01 呪われし魔王と【破滅の歌】




 口から心臓がはみ出るかと思った。
 あるいはもう気付いていないだけではみ出ていたのかもしれない。
「――は?」
 まぶたを開く。目の前に棺桶がある。古めかしい、西洋式の棺桶……。
 一目見て瀬名泉はそれが吸血鬼の死に場所だと思った。ひとときの眠りを得るための安楽の床ではなく、死に場所だと。証左に、天板についたガラス窓から覗く見知った顔の男は、死んだように眠っている。
「なにこれ」
 なんの冗談? 誰の悪戯? 
 血の気が引いていくのが、嫌でも分かった。棺桶のふたにかける手が震える。いや、この扉を開きたくない。そうすれば、箱の中の男が生きているのか死んでいるのか、それが確定してしまうから。
 ……永遠にシュレーディンガーの猫でいて欲しい……。
 しかしそんな願いと裏腹に、指先は、冷酷に棺桶の戸を引いてしまう。
「……うそ」
 それから、箱の中身を確かめて瀬名泉は息を吐いた。
 蓋を開けると、そこには、誰も横たわってなどいなかった。
 まるで初めから誰もいなかったみたいに、真っ赤な薔薇たちだけが、棺桶をびっしりと埋め尽くしていた。その花は生き血を啜ったように鮮やかな紅一色に染まっていた。花は爛々と咲き、泉の視界を赤に染め上げる。
 ――ああ、だけどそれなら、全部たちの悪い冗談だったんだ。
 けれどその気味の悪い赤色に、泉はひどく安堵した。友達の死体を見せられるくらいなら、誰かの悪質な悪戯の方が、いくらもましだったからだ。
 泉は今更ながら、思い出したようにむせ返る薔薇の香気に顔をしかめ……棺桶の蓋を閉めると踵を返して歩き始めた。こんな場所にいる意味は最早一分一秒たりとも存在しない。だから外へ出るのだ。
 そうして扉をあけて部屋を出る時にようやく気がついたが、ここは夢ノ咲学院の音楽室で、死んだように眠ることが得意な友人の、お気に入りの場所だった。
 だけどどうしてそんなところに泉は来たんだっけ。
 目を開ける前は、どこで何をしていたんだっけ……。
 よくよく考えてみるとそんなことも思い出せなかったけれど、気にしないことにした。気にしてはいけなかった。
 泉は何もわからないまま、音楽室をあとにした。


 自分が何をしていたのか思い出せない――今の季節さえも。そんな状態で泉は、まず、スタジオを目指した。あの、Knightsのメンバーがいつもたまり場にしている場所。猫を連れ込んだり炬燵を設置したり、我が物顔のように居着いている部屋だ。ちかごろではセナハウスとさえ(いちぶの人間に)呼ばれている。とにかくあそこにいけば、誰か知り合いがいるはずだ。
「ねえちょっと、今日って何の日――」
 がらりと戸を開けて部屋に入り、そこで、泉は中を見るなりぴたりと口を噤んだ。スタジオはもぬけの殻だった。炬燵も置いてないし、Knightsのユニット衣装が掛かったハンガーもないし、置きっぱなしのメイク道具もないし。ここ半年間誰も使ったことがないんじゃないかというぐらい、閑散としていた。
 人気がない。
 人間の生きていた気配がしない。
「……本当に何の冗談?」
 それが急に恐ろしくなって、何も無いがらんとしたスタジオの中を、ぐるぐると五周も七周も歩き回った。回りすぎてバターになるんじゃないかと思ったぐらいだけど、泉はバターにならないし、スタジオの中からは、蟻の子ひとつ見つけられなかった。Knightsがこの部屋に存在していた証拠はどこにもなかった。それどころか、撮影をするための機材はところどころ壊れて、まるで長い年月を経たかのように、錆び付いていた。
「……ちょっとぉ、」
 言葉が、喉に張り付いて出て来ない。
 舌の根がもつれ、口の中がからからに乾き、ばくばくと、心臓の鼓動だけがいやに大きくなって泉の脳味噌を掻き乱す。
「なんなわけ……」
 誰もいない。
 心臓が痛い。
 頭も痛い。
 恐怖が泉の全身を支配する。泉は震える手で、スマートフォンを取り出した。こんな時に限って指紋認証のロックを外すのに手間取って二度も三度も失敗して、嫌が応にも高まっていく心音を聞きながらパスコードを入力した。電話帳を取り出し、一番最後に掛けた番号にリダイヤル。だけど電話は繋がらない。一度もコール音を出すことさえなく、ぷつりと途切れ、代わりに無味乾燥な電子音声が鳴り響く。
『お掛けになった電話番号は、現在電波の届かない場所にあるか電源が――』
 泉はやけくそになって電話を切った。画面の左上に視線を逸らすと、「圏外」の表示がくっきり映り込んでいる。
 冗談じゃない。学院敷地内で圏外なんて有り得るものか。
 設定画面を開いて、Wi-Fiを切ってみたり通信設定を切り替えたりあれこれと試してみる。当然のように接続は改善せず、泉はぞっとして、スマートフォンを制服のポケットに突っ込んだ。
 それから、もう一分一秒たりともこんなところにいられないと思って、一目散にスタジオから走り出した。


 スタジオを出て、最短ルートで校舎を脱出し、そこからずっとずっとひたすら一直線に走った。途中で他の生徒に出くわすようなことは一度もなく、壁にぶつかることもない。どれだけ走っても。何十メートル、何百メートル、何千メートル――走っても、この世の果ても、終わりもない。
「はあ、はあ……はあ…………。ねえ誰かいないの、返事してよ、くまくんでも誰でもいいからさぁ!!」
 足が動かなくなるまでがむしゃらに走り、とうとう限界が訪れて、泉は膝を折ってその場で立ち止まった。気がつけば、泉は深い森の中にいた。木々は鬱蒼と高く生い茂り、日の光は殆ど届かず、薄暗くて、お化けが出そうな場所だった。
 ……どこだろう、ここ。
 こんな場所、学院の中にあったっけ。
 それ以前に、学院の敷地がこんなに広いなんてこと有り得ないはずなんだけれど……。
 立ち尽くしたままそんなことを考えていると、不意にポンと背中を叩かれて、泉は心臓がへちゃむくれになりそうなぐらい情けない声を出し、「うひゃあ!」と叫び声を上げた。
「おい〜っす♪」
「な、なにっ、幽霊、おばけっ、吸血鬼……!」
「そう、吸血鬼。あ〜、やっと見つけた、よかったよかった。それにしてもセッちゃん、すごい顔だねえ? 今にも死んじゃいそうなかんじ……あははっ♪」
「あ、あははじゃないよぉ! ……って、くまくん? くまくんなの?」
「ええ、俺以外の何に見えるっていうの」
 何かあるとしたら、やっぱり幽霊かな。
 爆音をかき鳴らす心臓を押さえ、恐る恐る振り向くと、見知った男の姿がそこにある。音楽室で棺桶に入っていた――ような気がした、友人だ。朔間凛月。
 その朔間凛月が、泉の肩に手を掛け、宙に浮かんでいる。
「……は?」
 泉は間の抜けた声を漏らし、まじまじと彼の姿を見た。
 着ているものは、あのいつもの変わり映えしない制服。含みのある表情、口の隙間からちろりと覗く鋭く尖った犬歯。異様に尖った犬歯は、ともすると、肉食動物の類が備えている、牙のようにも見えた。あの牙でひと思いにぷすりとやられたら、きっとものすごく痛いし、血とか出てしまうと思う。
「……あんたなんで宙に浮かんでるの?」
 泉は呆然とした声を隠さないままもう一度そう訊ねた。
 牙がやたら鋭い以外は、凛月に変わったところはなんら見受けられなかった。角や尻尾が生えているというようなこともないし、翼ひとつ、ありはしない。ただ、朔間凛月は、当たり前のように宙へ浮かんでいた。その状態で気ままな猫のように身体を丸め、「やっほ〜」とか呑気な声を出し、泉に手を振っている。
「吸血鬼に浮遊能力があっちゃおかしい?」
 訊ねられた凛月が、なんでもなさそうにそう呟いた。
「吸血鬼って……あんたたち兄弟のそれは、キャラづけでしょ、単なる……。くまくんは人間。朔間も。人間は手品以外で宙に浮かんだりしないよ。……もしかしてこのあたりに日々樹がいるの?」
「あはは、まさか。セッちゃん、わけがわからないまま気が狂いそうだから現実逃避はじめちゃった? でもごめんね、このあたりのエリアにいる『奇人』は兄者だけ。そして俺の役目は、そんな兄者のいるところまでセッちゃんを送り届けること。奇人に会わないと、セッちゃんの捜し物はどうにもなんないからね……♪」
 エリア? 役目? 凛月が何を言っているのか、理解が出来ない。泉は唸り声を上げながらかぶりを振った。相変わらず凛月は浮かんでいる。空中で、ぱたぱたと足を動かしてさえいる。手品の種は見つからない。気でも狂ってしまいそうだ。
 気が狂いそうといえば、凛月が現れるまでこの広い学院で誰ともすれ違わなかったのは、単純に不気味だった。夢ノ咲は学科数が多いし、アイドル科は比較的人数が少なめだが、普通科とかは膨大に生徒を擁している。校舎のどこにも人影がないなんておかしい。
「っていうか、ねえあんた何か知ってる? 学院じゅう、全然人間がいないんだけど」
 それで訊いてみると、凛月はふわふわ浮かんだまま頬に手をあて、まるで他人事みたいに、
「人間はだいたいもう、【破滅の歌】にやられちゃったからなあ……」
 と、呟いた。
「は? 破滅の歌?」
「そうそう。世界はいちど、歌によって終わってしまったのです。世の中、歌が世界を救う系の創作の方が多いのにね? マ*ロスとかさ。やっぱ、歌で銀河が救えるわけなかったのかな〜」
「いや、マク*スとかいうのは知らないけど……。どういうこと、歌で世界が終わるって」
「文字通りだよ。歌がね、流れたの。学院じゅうに……そしたらそれを聴いた人からばたばたっと倒れていって、消えちゃったんだよね。尤も効き目には個人差があって、一発聴いたぐらいなら大丈夫って人とかもいたんだけど。で、いつ頃からか、その歌は【破滅の歌】って呼ばれるようになったわけ」
「意味がわからなすぎる……」
「わからなくてもこれが事実だよ」
 その証拠に人っ子一人いないでしょ? 凛月がけらけらと笑った。だったら今そこに浮かんでいるあんたはなんなの――と口にしかけて、泉は慌てて唇を押さえる。思い出すのは、目が醒めてすぐ、音楽室で見た棺桶。あの中には凛月がいた。ように、少なくとも泉には見えていた。そのことを掘り返すと、ろくなことにならないような、そんな気がしている。
「……じゃあ、まあ、仕方ないからいったんはそういうことにする」
「うんうん、セッちゃんは基本的にいい子だよね。素直で善良だし。じゃ〜、とにかく、奥に行こうか」
「はあ? ちょっと、何手なんか引いてるの。浮かんだまま俺を引っ張らないで、誰も行くとは言ってない……!」
「ううん、セッちゃんは来るよ。俺の手に引かれて森の一番奥へ辿り着く。必ずね」
 凛月は泉の手をぎゅっと握りしめ、目を細めて断言した。泉の手を握る凛月の指先は冷えきって、蝋人形か死体のようで、しかしその冷たさと裏腹に、掴む力は強固だった。死後硬直が始まった死体に首を絞められ続けているみたいな気持ちがした。泉は凛月の目を見た――その目は、少しも、笑ってはいない。
「だってこんなわけのわからない世界で、顔見知りの手を振り払ってまで、ひとりでいられるほど心が強くないでしょ。ね? セッちゃん」
 朔間凛月を名乗る吸血鬼は地獄の使者みたいな顔をしてにこやかにそう告げた。


 凛月に手を引かれ、森の奥深くへと歩を進める度、泉は言い様のない感覚に襲われ続けていた。たとえばそれは、目を瞑って、大仏様の中にある暗闇を通る時のような。心臓を、よく冷えた手で撫で回されている時のような。得体の知れない感触。自分が本来あるべきではない領域に踏み込んでいる感覚。黄泉比良坂の向こう側。人ならざるものたちの領域……。
 獣道は延々と続き、限界が見えない。この森はいったいどのくらいの広さがあるのだろう。いよいよそう思い始めたあたりで、「ここ」と呟いて、凛月が移動を止めた。
「――、」
 突然行く手が開け、泉の視界いっぱいに広大な墓地が広がる。どこを見渡しても墓、墓、墓、墓、墓。整然と並べられた無数の墓たちが、場違いに迷い込んでしまった生者を舐め回すように見ている。
「ようこそ、瀬名くん。この世界に残された最後の人類」
 その中央に、一人だけ、動いて喋る生き物が浮かんでいた。彼は唇から鋭い牙を覗かせ、頭には山羊のような巻き角を生やし、背からは悪魔に似た翼を伸ばしてはためかせていた。両の双眸は地獄の侯爵もかくやという紅色にぎらついており、往事の、「夜闇を統べる魔王」と呼ばれていた頃の彼を思い起こさせる。
「……あんたも人類でしょうが」
 朔間零。凛月の兄で、自称吸血鬼で、だけど人間だったはずの男。
 そんな彼は、泉がぎりりと歯を噛みしめて呟いた答えに満足そうに頷き、虚しく笑った。
「嬉しいこと言ってくれるのう。じゃが、残念なことに……我輩分類としては、ギリギリ『怪物』に入っとったらしくてな。人間としては死滅したあとも、こうしてみっともなく……生きさらばえているわけじゃな」
「はあ? どういうこと? っていうか、なに、その、悪趣味な角とか翼とか。随分気合いの入った特殊メイクしてるんだね」
「本物じゃよ〜、紛れもなく。我輩、というか奇人の皆はちからが強すぎた関係か、死ねない代わりにどんどん変生していってしまってのう。今やご覧の有り様というわけじゃな。見ての通り、今の我輩は吸血鬼じゃよ」
「死ねないって……」
「うむ。【破滅の歌】を聞かされて生き残ってしまった末路ということになる」
 ばっと手を広げ、仰々しく零が語る。彼の語り口にあわせ、背後から、無数の蝙蝠達がわっと飛び立って空に消えて行った。ほどなくして蝙蝠達は、三つの棺桶を持って戻ってくる。棺桶には窓がなく、十字架と、ネームプレートが填め込まれていた。「Kaoru Hakaze」、「Adonis Otogari」、それから、「Koga Ogami」。零が率いていたユニット、「UNDEAD」のメンバーたちの名前が、棺桶一つ一つに刻まれているのだ。
「これは薫くんたちの死体じゃ」
 それらを指し示し、朔間零が淡々と告げた。
「な、え、し、死体!?」
「じゃから言うたろ、【破滅の歌】じゃと。いちぶの例外を除いて、あの歌を聴いた者は皆死んでしまったよ。せめて愛し子たちは荼毘に付してやろうかとも思ったんじゃが、先に敬人が行ってしまったのでとりやめた。三人は棺桶に入れて、あとは我輩が見つけられた限り、土葬にしておる」
 そんなことをしていたら墓地が無限に拡大してこうなってしまった、と零が再び虚しく笑った。
 泉は改めて広大な墓地を見回した。現実味のなかった言葉たちが、無限に続く墓石の群れを見ていると、徐々に、脳の隙間から染み渡っていくようだった。立地条件を無視したあまりにも広すぎる学院敷地、深すぎる森、浮かぶ兄弟、吸血鬼。聴いた人間を誰彼構わず殺してしまうとかいう呪われた歌。どこのどいつが歌っているのか知らないけれど。そんな物騒な歌が――すくなくともこの場所には実在するのだ。
 だって朔間零はこんな悪趣味な冗談を言うやつじゃない。だとすれば彼の後ろで蝙蝠達が掲げている棺桶は、本当に、死体を保管した容れ物なのだろう。今や泉には、その考えを馬鹿げた妄想と一蹴することができなかった。あの中には、見知った人間、だったものが入っている。泉の数少ない友人だった羽風薫も、きっとあの中に。
「本当に、死んじゃったの、みんな? この墓石の数だけ……?」
 青ざめて震える唇で、泉はそう訊ねた。それを受け、零があやすように唇を動かす。
「然り。薫くんやわんこ、アドニスくんもな。それが事実じゃ。我ら不死者なる『UNDEAD』を名乗ってはおったが、かといって我輩、亡骸を動かそうというほど恥知らずの酔狂でもなくてな。遠からず、我輩がそこへ行く日まではせめてやすらかに眠らせてやっている」
「なんでそんなことになってるの。おかしいでしょ。そんなことあっちゃいけないじゃん!」
「致し方なし。この世界は呪われておるのじゃ」
「呪いなんか――」
「ある=Bゆえにこの世は終わりを迎えようとしている。さて、瀬名くん」
 ゆるりと右腕が上がり、指先がパチンと音を立てると、蝙蝠達は魔王の命令通りばさばさと飛び去って棺桶をどこかに連れて行ってしまった。集合墓地には、青ざめた顔で立ち尽くす泉と、ふわふわ宙に浮かんだままの凛月だけが残された。凛月はひとことも言葉を発さず、ただ、泉の後ろでゆるやかにたゆたっている。
 そういえば零にしては珍しく、凛月に何も声を掛けないな。凛月の方が零に声を掛けないのはともかく……。
 現実逃避のようにそう考え始めた思考を、次の零の言葉が一気に引き戻した。
「本題じゃ。我輩、月永くんの手紙を持っておる」
 その名前を聞いた瞬間、泉の心臓が激しく揺れた。
「王さまの?! あんた、あいつの居場所を知ってるの!?」
 そうだ、これまで、どうしてそいつのことを考えもしなかったんだろう。Knightsの王、泉が剣を捧げた男、月永レオ。あいつは生きているのだろうか。零の口ぶりでは、大半の人間はもう死に絶えたと言った調子だが……凛月が生きて泉の前に姿を現した以上、レオが生きていたって、おかしくはないはずだ。
「教えて!! どこ!?」
 零の肩を勢いよく掴み、ぶんぶんと上下に揺さぶる。零はあわあわと手を振り、泉の身体をぎゅうと押しのけると、おじいちゃんのようにゆるゆる胸元を撫でて息を吐いた。
「これこれ、身体をゆするでない!! 知っておると言えば知っておるし、知らんと言えば知らん。ともあれこの世界のどこかにいることは確かじゃが」
「どこかにってことは、生きてるの。生きてるんだ、あいつは」
「死んではおらんじゃろ、今のところはな。姿はしばらく見ておらぬが、声だけなら放っておいても聞こえるゆえ」
 あやつが生きておることだけはわかる、と零が途方にくれたように繰り返した。姿が見えないのに声だけは放っておいても聞こえるというのが一体どんな状況なのかはわからなかったが、考えるだけの余裕がなくて、思考の外へ追いやる。
 泉はほっと胸を撫で下ろし、首を横へ振った。
「ああ、そっか、生きてるんだ……。で……王さまの手紙って何」
「うむ、これじゃよ」
「どうも」
 零が一度確かめでもしたのだろうか、手渡された封筒は一度開封されたあとだった。はやる指先で中の紙を取り出す。折りたたまれた紙を広げると、細い罫線を無視して書かれた、乱雑な文字が泉の目に入る。
 間違いない。レオの文字だ。それが、ごく短いメッセージを手紙の中に綴っている。
「『世界の管理者を捜せ』?」
 泉は手紙を読み上げて首を傾げた。
「世界の管理者、って。どういうこと。神さまを捜しなさいってこと? んな阿呆な……」
「まあ、当たらずも遠からずと言ったところかのう」
「ええ……。……ねえ、薄々思ってたんだけど、ここ、元の世界じゃない別の世界とか? たとえば……ものすごく荒唐無稽な話だけど、ここはゲームの中の世界で、死体はゲームオーバーになったやつら、とか」
「すまぬが死人に口なしじゃ。答えられぬ」
「答えを言ってるようなもんだよ、それは。……ああ、そういうこと」
 そして一人で頷き、泉は頭の中で仮説を組み立て始めた。
 たとえば。この世界は何らかのゲームプログラムの類で。泉たち夢ノ咲の生徒が、何かの手違いとか企画とかで、その中にプレイヤーとして送り込まれたのだ。で、【破滅の歌】とやらをかいくぐって「世界の管理者」に接触するのが、ゲームのクリア条件。そういう類の、あれなのではなかろうか。
「ああ、それじゃ、王さまもその管理者とやらを探してるのかな。なら、そいつを追っていれば自ずと王さまに辿り着くよね」
「まあ、それはそうじゃろうな」
「なぁに? あんたまだ何か知ってるの?」
「いいや。我輩があと言えるのは、この世に生き残っている生き残りは殆どいない……ということだけじゃ。再三の繰り返しになるが。……じゃから『世界の管理者』を探すのであれば、自ずと、その生き残りを辿っていくことになる」
「生き残り……王さまは別として、まあ、話を聞いてる限り奇人の連中は残ってるか。斎宮か……深海か、日々樹か逆先か……。全員、どこで何してるかわかんないやつらだけど。生きてるのなら、そのうち見つかるでしょ」
 やるべきことが明瞭になってくる。指折り数え、泉は一人頷いた。マップは異様に広大だし、ウインドウも出ないし、HP表示もないし、クエストフラグもよくわからないけれど。ここがゲームの世界なんだということにした途端、恐怖で竦んでいた足が、歩いていけるだけの力を取り戻していた。
 ここはゲームの中だ。そうに違いない。だから凛月や零は宙に浮くし、【破滅の歌】なんてものは跋扈しているし、異様に人気が少ないし、死人が多い。
 ゲームオーバーしたら、簡単に復活は出来ないんだろうな。なら、元の世界に戻るために、より慎重に行動しなくては……。
 レオの手紙を握り締め、泉は改めて零に向き直った。
「王さまの手紙、預かっててくれてありがと。こうしちゃいられないから、俺はもう行くよ。あんたは? 俺と一緒に来る?」
「いや、我輩はここを動かぬよ。皆を置いてはゆけぬ。仮にも一時は夢ノ咲の魔王を名乗った以上、おめおめと一人逃げ出す以上の恥はなかろう」
「あ、そ。じゃあね、その……かおくんによろしく伝えておいて」
「承った。すぐに届けよう、達者でな」
 踵を返し、泉は元来た道をぐんぐん引き返していく。行きは凛月に手を引かれてきたが、帰りは、凛月の手を引いて泉が先導する形になった。凛月は零がいる前では、最後まで一言も喋らなかった。零も凛月に声を掛けなかった。まるでお互い、いないものであるかのように。
 森を抜ける道中、泉は一度も振り返らなかった。振り返ったらいけないような気がしていたし――オルフェウスの冥府くだりとか、黄泉比良坂の話で、振り返った者はみんな酷い目に遭っていたから縁起が悪い――単純に、そんな余裕はなかった。
 とにかく泉は急いで次の生き残りを捜さなければいけなかった。次は誰だ。一番近くの生き残りは誰だ? この人っ子一人見あたらない学院の中で、どうにかしてそれを見つけなきゃいけない。立ち止まっている暇なんかどこにもない。
「……ねえ、セッちゃん」
 歩いて歩いて森を抜けはじめた頃になって、やっとのことで、凛月が泉の名前を呼んだ。泉はそこではじめて立ち止まって、振り返った。宙に浮かぶ吸血鬼は、腕組みをして目を瞑り、考え込んでいる。
「なあに、くまくん。……あんた、やっと喋ったね。終始黙りだったから不気味だったよ。で、何?」
 泉が訊ねると凛月は首を横へ振った。
「ううん、特に何でもない。ただね、セッちゃんはここまで一度も振り返らなかったねって、それだけ」
「はあ。……ちなみに、振り返ったらどうなってたの」
「『1D100』かな。しかもダイスロール失敗でSAN値直葬。まあ、そうはならないのがセッちゃんの強いところで、運のないとこだよね……」
「……なんなわけえ?」
「気にしない気にしない。ほらセッちゃん、行こう」
 凛月がふわりと泉の前に浮かび出て、再び、泉の手を引いて前へ進み始める。森から遠く離れてどこかへ。一体どこへ行こうとしているのかわからないけれど、泉は凛月に手を引かれるまま、進んで行く。

 それきり二度と、泉があの深い森の奥へ足を運び入れることはなかった。
 だから泉は、そのことを永遠に知らない。
 あの広大な霊園に横たわる、四つめの棺桶のことを。
 「Rei Sakuma」と刻まれた吸血鬼の死に場所を、瀬名泉は一度も見ることがない。
 それは初めからあの場所にあったのに。