手を伸ばす
 誰かの指先
 そこにある
 温に涙する



レゾンデートル




「……ああ、ナビィ、そこにいる? ねえ」
「い、いるわヨ。何ヨ急に気持ち悪い」
「ごめんね。ただ……一人じゃないってことが無性に嬉しくて」
 横たわっていた浅い温水の中から身体を起こすとリンクはナビィを手のひらに包んで胸の方に寄せて抱き込んだ。そのまま深呼吸をする。その挙作はどこか儚かった。
 しばらくすると落ち着いたのか、ぱっと手のひらを離してナビィを解放する。そのまま飛び立ってナビィは立ち上がり水を布で拭うリンクを見つめる。既に彼に、先ほどの儚さはなかった。
 まるで夢靄がリンクに覆い被さっていて、今一瞬の内に晴れ上がってどこかへ行ってしまったかのような、そんな印象だ。
「リンク、今見てた記憶ってもしかしてよっぽど……」
「うん、すごかった。凄まじかったって言った方が正しいかな。壮絶で凄絶だった。酷い悪夢みたいなものだった」
「そ、そんなに?!」
 想像していた以上の単語の羅列にナビィはおののく。リンクがそうまで言うのだから本当にとんでもない内容だったのに違いない。
 勿論良くない方に、だ。
「そんなに、なんてもんじゃあないよあれは。ねえナビィ、想像出来る? 十かそこらの子供が血塗れになって絶望し、世界の全てを呪ってるだなんてさ!」
「……出来ないヨ」
 半ば吐き捨てるような荒い語気はあんまりリンクらしい言い方ではなかった。リンクは夢の――記憶の内容に当てられているらしい。いつもの彼と違ってなんだか不安定だ。
 ナビィの知っているリンクはもっと真っ直ぐで、ぶれなくてしっかりと地に足をつけて立っているような人間だ。明るくてよく笑って天真爛漫で、無邪気で子供っぽくてでもちょっぴり世間知らずで、それから――
(あ、れ?)
 心中で羅列した言葉を反芻し、ナビィははたと思考を止めた。天真爛漫で、明るくよく笑う? 子供っぽくて無邪気? そんなことはない。リンクは主張がはっきりしている分頭もしっかりしている。国外れの森村に住んでいたから多少ずれた部分はあるけれども、彼の叔父の教育がしっかりしていたのだろう、世間知らずではない。
(もう、誰の特徴ヨ後半のは)
 全然違うじゃない! と一人で突っ込んでナビィはうーんと唸る。でも人間なんてリンクのことしか知らない。だとしたら誰だというのか。
(――あ!)
 そしてナビィは思い出した。
 リンクと出会ったばかりの頃に彼と重ねていた、淋しそうに笑う蒼い瞳の少年のことを。



◇◆◇◆◇



 くるくるとよく変わる表情の中で、特に強く頭に残っているのがはにかむような笑顔だ。
 幼い子供だった頃も、成長して大人になった後も、彼ははにかむように笑った。時折、寂しく微笑むこともあったように思う。いつ見た顔だったかは思い出せない。
 決して繊細な人間ではなかったけれど豪快に笑う人ではなかった。にこりと満面の笑みを見せる時もそれは変わらない。
 彼は純粋な子供だった。いくら体が大きくなったってそれだけは一貫して変わらなかったのだ。永遠の子供であるコキリの森の妖精として育った彼にとってそれは仕方ないことだったのかもしれない。
 でも、彼は妖精じゃなくて人間だった。
 だから彼は大人になってしまった。それも酷い方法でだ。


『彼は報いを受けなければならない。神の力を振るい、人知を超えてしまった罰を。彼を取り巻く世界は巻き戻り、彼の過ごした時間は無為に帰する。勿論小さな妖精ナビィ、お前も例外ではない』
 ナビィにはその言葉が理解出来なかった。リンクが何をしたというのだ? 大好きな人を守りたかっただけだ。一体何がこの得体の知れない神様の琴線に触れてしまったのだろう。ナビィはいかめつい男性の声で語りかけてくる神に言葉を返さなかった。何も言う気がしない。
『妖精ナビィ。お前がこちらの世界に戻ってきてしまったことは誤算であり、修正されるべき間違いである。予期せぬ誤りは正されねばならない。お前は女神フロルの元にその存在を拘束される』
 ナビィが信じる神は黄金の三大神だけで、だからこの男神はナビィにとっては神でもなんでもない。ただ、偉そうに酷いことをこれでもかと羅列してくる鬱陶しい存在で、そして気持ちが悪かった。三人の女神以外の神を名乗る何かに命運を決められるだなんて吐き気がする。
 そんなものがリンクの全てを奪うだなんて。
『フロルは甘い。だが、我々はあの忌々しい女神に逆らうことは出来ぬ。愛され過ぎた人間が人を超えるのを止めることは出来なかった。だが懲罰は出来る。それが我々に許された権能である限り』
 かみさまなんてものはいつだってろくでなしなのだということを、奇しくも時の勇者と同じ時にナビィは知った。あまり知りたくない事実だった。神は万能で慈愛に満ち、その手のひらで余すことなく地上を救うのだと信じていられればどれほど幸福だっただろう? でもそんなはずはないのだ。神が本当に全知全能であるのならリンクとゼルダが引き剥がされることも、そもそも魔王の反逆も、何もかも端から起こりうるはずがない。
『フロルの元で眠り、そして思考を忘却せよ。それが与えられた使命であり運命である。甘受せよ』
 ――運命。
 ナビィは笑ってしまった。
 なんてちっぽけで薄っぺらく、無意味で馬鹿馬鹿しく塵芥のように無価値で、腹の立つ言葉であろうか!
「運命だなんて、ナビィ認めないわ。ばっかみたいヨ。ふざけてる。リンクは、そんなもののために戦ったんじゃないのに――!!」
 神を名乗る何かが無言でナビィを握り込む。気色悪い。痛い。気味が悪い。羽をしばたかせてもがくと解放された。視界一杯に白い光が広がる。

 記憶は、そこで途切れている。



◇◆◇◆◇



「……思い出した」
 ナビィは呆けたような声で漏らした。
「何を?」
 リンクがどうでもよさそうに訊ねる。ナビィの思い付きにはあんまり役に立つものがなかったから自然とそういう反応になってしまうのだ。それでも聞くだけ聞いておこうという意思を見せておく。そうしないとナビィが拗ねるからである。
「今度はどんな思い付き?」
「……思い付きじゃ、ないわ。すごく大事なこと。ナビィがずーっと昔に思ったこと。あのね、ナビィ神様が嫌いだった。ナビィの大好きなリンクが、何も悪くなんてないのに神様の罰を受けなきゃいけなかったことが悔しかった。女神様でもないのにどうして、そう思ったけどどうにもならなくて……」
「ナビィ、多分熱が出てる。ナビィらしくない。饒舌でその上夢見がちになってるよ。一体どうしちゃったのさ?」
「ナビィ知ってたの。リンク――時の勇者のコト。だってナビィはリンクのパートナーだったんだもの。でも忘れてた。フロル様が辛い記憶だからって蓋をして、この世界に送り出された。リンクに会うために」
 ぱたぱたと動いている羽の動きにいつものような快活さがない。リンクはナビィの言葉に顔をしかめた。あまりにも突飛なことを言っていてどうも俄には信じ難い。
 けれどナビィは嘘を吐くということを根本的にしない生き物だった。「嘘を吐く」という動作はナビィの知識の中に存在していないんじゃないかというくらいに彼女は純粋な生き物なのだ。
 だとしたらどんなに有り得ない、夢見がちな少女の空想よりも現実味のない言葉でもそれはナビィにとっての真実なのだ。ナビィが真実だと思い込んでいるだけかどうかは別として。
「時の勇者は、ただの子供だったのヨ。最初からあるべくして力を持つ存在であったでお姫様とは違って、ただちょっとだけ不幸な出来事で親を亡くして偶然デクの樹サマに預けられただけの子供だった。デクの樹サマが運命だと感じてお姫様に会いに行くよう言わなければ……こんなことに巻き込まれたりせず、特別なことなんてなく一生を終えていたかもしれない。ナビィとも、出会わなかったかもしれない」
「でもナビィは時の勇者と出会った。それで? ナビィは何が言いたいの?」
「そう。ナビィとリンクが出会った事実は変えられないわ。かも、とかもしも、っていうのは叶わずに消えていった可能性でもう二度と実現しないコトなの。後ろ向いても、しょうがないのヨ。先に行かなきゃ」
「ええと……うん、そうだね……?」
 懐疑的な声を出して応じてみるとナビィは「んー、やっぱ信じてない?」と聞いてくる。リンクは半分だけ肯定してナビィを手の中に引っ張り寄せた。ナビィは嘘を吐かないし、話の半分はなんとか頭で理解出来る。知っていることの復習だ。
 「もしも」という仮定は実現し得ない幻に過ぎない。だから先へ進むしかない。
 でももう半分は受け入れられなかった。「リンクに会うために」というのは、それはつまり運命という言葉が司る予定調和のことであろう? 今いるナビィが大昔の時の勇者のパートナーの生まれ変わりだとかそういう類いの話だ。
 その手の話は好きじゃない。リンク自身のアイデンティティが崩れていくような感覚を覚える。
「……」
「リンク、大神殿に行きましょ」
 リンクが一人で百面相を始めたのを見かねてナビィがあのネ、と控えめに提案した。小さく、けれど大真面目な声。
「ナビィの頭の中に残ってるもやもやも、リンクのその理解出来ないって感情も、全部の答えがきっとそこにあるわ。ううん、なきゃおかしいの。だってそこに意図的に集約してるヒトがいるんだもの」
「……そうだね。どっちみち、もう湖には用がないし。……あ、でも記憶は? 欠片がまだ足りなくないかなぁ?」
「足りてるわ。だってリンク、もう一つの世界に戻された後の記憶を見たんでしょう? だったらそれで終わりヨ。その後の時の勇者には特に変わったことはないはずだってダークリンクが言ってたもの。もし万が一足りなかったらまた弾き出されるだけだし」
「それが面倒なんだけどね……ダークリンクって誰?」
「あの真っ黒な影のことヨ」
 ナビィがなんでもないことのように言った。