01




 その時確かに、俺の恋は死んだのだ。


「んっ――んぅ、ぁ、は、ふ、ぅ……」
 ごみための中でするキスは最低な味がした。ああ、本当、このバカは。ご飯食べてる? ちゃんと息してる? なんであんなパフォーマンスしたの、観客を泣かせてるんじゃないよ。ねえ今何してるかわかってるのかなあ。鏡で見てご覧よ、なんであんたは、そんな顔をして俺の身体を抱きしめるの。
 伏せられた睫毛が悲しみに暮れている。なんて酷いキス。不味い以外に感想が浮かんでこない。かさついた唇の皮が当たってぞわぞわする。やめてよ。泣きそうな顔で俺の唇を奪わないで。ふたりぶんの舌がもつれて唾液にまみれていく。吐息の全てが交雑する。俺たちはごみためでキスをする。
「――っ、は、ぁ……」
 口と口が離れて、その間に透明なものが伝った。初めてのキスはレモンの味がするだなんて嘘八百を言いふらしたのは一体誰だろう。俺は人知れず六十年代ポップカルチャーの音楽を呪った。アイドルにあるまじき恥ずべき行為だと知りながら罵った。フレッシュでかわいい甘いレモンのキスだなんて、全部、全部、嘘っぱちじゃないか。
「これで終わりなの、俺たち」
 俺たちのファーストキスは苦いレモンの味になり、青春は灰色のフィルムに色あせぐしゃぐしゃに潰れていく。
「ねえ俺たち、一体どこで間違えちゃったのかな」
 今にも泣き出しそうな俺の声にあいつがなんて答えたかは覚えていない。そうかな、とか、どうかな、とか、言ったのかもしれない。とにかくそこで俺の恋は死んでしまった。あの日の幸せは戻らない。あの日の栄光も帰らない。夢ならばどんなにかよかったのにね。ただ胸のうちに燻る痛みだけを残して、ごみためのキスが俺たちをご破算にする。

 ねえ、れおくん。
 俺さ、あんたのこと、好きなだけでいいよ。
 同じだけの愛を返してなんてわがまま言いやしないから。
 なのにどうして、あんたのこと好きなだけの俺でいさせくれなかったの。

 ごみための上で啜り泣いた俺の心に、神さまも天使も答えをくれなかった。俺は舞台を解体したスクラップの上で蹲った。雨が降ってくる。そのうち分厚い雨雲は嵐を呼び、雷を落とした。
 俺たち「Knights」が完全な敗北を喫したその日。
 皇帝が華々しく凱旋するその裏で、騎士たちは汚辱を着せられ、一つの恋が死に、音楽に愛された天才は学校へ来なくなった。それが瀬名泉十七歳の冬の日の話。



「王さま、来てないんだって?」
 兄者から聞いたよ、とスタジオの隅で寝転がったまま凛月が言った。
 四月になり、やっと進級した凛月は、昨年まで二年間も締めていた赤いネクタイを脱ぎ捨て、青色のものに変えている。泉は彼の言葉を聞くなり大きく溜め息を吐いた。このぐうたらねぼすけときたら――普段はあれほど「兄なんていない」と喚くくせに、こういう時は平然と兄貴を使うのだから、矛盾した生き物だ。
「そうだけど。……何? あのアホに、何か用でもあったわけ?」
「べつに〜。ただ、謹慎期間は三学期いっぱいだって聞いてたから……春になったら会えるかなあとか、思ってただけ。新入生の中から、加入希望者が出てくるかもしれないし?」
「いないでしょそんな物好き」
「どうかなあ。セッちゃん、王さまがいなくなったあとも、舞台の上に立ってる間は全力だったでしょ。だから何も知らなければ、俺たちだって案外ただただ輝いているアイドルに見えるもんだよ」
 そしたら、誰ぞがそれに憧れるかもしれないでしょ。凛月はのんびりとそう呟いた。アイドルの輝きは伝播していく、そうして夢と希望はとこしえを渡るんだよ、とあまり彼らしくもない繰り言がそのあとにくっついている。
 泉は再び溜め息を吐いた。凛月が何を言いたいのか、よくわからない。
「新入生が来たら来たで、適当にふるい落としておくだけだし。……こんな、ひび割れた硝子の城みたいなユニット、未来への希望に満ちた子達が入ったってしょうがないじゃん。これから先だって、どうせ落ちてくだけだよ」
「ふうん。じゃあなんでセッちゃんは、ライブに出るときはいつも全力を尽くすの?」
「うっさいなあ。こっちにはプロ根性ってもんがあるの。腐っても俺たちはアイドルなんだからさあ?」
「そうだねえ、腐っても=Aね」
 凛月がむくりと起き上がる。彼は猫のように俊敏に泉へ寄ってきて、その仏頂面を興味深そうに眺め回した。アイドルの矜持にかけてケアを怠っていない泉の肌はつるつるしてはりもつやも十分に保っていたが、でもその全てを台無しにしてしまうぐらい、泉の表情は渋く険しい。
「俺はセッちゃんのそ〜いうプライド高いとこ、嫌いじゃないよ」
 そんな泉の苦い顔に対してわざとらしいぐらいにっこりと微笑みを向け、凛月が笑った。
 泉はやれやれと肩をすくめて見せた。どうもこの男に対しては、妙な同族嫌悪というか――人をおちょくる根底の性質が似通っていて、笑顔の裏が読めてしまうのが嫌な感じだ。
「好きでもないでしょ」
 一言でばっさりと切り捨てると、凛月がこてんと小首を傾げ、悲しそうに眉根を潜める。
「んん。嫌味とかじゃないんだって、ほんとに思ってるよ。まあ、ま〜くんの真っ直ぐなまぶしさの方が好きなのは、認めるけど。でもどちらかというと好き寄りかな〜、それにそんなセッちゃんのプライドが大好きな人も、いると思うしねえ」
「ええ、誰? もしかしてゆうくん?」
「違うよ。王さまだよ」
 だから王さまが帰ってこないのはさみしいねって言ったんだよ、と凛月が呟く。
 泉は凍り付いた眼で凛月を睨み付けた。
 睨み付けた凛月の向こうに、撮影セットの玉座が置かれている。その上には衣装と王冠が置いてあった。誰のものかなんて言うまでもなく、もう半年ちかく、使われていないものだ。
 けれど椅子も衣装も冠も、一つの埃さえ被っていない。泉が手入れと掃除を欠かしていないから、玉座は今日も美しいまま、誰も座らないぴかぴかの正面を壁に見せ続けている。
「今年から、プロデューサー科が新設されて……ドリフェス制度も軌道に乗り、より大がかりなものになる。『Knights』を続けて行くつもりなら、俺たちもその大きな流れからは逃れられない。……エッちゃんの思惑に乗るつもりはないけど、セッちゃんの意思は尊重するつもり」
 だから、と凛月が今一度泉の顔を真っ直ぐに見据えた。血の色をした凛月の瞳は真摯で、鋭く、泉はふいと凛月から目を背ける。
 凛月は決して泉を糾弾しているわけではない。むしろその逆で、凛月の言葉は、ひどく優しい。けれど優しいからこそ耐えられないこともある。その優しさが、努めて見ないようにしようとしてきた泉の傷口を、心臓のいちばん近くにあるやわらかい部分を――自覚させてしまうから。
 傷跡を正面から直視したら、泉はきっと自分で自分を刺し殺してしまう。
 それが、瀬名泉と「あれ」の関係性。
 泉にとって最も脆い場所、昔ならなかったはずの弱点を、あの男は平然と作り出し、そして放置して姿を見せなくなってしまったのだ。
 泉は俯いた。こんなこと、考えたくない。
「俺の意思なんて……決まってる。あいつは度し難いアホだけど、でも、あの時一緒に見た夢を嘘にしたくないの。なかったことにされたくない。本当の事だよって、その時が来たら、ちゃんと……ちゃんと返したい。だから俺は『Knights』を守る。どんな手を使っても」
「わかった。今日はその確認をしに来たの。俺はね、基本的にめんどくさがりだから、ライブとか練習とか、疲れることはしたくないんだけど。……だけどセッちゃんに守りたいものがあるのなら、そのお手伝いはしたいな」
 振り絞るように伝えると、凛月が頷く。それから凛月は言いたいことだけぽんぽんと言い終わると、じゃあねと手を振ってスタジオを後にしてしまう。
 残されたのは、泉と空っぽの玉座だけだ。
 泉は誰も座らない美しい玉座をぼんやりと眺め見た。帰らぬ主人を待つ寂しい玉座。ぽつりと置かれた王冠が、どうしようもなく、王の不在を物語っている。
「まるで俺みたい……」
 何も出来ない玉座に小さく語りかけてみたが、当たり前のように、返事などなかった。
 泉は人知れず嘆息した。あの椅子が寂しく佇むばかりであるならば、主を失った騎士は、一体どうすればいいのだろう。収むるべき剣を失った鞘は。今の瀬名泉はまるで虚ろの固まりだった。胸のうちにぽっかりと空いた穴は永遠に満たされない。あの日の最悪のキスもトラウマのように脳へ刻み込まれて、永遠に忘れられそうにない。
 あのバカ、二度と帰って来ないつもりなのかな。
 スタジオの窓から見える西陽が、泉の感傷を助長した。ああ、あの日も、その日も、どの日も。なんて言ってあげればよかったんだろう。もう曲が作れないと言ったあいつに、霊感がわいてこないと言ったあいつに。愛が見つからないよと悲しそうに告げたあいつに、本当は何を伝えてあげたらよかったのだろう。
 もし過去に正しい選択を取っていれば、ふたりはこんな虚しい終わりを迎えなくたってよかったのだろうか?
「……だったらせめて、あんたの夢だけは守らせてよ。俺を鞘と呼ぶのなら、それぐらい、役目でしょ、全うさせてよ」
 あの日感じた苦いレモンの味には、錆びた鉄の味が混ざっていたことを、泉は今でも鮮明に覚えている。アイドル失格というほどがさがさに荒れたあいつの唇は、切れて血が滲んでいた。世界で一番最悪のキス。それが泉のファースト・キスだ。その過去は永遠に変えられない。
 だから泉は、誰に聞かせるでもなくぼやくのだ。
「ねえれおくん、せめて俺の邪魔はしないでよね」
 その日Knightsは敗北した。
 その瞬間に瀬名泉の初恋は終わった。
 抱いた恋心は全部真っ黒に塗り潰されて死んだ。
 だけど胸に突き刺さる凛とした痛みは、今も泉の中に留まっている。
「それだけが、たったひとつ……俺たちふたりの願いだったんだ。俺の恋なんかいくら奪ってもいいよお、だけどあんた自身の夢は、俺から奪わないで」
 許してよ、と虚空へ向かって泉は吐息を漏らした。
 あいつがいない時間が増える度、あいつの想い出が泉の中で肥大化していく。想い出だけが美しく研ぎ澄まされ、浄化されていく。あのバカ、アホ、と罵る唇で、あの男の見るに堪えない醜態を一つずつ葬り去り、最後には、ただ美しく愛おしかった日々だけが残る……。
 泉はかぶりを振った。
「やきが回ったかなあ、俺も……」
 わかっている。こんな行為は、なんにもならない。あの男のきれいなところときたないところの全てをひっくるめて好きだったのに、だけどこんなやり方は、殺人と何も変わらない。
 瀬名泉は毎日毎日、自分の中で月永レオを殺し続けている。
 なんて愚かなことをしているのだろう。学期が切り替わり、進級して、誰も彼も、未来へ向かって歩き始めている。なのに泉は過去に囚われ、過ぎ去った美しい想い出を記憶の中で永遠に飾り立て、その言い訳として玉座を磨いているのだ。今も……。
「ひとごろし……」
 忘れられるものなら、忘れてしまいたい。あの日のキスの味も、あいつに抱いた恋心も、幸せだった日々も。
 泉は唇をきつく噛みしめて窓の外へ視線を投げつけた。ガラスの向こう側で、夕陽が静かに沈み落ちていく。
 その光景がどうしようもなく、愛の破滅に似ていると思った。