きみが笑ってくれるのなら、 僕はもう、何もいらないから。 千年の狂想 「――なんで、俺を起こした。この大馬鹿野郎!!」 久しぶりに、もう九百年近くぶりに発した肉声は怒声だった。わなわなと体が震えている。ところがとんでもないことをやらかした当の影ときたら悪びれることなくいっそ真剣なまでにきつくまっすぐな眼差しで見てきている。ただ、苛立ちだけが左手を苛んでいた。その手に掛けられた神の剣を持つのも意識としては九百年ぶりであったがそんなことは気にもならなかった。 そんなことはどうだっていい。 「お前が、大事だったからだ」 「ふざけるな。お前は、お前は自分が何をしたのかわかっているのか?! この子には権利があった。この先生きる権利があった。それを俺なんていう、未練で出来た亡霊よりもろくでもないもののためにふいにさせていい道理なんかあるわけない。お前はこの子の未来を潰そうとしてるんだ。この、馬鹿野郎!」 「そんなことは百も承知してる。お前がそれを望まないだろうということも予測出来ていた。だがそれでもこうすることが俺に出来る最善だった。――姫の幸福のために」 そしてお前の幸福のために。ダークリンクが囁く。リンクは意味を図りかねて荒い語調でもう一度怒鳴った。あの人はいない。この世界には、いない。そして九百年以上昔にあちらの世界で死んでいる。 ゼルダはいない。 「いるよ、姫は。お前がただ一人愛し、俺が守らんとした人はここにいる。そう、ここにだ。……どうしてそんな顔をしている? 俺を睨み付けても現実は変わらない」 「俺を謀ろうとするのもいい加減にしろ。お前が何を目論んでいるのかは知らないが、」 「何も目論んでない」 リンクの台詞に割り入って幼い子供の容姿になった影は淡々とした声で短い言葉を紡いだ。嘘を吐け、とリンクの手が伸ばされ影の体を突き飛ばす。馬鹿力によろめきながらも態勢を崩さないように気を留める。あの水晶に触れてしまったら影の存在などものの数秒で消し飛びかねないからだ。 意図的に衝突を避けたことでようやくリンクの方も薄桃の水晶が部屋の中に安置されていることに気が付いたようだった。いぶかしんで覗き込んだ顔が一瞬で驚愕と動揺に染まり変わる。怒りによってわなわなと震えていた肩が今度はかたかたと震えている。 「……なんだよ、これ……」 「見てわからないか?」 「わかるもんか。わかってたまるかよ。なんで、なんでここにこの人が。冗談の類いにしては性質が悪すぎる。ああでも、お前の性質はあんまりいいもんじゃなかったな」 「生憎、お前に似てしまってな。素直ではないだろう。光の勇者も似たようなことを言っていたか」 わざとらしく肩を竦めると「ふざけるなよ」という弱々しい声が返ってきた。影は嫌というほどよく知っていた。時の勇者がどれだけ深く姫君を愛していたのかも、どれだけ狂おしくその人を求めていたのかも、その結果どういうふうに少年が壊れてしまったのかも、共にある同質の存在であったから痛い程に理解していた。その人を遠目でも彼が見間違えるはずなんかないということもどれだけ大きな意味を持つのかも嫌という程知り尽くしていた。 「光の勇者、あのお前によく似たお人好しの若狼が七百年前に俺を見付けてこんなことを言ったんだ。『あの人を、幸せにしたい。たとえそれが夢物語でも浅はかな思い上りでも、それでも可能性があるのなら諦めることは出来ない』のだと。終わらない連鎖をただ慢然と繰り返すのにはもうほとほと嫌気が差したのだと。だから俺はそれに賭けてみることにした。……その、姫の水晶という切り札があったからな」 桃色の水晶を指差してそう言うといよいよリンクの表情が青冷めてくる。当たり前か。千年間求めてやまなかったものがすぐそこに存在しているのだと言われているのだ。その人に関する狂気的なまでの執念を思えば平静でいられる方がどうかしている。 だが千年求めてやまなかったという点に置いては影も本体である時の勇者に並んでいる。影もまた長い間時の勇者を待ち望んでいた。ひたむきに、ある種の狂気をもって。 「切り札とか、何言ってるのかわからない。この悪趣味なオブジェは何なんだよ。質問に答えろ。だってそうじゃないか、あの人がいるはずないんだ! いていいはずがないんだよ!」 「だが姫は存在している。城の地下に眠る彼女のことはハイラル王家代々の機密事項だった。だから誰もお前には告げないし誰も教えてやることは出来なかった」 「……お前は、知っていたのか」 わななく唇が昏い声を紡ぎ出す。今まで生きるか死ぬかのサバイバルに身を置いてきた野良犬が突然気まぐれな金持ちに拾われ、高級な餌を出されて警戒しているような様だった。何もかも信用ならないのだと瞳は雄弁に語っていた。影も姫達も神も自身も何もかもが嘘と欺瞞と虚構のはりぼてに見えているに違いない。 「千年前からずっと知ってはいた。だが時の勇者と呼ばれた少年にそれを告げることだけはどうしても出来なかった。姫の情報は神の操作がかかっていて、絶対に伝わらないようにされていたからな。それが女神の寵愛に神々が下した決断で懲罰だった。時の勇者から、時の賢者に関する一切の情報の剥奪を試みた神々による制裁はこの俺にも等しく及んでいたんだ。異常であり異端でしかない俺にも例外はなかったんだよ」 お前も身に覚えぐらいあるだろう? と言ってやると何か考え込んでからはっとしたように口端を歪める。いつだったか光の勇者が彼女のことを口走ろうとしたらそのくだりだけどうしても声にすることが出来なかったのだとぼやいていたことがあるから、そのことに思い至ったのだろう。 「……。確かにフロルも言ってたよ。知るべきでないことは知ることが許されないってな。時の勇者に時の賢者の情報はびた一文伝えちゃならなかったんだ。それは知ってる。……千年。千年それを知っていて俺の隣にいながら隠し通すってのはまあたまげたが、お前がおかしいのは今に始まったことじゃないしな……」 「何とでも言うがいいさ。ともあれこれで俺の悲願は成就される。お前が姫に触れれば、全て終わる。全てだ。神の規則をすり抜ける手段があることはこうして光の勇者様が人生を犠牲にして実証してくれたわけだからな。何故ひた隠しにされていた情報がお前に伝達出来ているのか、それは勘付いているだろう?」 「『この体が時の勇者ではない』からだろ。はっ、あの子はこのために存在そのものを利用されたってことか。救われないよ、俺なんかのためにさ……」 「否、お前のためだからだ。お前だからその手段を採らざるを得なかった。――さあ、選べよリンク。お前の持つ覚悟で、女神の加護を受けた勇気で、選び取れ。最愛の人と再会するか、全て振り出しに戻して終わらない悪意の連鎖をまたとめどなく繰り返すかを」 「酷いな。究極の二択だ」 リンクは努めて無感情に声を出した。からからと舌が乾いてしまったようだった。こんなに酷い選択を迫られたのは、思えば女神の力と契約を結んで以来なんじゃないかと思う。舌が重たくもつれる。誰よりも愛しい人をその手に抱くか、愛する子孫の意識を生かし、また堂々巡りに落ちていくか。追い込まれたこの状況で取れる選択肢は確かにはっきりと、この二つしか残っていない。 ◇◆◇◆◇ 真っ白いミルクのような靄がかかった空間。ぼんやりとして覚束ない意識を掻き集め、リンクは自分という自我があの体の主導権を剥奪されたことをもう一度再確認した。 だけどそれはもう、些細なことに思えた。先程かいま見た最後の記憶は心臓を鷲掴みにして、捻ってきているような奇妙な圧迫感と脅迫観念にも近いものを残していっていた。 ふと、乳白色の奥から人影が現れる。意外には思わなかった。ダークリンクの言葉通りならば彼はずうっとリンクの心の奥深くにいたことになるわけだし、彼の存在を目の当たりにすることは始めでてはない。 現れた少年、全ての始まりを作ってしまった時の勇者は非常にばつの悪い顔でじっとリンクの顔を見つめる。長い耳、黄金の髪、紺碧の瞳、それら全てのパーツはリンクと殆ど変わらないものであるはずなのに構成された結果は全く違っていた。 「……ごめんな」 「なんで、謝るの」 「お前には、お前の人生があった。その権利は、自由は誰にも妨げられてはならないんだ。あの馬鹿がどう望もうとも。俺自身そんなことは望んじゃいない」 「本当にそう思っているの?」 リンクが素直な感情をぽつりともらすと時の勇者は相当に驚いた顔になって二の句を告げなくなってしまったらしい。でもリンクは先の言葉が時の勇者の本心だとはどうにも思えなかった。だってそうだろう。彼はあんなにもゼルダ姫という存在を渇望して、その為にあらゆるものを擲って、自らの存在を穢して、その末に死んだのだ。たかが千年弱生まれ変わるのを待っている間にそれ程の思いが薄れてしまうとはどうにも思えなかった。 ゼルダ姫は、彼が全存在をかけて愛した始まりの眠り姫はもう手の届くところにいるのだ。 「あなたは本当は、ゼルダ姫に会いたいんでしょう? 肌に触れて、言葉をかわして、抱き締めたいって、本当は思っているんでしょう?」 「――やめろ! そんな自分勝手な思いに、子孫であるお前を巻き込むことは出来ないんだ!!」 「どうかな、それは建前に過ぎないものだよ。僕はあなたの記憶を見てきた過程で感じたんだ。自縛してしまう程強いあなたの愛情を。例えそれが光の勇者が折り込み済みの僕への干渉材料だとしても、あなたの、時の勇者の想いだけは嘘じゃないでしょう」 ねえ、そうでしょ、と力なく呟きながらリンクは瞳を閉じた。開け続けていることはどうにも出来そうにない。ただ涙が溢れてきて、止まらなかった。 「あの人だけが全てだったんだ! あの人だけが絶対で、あの人だけが俺の永遠だった!! 他には何も――何も要らない。ゼルダさえこの手に戻るのならば、俺は悪魔とでも契約を結ぼう。黄金の三大神よりも性質の悪いものなんているはずないんだから、今さら恐れるものなんかない」 乾いて掠れそうな叫びが脳裏に響く。酷く必死で切な叫びであるのにその声は今にも消え入ってしまいそうに儚かった。だって時の勇者は知っているのだ。その願いが、絶叫が叶うはずなんかないのだって。 女神に愛されているという事実は、彼を苦しめるばっかりでなんにも助けになんてならないのだって。 「ねえ、ご先祖様。実を言うと、僕はもう十分満足してるんだ。おじさんを――魔王ガノンをただ殺すことしか出来なくて、この王国の歪んだ摂理をそのままにしてしまったことを除けばあんまり望むものもない。それに、」 リンクは滂沱と涙を流したまま笑った。不思議と痛々しさはなく、ただ真っ直ぐで眩しくて、でも息苦しかった。 「僕は光の勇者が夢みた結末を、見届けてあげてもいいかなって思うんだ」 「お前という存在が消えてしまうのだとしてもか?」 「うん。僕を育ててくれたおじさんには悪いかなと思うけど。……それで、世界が変わるのならば。いいんだ」 リンクの最も大きな後悔は繰り返す歴史を止められなかったことだった。ハイラル中を駆けずり回って神の剣を手に取り、精一杯戦ったけれど結末は織り込まれたシナリオの範疇を出ず、魔王は死ななかったし一時の心地の悪い平穏が手に入っただけだった。それだけだ。何も、何一つ変えることは出来なかった。 だが光の勇者と時の勇者の影が画策したことに乗っかってやれば歴史は変わるだろう。そういう確かな予感がある。 「あのね……僕は、僕なりに考えて思ったんだ。この世界が悲しくて苦しい歴史を繰り返す理由。それはね、きっと一人のせいじゃない。魔王ガノンがあの時あなたとお姫様を呪ったことだけが原因じゃないんだ。あなたが世界を、神様を呪ったことと――お姫様が、あなたのことをすごく大切に思っていたこと。この三つががんじ絡めになっていてだからずっと同じ時を刻んでいた」 「俺が? 原因だっていうのか」 「そうだよ。あなたは……」 そこまで言ってから時の勇者の表情に気が付き、リンクは二の句が継げなくなってしまった。憂いを帯びた表情はリンクよりも背丈が低い今の時の勇者の姿では不釣合いなものだったが、ある意味でそれがこの人の自然体なのだった。この人はずっとこの表情をしていた。あの時からずっとだ。 リンクはそれがすごく悲しいと思う。 「……いい。その先は言わなくて、いい……そのぐらいは自分でもわかってる。だから……」 自分が世界を呪ったこと。世界を救っておきながら世界なんてどうでもいいと思っていたこと。本当は神様が大嫌いなこと。自分からゼルダを奪った全てを、昔憎んでいたこと。時の勇者は言われなくたって、そんなことはわかっていた。耳が痛くて、心臓が苦しくて、張り裂けそうなぐらいに理解していた。 それだけゼルダを愛しているということに無自覚でいられるはずもない。 「でも、それはお前の人生を無為にしていい理由にはならない」 「だけどそうしないと歴史は変わらないんだ!」 「俺みたいな亡霊に何が変えられるって言うんだよ。何を期待してるんだ。期待は裏切られるためにあるって知らないのか――」 「だったら、おじさんは、魔王ガノンドロフはずっと一人のままなの?! ずっと、もう殺したくなんてないって寂しそうに笑ってなきゃいけないの!」 「……なんだって?」 リンクが堪え切れず叫ぶと時の勇者はやや驚いたような顔をしてまじまじとリンクの泣きべそをかいているみたいになった顔を見つめた。リンク自身もどうしてこんなに感情が昂ってしまったのかすぐには理解出来なかった。絶叫は静かな怒りに似た感情だった。時の勇者の優柔不断な曖昧さが、嫌なのだった。 「僕は――僕は、こんなのってないって、そう思ったんだ。そのためなら消えちゃってもいいかなって思った。みんなを幸せにするのが僕の最後のやりたいこと。普通の人達だけじゃなくて、魔王も勇者もお姫様も。僕は、みんなが不幸そうに嘆いていることが僕が消えてしまうことよりも遥かに恐ろしいと、そう思うんだ」 |