03


 たとえばあの流星群が、全ての目覚めのサインだったとして。
 そんな都合のいい出来事が起きたのだとして。
 だとしたら流星群は、真緒に何を伝えたかったのだろう。
 過去から未来へ、彼方から此方へ、瞬く間に消えて行くあの無数の命達は、なにがために空から地へと失墜していくのか。


「不肖、この私朱桜司が無礼を承知で聞かせていただきます。衣更先輩は、何故凛月先輩を捜しに行かなかったのですか」
 嵐と話し、自分が目を背けていた欠落を自覚した、次の日のこと。朱桜司は真緒の家を訪れた。初めて会った時はいかにも頼りない末っ子という風体だった彼も、夢ノ咲を卒業して今ではいっぱしの経営者だ。朱桜の家を引っ張る多忙な身である彼が「真緒の家で話がしたい」と連絡を寄越した時には驚いたが、黒猫を一匹伴った彼をいざ家に迎えると、そんなことを言っている場合でもなくなった。
「どうして凛月先輩を捜しに行かなかったのですか。今まで、三年間も。敢えて言わせていただきましょう、何故、今更になって=H それがそもそも、私には分からないのです」
 黒猫は、このマンションに来る途中で拾った……というか、勝手についてきたのだという。それはまあ、別にどうでもいい。このあたりを根城としている野良猫なのだろう。
 朱桜司は衣更真緒を糾弾する。粗茶だけど、と言って真緒が出した日本茶にはひとつの文句も付けず、ただ真っ直ぐに、真緒が犯した過ちを咎めてくる。
「予め、瀬名先輩や鳴上先輩からは事情をお聞きしています。私なりに、考えもしました。その上で衣更先輩の行動は実に不可解です。察するに、凛月先輩の兄上は、行方をご存じなのでしょう」
「や、まあ、それはそうなんだけど、朔間先輩、言う気はなさそうだったというか……」
「それが如何ほどの事だと言うのですか? 瀬名先輩はお優しいですから、言う気のない人間から情報を引き出すのは難しいというようなことを仰っていましたが。私はそうは思いません。
 ――だって衣更先輩、あなた、凛月先輩のご近所に住んでいたじゃないですか。おうちに乗り込んで口を割るまで問い詰めればよかったのです。それがBestです」
 司のまなざしは真剣だった。
 そのあまりの真っ直ぐさに、真緒は息を呑む。もしかして彼は、この三年間、凛月を捜したことがあるのだろうか。そう思わせるほどの鬼気迫る何か。だから彼はこんなにも怒って、真緒を糾弾するのか。そうだと言われた方が、よほど納得がいく。
「……あのさ、」
「なんでしょう」
「朱桜は、凛月のことが大事なんだな?」
 少しだけ躊躇って、けれどなりふり構ってはいられないと、司にそう尋ねる。司はすぐさま顔を真っ赤にし、肩を震わせ、カッと頬を恥辱の朱に染めた。
「――当たり前です! 一体それはどういう意味での問いかけですか、衣更先輩。事と次第によっては侮辱と見なしますよ!」
「や、違うんだ、そうじゃなくって! ……おまえさ、凛月がいなくなったことに、なんか責任とか、感じてるのか? もしかしてさ……」
 もし司が、必死になって☆z月を捜そうとしたのであれば。
 それは一体どうしてなのだろう。その真実を聞かなければ先には進めない。だから真緒は恥を忍んでそう訊ねなければいけなかった。
 凛月が好きだからとか大事だからとか、それだけではないと思う。それだけなら、瀬名泉と鳴上嵐だって、十分に真緒を糾弾する権利があった。真緒から見たKnightsは、仲の良い兄弟や家族のような間柄に映っていたからだ。長兄にして家長の月永レオを筆頭に、五人のユニットとして復帰した彼らは、仲睦まじくやっていた。
 司は末っ子として特にかわいがられていた、そんな印象もあるが、だからといって特別怒りを覚えるほど凛月に入れ込んでいたわけじゃない。司が尊敬して惚れ込んでいたのは、個々のメンバーである以上に、Knightsという『ユニット』の在り方についてだったのだ。
 だから、きっと。
 朱桜司には、朔間凛月が世界じゅうのどこからもいなくなってしまったことに対する、何らかの負い目がある。
「――ッ、そ、そんなこと、私……私は……」
 そう思って訊ねると、どうもビンゴだったらしい。
 司は黒猫を抱き上げ、真緒から目を背けるようにして俯いた。
「おい、朱桜」
「凛月先輩……私……どうして……」
「……す、朱桜?」
「…………。そう、です。本当は、あなたの言うとおりです。衣更先輩」
 真緒が慌てて司に手を伸ばす。けれどその手で司の頭に触れることは躊躇われ、真緒の手は行き着くあてもなく、宙を撫でるばかりだった。ごめんなさい。司がちいさく唇の中でその言葉を紡いだ。ごめんなさい。ごめんなさい凛月先輩。ごめんなさい、衣更先輩。言葉は、呪いのように司の唇を蝕む。
「私には凛月先輩に対する負い目があります。今思えば、不自然だなと思う箇所がいくつもあったのに、おかしいなって気付いていたのに、引き留められなかった。ええ、そうです、そうですとも! ……すみません。本当は、理解している。こんなのは、みっともない八つ当たりです……」
 張り詰めていた緊張の糸が切れ、ダムが決壊するように、司の唇から嗚咽が漏れる。すみません。衣更先輩の家を指定したのも、こうなるだろうと何となく気がついていたからです。司が震える声で呟いた。衣更先輩と会って話したら、このどこにもぶつけようのない感情が破裂してしまうのだろうなと、私は気がついていたんです。
「今でも信じられません。凛月先輩がこの世界のどこにもいなくなってしまっただなんて。
 ――学院で最後に凛月先輩とお話したのは、私だったんです」
 そうしてやっとのことで朱桜司は面を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった双眸を真緒に向けた。
 泣きはらした瞳は、それでも真緒を射貫く鋭さを失っていなかった。


◇◆◇◆◇


 それは過ぎ去った過去に訪れた、冬の夕暮れの話だ。
「――ねえ、ス〜ちゃん。吸血鬼が人間と同じふりをして生きていられるのって、子供のうちだけなんだって」
 諸説あるんだけどね。吸血鬼の出てくる小説とかでたまにねえ、あるんだよ。子供の頃は多少なりとも太陽の光をあびてられるとか、そういうの。
 ――だから俺はこの学園でアイドルなんてものを曲がりなりにもやれてるんだよね。
 そんなふうに、その日朔間凛月はいつもの冗談めいて朱桜司に囁いたのだった。
「What? 凛月先輩、いきなりどうしたのですか。あ、寝不足とか……?」
「ん〜。今日はいっぱい寝てるよ〜。でもなんか、そろそろかな〜って、最近そんな気がしている。ので、ス〜ちゃんには話しておこうと思ったのだ」
「ええと……本当に、意味がよくわからないのですが……。第一、凛月先輩。お兄様の朔間先輩は、全然元気そうですよ。あの方はもう随分大人かと思いますが」
「兄者はもともと、俺より身体が頑丈だし。図太いし、しぶといし、ちょっとやそっとじゃ、殺しても死なないよ。あれは吸血鬼ではあるんだけど、もっと別の強い生き物。俺みたいな先祖返りとは違う、現代に最適化した生命体」
「はあ……」
「あはは。ス〜ちゃん、わかんなくて困るって顔してる。かわいいなあ、もう」
 朱桜司が夢ノ咲学院で迎えた二度目の冬。瀬名泉と月永レオが卒業し、メンバーが入れ替わって、それでもKnightsは続いていて。名目上、リーダーは三年生になった鳴上嵐が務めていたが、Knightsの王たる冠は朱桜司に継承されていた。最年少は司ではなくなり、年下の後輩達に先輩らしいところを見せなければと気負う場面も自然と増えていく、そんな時節。
 だからこそ、凛月と二人で過ごす時間は、司にとって憩いのひとときであった。
「というか、凛月先輩。何故そんな話を私に? 私以外に、もっと適任がいらっしゃるのでは?」
「ス〜ちゃんだからいいんだよ。『Knights』はさ、むかし、個人主義者の集まりだった。けどそれを今のかたちに変えた最後の決定打は、間違いなくス〜ちゃん。独りぼっちじゃなくていい、家族とか兄弟みたいなものでもいいんだって、ス〜ちゃんが定義した。だから俺はス〜ちゃんに遺言するの」
「Jesus Christ! 遺言だなんて、一体どうしたんですか、凛月先輩! そんな不吉な単語、よろしくありません。きっと何かのご冗談ですよね?」
「ん。そうなると、いいね〜」
 朔間凛月がはにかむ。夕暮れの光を背に浴び、逆光の中、色濃い影を顔に落として。黄昏の中で迷い子になる子供が強がるみたいに儚い顔をして、凛月は両手を後ろ手に組んで小首を傾げる。
「永遠に停止してるはずだった俺が、ちょっとだけでも夢を見られて、楽しいこと嬉しいこといっぱいあって、愛すること愛されることを教えてもらって。もうじゅうぶん、俺は幸せになったよ」
「り、凛月先輩……」
「でも。一個だけ、心残りもある。だからそれだけは、俺の手でなんとかしてかないとね。後顧の憂いは断つ。立つ鳥は跡を濁さない。いなくなる時の吸血鬼は、きれいでなきゃ。なにより俺は騎士だからね。騎士って、清廉潔白な身の上でなきゃいけないんでしょ。少なくとも、ス〜ちゃんが信じるKnightsは。その通り、誇り高い集団でなきゃ」
「それは、そうですが! 私が焦がれたKnightsは、誇りあるひとびとです。高い実力に裏打ちされた自信が、死地へ赴く騎士に勇ましさを与えるのです。けれど凛月先輩、あなたの言葉は、先ほどから、まるで……!」
「――な〜んて、ね。ス〜ちゃん、腕がちょっとぷにっとしてる。なまったんじゃない?」
 凛月の、あの紅の鮮やかな瞳がすうっと細められ、綺麗なウインクの形を作り出した。アイドルとして活動してきた彼のウインクは精巧でうつくしいが、しかしだからこそ、その時の司には不自然なものに映る。
 凛月先輩。今、お話を逸らそうとしましたね。だけどその言葉は、永遠に、喉の奥へ出て行こうとはしなかった。それを口にしてしまえば、凛月が何から話題を逸らしたかったのか、その本当に目を向けなければならないと朱桜司は理解していた。
 そして恐らくは朔間凛月も、司ならその理解に及ぶと信じて、彼にこの話をしたのだ。
『口止めの代わりだよ、この遺言、それそのものが』
 凛月の微笑みの向こうに、そんな声なき言葉が聞こえるような気がする。
 司は歯噛みをし、拳を握りしめた。Knightsに加わってからあらゆる場面で己の力不足を感じてきた司だが、こんな最低最悪の無力感は、多分生まれて始めて味わったものだった。
「ねえ、一個だけ、俺の独り言、聞いてくれる?」
「……っ、はい……」
「もしも俺が本当に世界のどこからもいなくなっちゃったとして。……ま〜くんは、それでも俺のこと、探してくれるかなあ?」
「――! 当たり前です! あのひとは、あのひとだけは、必ず凛月先輩を見つけます。そうでなければ、私……」
「うん、な〜に?」
「私きっと、衣更先輩を許せませんから!」
「……そっか。ありがと、ス〜ちゃん。それ聞いて、ちょっとだけ安心した」
 凛月がひらりと手を振る。行かないで。行かないでください凛月先輩。どこにも行かないで。そんな寂しそうな顔をしてどこへ行くのですか。恥も外聞も捨てて叫んでしまえたら、そうしなければ、朱桜司はきっと一生、後悔と未練をこの胸に刻んで生きることになるのに――
「それじゃ、また明日ね」
 だけどあなたがそんなにもうつくしい吸血鬼の横顔を見せるから。
 朱桜司は、朔間凛月の頼みを裏切れない。
「ば〜か、ば〜か、凛月先輩の……大馬鹿吸血鬼!」
 かくして朔間凛月は世界じゅうのどこからもいなくなる。
 夢見るように消え失せる。
 朱桜司の心臓に永久に消えないひっかき傷を残して。


◇◆◇◆◇


「あのひとは身辺整理をしていました、それも巧妙に、狡賢く。そうしてきれいにきれいに自分の痕跡を消していって、けれど私にだけはRegret messageを残されていったのです。いつか凛月先輩を、探すひとが現れた時のために。……凛月先輩も、消えることが恐ろしかったのではないでしょうか。私はあの日のことを思い返す度、そう考えずにはいられない」
 司がその日のことを語り終えた頃、窓の外は、ちょうど凛月が遺言を告げたのと同じ黄昏の色に包まれていた。粗茶はとっくに湯飲みの中から消え失せ、からっぽの湯飲みを二つと気ままに寝そべる黒猫を挟み、そこから二人は、ずるずる流れ落ちるように「朔間凛月」という吸血鬼の話をしあった。
 たとえばそれは、凛月がどうして吸血鬼を名乗っているのか、とか。
 同じ吸血鬼を名乗る朔間零が、毎年復活祭の時期に、儀式として血を飲んでいたという話を聞いたことがある。その時は確か、事前に採血をしておいて、葡萄酒などに混ぜて杯を飲み干すという手順を取っていたはずだ。朔間零自身が「血が飲みたい」と言っていたなどという話は皆目聞かない。
 けれど凛月はひんぱんに「転校生の血が飲みたい」とか、「ま〜くんの血はおいしそう」だとか、そういうことを口にした。零も凛月も、吸血鬼は一族の特性であるというふうに振る舞っていたが、こうして改めて振り返ってみると、両者には大きな隔絶が見えるのも、事実だった。
「第一。凛月は、いつも言ってたんだ。俺に、死ぬまで面倒見てだとか、そんなことをさ。なのに消えちゃうとか、変だろ。凛月だって好きでいなくなったわけじゃないんだ……」
「つまり、衣更先輩は、凛月先輩が本当に本物の吸血鬼だったと仰りたいのですか?」
「そのほうが……なんていうか。筋が通るなって思うよ。朔間先輩は『真性の吸血鬼だった』みたいなこと言うし。なんかその、吸血鬼の力みたいなのが強くなりすぎて、思ってたよりやばくて、今まで通りじゃいられなくなったっていうか……」
「ふむ。まあ、一理あると言えてしまうのが、凛月先輩の底知れぬところではあります」
 でも私は、凛月先輩が吸血鬼でもなんだっていいんです、もう一度お会い出来るのならば、それより嬉しいことなんかないんです、と司が言った。
 そうして話が一段落する頃には、黄昏を映していた空にもすっかりと夜のとばりが落ちきっていた。一息吐き、立ち上がる。窓を開け放すとしんと染み渡る夜風が入り込み、同時に、鳥のさえずりが耳へ届く。
「この鳴き声……。美しいですね。Nightingale、でしょうか」
 サヨナキドリの鳴き声を聞き、司が呟いた。
「へ? ナイチンゲール? 看護婦さん?」
「違いますよ。小鳥です。西洋ウグイス。Nightingaleというのは、そのものずばりNight in gale=\―夜にさえずる、という意味ですから。夕暮れのあとから夜明け前にかけて鳴くことから、そう名付けられたそうですよ」
「……サヨナキドリって言うもんだと、思ってた。グーグルだとそう出たし」
「ああ、サヨナキドリは、和名ですね。同じ鳥ですよ。美しい小鳥です――そう言えば、瀬名先輩が言っていましたっけ。ちかごろ衣更先輩は奇妙なぐらい吉兆続きだって……」
 だとしたらサヨナキドリの朝鳴きも、何かをあなたに報せようとしているのかもしれないですね。
 司の言葉はひどく穏やかなものだった。
「衣更先輩、Leaderには、まだお会いになられていないのですか?」
「月永先輩? 全然。っていうか、あの人、会おうと思って会える人?」
「いえ、まったく。こちらがどれほど連絡を取ろうとしても尻尾一つ掴めないタイプです」
「それ、会えないってことなんじゃ……」
「……でも。でもLeaderは、私たちKnightsの王です。あの方はかつて言いました、Knightsのメンバーは、我が子のようなものだと。そしてあの方は、懐に入れたものを大切にされる方です。凛月先輩の一大事――帰還の糸口があるとなれば、どこからか聞きつけ、口を挟んでくるでしょう。それはもうやかましく。盛大に。しかも得体の知れない手段で」
 もし真緒が本当に幸運を持っているというのならきっとLeaderとも会えるでしょう、と司が言った。真緒はそれにそうか、と頷く。からっぽになった湯飲みを示して、「おかわりいるか?」と訊ねると、司はふるりと首を横へ振る。育ちのいいお坊ちゃまのきれいな所作。Knightsも十人十色だなあと真緒が勝手に納得していると、司は「随分長くお邪魔してしまいましたし、ここいらでお暇します」と告げて立ち上がった。
 司の膝から黒猫がするりと抜けていく。真緒が目で追うよりも早く、黒猫はたんと床を蹴って飛び上がり、開け放された窓から外へと抜けていった。真緒の部屋はマンションのそこそこの階層にあるはずだったが、一切の躊躇いを見せず跳躍したその姿は、あまりに自由で、勝手気ままで、やはり、失った友人の姿をそこに重ねずにはいられなかった。
 玄関口に立って、コートを羽織る司を見送る。司は靴紐を丁寧に結び、立ち上がると、くるりと振り向いて今一度真緒の方を真っ直ぐに射貫いた。
「衣更先輩。言っておきますが、私はまだ、あなたが三年間もの間凛月先輩を捜さなかったことを、完全に許したわけではありません」
「……うん」
「けれど。このお部屋の様子を見て、それでもまだあなたのことを薄情だと罵れるほど、私はもう幼稚ではない」
「……そっか」
「凛月先輩を、愛しているんですね、衣更先輩」
 司の問いかけに、真緒は躊躇いなく頷いた。司は微笑んだ。ならば私にとやかく言えることはもうないのでしょう、と彼は呟いた。それに私がとやかく言わなくたって、その十倍か二十倍は、Leaderが言ってくださるはずですから。そんなふうに苦笑しながら。
 司は憑きものが落ちたような表情で、おだやかに、真緒に挨拶の手を差し伸べた。
「ねえ、衣更先輩。私は常々思うのです。『そうだったらいいな』と思うことは罪ではない。ならば私は、思います。思い続けます。『そうだったらいいな』と。『凛月先輩は今もどこかにいる』のだと。私は願い続けます」
「うん」
「だから衣更先輩も信じてください。『そうだったらいいな』って。あなたがそう思わなくては、いったい他の誰が、凛月先輩を見つけられるというのですか」
「わかってる」
「――約束ですよ」
 握り取った司の手は、子供の体温じみて、熱かった。真緒の知らないところでいっぱい泣いてきた、そんな子供の手だ。そうか。ごめんな。真緒は小さく独りごちる。この手のひらに、凛月は遺言を載せた。いつか衣更真緒に届くことがあればいいと、淡い希望の混じった冷たく重い言葉を、末の子に持たせ続けた。
 さよなら、また今度、と手を振って司を見送る。その向こうには美しい夜空が広がり、流星群が落ちたことなんかすっかり忘れたように、星々が今日もきらめいている。凛月が世界から失われる前と、その後で、星空の輝きが変わることはない。けれど人の心に傷跡は残る。
 真実を知るべき時が来たのだ。
 夜をさえずる小鳥の鳴き声が、真緒の背中を押していた。真緒はスマートフォンを手に取ると靴を履き、玄関の戸を閉める。司を追うためではない。真緒が行くのは、彼が去っていったのとは別の方向。
 ――丘の上だ。
 見上げた空に輝く月は、なにひとつ欠けたところのない望月だった。