02


 春の終わりのニューヨークはちょっと信じられないぐらい暑く、そのくせ、夜になると一気に冷え込み、子供の癇癪みたいな気温の上下運動を繰り返していた。レオはカラフルなアイスクリームに口をつけながら、ジャケットを持って来なかったことを後悔した。まさか食べている間に陽が落ち始めるなんて。
「う〜ん、それじゃこの旋律は、名付けて『寒い日の夕暮れに食べるアイスの夜想曲』だな……」
 むしゃむしゃとアイスを喉の奥へ放り込み、そう呟く。レオの馬鹿げた独り言に突っ込んでくれる人は誰もいない。あの小うるさい小姑のような相棒がいれば、「あんた本当にセンス最悪。そんなんでどうして流行歌ばっか生み出せるの? は? 作詞が妹? こんなセンスで曲の説明される、るかちゃんの身にもなってやりなよぉ?」とかなんとか、言ってもらえたのかもしれないが……遠く離れたこの地で、そんな声が聞こえたらただの幻聴だ。
 レオはアイスでべたついた指先にペンを握り、仕方なく、一人でせこせこと五線譜を綴り始めた。やっと見つけた音楽を逃したくはない、寒いけれど、今のうちに書き留めておかなければ。
「……曲名は、やっぱ『セナのお小言狂想曲 第七節』にしとこ……」
 本人が聞いたら立ち上がって怒鳴りちらしそうなタイトルをメモし、レオは降り注いできたインスピレーションをさらさらと紙へ写し取っていった。


 月永レオは今、わけあって国外にいる。
 新学期がはじまっていくらか経った頃、不登校の最中にどこだかわからない街で三毛縞に会い、そのまま、海外へ連れ出されてしまったのだ。フランス旅行の際に三毛縞へパスポートを預けっぱなしにしていたせいで、自宅へ戻る必要さえなく、あっという間に拉致が完了。気付けばレオは、着の身着のままでエジプトの大地に立ち尽くしていた。
 さてそこからが忙しい日々の始まりで、三毛縞は気ままにレオを連れ回し、あちこちの国を駆け回った。エジプトに行ったかと思えば南極に連れて行かれ、アルゼンチン、エクアドル、プエルトリコ、メキシコ――と南半球を駆け上った。
 その果てにニューヨークへ辿り着いたのが、三週間ほど前のこと。それまでの慌ただしい旅路に比べると、ニューヨークへの滞在はかなりのんびりとしていた。作曲もはかどり、三毛縞に言いつけられた範囲とはいえ毎日あちこちを出歩き、大いに刺激を受け、何枚もの五線紙を音符で埋め尽くした。
 はじめのうち、一人で過ごすことに戸惑いを覚えたりもしたが……なにせここは見知らぬ異国の地なので……それもすぐに慣れた。道行く人々が何を言っているのか完全には理解出来ないというのも、かえってレオの心を慰めた。夢ノ咲学院で起きた抗争の最後の時期は、どこを歩いていてもレオやKnightsへの恨み節が聞こえてきて、それでノイローゼになった部分が大きかったのだ。
 他人は思っているより自分に無関心だ。
 それを再確認出来たことが、レオの精神に良い影響を与えていた。
「レオさんっ、いい子にしてたかあ? ママだぞお、ただいまあ!!」
「あ、お帰りママ。その荷物、どうしたんだ?」
「姉妹校の校長先生が、自家製チェリーパイをホールで持たせてくれてなあ。絶品間違いなしだぞお、早速食べよう」
 そんな調子で過ごしていたある日、仮住まいのアパルトメントに、大荷物を抱えた三毛縞が戻ってきた。ここのところ連日のように姉妹校へ通い詰め、時には寝泊まりもしていたようだが、今日は随分戻りが早い。
「へ〜。ダークチェリーの? 今日なんか、式典とかあったのかな」
「いや、餞別にと貰ってなあ。随分仲良くなってきたところだったから、別れるのはさみしいが……まあ、お役ご免ということだ。ありがたく頂戴したぞお」
 そう思って訊ねると、三毛縞がチェリーパイを切り分けながらなんでもないふうに言う。
 レオはその答えに引っ掛かるところがあり、え、と大口を開けて素っ頓狂な声を上げてしまった。
「お別れって……ニューヨーク、発つのか? もう?」
「ん? ああ、そうそう、レオさんには言ってなかったっけなあ。姉妹校での俺の仕事が、今日ようやく終わったのでな。早ければ週明けには帰国する予定だ」
「ふ〜ん。それじゃおれも、荷物とかまとめないとかあ」
 慌てて聞けば案の定である。レオはうんうん唸りながら荷造りの算段をつけ始めた。最近ようやくニューヨークに馴染んできたところで、作曲も捗り始めていたので、正直ちょっと惜しいが仕方がない。
 帰国ってことは、次は日本か。う〜ん、もうちょっと色々な国を見ておきたかったかも。
 そんなことを考えるレオの耳を、しかし三毛縞の豪快な声が遮る。
「ああ、レオさんはまだここにいてもいいぞお。帰るのは俺一人だからなあ!」
 その内容に再び耳を疑い、レオは勢いよく振り返ると間の抜けた声で訊ねかけてしまった。
「え? ママ一人?」
「そうだぞお。レオさん、最近作曲のほうが軌道に乗ってるんだろう? だったら無理に俺と一緒に日本へ戻る必要もないさ。思う存分作曲して、帰国はきりがよくなったらでいい」
「いやそんなこと言ったって、国外でママなしじゃ、おれなんにも出来ないよ」
「大丈夫大丈夫、ボディガード兼コンシェルジュを手配しておいたからなあ。それと、レオさんと取引をしたいっていう会社と、渡りもつけてある。この前デモテープを預かっただろう?」
「ああ、あの……リハビリに最初につくったやつ」
 そういえばそんなものも渡していたな、と呟けば三毛縞が力強く頷く。国外に出て少しずつインスピレーションを取り戻し始めたレオが数ヶ月ぶりに書いた曲を、三毛縞はいたく気に入り、音源化を勧めてきたのだ。大した手間でもないので、買い与えてもらった機材でそのままデモを作成し、請われるままに渡していたのだが……まさか外部と取引していたとは。
「う〜んと、確か、なんだっけ? そうそう、『エジプトに来たらセナは暑がるの曲』」
「そう、それがかなり、評判がよくてなあ。国内外のスタジオで、面倒を見て貰えることになった。せっかくの機会だ、いろいろな国で感性を磨いてくるのがお勧めだぞお」
 作曲家としての自分の力量を測るチャンスでもあるしなあ、と三毛縞はしみじみ呟いた。
 正直、渡りに船のような話だった。まだ日本に帰る踏ん切りがついていないし、何より、再び湧いてくるようになったインスピレーションが、日本に戻ったらまた空っぽになってしまうのではないかという恐怖がレオの中には常にあった。それはいやだな。レオは結局作曲が好きなのだ。作曲が全てで、歌を紡いでいないと、死んでいるのと同じみたいになってしまう。
 月永レオとは、泳ぐ代わりに作曲するマグロなのである。スランプというか、 内部粛正ジャッジメント の繰り返しで学院じゅうの恨みを買い、全てのインスピレーションを奪われた時期は本当に地獄だった。
 霊感が湧いてこなくても、どれだけ限界でも、身体がボロボロでも、脳がすり切れても、それでも、曲を作らなくちゃ。あいつに歌ってもらうための世界で一番綺麗な曲を作らなきゃ、そうでなきゃ月永レオに価値なんかないんだ。……それが、四月頃のレオの精神状態。でもそんな状態で傑作なんか書けるわけない――というのは、三毛縞と国外へやって来て精神が上向いてすぐ、気がついた。
 あの煉獄に再び舞い戻るのだけはまっぴらごめんだ。
 それよりも、世界各地を巡って新しい音楽を作りたい。
 そう素直に話すと、三毛縞は静かに頷いて「レオさんの好きにするといいぞお」と笑った。
「あとのことは、ママがよしなに手配しておくからなあ。安心してくれ、ママはいつでもレオさんの味方だ」
「さっすがママ! ……けどなんか、悪いな。なんでもかんでも、ママにやってもらうばっかで、おれ全然見返り渡せてないし」
「バカだなあレオさん、友達なんだから損得勘定なんか必要ないんだぞお?」
 ばつが悪そうに唇を尖らせると、三毛縞は呵々大笑する。それから、優しげに目を細め、レオの頭を撫でた。
 三毛縞は微笑み、気まずそうなレオにウインクをする。
「でも、そうだなあ、レオさんがどうしても気になるっていうのなら、お礼代わりに……普段どうやって曲を作るかとか、そういう話を聞かせてくれないかなあ?」
「うん? そんなことでよければ、いくらでも話すけど……?」
「とんでもない、金言だ。前々から興味があったので嬉しいぞ」
「そんなもんかなあ? あんまり面白い話じゃないと思うけど、うん、いいよ」
 レオは請われるままに頷いた。それから、三毛縞が淹れてくれた紅茶をずずと啜ると、一つ一つ指を折り曲げて辿々しく話を始めた。
 レオの作曲方法は大きく二つに分けられる。一つが、降ったり湧いたりするインスピレーションを、とりとめなく書き連ねて完成させる方法。そしてもう一つが、仕事などで予め細かい仕様が決まっており、その枠にはまるようにインスピレーションを探す方法。
 前者は主に趣味の曲で使い、後者は、レコード会社と取引している時に使っていた方法だ。でも今は後者の方はさっぱりで、もっぱら前者の方でしか作曲出来てない……と話すと、三毛縞は興味深そうに頷いた。
「ジャッジメントやりまくってた時とかは、もう、おれ自身が完全にいかれててさ、前者のやり方でしか作曲できなかったんだよな。だからあの頃作った曲は、『セナのしかめっつらがめちゃくちゃやばい曲』とか、『セナがプライドを傷つけられて涙を堪えている怒りのカンタータ』とか、そんなのばっかでさ。う〜ん、自分で言うのもなんだけど、相当滅入ってたのかもな?」
「おお、それはまた……泉さんの情緒も、さぞや不安定だったんだなあ……?」
「うん。あの頃セナ、毎日、ピリピリしててさ。ぜんぜん、笑ってくれなくて……おれに届く唯一の光がセナの笑顔だったのに、それがなくなってさ、何作っても鬱っぽい旋律ばっかりで。めちゃくちゃな高音のもあったし、いや〜、あれを歌い上げてたセナはすごいな。今思うと」
「なるほどなあ。……でも今は、結構、明るい曲を作っているよなあ、レオさん。泉さんはここにいないのに、もう大丈夫なのか?」
「あれ? 言われてみれば、そうだな……?」
 三毛縞の言葉にきょとんとし、レオが小首を傾げる。レオはこれまでの旅路で作曲してきた無数の曲たちを順々に脳裏で再生した。「エジプトに来たらセナは暑がるの曲」にはじまり、その次に南極で作った「南極のシロクマにモデルの指導をするセナの曲」、更には「プエルトリコの海で泳ぐセナの曲」――そして本日作曲した最新版、「セナのお小言狂想曲 第七節」にいたるまで、そのどれもが、比較的明るめの曲調に仕上がっている。
「……もしかして、全部セナのこと考えて作ったからかな?」
 考えたあぐねた果てにぽつりと呟いてみると、その答えは、意外にもすとんとレオの中に落ちていった。
「ここにもしセナがいたらこうかな〜とか、ああかな〜みたいな、そういう妄想で作った曲だ、全部。で、おれの妄想の中のセナは、大体笑ってるから……いやおれに対してぷんすかしてる時もあるけど、それはそれで楽しそうだし……結果、明るい曲が出来るんだ。たぶん」
「レオさん、それ、ほんとかあ? この数ヶ月作った曲が、全部そうなのか」
「うん。考えてみたら、そうかも。わはは! だからタイトルに全部セナの名前が入ってるし、きれいだし、傑作だぞ! おれの曲は全部セナのためのものだ!」
 謎が解け、腑に落ちる。レオは満面の笑顔で宣言した。対照的に、対面に座る三毛縞の表情は、心なしか少し青ざめていくようなむきがあった。でもレオはそれに気がつかない。そっか、そうか、そうだったのか。全部セナの曲だ。だからうつくしいメロディばかりが浮かんでくる。だってセナはきれいだから。世界で一番きれいな魂の持ち主だから。それに相応しい曲は、全部美しくないといけない。
 ああ、セナの横顔はきれいだったな。
 それにあの声も。あの声で今のおれが作った曲を歌ってほしい……。
「……レオさん、確認しておくけれど、泉さんとはじめて会ったのは、夢ノ咲に入ってからで合ってるな?」
 そうして妄想の中の気高いセナに耽溺していると、三毛縞の低い声が耳を引っ張り、レオを現実へ引き戻す。レオはちょっとだけむっとして、唇を尖らせて三毛縞に向き直った。
「そうだけど?」
「けど作曲はずっと前からやってるはずだな」
「そりゃまあ。おれは物心ついた時からずっと、作曲してたからな」
「なら、いつから泉さんのためだけに作曲するようになったんだ?」
「――え?」
 三毛縞の言葉が耳を通り抜けた瞬間、レオの中で、妄想のシャボン玉が全部、ぱんと弾けて消し飛んだ。
 シャボン玉に映っていた、過去の瀬名泉の幻がひとつも見えなくなる。レオは「え……」と乾いた声を舌の根に載せてもてあました。三毛縞の言っている言葉の意味が、よく、わからない。
「いつからって……そんなの、ずっと昔から……あれ……? でもセナに会ったのは高校入ってからで……じゃあ、それまでは……?」
 わからない。わからない。何もわからない。
 急に深い闇の中へ揺り戻されたようで、レオはぶるぶると頭を振った。瀬名泉、あのプライドが高くゆえに誇り高く気高い、全てにおいて心地よい完璧な男と出会う前、自分がいかにして作曲をしていたのか、それがもうまったく思い出せなかった。
 レオの脳裏にこびりついているのは、瀬名泉の笑顔を見ていると無限に湧いてきた天才的な音楽と、瀬名泉のそばにいたがゆえに彼の苛立ちに汚染されてしまった、破滅的な旋律ばかり。いつか、もっとずっと昔は、自分に曲を望むその他大勢のためにざっくばらんな曲も書いていたような気がするのだけれど……それは全て、塗り込められた闇の中に埋没しており、探し出す気も起きない。
「わかんない……」
 ぼやくと、三毛縞は呆気にとられたように二度、三度まばたき、それかたレオの手を優しく握り止めた。
「ははあ、なるほどなあ。……これは根が深そうだなあ、レオさん」
「んんん……? でもママ、だからってなにか、そんなに困るかなあ? 今のおれに降りて来る音楽は、全部セナのかたちをしてる。それだけじゃん……」
「うんうん、そうだなあ。その意味をこれから、レオさんは探さないといけないなあ」
 三毛縞の手がレオから離れて行く。急速にぬくもりの失せていく手のひらに、レオはひとつの幻を見た。それは瀬名泉が自分の世界から失われた日の記憶だ。あの日レオは泉にキスをした。そこに深い意味はなかった。ただ衝動的に、そうしなければいけないと感じて、泉の身体を引き寄せ――
『ねえ俺たち、一体どこで間違えちゃったのかな』
 そして泉に手を振り払われた。
 あの時見た泉の泣き顔が痛ましくて、自分の心まで悲しみでささくれ立ったようになって、あの日以来、レオは泉の顔をまともに見られなくなった。
 そして今は不登校の果て、子午線の反対側にまでやって来て、夢想の泉のために曲を作っている。
「色々な国を巡るといいぞお、レオさん」
 急に感情をなくしたレオの瞳を覗き込み、三毛縞が諭すように言った。はっとして三毛縞の顔を見る。彼は優しい顔をして、幼子のようにあてどなく動くレオの指先を、再び握ってくれる。
「そしてその先々で、考えてみるといい。どうしてレオさんが作る曲は、泉さんのためのものになったのか」
 レオさんに必要なのはまずはその自覚からだな、と三毛縞が囁いた。レオは曖昧に頷き、頭の中でぼんやりと渦巻いている新たなインスピレーションをかき集める。縒り合わされた音楽は、この数ヶ月で作った曲の中で一番沈鬱なメロディをしていた。
 まるでセナが負け続けでイライラしていた時みたい。
 レオはこっそり、そのメロディに「泣きそうなセナと雷雨のアジタート」という曲名を名付けた。