02


 凛月ちゃんはねえ、真緒ちゃんのことが、大好きだったのよね。世界中でいっちばん、真緒ちゃんが大事だったのね。アタシ知ってるわよォ。……ううん、きっとアタシたちみんな、そのことを知ってるのね。
 瀬名のはからいで卒業ぶりに会った鳴上嵐は、そんなふうに微笑みながら向かいの席に真緒を迎えた。六本木にある高層ビル、その中にある「一見さんお断り」風の喫茶店。内緒話にうってつけなのよォ、と嵐がコロコロ笑う。泉ちゃんも気に入ってるのよ、ここ。静かで、のんびりしてて、世の中の喧噪と無関係で。
「昔に戻れるような気がするからかしら、ね」
 そんなことは本当は有り得ないんだけれどもね。
 ティーカップを持つ指先は、在学時よりも少しだけ色白さを増しているような気がした。


 グラビア撮影の控え室でばったり瀬名に出会ってから、三日が過ぎ去っていた。芸能界で活躍するKnightsのメンバーは誰も彼もが忙しく、すぐには渡りをつけられなかったのだ。それでもみんな、出来るだけ都合をつけて早いうちに会おうと真緒の予定に合わせてくれた。それはたぶん、Knightsのメンバーにとってそれだけ凛月が大切な存在であるのだということの証拠だった。
 同級生でその上クラスも同じだった嵐は、Knightsのメンバーの中では、真緒にとって付き合いやすい人間の方だった。それでも進路が違えば、自然と顔を合わせて話すこともなくなる。元々嵐のアカウントは友達登録されていたのだということを思い出したのも、瀬名からの『三日後なら会えるってさ。あとは自分たちで勝手にやって』というメッセージを読み、続けざまに届いた『んもォ、真緒ちゃんたら! 悩んでるんならそうと早く言ってちょうだい!』というメッセージを開いてからのことだ。
 おっかなびっくり嵐からのメッセージを開くと、たった今届いたばかりのメッセージの上に、ずいぶん過去の日付のログがずらりと並んでいる。日付は在学中のものだった。『SS、おめでとう! アタシ、もう、感動しちゃった。本当に嬉しい』というメッセージが、過ぎ去った年月の重みを否応にも感じさせた。これは何年前のことだろう。……四年前だ。あの頃はまだ、そばに、凛月がいた。
「凛月ちゃんてば、あんまりにも自然に真緒ちゃんに好き好きってするじゃない。だからアタシ、本当言うとね、少しだけびっくりしたの。凛月ちゃんが、あなたにさえ何にも言わないでいなくなってるとは、思ってなかったから。……でも。それはアタシの買いかぶり、いえ、見くびりね。好きってそんな、単純な気持ちじゃないものねェ」
 嵐が目蓋を伏せってしみじみと呟く。真緒はその言葉をぼんやりと聞き流し、角砂糖の詰まったポットを見つめた。
 凛月が、真緒のことを、好きだということについて。衣更真緒はそのことを客観的に把握していたと自覚している。なにしろ凛月は衆人環視の中で「ま〜くん大好き」と言ってはばからなかったし、すぐ抱きついてくるし、甘えたがりだし、依存している自分を見せようとしている節があった。真緒のことを家族だとも何度も言っていた。真緒にとっても凛月は家族のようなものだから、それ以上でもそれ以下でもなくて、そうだなと笑って聞いていた。
 だから嵐の話は、真緒にとっては奇妙にふわふわ浮ついていて、なんだか自分の事ではないように、宙ぶらりんに聞こえた。
「凛月ちゃんは真緒ちゃんのことが大好きだったわ。愛してたの。いいえ、今も、ずっと、愛してるんだわ。アタシね、これだけは言っておきたいの。そのことには決して変わりがないのよ」
「……それ、どういう意味だ?」
「凛月ちゃんは真緒ちゃんを置いていったんじゃないわ」
 ちょっと待って、話がわかんないんだけど。そう口を挟むと、嵐が静かに唇をすぼめる。
「じゃあもう一回だけ言ってあげる。凛月ちゃんは、真緒ちゃんを、置いていったわけじゃない。そう言ってるの」
 強い語調で、重ねて言い切られた。角砂糖の入ったポットに差し込んでいたティースプーンが止まる。真緒は思い切りよく顔を持ち上げた。鳴上嵐のひどく厳しいまなざしが、いつの間にか真緒を射貫いていた。
 嵐がよく見せる、そして出会いしなに向けてくれたような、あの春の陽射しみたいにぽかぽかした柔らかい笑みは、すっかりとなりを潜めていた。真緒はひゅうと息を呑んだ。どこからともなくにぶい痛みがやってくる。そしてそれが手のひらをちくちくと刺し、ついには左胸の奥底へ這いずって来て、王手を掛けようとする。
「……じゃあ、あいつ、なんでいなくなったんだよ」
 真緒がきれぎれに訊ねると、嵐はふるりと首を横へ振った。瀬名のように綺麗な水平ではなかったが、やはりモデルらしい、うつくしい所作だった。
「それよ、それ。真緒ちゃんは残酷よねェ。そういうの、いちばん、手ひどいのよ。知らないのかしら?」
「だからそれ、どういう意味……」
「そんなこと言っちゃうの、ひどいわァ。あれだけ凛月ちゃんの愛情をたっぷり受けていて、その意味を知りながら、ほんとうの意味で返してあげてないじゃない。……少なくともアタシの知るところでは。それってきっと、愛に気付かないよりずっと残酷よォ」
 でも、そんなあなただから、凛月ちゃんは守りたかったのね、世界中のどんな痛みからも。
 整った唇から発される言葉は、真緒がそれまで聞いたどんな嵐の台詞よりも鋭利だった。
 それから嵐は、どうして自分が、なるべく急いで真緒に会いに来たのかをぽつぽつと捕捉した。真緒が今更のように――嵐はそのように言った。しかしこの言葉はいたって当然であると真緒でさえ思った。なにしろ凛月の失踪からは三年の月日が経っていたのだから――凛月に会いたいと言い始めたことを知り、いの一番に、このことを告げなければいけないと彼は感じたらしかった。
「だってそうしないと凛月ちゃんが可哀想じゃない」
 可哀想って言葉も、よくないのかもしれないけれど。だけど見てられないわァ。アタシ凛月ちゃんのこと大好きなのよ。鳴上嵐は衣更真緒から目を背けない。
「三年前……凛月ちゃんが真緒ちゃんにも何も言わなかったって聞いてね、アタシその時、すぐに思ったの。それが凛月ちゃんの選択。あの子なりの気遣いで、思いやりなんだってね」
「気遣い? 思いやり? 俺に何も言わないで消えちゃうことが? 何で?」
「……真緒ちゃん、それ本気で言ってるのォ?」
「いや、だって。俺は凛月が大事なんだよ。凛月がもし死にでもしたら目の前が真っ暗になるって、そう言ってやったことさえある。なのになんで……」
「嘘ばっかり。真緒ちゃんは今も前を真っ直ぐ見て歩いてるわ。もう三年目よ」
 嵐がぴしゃりと言い棄てる。それからティーカップの中に砂糖を追加して、ぐるぐるとそれをかき混ぜる。
「でもそれが、凛月ちゃんの願ったかたちでもあるのよね。真緒ちゃんが本当にお先真っ暗にならないよう、自分を忘れてもらえるよう、黙っていなくなったんだから。難儀な子よね」
 くるくる回る水面には澄まし顔の嵐と表情筋ぐちゃぐちゃの真緒が映ったり消えたりしている。
 真緒はぐっと息をつめ、言葉を噤んだ。
「…………わかんないよ」
「そう、仕方ないわねェ。そしたらちょっと、キツめに言わなきゃ駄目かしら」
「頼んでもいいか?」
「うふふ、もちろん。素直なのはいいことよ。じゃあちょっと、集中してお聞きなさいな。
 ……凛月ちゃんにとって、真緒ちゃんはね、『家族みたいなもの』なんかじゃなかったのよ」
 ここまで、いい? 嵐が問いかける。全然よくない。真緒は言葉を失ったまま、まなざしで雄弁に嵐へ聞き返す。よくない。マジでよくない。朔間凛月にとって衣更真緒はじゃあなんだったんだ。教えてくれよ!
 ぱくぱくと動くばかりで唇は音を紡がない。真緒は蒼白になって嵐に縋るような瞳を向けた。嵐はティーカップを持ち上げて優雅にお茶を一口いただくと、あなたって本当に残酷ねと困り笑いを浮かべ、真緒の頬にデコピンをする。
「そんな顔しないの、わかりきってるじゃない。凛月ちゃんにとって、真緒ちゃんは本物の家族なのよ。だから一線引いてほしくなかったの。ずっとそばにいてほしかったの。だけどね、真緒ちゃん。あの子はそれでも身を引いたのよ。この意味、分かるかしら。分からないって言うのなら、アタシ、Knightsの――あの子の仲間として剣を抜くわ。アタシは騎士ですもの」
「え、」
「……な〜んてね。半分だけ、冗談よォ」
「は、はんぶんだけ」
「そりゃあね、真緒ちゃんはアタシのお友達ですから、半分だけサービス。それにアタシ、このことも知ってるから」
「このことって、どのこと」
「真緒ちゃんがどれくらい凛月ちゃんを好きかってことよォ」
 だからついつい採点が甘くなっちゃうのよねェ。
 嵐は溜め息をついてもう一度真緒の額にデコピンをした。大して痛みはなかったけれど、心臓を強く揺さぶられたような心地がした。真緒は深呼吸をして、元クラスメイトにして友人がここまで口にしたことを、心の中で復唱する。
 凛月は、真緒が、大好き。本物の家族だと思っている。だから自ら身をひいた。……身をひくって、あの、少女漫画とかで出てくる、相手の幸せを思って云々ってやつで、合ってるだろうか。多分合っている。じゃあ凛月は誰のために姿を消したんだ?
 そして、真緒も、凛月が、好きで――だからつまり、それは――……。
「俺が、凛月のこと好きだって?」
「そうよォ」
「……それって当たり前じゃないか? だって俺は凛月の幼馴染みだろ。凛月のことがずっと大事でさ。凛月が死んじゃうのは嫌だし、遠くに行っちゃうのも悲しいし、一緒にいると楽しいし、それが好きってことなら、そんなの当たり前だろ」
「……はあ。そういうことじゃ、ないんだけどもね。ま、いいわよ。おうち帰って、あたりを見回してご覧なさい。あなた自身気付いていなかったことが、きっと見つかるから」
「はあ……そんなもんかな……」
 嵐の言葉が段々謎かけめいてくる。真緒は首を捻り、ぎしぎしと痛む左胸をそっと押さえた。心臓が痛む理由はまだうまく自覚出来なかった。自覚したくもなかった。
 でも、鳴上嵐はその逃避を許さない。停滞を許さない。嵐の手が真緒に向かって伸びる。真緒の手を左胸から払い取り、真緒の心臓が露わになる。嵐は目を細め、真緒を見据えた。真緒の胸を打つ鼓動は次第に早鐘になっていった。
「いいこと真緒ちゃん、アタシはね、思うの。今がきっと、あなたにとっての転換期なのよ。……あれから、三年が経った。その時間は、心の中にぽっかりと空いた穴を自覚するために必要なものだったのね。だからアタシ、真緒ちゃんがアタシたちKnightsに話してくれたことがとっても嬉しいわァ。切っ掛けは泉ちゃんのお節介だったのかもしれないけど、ささいなことよ。
 ……真緒ちゃん。自分で目を背けていたものに、気がつくときが来たのね。ここからが正念場よ。これってすごく大変なことなの。自覚は痛みを伴うわ。再認識は終わりのない苦痛だわ。今まで見てなかった世界が急に見えるようになって、頭の中、ぐちゃぐちゃしちゃうかも。……でもね」
 いいのよ。ナナホシテントウや、雨上がりの虹や。家の中に入り込んできた黒猫、それらは全部、真緒ちゃんに春の訪れを報せるサインなのよ。
 嵐の手のひらが、真緒の胸に触れる。
 心臓の音を宥めるように手のひらは温かい。
「真緒ちゃんは一人じゃないわ」
 それから、鳴上嵐は静かにそう告げた。
「アタシたちKnightsが、ついててあげる。だって真緒ちゃんはアタシたちの友達だもの。Knightsの朔間凛月がうんと大事に想ってる子、ならアタシたちが騎士として、迷えるアナタを導いてあげる」
 真緒は唇を閉ざしたまま嵐の瞳をじっと見つめ返した。その瞳の奥に、あの夜、マンションの屋上で眺めた流星群が見えた気がした。流れ星は吉兆のひとつ。善いことが起こる兆し、そして目覚めの兆し。流れ星が落ちきるまでに願い事を三回言えれば、いつかその願いは叶うんだっていう。
 真緒は流れ星に願い事をした。
 それは願いを叶えたかったからに他ならない。
「……嵐はさ、何で、俺にそこまでしてくれるんだ?」
 気付けば、口は一人でに動いていた。そんな質問は無意味で、聞くまでもなく当然なんだけど、確かめたかった。形に残るものを置いていかなかった親友の後ろ姿が脳裏にちらつく。だから確かめておきたい。瀬名泉も、鳴上嵐も。二人だって、凛月を、凛月が、だから、真緒は……。
「凛月は確かにKnightsの仲間だ、俺は凛月の幼馴染みで親友、だけどKnightsと俺は、べつに――」
「こ〜ら! ぐちゃぐちゃ難しいこと、言わない! 友達に幸せになってほしくて、悪いことなんかないわよ!」
 ほら、わかったんなら急ぎなさい! 嵐が拳を握りしめる。ここのお会計はアタシがやっておくから。貸しよ、もちろん。……どうやって返したらいいかって? ばかね、真緒ちゃん。そんなの、決まってるでしょう。
「ハッピー・エンドを見せてくれれば、それでチャラよ!」
 衣更真緒は走り出す。
 鳴上嵐に背を押され、弾かれたように、一人暮らしのマンションに向かって、走る。


◇◆◇◆◇


「はあ、はあ、はあ…………」
 全速力で駆け抜けて、ほうぼうの体で辿り着いたマンションは、やはり誰一人住んでいないがらんどうだった。
 分かりきっていたことだが人っ子一人いない。朝、急いで出て行ったせいで玄関口にものが散乱している。酷い有様だ。こんな場所に急がせて一体何がしたいっていうんだろう。急にそんな気分さえしてくる。
「はは……そりゃ、当たり前か。嵐があんなこと言うから、急いで帰ったら何かあるのかなとか、ドッキリ仕込んでましたとか、あるかなと思ったのに。……あるわけないか。あるわけない……」
 嵐があんなふうに、期待を持たせるようなことを言うからだ。真緒の身勝手な落胆はかなりのものだった。誰か人がいたほうが困る家の中に誰もいなかったぐらいで、真緒はどっと疲れ果てて落ち込んだ。
 だから――。
「…………あ、ああ……」
 そのこと・・・・ に気がついた途端、自重を支えていられなくて、あまりのことに眩暈がしてきて、真緒はがくりと膝から崩れ落ちてしまった。
 衣更真緒が一人で暮らしている家には、不自然な間があった。それは家中いたるところに何カ所もあって、不必要に点々としていた。
「……そういう、ことなんだな」
 真緒は呆然として呟いた。
「俺。俺……凛月のこと、…………好きだったんだ」
 それ以上の言葉はもう何も出て来なかった。
 食器棚には全てのコップや皿が二個ずつ備えられていて。洗面台には歯ブラシがいつも二本置いてあって。バスタオルは二枚ずつ出してあって。ソファの上にはクッションが二つあって、ダイニングの椅子は二つあった。一人暮らしの家には不釣り合いな「2」という数字が延々とそこらじゅうに転がっていた。最早真緒は項垂れるしかなかった。どうして今まで気がつかなかったのか。この不自然な家を作り上げたのは真緒自身なのに。どうして……。
「好きだったんだ。友達とか、幼馴染みとか、名前のつく好きだけじゃなくって、本当に、……好きだったんだ」
 目を丸く見開き、無意識のうちに集めていた二揃いのものたちを順繰りに数えた。左胸が痛い。あれも、これも、それも、どれも。なんだって二つずつ揃えてある。きっとあの棚の中のパジャマでさえ二人分あるんだ。そのことを考えると今度こそもう本当に駄目だった。そういや昔、一緒に寝具を見に行ったよな。ああ、苦しい。胸が重たいと苦しいではちきれそう。
「……く、う、うぅっ、うあぁっ……!」
 真緒は、三年間気付きもせずに暮らしていた二人分のもので溢れた部屋の中、一人さめざめと泣いた。嵐の言葉通り、自覚は痛みを伴い再認識は終わりのない苦痛をもたらした。こんなことなら気付かなきゃよかった。自分がどれだけ凛月を好きだったかなんて。だから凛月だって何も言わずに一人でいなくなったんだ。気付いたら辛い思いをするから、想い出に蓋をして、そっといなくなった。
「だけど……だけどそれでも俺は、凛月に会いたい!」
 凛月はいつだって真緒に好きをくれた。口に出して好きと言ってくれたし、時には抱きしめて目に見える形でそれを教えてくれた。真緒もそれが嬉しかった。凛月はたくさんの好きを真緒に与えてくれたのだ。
 だけど真緒自身は、一体どれだけ凛月にそれを返せただろうか。
 凛月からの愛をわかっていて、一体どれだけの愛を、凛月に渡してあげられたのだろう――。
「――にゃあ〜ご」
「……え?」
 どこからともなく、真緒の泣き声へ割り込むように猫の鳴き声がする。真緒は、はっとして顔を上げた。鳴き声のした方を振り向くと、玄関口に黒猫が立っていた。瀬名と再会したあの朝、家の中に入ってきていた猫だ。きっとそうだ。真緒は慌てて黒猫へ駆け寄った。
「にゃぁ。にゃ〜。んにゃ〜ご」
「おまえっ、どうやってここに……い、いや、それより。三日ぶり……だよな?」
「ナァ。んにゃあ」
「はは、なんだそれ。はいって意味かな。……ってか、もしかして俺の様子見に来てくれたのか? なんて、まさかな……」
「にゃあ。にゃあ〜ん」
「……はは。なんだよ〜、俺の朝が心配だって? 大丈夫だよ。サヨナキドリの目覚ましは、昨日も一昨日もあったんだから……寝坊なんかしないって。……凛月じゃ、あるまい、し……」
「ふにゃあ!」
 真緒が手を開くと、黒猫は真緒の身体を駆け上がる。抱きすくめるとゴロゴロ喉を鳴らした。初めて会った日、撫でようとしただけでそっぽを向いたあの猫と同じとは思えない態度だが、それでもやはり、あの黒猫とこの黒猫が違う猫のようには思えない。
「猫って、寂しい人になつくんだっけ。……俺、今、寂しそうな顔してるんだろうな。だからおまえも優しいのかな……」
 真緒が語りかけると、猫は短く鳴いて返事をした。
 そっか。俺ずっと、寂しかったんだな。寂しいから、凛月のための空白から、目を逸らしてたのか。そう独りごちたのには、猫は何も答えない。
 ――だから。その晩衣更真緒は、名前も知らぬ黒猫を抱いて眠った。
 猫に名前は付けなかった。付けられなかった。もしその猫に名前を付けろと言われたら、真緒が選べる名前は一つしかあり得なくって、だけどその名前で猫を呼ぶことは逃げや甘えのように思えた。
 真緒は名もなき猫を抱いて眠った。
 世界じゅうどこにもいなくなってしまった吸血鬼のことを密やかに想い、そうして一晩を明かした。起きた時には猫はどこにもいなかった。