――蒼い瞳が泣いて歪む あのひとを失いたくなかったと あのひとのそばにいたかったと ――紅い瞳はただただ想う あのひとが幸せであればと あのひとを守りたいのだと 水底の幻 正直に言えば、その部屋に足を踏み入れた瞬間、そしてその部屋を視認してしまった時から嫌な予感はしていたのだ。ラスボスのいる部屋が持っている雰囲気とも違う禍々しさと怖気だ。恐怖だ。 リンクはあまり何かを怖がるということは少ない。ないわけではないが、怖がりな方ではない。一年前に神殿巡りをしていた時、相当危ない橋も渡ったし種々様々な場所を踏破していったはずだがその際にここまでの危機感、後ろを向いてしまいたいという情けない思いを抱いたことはなかった。どんな部屋にも、光の勇者が待ち構えていた部屋や時の賢者が佇んでいた部屋に対しても畏れの感情を抱いたことはなかった。 だが、今はどうだ。リンクは少なからず後悔している自身を認める。目の前に立っている真っ黒な異物に対する嫌悪と本能的な恐怖は嘘じゃない。強がったって仕方ないところだ。 「よう。待ちくたびれたよ。何せ千年だもんなぁ。いやあ、本当にしんどかった」 リンクの姿を認めるや否やそう言った魔物の唇は、僅かに安堵に緩んでいただろうか。魔物という柄にもなくほっとしているようだった。そしてふざけていた。言葉端が軽い。 「お前さんには何度か冷や冷やさせられたが、最後まで概ね予想通りに動いてくれた。あらゆる全てが思い描いた通りに動いてくれるってのは結構気分のいいもんなんだって、今度のでわかったよ。ここまでみんな俺の手のひらの上だ。何か言うことあるか?」 予想通り、という単語にはリンクもまたそれはそうだろうと内心頷く。誘導にわざと乗っかってやっていた節はある。砂漠の地下道に落っことされた時からそれは不自然だと思っていた部分だ。裏で糸を引いているのが彼だと考えたのはもう少し後だが。 そんなことはどうだっていい。気になるのはもっと他のことだ。何故光の勇者がこんな胡散臭いものとぐるになっているのか。何故この部屋はこんなに高潔なのか。何故それなのに、お前はこうも嘘くさいのか―― 「……別に。聞きたいことはいっぱいあるけど今の言葉に大しては特にない。敷かれたレールは見えてたもの。他に進む場所がなかったからレールにそって歩いてた」 「ほお? ま、どうでもいいけどな。そうだ、折角だから何でも好きなこと言えよ。聞きたいことがあるんだろ? 教えてやってもいいぜ。冥土の土産って奴」 冥土の土産という不穏極まりない言に背筋を汗が伝う。反射的にマスターソードの柄を握り込んでしまっていた。保険を掛けておこうという保身の思いと焦りがリンクの体中をかけ巡る。今対峙しているものが、人の姿をしているだけの異物であることを確かに認識してぶるりと体を震わせた。 「だってお前、要らねぇもん」 気負わないふうに、ごく当たり前のことをいうようにそれはそう言った。何のてらいも躊躇いもなく単刀直入に言い切った。面倒そうに前髪を掻き上げる仕草が酷く冷たいものに思えた。 「必要ないんだ。お前という一個人の人格は寧ろ邪魔だな。お前は、あいつ――時の勇者の体の代替品でしかない。だから要らないんだ」 赤い瞳の中には同情も嘲笑もなく、ただ純粋な意志があるのみだった。体が凍り付いてしまったかのように重たい。冗談を言っているわけではないのだということは火を見るよりも明らかでそれが余計に辛かった。 「……なんで……?」 「間の抜けた顔してんなよ。お前は馬鹿じゃない、どうしてかはわかってるんだろ? だからそんな、泣きそうな顔してるんだよな。嘘だって言って欲しいか? 悪質な冗談で、演技だったんだと言って欲しいのか? だがそれは不可能だ。俺は、もう待てない」 「……そうまでして、時の勇者を呼び戻したいんだ。死者の理を破ってまで。生きることをあんなに苦しがって死にたがっていた彼を、また呼び戻したいんだ。どうして? どうしてそんなことをするの?」 「それが俺に出来る、姫を幸福にする唯一の方法だから」 ダークリンクは素っ気なくことを述べた。姫。ハイラルの大地における姫君など王家のゼルダ姫以外にいない。だが彼が言う姫というのは、リンクの知る少女ではないだろう。「彼女」と当代のゼルダ姫が形容した「始まりの姫君」のことだ。時の勇者が愛し、その果てにおかしくなってしまった彼最愛の女性だ。 ここではないもう一つの世界に残り、離れ離れになってしまった可憐に笑う少女。 白い花が、視界をかすめた。初めての感覚ではない。自分ではない誰かが嬉しそうに少女の名を呼んで、少女がそれに応えて振り向く。だが顔は白い花々に隠れて見えず、そうして幻影は遠くへ去っていく。 多分彼女がその人なのだろう、と思うと同時に涙が零れ落ちる。ナビィが「リンク!」と叫ぶが何を言ってやる気分にもなれなかった。理由もないのに酷く胸が苦しくて切なくてたまらないような気がした。だがこれは本当に自分の感情だろうか。一つの予感が脳裏を過って自分という存在の境界線が曖昧になっていく感覚を覚える。 「気付いたんだろ、自分が何者なのか。どうして自分がここに呼び寄せられたのかも、ならわかるよな。なあ――『リンク』」 「なっ、何言ってんのヨ! 名前は確かに一緒ヨ、だけどこの子はこの子でしかないわ! 時の勇者はもういないの。世界のどこにもいないの! あの日、アナタだってそこにいたじゃないの!」 「ああ。俺には自分から思考して何か事を起こそうっていうプログラムはされてないから、あの時はただ残った仕事をしようとかそのぐらいしか考えてなかったよ。あの時は。だが、ある時面白いことを言った奴がいてな。……光の勇者は、俺に言った。『あの人を幸せにしたい』のだと」 夢物語でも、神への反逆だとしても、そんなことは関係ない。光の勇者はすごくまっすぐな心の持ち主だった。彼は許せなかったのだ。一人の少年に向けられたあまりにも残酷な仕打ちを見て放っておくという選択を取ることを良しとしなかった。なまじっか世界を救えるだけの力を持っていたものだから愚かしい可能性に気が付いてしまった。 始まりの姫君はこの世界に存在している。姫君の幸福はあの日出会った少年と共に在ることで時の勇者の切望はあの日引き離されてしまった最愛の人と再び見えることだ。時の勇者は死んでしまったが、いつかまた生まれ変わる。 ならばその生まれ変わった魂を揺さ振り起こしてみれば、ひょっとすると上手くいくのではないか? 「そいつは真剣に馬鹿げた夢想を口にした。幸せを奪われる義務はあいつにはないし、幸せを奪う権利も誰にもないのだと声高に主張した。この世界を玩具みたいに好き勝手転がしてる女神の一柱から寵愛を受けているくせして神を否定した。……いや、女神に愛されていたからこそかもな。あいつは気が付いていた。――神は三人の女神だけじゃないってことに」 絶対者たる三大神の威光を利用すれば時の勇者から光を剥奪した神の力に逆らうことは、理論上は可能だ。不可能じゃない。だから光の勇者は決めたのだ。ゼロでないのならばやり遂げてみせると。 それは驕りだっただろうか。戯れ言だっただろうか。だが結果として目論見は上手く遂行された。 机上の夢物語は今現実に成り変わろうとしている。 「つまり、僕を利用していたんだ。光の勇者が僕にくれた言葉はやっぱり偽りだったんだ」 「いや、そんなことはないさ。あいつはお前を利用しなければならないことに罪悪感を覚えていた。だがそれしか道がなかったんだ。過去を見たのならわかるだろう、あいつは効率と絶対性を優先するためならば躊躇わない人種だ。必要悪なら、払わなければならない犠牲なら切り棄てることが出来る」 「……そう、か。それで……僕は、棄てられるんだね。切って棄てられるんだ。時の勇者を蘇らせるために。僕は用意された傀儡に過ぎなかったんだね」 「ああ。お前はいらない」 それは酷く冷たい言葉だった。要らない、必要ない、だから消えろ。ダークリンクにとっての要不要の判断基準はすべからく時の勇者の幸福に必要かどうかに由来する。つまりリンクは、時の勇者の復活には不要なものだと判断されたのだ。 もしくは、邪魔なもの。 「お前の体だけでいい。器に二つも人格は要らない、齟齬をきたすからな」 「……それを、時の勇者が望んでいると思っているの」 「五割絶句五割激怒ってとこだな。少なくとも目が醒めてすぐはだ。だが究極、そんなことは知ったこっちゃない。俺は俺の目的を達成するまでだよ。少なくない労力を使った。徒労にするわけにはいかないんでね」 淡々とそう言いながらダークリンクは呆然としているリンクの体を引っ掴んで片手一つでつまみ上げた。ダークリンクからずるりと伸びる触手に似た影の蔓に縛られて身動きが取れなくなる。 元より、リンクに抵抗するだけの気力など残ってはいなかったが。 「眠る前に、何故あんなに回りくどいことをしてまで記憶を集めさせたかだけは言っておく。……端的に言えば奥底で微睡むあいつの魂を揺さぶり起こすためだ。引きこもっているあいつを、目覚めさせるため」 「……んで……、しゃ、は……」 「じゃあな、トライフォースを受け継ぐ少年。恨むんなら時の勇者の生まれ変わりであったことを恨むんだな」 ダークリンクの冷たく、すらりとして鋭利な人差し指がリンクの額を突つく。その瞬間強烈な衝撃がリンクを襲い、そして意識を根こそぎ真っ白に塗り替えていった。育った村、旅に出たあの日のこと、旅先で出会った沢山の人々、抱いていた疑問、その何もかもが水泡に帰して消滅していく。 やがてリンクはぷつりと糸が切れたかのように崩れ落ち、地に膝をつく。しかしややあってリンクは再び起き上がった。直立し、面を上げ鋭くダークリンクを睨み付ける。ダークリンクは成功を確信して彼に手を伸ばし、そして案の定殴られた。 「――なんで、俺を起こした。この大馬鹿野郎!!」 「お前が、大事だったからだ」 リンク――時の勇者と同じ目線で真っ向から向き合って、ダークリンクは悪びれるふうもなくただ真剣な顔で短くその言葉を告げた。 ◇◆◇◆◇ 水底に沈み込んでいるようだった。 体が酷く重くて、気怠い。ゆらゆらと蒼色に視界が揺れる。水面の向こうで、誰かが誰かを殴るのがぼんやりと見えた。黒と金が交差する。 ダークリンクはいつの間にか身長を縮めて、ついさっきまでリンクのものであった体と同じぐらいのサイズになっている。殴られて腫れた頬を少し擦ってそれでも表情を崩すことなく真正面から時の勇者に成り変わった体を見つめていた。真摯な眼差しのどこにもおちょくるような態度はない。千年をかけた――正確には七百年ぐらいだが――悲願が成就したことに安堵していて、殴られたことなど気にも留めていないみたいだ。元より殴られることは想定されていてさしたる驚きもなかったのかもしれない。 時の勇者が怒るのはもっともなことだ。彼は確かに世界に絶望していたが、誰かを犠牲にしてまでのことは何一つ望んでやいなかった。時の勇者は森の子で、それは森の優しさを学んでいるということで、自分一人のためには何も出来ず何をしようともしないのだということを表していた。彼が動くのはいつだって誰かのためだったのだ。ゼルダ姫のために戦い、弟とはぐれた妖精のために戦い、そして最後はまた、ゼルダ姫のために生きた。 「あ……呼んでる……」 深い深い水の底に、煌めくものが見える。薄青い中で一際美しい蒼の光を放っているものだ。蒼いエーテル。時の勇者の残留。 リンクは迷うことなくそれに手を伸ばして触れる。ぱん、と短い音が響いて弾け飛ぶ。無数の泡になったそれはリンクの体を包み込んで、そして囁いた。 「わかってるよ。大丈夫、覚悟は出来てる――」 魂の中に在るそれは、時の勇者の影も、光の勇者も知らない最後の時の勇者の記憶だ。 |