誰も笑えない世界なんて僕は許せない。



最後の勇者の物語 ‐願い事の話‐




 森で生まれ、きこりの叔父に育てられた少年は無垢で純粋で、そして無知だった。
 世界を救うことの重さなんて知らなかったし命を背負う重さも知らなかった。自分が何者であるのかということを考えてみたこともなかった。答えはいつだって一番大事な時が通り過ぎた後にやってきた。
 退魔剣で敵を斬ることが命を背負うことなのだと気が付いたのは魔王の首を斬り落としてからだった。世界を救うということが誰かの命を犠牲に多数の安寧を守ることなのだと気付いたのもその時だった。自分が時の勇者の生まれ変わりなのだと思い知らされたのはついさっきだ。どれもこれも、気付くのが遅すぎた。
「君は優しすぎる」
 いつだったか、魔王が言った。
「問題を先送りにしているだけなのだということはわかっているよ。ただ後伸ばしにしているだけだ。だが、それ程に女神の拘束は強い。……全て承知の上だ。私が卑怯だということも理解している……」
 かつて世界を敵に回し覇権を握らんとした男は永の歳月のうち、力を求めることの虚しさに気が付いてしまった。だが気付くのが遅かった。彼一人の意志が変わったところでどうすることも出来ない。女神ディンの気まぐれに振り回されて、そして終わる。
 一人では何も変えられない。
「優しいからね、君は」
 そう繰り返した男こそ、魔王と呼ぶには、魔王で在り続けるには優しすぎたのだろうと思う。
 あの時、泣いて縋ったら結末が変わるだろうかという思考がちらりと脳裏をかすめたことを思い出した。何も変わりやしないということを知っていたから、リンクは自らの意志で優しい魔王をその手にかけた。首をはねた瞬間の重たい感触はきっと忘れることが出来ないだろう。生々しい命の重さは酷く克明でリアルで、だけれど現実味がなかった。あの人は死ねないのだと言う。死という形ですら逃れることが出来ないのだという。
 傷口から飛び散る体液、本来人間ならば真っ赤であるべきそれがグロテスクな緑色に染まっていたことも、いつまでも忘れられそうにない。


 幼い頃はただ気の向くままに森を駆け回って、草木をじっと眺めてみたり虫や魚を捕っては放して、そんなこれといって意味のないことをいつもしていた。きこりの叔父の手伝いの他にはやることもなかったから雨の日は叔父の持っている本を読んだ。それだけだ。どこにでもいるごくありふれたきこりの子だった。剣なんて見たこともなかった。
 老婆インパが村に現れて世界が変わる。偶然で旅に出ることになって、精霊と出会いいくつもの困難を乗り越え姫君のためにトライフォースを集めた。我武者羅で、あまり深く意味を考え込むことはなかった。少し考えれば気付けたかもしれないのにと今更ながら思わなくもない。偶然だと思っていたあらゆることは、何もかも仕組まれた運命だった。神にだ。
 剣を扱えたのも運命だ。自分は時の勇者の生まれ変わりで、そして恐らくは直系子孫だったのである。妖精と出会ったのも運命だ。そこには女神フロルの思惑とデクの樹の思惑が絡み合って存在していた。時の勇者のともだちだった妖精ナビィは、生まれ変わった時の勇者の隣に在るようにという作為的な配置だった。
 トライフォースの欠片を集めて立ち寄った場所にいた賢者達も、皆時の勇者によって賢者として目覚めさせられた者達だ。時の勇者の記憶の中に彼らは確かに存在していた。彼らはきっと自分が何者なのか知っていたに違いない。今言ったって水掛け論にしかならないのだが。
 そして魔王との邂逅、それもやはり仕組まれた運命だった。勇者は姫君と共に魔王を討ち取る。それがリンクに、ひいては勇者達に与えられた変えられない運命だったのだ。
 運命が幾重にも重なって次の運命を形作る。同じ歴史を動かそうとする。そんなのにはもう懲り懲りだって、皆思っていたはずなのに。


「僕はね、皆が幸せになれる世界を作りたいって、そう言って光の勇者にマスターソードを貰ったんだ」
 リンクが言った。
「僕の覚悟は望みでも祈りでもなかった。願いだよ。『いつか皆がしあわせになれる世界が訪れますように』。『僕がマスターソードを手に取ることで少しでも世界の選択肢が増えるのならば、そのために』……そう、願ってた。誰も笑えないようなそんな世界は僕は嫌だった。僕一人が苦しい思いをするのであっても他の皆が笑えるのならばそれでいいって、そう思ってた」
 背に負った神の剣は千年前と同じようにまばゆい白銀に光っている。確かに神の剣はリンクに選択肢を与えてくれた。だがそれは、どちらを選んでも苦しい嫌な二択だった。左を取れば、魔王は死ぬ。右を取っても、魔王は死ぬ。ただそこに自身の意志が介在するか否かというそれだけの差異だった。あの優しい愚者はどっちみち死ぬ気だったのだ。
「僕ね、あんまり執着ってしないんだよ。好きな女の子とか、いなかったし。大事なものは少しだけでいいってずっと思ってた。だっていっぱいあったら辛くなっちゃうもん。辛いのは好きじゃない。泣くのだって嫌だよ。痛いのも苦しいのも、人間だからあんまり嬉しくない。……でも少しの『大事』のためなら痛くても苦しくても、辛くてもいいよ。……あなた、気が付いた? 僕の大事ってなんのことか」
「世界平和か? 字面だけは、ご立派な言葉だよな。現実にはそんなことは有り得ない。あちらを立てればこちらが立たず……そういうもんだ」
「そりゃ、まあね。いさかいをなくすのは無理だよ。人間だもん。でも一番大きな不幸を取り除くことはどうやら出来るかもしれないみたいなんだ。――ダークリンクと光の勇者がやりたかったこと。今ならわかるような気がする」
 ばつが悪そうな顔をしている時の勇者に「ねえ?」と笑いかけるとその言葉の意味を悟ったのか彼は表情を歪めた。だがどうして、も何故もない。その人はとても聡明で、それ故に壊れてしまった人だからわかってしまったのだろう。
「僕があの日から一番執着していることは、世界を変えられなかった後悔。運命に流されてしまった後悔。嫌悪感と倦怠感。おじさんに言われるままに首をはねてしまった僕の弱さをあの人は優しさだと言ってくれたけど……でもやっぱり、納得出来ないんだ。あの人はまた一人で、ずっとこの先も一人で……そう思うと嫌な気持ちになる。あの結末じゃ駄目なんだ。神様の決めた運命の通りじゃ駄目だったんだ。……バッドエンドを繋げていくのにはもう疲れたよ」
「だが、お前は死ぬんだぞ」
 馬鹿言え、という代わりに時の勇者はそう忠告をする。リンクは首を振った。死ぬのが怖くないと言えば嘘になるだろう。ダークリンクに感じた自己崩落の恐怖はまやかしじゃないのだ。
「僕はいなくならないよ。僕が怖いのは心臓が止まることじゃない。僕という存在が塗り潰されて消えてしまうこと。どこにもいなくなってしまうこと。……本当言うとね、怯えがないわけじゃないんだ。でも僕は自分の心臓の音には執着してない。あなたや僕と同じ運命を背負わされた人間がこの先も生まれ続けて、僕の存在に重なっていくことの方がずっと、怖い。だから……僕は最後になるよ。最後の勇者伝説になる。伝説はこれ以上要らないから」
「お前は卑怯だよ」
「おじさんと同じだね。卑怯でも、いいよ。それでも僕は運命を変えたいってそう思ったんだ」
「自己犠牲と優しいだけの馬鹿は愚か者のすることだ。俺のような。お前にはまだ未来があるのに」
「あなたにもあったんだよ。白い花の幻を僕は何度も見てきた。あなたの執着が僕に見せた幻。あなたは生まれ変わってもあの人のことを諦められなかったんだ」
 リンクが毅然としてそう言ってやると時の勇者は溜め息を吐く。呆れているようにも嘆いているようにも、泣いているようにも怒っているようにも、そして笑っているようにも見えた。
「大嘘吐きだな、お前は。そんなことを言って本当は震えてるんだろう。子羊のように情けなく死を怖がっているんだろう?」
「ん……どうかな。僕にはわからないよ。でも僕が生きたって証は確かに残るんだ。死んだ人は記憶の中で生き続けるってこういうことなのかなって思う。僕、これだけはわかったんだ。時の勇者だとかそういうの、関係ない。あの時森を飛び出した男の子には幸せになる権利があったんだって」
 リンクは手を差し伸べる。時の勇者は躊躇う素振りを見せたが、リンクがぐいぐいと手を伸ばして時の勇者の手を掴もうとするのでややあってから仕方なしといったふうにその手を取った。時の勇者の手は、温かかったようにリンクには思えた。死人の冷たい肉の塊ではない。そこに彼の意志と魂と、願いと祈りがあった。
「運命は変えられるって、僕は信じてる。人間だから。神様が絶対だなんて誰も決めてない」
 リンクがか細い声で言うと時の勇者は子供の体を小さな腕の中に抱いて、ばか、と一言だけ返してやった。リンクは目を閉じた。時の勇者に押し潰されてしまうのは酷く恐ろしかった。でも、自分という存在が残るのならこれでもいい。自分は消えたわけじゃない。あの影の筋書き通りの消滅だけはまっぴら御免だったが、自己とアイデンティティは多分守られたんじゃないかと思う。
「おやすみ、最後の勇者」
 時の勇者が囁いた。