのになー。うーん、でもどうしよう。レッド寮まではまだ距離があるし……かといってここに放置しておくわけにもなぁ。ハネクリボー」
『クリクリィ』
「そうだよな。しょうがないな、腹が減りすぎて動けなくなる前になんとかして寮まで連れて行こう」
そう決めるとまたずるずるとその人間を引きずり出す。今度は一本ずつ腕を引っ掴んでだ。ここからレッドまでは百メートルちょっと。この態勢ならなんとかへたり込む前に部屋に入れてやれるはずだ。
「あ、でも二人分となるとさらに厳しくなるな。食糧事情」
えっちらおっちらそれを運びながら、すごく能天気な声で十代はそんなことを言った。
◇◆◇◆◇
目覚めてまず目に入ったものは染みついて濁った白だった。ああ天井か、と数テンポ遅れて理解が追いつく。見知らぬ天井。こんなぼろっちい天井なんて見たことがない。
気だるい体をごそごそと横転させる。少し腰が痛かった。床の上で寝ていたらしい。でもいつの間に? 記憶はアークティックの廊下で倒れたところでぷっつりと途切れてしまっていた。そもそも、アークティックの中に俺の知らない、こんな天井などあっただろうか。あそこにはもう四年住んでいる。教師には内緒の校内探検だって何度も隅々までやった。もしかしてここは俺のホームじゃあないのか。そういえば体は何となく汗っぽかった。これは風邪をひいた時の熱さじゃない。純粋な、夏の暑さだ。
「――?!」
そこまで考えを巡らせてようやく俺は飛び起きた。馬鹿な、なんで夏の暑さなんて感じなきゃならないんだ。北欧の季節は今まさに冬盛りで、毎日寒い寒いとひいひい言っていたのに。
「……What on Earth is this? Where am I」
思わず独り言をもらす。すると上方から何やら声が聞こえてきた。
「ん〜……起きたぁ?」
驚いたことに日本語だ。ということはここは日本なのかだろうか? さっきまで北欧にいたのに? 世界の反対側とまではいかないが地理的には相当場所が離れている。もし本当にそうだとしたら理屈がわからない。
「ん……ごめん俺まだちょっと眠い……あと三分で起きるから少しだけ待っててくれな」
「OK. Ah……ここ、日本、か?」
暇つぶしに読んでいた教本のテキストを思い出しながら、片言で言葉をひねり出す。なんとなくでも読んでいてよかったと思った。日本語はあまり得意ではないが、それでもまだ意思疎通はぎりぎり出来ると思う。
眠たそうな声の主は「え、日本か、だって?」と不思議そうに俺の質問を反芻した。意外な内容だったらしい。
「そうだよ、変なこと聞くんだな。ここは日本だよ。日本のデュエル・アカデミア本校」
「Academiahonkou? honkou,hon……I see. That's mean "main school"」
「へ? 何て言ってんの? ていうかお前、やっぱりガイジン?」
少し眠気が取れてきたのだろうか、先ほどよりもはきはきとした声が返ってくる。何と答えればいいかと考えながら上に顔を上げると丁度声の主が飛び降りてきた。三段ベッドの上から、綺麗に着地する。
猿みたいな身軽さだ。
「おおー、明るいとこで見ると結構印象違うなぁ。でもやっぱエメラルドグリーンだ。目も同じ色なんだな」
「珍しい? この色。アークティックでは、そうでもない。私の名前、Johan。 Johan Andersen」
「ははっ、教科書みたいな自己紹介だな。俺の名前は遊城十代。お前はヨハン、でいいのか? 片言でも日本語わかるんならありがたいや。俺英語はてんでダメなの」
「私の日本語、変? 日本語は、上手く話せない」
「言ってることはだいたいわかるから大丈夫。でも一人称が変だぜ。男で「わたし」は変わってる。男は僕とか俺とか言うんだ、私っていうのは普通女が使うんじゃないかな」
「Oh dear! Feminin noun. ……じゃあ、俺、使う。ジューダイ、俺、なんでここにいる?」
「それはこっちが聞きたいぜー。昨日の夜、寮に帰ろうと思って歩いてたら蹴躓いちまってなんだろと思って引っ張り出したらお前だったの。森に倒れてたんだ。なあ、どっから入ってきたわけ? 一応この島には、今は俺以外誰もいないことになってるんだ。孤島だから連絡手段がなきゃ出るのも入るのも難しいぜ。ていうかお前どっから来たの?」
捲し立てるような言葉の奔流に慌てながら彼の質問を一つずつ拾っていく。一つ、何故俺がここにいるのかはジューダイも知りたがってる。二つ、俺はどこから入ってきたのか。三つ、そもそも俺が元々はどこにいたのか。教本のCDと違ってジューダイの言葉は粗雑でやや早口だった。どこの言語でも教本のCDではネィティブスピーカーの喋りはわからないっていうのは変わらないと思う。
「どこから入ったか、わからない。気が付いたらここだった。俺が元々いたのは、Arctic。デュエルアカデミア・アークティック」
「え、アークティック? っていうとあのアークティック校か? ここの分校のさっむい国にあるってやつ」
「たぶん、そう。アークティックとても寒い。今は特に寒い。アークティックは今冬だから」
「ふぅん……季節真逆じゃん。しかしわっかんねーなぁなんでそんな遠いところから人が来てんだ? 怪奇現象に巻き込まれたのかなぁ。今頃そっち大騒ぎになってたりしてな」
「だとしたら、困る。心配かけるの良くない」
アークティックにすごく親しい人間がいたりするわけじゃないのだけど、生徒が一人消えたとあれば学園側が焦って捜索に入るはずだ。ヨハンは基本的に真面目な生徒だから無断欠席とかはしない。それに寮暮らしだからいないことなんてすぐにわかるはずだ。三食ご飯を食べに来なかった段階でいつも大盛りにしてくれる食堂のおばさんが気付くはずである。大食らいの俺が三食抜くなんてことは天地がひっくり返ってもありえないからだ。
「でも参ったなー、今は本当に俺とお前しかいないから連絡手段がないんだ。それに食べ物もない。まあ、その気になれば森で野生動物とか木の実とか採れるけど。ってか本気にならないとまずいんだけど、流石にさっきまで寝込んでた人間を食糧確保に走らせるわけにはいかねーし。……ここでうんうん唸っててもしょうがないよな。とりあえず俺、ちょっくら朝飯調達してくる」
「俺は、何、する?」
「ヨハンはここで待ってて。あの森迷うと面倒だから」
実を言うと昔俺も迷ってさぁ、三日ぐらい出てこれなくなったことがあんの。彼はあっけらかんとそう言い放ちドアを勢いよく開けて駆け出していってしまった。
それを見送るとヨハンはジューダイの気遣いに安堵し胸を撫で下ろす。そんなところに行ってしまったら間違いなく俺は帰ってこれなくなるからだ。俺は重度の方向音痴だった。
◇◆◇◆◇
「魚が三匹も釣れた。贅沢は言うなよ、俺だって本当はもっと食いたいんだからな。ていうか全部一人で食いたい」
レッド寮食堂の倉庫にしまってあったガスボンベ式のコンロと魚焼き網で二人は魚を焼いていた。魚の焼ける匂いがしてきてようやく俺は腹が減っていたことを思い出す。珍しいことだ。いつもはご飯時の一時間も前になると腹が減ってたまらなくなるというのに。
やっぱり慣れない土地にわけもわからないうちに飛ばされてしまっていたことで精神的に疲弊していたのかもしれない。
「ジューダイ、ごめん。俺迷惑かけてる」
「なんであやまんだよ? ヨハンはなんも悪くないだろ。……なあ、全然関係ねぇんだけどその服着替えないか? 上着はすげー泥だらけだったから脱がしたんだけど流石にシャツとズボンまでは手をだせなくてさあ。俺の服貸してやるから」
「Ahー、やっぱり汚い、か。不快だよな」
「いや、あんま俺は気にしてないけど。でもヨハンってなんか小奇麗そうだからむしろヨハンが気にするかなって思ったんだ」
「kogirei? 何て言ったの?」
「清潔で、綺麗そうって意味。なんかいいとこ育ちっぽく見えたから」
「そうかな」
「そう。フリルが何となくそれっぽい」
焼けたぜ、と串刺しになった一尾を丸ごと寄越してくる。薄々思っていたことだがここにきてそれは決定的になった。ジューダイは少し豪快すぎるきらいがある。でもそれも悪くないと思った。男なんだからせせこましいよりはよっぽどいい。
アークティックは男子校だから、自然、女っぽいやつも出てくる。なよなよとして女々しいやつ。女子校だと男勝りの女が出来る場合があるっていうからこれはまあしょうがないことだと思う。性別が偏ったことがもたらす弊害だ。
「腹が減っては戦は出来ぬってな。胃袋満たしたらまた考えようぜ。今は何よりも飯だ」
「Yes. 今は、魚だ」
もしゃもしゃと魚をほおばるジューダイを見ながら俺も串刺しの焼き魚にかぶりついた。それにしても豊かな自然に囲まれた学校である。孤島だって言ってたから周りの海から釣ってきたのだろうか。でも森があるのだから川もあるだろうし、まあどっちでもいいんだけど。
オーナーの海馬社長が何を思ってこの土地を買い上げたのかは知らないが今はとりあえずその決断に感謝した。これが特に自然もない孤島だったらまずいとかそういう話では済まない。いや、そんな場所に学校を建てるような人間はまあいないと思うけど……
ただ焼いて塩を振っただけなのに魚はえらく美味しいように感じられた。恵まれた環境でよく育った魚だったからだろうか。それとも単に死ぬほど腹が減っていたのか。
一人あたりの配当である一尾半をぺろりと平らげ、俺たちは腹をさすった。満腹には届かないがそこそこは膨れた。食堂の時計を見ると針は午前十時をさしている。電灯は点かないから、陽が落ちるまでにやれるだけのことをしなければならない。
「まず風呂だな。ガス止まってんだけど温泉があるんだ。ちょっと遠いけど一時間見込んどけば大丈夫。そしたらついでにそこで洗濯するか。その後はぎりぎりまで食糧探し。ヨハン、やりたいことなんかあるか?」
「特にない。ジューダイに従う」
「ん、そっか。じゃあ行くぞ」
そう言うとジューダイは立ち上がり、俺の手を取って歩き出す。森ではぐれないように、との考慮だろう。
ジューダイの手のひらは基礎体温の高い幼児のように温かかった。そのぬくもりに、俺は感慨を覚える。その温度をずっと求めていたような、そんな気がした。
「風呂入って、服も洗って、飯探して……そしたらさ、また色々と話をしよう。ヨハンがデッキを持ってなかったのは残念だけどさ、デュエルの話ならデッキがなくっても出来るだろ?」
「Of cource. ジューダイは、何のデッキ使ってる?」
「俺? 俺はHEROデッキ! かっこいいんだぜ、俺のヒーロー達。後で見せてやるよ!」
俺はその言葉に興奮してこくりと頷いた。
――そこまでは、鮮明に覚えている。
俺は首を捻った。月明かりに薄く照らし出されているこのぼろっちい天井はレッド寮のもので、寝息を立てているのはジューダイに違いない。ジューダイからそう離れていない位置にぼんやりと俺は立っていて、いつの間にか綺麗になったアークティックの制服を着ている。
昼間から夜の間の記憶がぽっかりと抜け落ちてしまっているかのようだった。午前十時頃にジューダイは風呂へ行って食糧を探し、一段落したら話をしようとさそってくれたのだ。それからデッキを見せてくれるとも。そこまでは間違いない。ヨハン自身ははっきりと覚えている。
でも、どうしてだろう、その後ジューダイに彼が使うというHEROモンスターを見せてもらった記憶はこれっぽっちもないのだ。
ジューダイも、まるでヨハンなんかいなかったかのように眠りこけている。
「……What? What do you mean」
意味がわからず、茫然と立ち尽くしていると俺の前を人影が横切った。
◇◆◇◆◇
『みつけた。間違いない、俺の永遠に愛する人』
覚束ない意識の中で誰かの声がそう言った。ぼんやりとした視界の中央に幽霊みたいな男が立っている。エメラルド色の髪。真っ白な衣服は、その向こうの壁が透けていてちぐはぐの模様がプリントされているみたいにも見えた。
『まだ、何も思い出してないんだ。俺もだけどね。ねぇ覇王、聞こえているかい? どんなに君が拒絶しても、俺と君は何度でも出会いを繰り返すんだ。そういうふうに出来てる。俺という光がなければ君という闇は存在できない。そして君という闇がなければ俺という光はそのうち意味を失ってしまう。……この前も、その前も、君を手に入れたいと思ってからずっと負け続けているけれど、今度こそ、君を俺だけのものにしてみせるよ』
幽霊は謳うようにそんなことを言う。何を言っているのかよくわからなかった。光だとか闇だとか、拒絶、愛、欲望……アメリカンコミックのそういう要素の対立はイカしてるけど、なんというかその男の言葉はイカれている。わけがわからない。
――なんだって、そいつはジューダイに向けてそんな言葉を吐いているのだ。あまつさえ俺そっくりな容姿で!
そう、見間違えることなんてありはしない。幽霊の容姿は俺と瓜二つだった。髪のカラーもはね具合も、声のトーンも。ただ、声の含む色だけは俺が未だかつて出したこともないようなものだった。隠しきれない興奮と期待、愛情、渇望、欲望、それら全てがないまぜになったような奇妙な声音。
だいたいこいつはジューダイをずっと前から知っているかのような口ぶりだ。でも第一声は「見つけた」だった。いつ知り合ったのだ? いったいいつ?
いや、そもそもあれは幻覚なんじゃないんだろうか?
俺がぐるぐるとそんなことを考えていると視線に気づいたのか、幽霊がこちらに振り返った。俺がびくりと肩を震わせると、怖がる子供をあやす大人のような顔つきをする。なんだか嫌になる顔だった。だけど視線を逸らすことが出来ない。
「What is this?」
何の用だ、と精一杯威嚇の意を込めて言う。でも出てきた声にはあまり覇気がなかった。得体の知れない恐怖、本能が伝えてくるシグナル・レッド。この幽霊はろくなことをし出かさない、と直感が告げている。
幽霊はそんな俺を見て薄く笑った。昔の自分を見ているような笑顔だった。
『わっかんないって顔してるな、ヨハン。今はまだしょうがないさ。直にわかる時が来るから、それまではこのことは夢だと思っていればいい。しかも朧気で儚くて思い出せない夢だ。君はこの島にはいなかったし、十代も誰とも出会わない。それでいい』
「What……」
何を言っている、という言葉は途中までしか喉を通って出てこなかった。幽霊が制止するような形をとった瞬間、口がぴったりと萎んでしまう。
『今はまだ何も気にしなくていいんだ。安心しろ、目が覚めたら君はアークティックの保健室で寝かしつけられて、うんうん唸っているところだからさ。十代と別れるのが名残惜しい? でも大丈夫。俺達は、光と闇は、惹かれ合う運命にある。そう遠くない未来にヨハンと十代は出会うだろう。今度こそ、現実でね』
「……Who are you」
『俺が誰かって? 秘密。……って言ってもいいんだけど面白いから教えてやるよ。俺は、お前だ。破滅の光の器、それに宿る破滅の光の人格。まあでも、今は余計な情報だからこのことはすっぱり忘れてくれ』
何を勝手なことを、と叫ぼうと思ったが相変わらず体はだるくて動くそぶりを見せなかった。お前は誰だ、とか細くも問えたのが奇跡的だと思えるぐらいに意識レベルが下がっていく。思考が曖昧になり、幽霊の笑顔がぼやけて霞む。
『おやすみヨハン。いずれ君は俺という存在を理解するだろう。何故なら、俺はいつだって君の内に存在するからさ。また会おう』
幽霊が手を振ると、視界がぐるぐると渦を巻き始めた。焦点の合わないアカデミア本校レッド寮の天井が渦の中に消えていき、やがて別の天井が現れる。
石造りの冷たくも堅牢な印象を抱かせる天井が一瞬ヨハンの視界をかすめ、すぐにそれは柔らかなライトオレンジの色に変わった。見覚えがないはずがない。アカデミア・アークティックの保健室だ。
落ちていく意識の中で、まだまともにジューダイにお礼を言っていなかったことを思い出す。
そして俺は急激な眠気に逆らいきれずに瞼を閉じた。暗闇の底に埋没していく茶髪の少年の名前を、もう俺は思い出すことが出来ない。
「Deadend World」-Copyright(c) 倉田翠