01


 朔間凛月が失踪を遂げたのは、衣更真緒が十八歳の冬だった。
 月永レオと瀬名泉が卒業したあとも、凛月はKnightsとして活動を続けていた。アイドルとしての彼の人気は日を追う事に高まり、夢ノ咲を代表するアイドルの一人として、テレビや雑誌で彼の面影を感じない日はない、そんな頃のことだった。
 それはいやに寒い、月のない夜だった……と真緒は記憶している。ある日凛月はいなくなった。物語からページが抜き取られるようにすっぽりと、夢見るように、世界中のどこにもいなくなった。
「すまぬ。衣更くんには世話になったと言うに、何もしてやれなくて」
 凛月の兄である零は、小さく首を振るとそう言った。
「我輩から言えるのは、つまりあの子は真性の吸血鬼であったという、そのことだけじゃ」
 まがりなりにも太陽の下を歩ける我輩と違ってな。
 物語る吸血鬼の瞳はいやに寂しかった。衣更真緒十八歳の冬は、そうして終わった。かさついた冬の風と底冷えする空気、光のない新月の空だけが、真緒を取り巻く世界の全てだった。


◇◆◇◆◇


 その小鳥は夜明け前に鳴く。ゆえに小夜鳴き鳥。グーグルで検索して出てきたページに書いてあったので多分そう。
 衣更真緒は、ここのところ毎日サヨナキドリの鳴き声で目を醒ます。
「……今日もだ。大学に遅刻しないですむから、そこは助かってるけど」
 にわかに白みはじめた空をベッドサイドの窓から覗き込み、溜め息を吐いた。衣更真緒二十一歳の冬。卒業後もTrickstarとしての活動を続けるかたわら、ごく普通の私立大学に通う大学三年生。就職活動こそないものの、そろそろ卒業論文のことが視野に入ってくるような、そんな時期。
 真緒は背伸びをするとベッドから降りた。毎日のように聞こえる美しい小鳥の鳴き声、けれどその鳥の姿を、真緒は窓の外に見たことがない。恥ずかしがり屋の鳥なのかな。わからないけれど。そんなことをぼんやり考えながら洋服に袖を通し、台所へ向かった。
 一人暮らしの家はたいして広くもないが、いつもどこか物寂しかった。この家には真緒以外がいない。妹も母も父もいない。いつも起こしてあげていた幼馴染みが来ることもない。ときおり大学やユニットの友人達が遊びに来るけれど、彼らが帰ってしまえば、元のがらんどう。
「今日は……一限から講義で、三限で上がって……で、あとは雑誌のインタビューだっけ……」
 充電コードに繋がれていたスマートフォンを手に取り、スケジュールの確認。マネージャーからの緊急連絡もなく、落ち着いた予定の一日。真緒はカレンダーと壁時計とを交互に見た。月の満ち欠けが併記されているカレンダーの今日の日付のところに、満月まであと五日と記されている。そしてその下にボールペンで書き込まれた、「乙女座流星群」の文字……。
「うん。今日は見に行けそう」
 スマートフォンの画面電源を落とし、ポケットに放り込んだ。今日はいいことがありそうだ。思えばそんな予感がずっとしていた。一昨日はお天気雨のあとの虹を見たし、昨日はナナホシテントウムシが道ばたをのたのた歩いているのを見た。そして今日は流星群を見に行く。どこで見よう。丘の上がいいな。あてどなく思案を巡らせ、真緒は冷蔵庫のドアを開けた。これが今朝の出来事。


 かくして夜はつつがなく真緒の元を訪れた。朝なんとなく考えていた通り丘の上、ではなく、住んでいるマンションの屋上で、真緒は流星群の訪れを待った。屋上には真緒のほかに誰もいない。単身者向けのマンションだから、カップルや家族で並んで星を見ようなんて人もいないらしい。
 誰もいない静かな屋上で、フェンスに手をかけて高く空を見上げた。空には雲一つなかった。ただ、煌めく無数の星々が、ずっと遠く離れた場所で、ちかちかと命を燃してまたたいている。
「流星群って、流れ星の集合体みたいにずっと思ってるけど、どうなんだろうな、実際」
 誰も聞く者のいない場所へ向かって独りごちる。こういう時、意外と博識な誰かがいれば、それとなく答えを教えてくれたのだろうか。でも今真緒の隣には誰もいなくて、それだけが全てだから、真緒はそれ以上のことを考えないようにした。流星群なんて一生に何度見られるかわからない。それを見逃す手なんかない。
 それから、どのくらい星の訪れを待ち焦がれただろう。
 五分ぐらいだったかもしれない。或いは一時間だったのかも。スマートフォンをつけて時計を確かめるような気にもなれなくて、その瞬間が訪れるまでの時間は、まるで悠久のように長い。
「あ――」
 だから、やがて訪れたその時に、真緒はぽかんと口を広げて流れ星の群れを見守った。
 星がおちる。無数の星々が、どこかで生きて来た命が、彼方から此方へ飛来していく。過去から未来へ走っていくように。夜空を星が流れ、瞬く間に消えて行く……。
「……なんで、俺……」
 ぴゅんぴゅんと過ぎ去って行く瞬きの群れを眺め、二度三度しばたき、真緒は手の甲で顔を拭った。何故だか目頭が熱くなってしょうがなかった。星々の生き急ぐような軌道に、何かを重ねてしまったからかもしれない。それは無数に生まれては散っていく 同胞たちアイドル のようにも見え、また或いは、まったく別のものに見えた。たとえばそれは、真緒が三年前の冬に見失ってしまった幼馴染みの姿をしていた。夢見るようにどこかへ消えてしまって、探そうとすることさえ許されなくて、でも偲んでしまえば彼は帰ってこないと認めるのと同義だから、何もしてやれなかった、誰かのかたちだった。
「凛月――会いたい……」
 唇はひとりでに彼の名前を紡いだ。流れ星にするお願いは、いつまでなら有効なんだっけ。そんなことを頭の片隅で思いながら必死に朔間凛月のことを呼んだ。凛月。どうして急にいなくなっちゃったんだ。高校三年生に一緒に進級して、大学にも行こうなって話してたじゃんか。凛月。今どこにいるんだ? この空の下に今もいるのか? 俺の知らないどこかで、ちゃんと寝て、起きて、息をしているのかな。
「俺のこと死ぬ前に噛み付いて不老不死の眷属にしてくれるって言ったじゃん」
 でも朔間凛月はもう世界じゅうのどこにもいない。
 どこにもいない吸血鬼は、人間には見つけられない。朔間の家は健在だし、朔間零の噂は今でも時折耳に入ってくるが、朔間凛月の消息だけは、真緒には決して手に入らないものだった。だから真緒は一人で生きている。それを思うとどうしていいかわからず、流れてくる水をどうにかする方法も思い浮かばない。
 頬を滴る水はしょっぱかった。


◇◆◇◆◇


 翌朝、真緒は再びサヨナキドリの鳴き声で目を醒ました。
 昨晩の出来事が嘘のように、何事もなく朝はやって来た。頬にもう泣きあとは残っていない。よかった。今日は雑誌のグラビア撮影がある。涙なんか残ってたらメイクさんに迷惑をかけてしまう。
 いつも通りに身支度を整え、いつも通りに朝食をとり、いつもより早く玄関に向かう。今日は大学の講義がなく、午前から撮影仕事が入っている。だから早く家を出なければ、と靴を探して見下ろした視線の先に、真緒は見慣れぬものを見つけてむむと唸った。
「え? 猫……?」
 玄関口に我がもの顔で座り込んでいるのは、見事な毛並みの黒猫。鈴も首輪もついていないので、野良猫の類だと思われる。こいつ、一体どこから入って来たんだろう。昨夜屋上から戻った後、いつも通り念入りに鍵はかけていたはずだ。男一人暮らしとはいえ、一応アイドルの住み処。いつ何時何が起こるかわからないため、防犯には徹底している。窓を開け放して寝ることもない。
「……しかし、すごいつやつやの毛だな。何て言うんだっけ、こういうの、猫美人ってやつ……」
 かがんで撫でようとするとぷいとそっぽを向かれる。澄ました猫だ。なんだか他人に思えず、真緒は猫を追い出そうとはしなかった。靴を履いて玄関を開け、一緒に来るか、と声を掛けるとなあごと鳴いた。多分了承の意味だろうと思い、真緒は見知らぬ黒猫と外へ出掛けた。
 黒猫と並んで歩く街並みは、いつもと同じ街路とは思えないぐらい新鮮だった。普段は入らない路地を曲がったり、ちょっと右に逸れたり左に逸れたり、じぐざぐと歩いているうちに、いつの間にか目的のビルに辿り着いていた。ここ三年、仕事に向かう足取りがこんなに軽かったことはなかったと思う。そうお礼を言おうと思った時には、けれど黒猫はもうどこにもいなかった。
「不思議なやつ」
 エレベーターに乗り込んで控え室に向かう。寄り道をしていた割には、早く着いてしまった。何か軽くお菓子でもつまんでいようかな……。そう考えながら控え室のドアを開け、その奥に見慣れぬ先客の姿を認め、真緒はびっくりして、一瞬固まってしまった。
「あ」
「あ? なに、その失礼な呻き声。……あー、あんた……」
「瀬名……先輩。す、すみません、控え室間違えて……」
「別にいいけど。そのお化けでも見たみたいな顔だけやめてくれない。うざいから」
 夢ノ咲在学時代、Knightsのメンバーとして活動していた瀬名泉だ。卒業後、モデル業に戻ってその道一本で仕事をしていると聞いていたが……そうそう会うような機会もなかった。狭い業界だ、すれ違ったことぐらいはあったような気もするが、言葉を交わしたのは多分在学以来だった。
 なんとなく気まずくなり、踵を返そうとする。しかしその足を泉の視線が縫い止め、それは叶わない。
「ちょっと。なに、すぐ帰ろうとしてるの。あんたの控え室はここで合ってるっての。今日の仕事内容見てないわけ?」
「え?」
「ていうか、その不健康な面見せといてそのままいなくなられると虫の居所が悪い。話聞いてやるから仕事までになんとかしな、クソガキ」
「はあ……」
 自分の座っている席の向かいを手で叩き、泉がじとりと見てくる。有無を言わせぬ迫力に真緒は引き摺られるように頷き、示された場所へふらふら寄っていって腰掛ける。「昔から思ってましたけど、意外と面倒見がいいですよね」と話し掛けると、「うっさい」と一蹴された。


 泉に促されるまま、真緒はつらつらと近況などを彼へ話した。話は主に昨晩見た流星群についてで、その他、ナナホシテントウや天気雨と虹の話、今朝の黒猫の話などだった。なんら益体のない、いたってどうでもいい話の連続だったはずだが、泉はこの話に一切口を挟まず、黙って静かに聞いてくれた。
「あんた吉兆続きとは思えないほどひどい顔してるけど、自覚あるわけ?」
 話し終わったあと、泉がまず発したのはそんな言葉だ。
「そんなにひどいですか?」
「ひどい。さいあく。メイクでなんとかしようにも限界。目の下に隈がなけりゃいいってわけじゃないことぐらい覚えときな」
「はあ……」
「まあ……わからないでもないけど。三年か。あのバカ、今頃どこほっつき歩いてんだか」
 それから彼は、黒猫は災いの象徴だけども猫が家に入ってくるのは幸運の兆しなのだ――ということをどうでもよさそうに付け足し、「吸血鬼の幼馴染みってのもろくでもないもんだよねぇ」と心底うんざりした調子でぼやいた。
「あんた、くまくんに血吸われてたって本当?」
「え? なんで急に、そんな……」
「顔色悪いから」
「いえ、別に」
「ふうん。じゃ、自覚なしか」
 トントン、と泉の指先がテーブルを叩く。値踏みするようなまなざし。真緒はまばたきをし、泉の顔色をうかがう。
「凛月のことを何か知っているんですか」
「な〜んにも? くまくんってばさあ、卒業間近に幽霊みたいに消えたって話じゃない。知ってるとしたら兄貴の方だけでしょ。でもあいつ、何か言った?」
「朔間先輩は……凛月は真性の吸血鬼だったとかなんとか、そんなことしか……」
「ふうん。そういうことか……」
「そういう、って」
「誰も何もわからない、ってこと」
 泉が首を真横へ振る。あまりにも綺麗な並行運動に、彼がモデルとして蓄積してきたものの大きさを勝手に感じ取れそうなほどだった。それで真緒がぼんやりして泉を見続けていると、泉の方も勝手に何かを気遣ったのか、彼の方から続けて唇を開いた。
「……先に断っておくけど、くまくんのことは俺もなるくんもかさくんも知らない。王さまも多分知らないんじゃない。変人同士、何か勝手に勘付いてるかもしれないけど」
「Knightsのみなさんも、何も知らされてなかったんですね」
「幼馴染みのあんた以上にくまくんが優先するやつがいるかっての。……そもそもさあ、朔間の家の秘密主義ぶりときたら、そりゃご大層なもんよ。次期当主は朔間零の方だってずっと言われてたし、実際、復活祭のあたりはそんな感じに振る舞ってたよねえ。でもそれ自体、兄貴の仕込みだったのかもしれない。俺はずっとそう思ってる。たとえばそれは、『本当の吸血鬼』から目を逸らすための」
「本当の吸血鬼?」
「朔間零のアレは、抗争のあと急に始まった。でもくまくんの虚弱みたいなのは、話を聞く限り生まれつき。第一あの男は海外行ってたわけよ、一人で。くまくんを置いて。そんなやつが『我輩は日を浴びると力が抜けてしまうので棺桶で寝ておるのじゃ』とか言ったところで説得力なんかあるかっての。……けどくまくんは、Knightsの活動を頑張って日中動き続けた後は、必ずリバウンド来てた。俺は傍で見てたから知ってる」
 早口でまくしたてるような言葉が、矢継ぎ早に真緒の耳を通り抜けていった。この三年間、無意識のうちに抑圧して忘れようとしていたことが、泉の言葉で流れ込んでくる。朔間凛月はかつて衣更真緒に牙を立てた。それが原因で真緒は先端恐怖症に陥ったのだ。長い間、前髪がかかるのも怖くて、それで髪の毛を上げていたのだ。
 なのにそんなことも忘れていた。凛月との思い出を誰かが奪っていったみたいに。物語のページが抜け落ちたみたいにすっぽりと、衣更真緒は朔間凛月がいない世界に「慣れさせられていた」。 
 そのことに気がついて愕然とした。
 三年間麻酔をかけられていた部位が、急に感覚を取り戻し、鋭敏になったような心地が真緒の全身を苛んだ。心臓の部分が勢いよく早鐘を打つ。やめろ、やめろ、やめてくれ。本当のことを言わないで。それを俺に教えないで。
 朔間凛月はどこにもいないなんて、そんなことを言わないで――
「ま、ようは『これも何かの縁』ってことか。あんたちょっと、アカウント見せな」
「アカウントって、なんの」
「LINEの。連絡取るから教えろって言ってんの」
「え、いや、なんで」
「あのさあ……」
 震える顔を必死に押さえつけ、顔を上げる。泉が呆れ顔をしている。どう考えてもひどい顔をしているだろうに、今度は、そのことに触れてこない。瀬名泉は根本的に面倒見がいい。口は悪いが思慮深い。自己中心的だが他者に気をかける余力がある。たまたま再会した、友人のそのまた友人に手を差し伸べてくれるぐらいには。
 泉はひとつ息を吐き、表情とは裏腹に優しい言葉を口にした。
「あんたさあ、くまくんに会いたいんでしょ。流れ星に願い事なんかしてさあ、健気な真似して、くまくんは世界中どこにもいないかもしれないのにねえ。……けどくまくんの足跡を辿ることは、出来る。だから俺が渡りをつけといてやるって言ってんの」
「それって……」
「元Knightsの連中に連絡入れておくから、話でも聞きな。俺が知ってるくまくんのことはもう教えた。一番陰謀に近いあたり。あとのことは俺より詳しいやつらがいるからさあ」
「あ、ありがとうございます」
「いいっての。くまくんには俺も言ってやりたいことがあるんだよね。俺はいちおう、くまくんの友達だったわけだし」
 でも消えたくまくんを追いかけられるのは、俺じゃないからねえ。
 泉はどうってことなさそうにそう呟いた。
 真緒はしばらく押し黙り、泉が操作するスマートフォンの画面を見つめていた。画面に出ている「瀬名泉」の文字。瀬名泉。一つ上の先輩。朔間凛月と同い年。Knightsの中で、二人は仲が良かった。付き合いが長いのだとかなんとか、聞いた気がする。でもそんな瀬名泉は、凛月を追いかけられるのは自分ではないと言う。
 朔間凛月と一番長く付き合ってきたのが誰なのかは、衣更真緒自身が一番知っている。
 だから真緒は、凛月のことを滅多に考えることを、止めてしまったのだ。
 凛月のことを正面から考え続けていたら真緒は立ちゆかなくて、それはTrickstarのみんなに迷惑をかけることでもあるし、なにより恐らくは、凛月が一番それを望んでいなかっただろうから。
「……『りっちゃん』は」
「うん?」
「りっちゃんは、どこ、行っちゃったんだろう。どこに……」
「バッカじゃないの。それをこれからあんたが探しに行くんでしょ」
 泉の指先が真緒のスマートフォンをすらすらと操作する。ピッ、という短い電子音と共に友達承認がされて、真緒はスマートフォンを返された。準備しなよ、もうじきに始まるんだからね。泉が椅子から立ち上がる。慌てて確かめた掛け時計は、午前十時過ぎを示していた。