目を背けるのは愚者の行い。 目を向けるのも愚者の行い。 愚者と愚者の問答 ぱちり、と覚束ない意識でもって目を開ける。ここは森の中だ。深く、寂れ廃れていて、しかし懐かしい森の匂いのする小さな集落の跡地。 「……おはよ。三時間ぐらい寝てたヨ。結構長かったのネ」 倒れ込むこの現象にももう慣れてしまったのか、いつものことよネ、だなんて言う妖精をひょいと左手の上に乗せてリンクは苦笑いをした。そういえば、記憶のことはまだなんにもナビィに話していないのだ。そろそろ説明した方がいいかもしれないとは思わなくもない。 「ねえ、ナビィ」 「なあに? ていうか、そんなにのんびりしてていいの?」 「うん。別に、急いでないから。急ぐ必要はそんなんいないってわかってきたしね。――あのさ。丁度いいし、ナビィに話しておきたいことがあるんだ。僕がよくこうやって倒れている時に、何があるのか。何を見ているのかを」 リンクがそう言うとナビィはあからさまに驚いてしたたかに羽をばたつかせ、リンクの手のひらに打ち付ける。よっぽど驚いたのだろう。どうやら彼女は、その件に関しては教えてもらえないものと思っていたらしい。 「そんなに驚かなくてもいいじゃん……羽、結構痛いんだけど」 「あ、ゴメン。毎回神妙な顔してるから、てっきり秘密なのかと思ってたヨ」 「話す暇がなかっただけだよ。――でもまあ、そうだね。かなりふわふわして曖昧な話かもしれない」 「なにその、地に足付かずな」 ナビィが半分茶化すように合いの手を入れる。リンクはそんなナビィの両端をなんとなく引っ張って伸ばし、それから顔付きを険しいものに塗り替えた。 「確かに、地に足付かずな話だよ。僕だって時の勇者や光の勇者が"ああ"であったなんて、信じたくは……ないもの」 ◇◆◇◆◇ 時の勇者は、恐らく全ての始まり、契機を作ってしまった人間である。 平凡な――つもりで生きてきた彼は大好きな少女を助けたいが為に神様に持ちうる全てをなげうった。神様の剣を望み、またそれを扱いうるだけの力をも望んだ。 その力こそがトライフォース。今、リンクが集めているものの完全な姿だ。 力を手に入れた彼はしかし七年間眠ることを強要され、目覚めた時には姫君はどこかへ消え大地も荒れ果ててしまっていた。けれどそれでも彼は魔王を倒しえた。 怒りで致命傷を負わせた。 その結果、なにがどうしてだかは知らないが彼は姫君その人に七年前の過去に戻されてしまう。 過去へ戻ってみれば唯一一緒だった妖精ナビィもいなくなっていて、彼は絶望し神を呪う言葉を吐いた――これが、時の勇者の記憶のあらまし。 そしてどうやってかは知らないが光の勇者はそのことを知っていて、記憶をご丁寧に何ヶ所かに割り振ってリンクの前に遺している。他人の記憶をどうやって手に入れたのか、そもそも記憶なんて曖昧なものをどうやって保存しているのかはわからない。まあ大方トライフォースでどうにかしたのだろう。 ただ、はっきりしているのは光の勇者は終わらせたがっているということだ。何を? これも実のところよくはわからない。時の勇者にまつわることであろう、との推測がかろうじてきくぐらいだ。 光の勇者は言っていた。「あのひとをしあわせにしたい」、そう確かに言ったのだ。それは即ち時の勇者が客観的に見て不幸であったということだ。でなければそんなことを思うものか。 ダークさん、と光の勇者が呼んでいた黒い人物も正体がわからない。あの二人が共謀して何か企んでいるのは確かなのだけど。足りない。考えるには、情報が足りない―― 「で、リンクは欠片はどっちにしろ集めなきゃいけないからその記憶も見て回ってるってワケなの?」 「うーん、まあそういうことになるのかも。気になるんだ。まんまと光の勇者の思惑に載せられてるのはわかるんだけどさ……」 ちょっと悔しいんだけどね、と申し訳程度に言い訳を添えてリンクはそれでも好奇心が勝るんだと言葉を続けた。 確かに彼は知りたいことを知る為には努力を惜しまない人間であるようにナビィも思う。一年前だってそう。 彼は勇者伝説や考古的な知識、聖剣、それらの情報が必要であったがために貪欲だった。それが彼の理想、掲げたものに不可欠であった故に追い求め、ある程度の真実と思われるものを手に入れそしてゼルダ姫を救出した。 だからきっと、過去の勇者の記憶もリンクにとって必要な情報なのだ。それを得ることで答えに近付くのだと直感的にわかっているに違いない。 「じゃあさ、リンク。次はどうするの。まだ先があると思ってるんでしょ?」 「ん、まあ。次は多分ハイリア湖だと思うよ、これまでの流れからして。砂漠、山、森、と来たでしょ。となるとまだカカリコ村は早そうだし、時の神殿は森の一部だから今回のに含まれてるんじゃないかって思うんだ」 「ふうん。なんで?」 「今までより記憶が長かったから。主観だけどね。単に時の勇者の記憶がそれだけ膨大なものであるってだけなのかもしれないけれど」 あどけない子供が旅立つところから始まって魔王を討ち倒し、また子供だった、元の世界へ戻されてしまうまで。 ある意味で半生というか、一生に匹敵する濃さの記憶だったんじゃないかとも思う。もちろん、長さとしてはそんなに大したものじゃあなかったのだ。ただ恐ろしく密度が高く、その上あまり楽しいものではなかった。 プラスではなくマイナスである分、余計に重っ苦しい。 「さて、とりあえずデクの樹サマのところに寄ろうか。あの時教えてもらえなかったことを、今なら聞き出せるかもしれないからね」 「あ、うん。ナビィも援護するヨ」 「お願い。僕一人じゃちょっと心許ないし」 リンクはあえてナビィに、彼女とまったく同じ姿に名を持つ、時の勇者のパートナーであった妖精のことを告げなかった。 告げてどうなることでもない、と無意識に言い含めていた分ももちろんある。けれどそれよりも、リンクは怖かったのだ。 その事実が“リンクが一番忌避している”結末を招いてしまうような気がして恐ろしかった。 この、穏やかで平穏でけれどなにか物足りない、彼が過ごしてきた世界が崩壊してしまいかねないような、そんな気がして。 ◇◆◇◆◇ 「ねえ、デクの樹サマ。デクの樹サマは知ってるんでしょ? 時の勇者サマの話! 昔ナビィに勇者サマの話聞かせてくれたもんネ」 「これナビィ、体当たりをするでない」 「やーヨ、教えてくれるまでやめない。だってナビィもリンクも困ってるのヨ? 困ってる人には手を差し伸べなさいって、そう教えてくれたのはデクの樹サマだもの!」 困ったような声を出す老木に小さな妖精はひたすらにアタックを続けた。尤も妖精はちっちゃくてまんまるでふわふわしていて――つまり軽い。デクの樹そのものへのダメージは殆ど無いだろう。 それでもデクの樹がどうしたものかと思案顔になっているのは、彼なりに責を覚えているからだった。確かにデクの樹は知っているのだ。旅立って行った少年のことを。自分の父たる樹から引き継いだ記憶によって。 けれど実のところ、「時の勇者」という名には聞き馴染みがなかった。封印戦争のことならこの目で見てきた歴史だから知っている。その中核にいたのが今人間たちの間で細々と語られている騎士団と賢者などではなく、一人の幼い少年だということは知っている。 この違和感は何か。 「……デクの樹サマ。時の勇者は、僕の祖先に当たる人らしいんだ。炎の賢者が言ってた。その人は、何もかもを一人で背負い込んでそのうえ全てなんとかしてしまったんだって。普通に考えて、そんなのおかしいよね」 「……」 リンクは黙り込んでしまったデクの樹、ナビィ、双方にゆっくりと聞かせるように言葉を連ねた。事前に記憶の欠片の説明を受けていたナビィですら急な切り出しにはたと止まってしまい、デクの樹に至っては何がなにやらだろう。だがそれでもリンクは構わず独りよがりに話を続ける。 自分へ言い聞かせて再確認するように。 「でも、こう考えれば納得がいく――時の勇者は、一度失敗して、だからこの世界でもう一度やり直したんじゃあ、ないかな――」 「え……? つまり、リンクは封印戦争の勇者サマと時の勇者サマがおんなじ人間だって、そう考えてるってことなの?」 「うん。あの記憶は七年前に戻されたところで終わってた。ならば、彼は知っているはずだよね、その後に起こることを。そして知っているならば変えたはずだ。それが彼の責務だから」 「責務? なんでそんなに重ったい言葉を使うのヨ」 「彼は、そう思っていただろうから。せめてそう思い込むことが、多分彼に残された最後の依代だったんだ……」 どうかな? と聞いてくるリンクにデクの樹とナビィは複雑な顔をする。初めて会った時の彼はこんな顔をする子供だっただろうか。もっとこう、純粋無垢な少年ではなかったか。けれど今彼の顔はくぐもって翳っていた。まるで彼が見ている記憶の中の「時の勇者」に感化されているようだった。 いや、ようだったのではなく事実感化されているのだろう。それは何かとても良くない兆候に思える。嫌な感覚だ。ナビィは身震いした。 「……リンク。わしは……きみが望んでおる程の事は知らぬよ」 「そうなの?」 デクの樹は頷いた。 「わしに出来るのは、ただ黙って見守ることだけじゃ。情報を必要以上に開示してはならぬ。それが求められている真実であるとは限らぬし、それが女神に背く行為となり得る故に」 「封印戦争の勇者と呼ばれるべき少年は幼く、しかしあどけなさのない寂しい子じゃった。彼は常に憂いておった。未来を、ではなかろうな。恐らく自身のことじゃ。きみの言うようにやり直した二度目の人生だったのかもしれぬ。わしには憶測しか出来ぬが」 デクの樹のしわがれて深い声が響く。森の守り神デクの樹。長い歴史を見届けてきた番人。けれどいつの時代も彼に許されたのは見守るのみであった。介入することは出来なかったしまたその力もなかったのだ。 くたびれた少年は心を閉ざしていたから、その魂を慰めることすら叶わなかった。 「繰り返すが、きみにわしがしてやれることはそう多くはない。そしてその数少ない可能なことも大したことではない。きみを励まし、慰め、後押しすること、それのみじゃ。リンクよ、きみはきみらしくあれば良い。助けたいと願うのは大いに結構じゃが"きみは彼にはなれない"のじゃ。――なってはいけないのじゃよ、きみはきみでしかないのだから」 「……デクの樹サマ」 「わしは、そう思う」 デクの樹はそう言って微笑んだ。リンクはきょとんとして、彼の言葉を反芻する。彼になる必要はないし、彼にはなれない。当たり前のことだ。――当たり、前の。 「ねえ、デクの樹サマ」 「ん?」 「僕はもしかして、時の勇者の代わりになりたいって、自分でも気付かない内に思っていたりしたのかなぁ?」 「さあ、どうじゃろうのう」 デクの樹はリンクの問いを茶化してみせる。けれど彼が暗にそう諭したということは、つまりそう見えたということなのだろう。ここ最近の自分を省みてみると確かに感化されすぎていたようにも感じられる。 ここしばらくのリンクは少し暗い翳りを帯びていた。 記憶は、あくまで過去の遺物だ。振り回されてはいけないものだ。 「よし、決めた」 「はへ? 何をヨ?」 「ハイリア湖に行こう、それで決まり。――ありがとうデクの樹サマ、なんかすっきりした。光の勇者は僕じゃないし時の勇者も僕じゃない。僕は僕だけでしかない、デクの樹サマが言いたいのはそういうことでしょう?」 ねえ、デクの樹サマ? そう言って笑ってみせるリンクの顔は年相応に子供らしいものだった。けれど彼はもう子供ではない。彼は気付こうとしていて知ろうとしている。 そしてデクの樹にそれを阻むことは出来ないのだ。 (導くなどとは言わぬ。道を示せるとも思わぬ。じゃが、それたレールに戻るための分岐点を与えるぐらいならば女神様もお許しになろうて) デクの樹は瞼を閉じた。暗闇の果てには、何も見えない。 ◇◆◇◆◇ 「まーでもデクの樹サマも、まさかそれすらも俺の手のひらの上だとは思っちゃいないだろうなぁ。ご苦労様です」 "リンク少年"が感化される。想定内のことだ。それを誰かが指摘して本人に自覚させる。それもまた想定されていたことだった。全ては予定調和のうちの出来事だ。 「どうするかな、そろそろナビィも動かす頃合いか。光の勇者も呼んどきゃ良かったか? 一人で会議してると馬鹿みたいだ」 大神殿の最奥部、姫の水晶がある部屋は眩い程の白で埋め尽くされていた。その中にぽつんと立っている唯一の黒い異物、けれどその異物がこの部屋の白さを保っている。酷く矛盾した秩序だ。 でもそうやって守るしかないのだ。光の勇者はよく働いた。彼は十二分に役目を全うしたのだ。残った汚れ仕事は端から汚れている影にこそ似つかわしい。 元来は聖に属する存在である彼をこれ以上使うことは出来ない。 影は待った。千という時を待った。一人きりでいることには慣れっこだ。 でも、それももう終わる。待つべき時は終わり待つべき人間は還ってくる。 ――そして、全てが終わる。 だからやっぱり、そろそろナビィだなと影は薄く笑った。 「なあ、ナビィ。お前だっていつまでも忘れたままじゃあ、寂しいだろう?」 |