もしも世界が君を裏切るのならば、
 僕もまた君の為に世界を裏切ろう。




愛罪




「お話は終わりか? リンク。覚悟は決まったか」
「はっ――誘導尋問だな。嫌な奴。……あいつは、自分から俺の手を握ってきた。それが答えの全てだよ。満足したか?」
「別に満足とかそういう感情はない。俺はあくまでお前の影だから。最初から最後まで徹頭徹尾徹底して異質なもので相入れないものだ。俺はお前にはなれない。それどころか、まともなものにもなれない」
 ダークリンクは何の意図もなくただ柔らかに自らの本体と成った少年の手を握る。白い手のひらや指先は、千年前よく血に塗れていた。無感情な血の赤で彩られていた。どろどろした汚濁は女神に愛された聖の力を持つものが纏うべきものではなく、だが影はそれを隣で眺めているだけだった。
 それ以上下方に落ち込まないようにするのが精一杯で引き戻すなんてとても不可能だった。影はまともではないのだ。
「……まだ、触れるんだな」
「母なる毒には耐性がある。姫には、俺は触れない」
「知ってる」
 リンクは――始まりの少年は呟いてかつて水の神殿で討ち倒した魔物から生まれ出でた自身の半身にも等しい影を見た。それが害を成そうとして動いたわけではないということを本当はリンクは知っていた。ゼルダとリンクを守るために存在している影にはそういう思考がそもそもないのだ。純粋に幸福を願って賭けをしていただけなのだろうということはわかっている。話を持ち掛けたらしい光の勇者も、ただまっすぐに優しい子だった。
 どいつもこいつも、優しい愚か者だ。
「概ねお前の望み通りにことは運んだ。お前はどうしたい? 何をどうして、運命を変える気だ? 俺にはまだわからないよ」
「簡単なことだ。お前が姫に触れれば、全てが決する。姫の止まった時は動き出す」
「よくわからないな」
「難しい理屈は知らない。ただ、あの人は滅んでしまった世界からこちらに逃げ込んで来たのだと大昔にこちらの姫さんから聞いた。魔王が復活し、誰もそれを止めることが出来ずに殆どの大地が海に沈んでしまった世界から来たのだと。そのせいでこちらに知恵の所持者が二人いる異常事態がずっと続き、やがてオリジナルの契約者である姫に知恵のトライフォースは集約していった。その結果、ガノンのかけた戒め、眠りの呪いは酷く脆くなっているらしい。元々相反する力だからな」
「ちょっ……待て、俺が救ったと思っていた世界は……救えなかったのか?!」
「お前がいなくなったからな。勇者なき世界に次なる勇者は現れなかった。海に沈んだ後のことは知らないが少なくともそれまでには現れなかったらしい」
 淡々と述べられた言葉にリンクは絶句し、少なくない動揺を見せる。
「俺のやったことは無駄だったのか」
「いや。お前が命を掛けたから姫は今ここにいる。お前が動かなきゃ姫は死んでただろう。ただ間が悪かっただけだ。お前は力は有り余っているが運だけはないよな」
「運ね。ないよそりゃ」
 お前みたいな真っ黒いのが憑いてたら運気が上がるわけがない、と毒づく。影はただ穏やかに凪いだ表情をしてその言葉を受け止めた。役割が終わったという安堵と充足が少しずつ湧いて出てきていた。
 もうすぐ終わる。もうすぐだ。
「でもまあ感謝はしてなくもないんだ。人間のまま死ねたのはお前がいたからだし。そういう意味では俺の運も捨てたもんじゃなかなって。……お前の発生はある意味奇跡だった。ああそうか、お前は存在そのものが女神の裏を掻いてたわけか……」
「まあそういうことになるな。だからこそ今度は神を出し抜いてやろうと思ったのかもしれない。――さて、頼みがあるんだが」
「頼み?」
 リンクは訝し気な顔をして影の言葉を反芻した。この奇妙な存在がリンクに頼みごとなんてものをしたことは一度もない。あまりいい予感はしなかった。無理難題ではないが、嬉しくない頼まれごとをされるような気がした。
「その剣で俺を殺してくれ」
 そしてその予感の通りに、ダークリンクは先程までの話の延長線上の感覚でこともなげにろくでもないことを言って左胸を指差した。
「俺の役目は終わった。もうあの時みたいに醜く生き伸びようとはしない。死を恐れる当たり前の気持ちはどこかへ消えてしまったよ。……永すぎたんだ。永かった。お前の中に還れるのならここで消えるのも悪くないかなって、思う。だから」
「何を……言っている?」
 あの時、というのは水の神殿で一度消滅しかけた時のことだ。死にたくないという生存本能で時の勇者の影に入り込み、そして同化して生き伸びた。醜く、浅ましく。
 リンクは蒼白な表情になる。反射的にマスターソードの柄に掛かった手がかたかたと震えていた。理解が追い付いていなかった。どうして影が死のうとしているのか、当たり前のことなのに理解出来なかった。感情がそれをわかろうとしない。
 だがリンクの思考の半分はその必要性を理解し、聖剣を鞘から抜き取る。たくさんの命を吸った鉛のように重たい剣は沈黙して何も言わない。理性ではわかっていた。影は異質だ。あってはならないものだ。その上千年も生きた。もう潮時なのだ。
「だから、俺を貫いてくれ。俺の存在理由、お前を守りいつの日か姫と再会させる……それが叶った今、俺のレーゾンデートルはもうどこにもない」
 魔物を斬る、という染み付いた習性のまま本能的にリンクは剣を振り被った。言葉にならない絶叫は雄叫びと涙と、悲しみだった。すごく悲しいと思った。この影とも長い付き合いだった。それがあまりにも呆気なくいなくなってしまうのだ。
 早くしろ、と唇の動きだけで催促してきたその生き物は魔物のくせして酷く人間じみていた。人間臭かった。それが余計に辛かった。
 生き物が肉を抉られる嫌な音がしてダークリンクの左胸を一思いに刃が通過していく。

「さよならリンク。愛してた」

「ふざけんなよ……!」
「姫と同じぐらいに」
 ダークリンクははにかんで、口の端から赤黒い体液を吐き溢した。マスターソードに貫かれた左胸部から白い光の粒子に変わっていって、しゅうしゅうという音がリンクの鼓膜の中をいっぱいに満たし、そして泡になって弾け飛んでいく。
 リンクはなんだか無性に悔しくて腹が立って、情けない顔でその様子を見ていた。影は今までで一番なんじゃないかと思えるぐらいに綺麗な顔をしていた。おおよそ魔物がするものとしては似付かわしくない、清々しい笑顔だった。
「……ちくしょう」
 そんな言葉は知らない、とついさっき言っていたくせにとんだ嘘吐きだ。だが毒づく相手ももういない。マスターソードで殺された魔物の末路なんてもう飽きて目が腐るぐらいに見ているはずなのに胸が詰まるような思いでそれを眺めていた。光とか、もやとか、そういう形のない曖昧な何かになってやがて空気に消えるのが定めだ。リンクは無駄だと知りつつ手のひらを開きその霞みたいなものを掴み取ろうと試みた。やはりそれは、無駄だった。
「馬鹿野郎……愛してるなんて、死ぬ時になって言うなよ……!!」
 満足気に死んでいった影に、この恨み言は届いているだろうか?



◇◆◇◆◇



 これでいい、と理性が言う。
 そんなんじゃない、と感情が叫ぶ。
 呆気ない死に目尻が柄にもなく熱くなった。あっという間に儚くなって、空気に溶けて消えたそれはもう跡形もない。遺言になった影の目論みは重たい響きを持ってリンクの心の中に残っている。二人分の遺言。そこまで込みで読んでいたのだとしたら完全にリンクの負けだ。引き下がる退路を自らの存在でもって断った二人の勝手さが逆に羨ましい。
 剣を握る左手にもう震えはなく、その代わりに右手が馬鹿みたいに笑っていた。女神の寵愛を宿す左手は落ち着き払っていたが、ただの右手は繊細で野暮な生身の人間だった。
 左手は、ずっと魔物を斬ってきた手だ。生まれ変わってもそれは変わらない。左の五指全てが命を吸い上げてきた手のひらだった。汚れた指先だが、それでもゼルダが綺麗だと言ってくれた指先だった。
「……ずるいね」
 思い出ばかりが美しさを伴って頭の中を駆け抜けてゆく。ゼルダの花のような笑顔の中に混じって、影の溜め息や憂い、透き通った真剣な眼差しの子孫が剣を振るう姿が混じっている。剣を鞘に仕舞って手のひらをゆっくりと握り込むとその思い出もリンクの中に戻っていった。
「また俺を一人にして……俺がそのままこの剣で国全部を焦土にしてしまうとか、そういうことは考えなかったのかな……」
 妖精ナビィに昔言われた冗談を思い出して一人笑いする。茶化すようにそんなことを言った妖精は、今はもう眠っていた。酷く静かだと思って振り向いた時にはこんこんと眠りこけていた。影が眠らせたのだろう。起きる気配はない。死んだように眠っている。
「ま、ないよね。ゼルダが愛した大地を焦がすなんてこと、俺には出来ないもん」
 安置されている薄桃色の水晶の方へ歩み寄る。大昔にガノンドロフが彼女を閉じ込め、自身を挑発した時のものと同じだった。あの男にはあの時怒りしかなかったが、最後の勇者に取った対応を思うと哀れで、そしてどうしようもなく同類の愚者なのだと思う。同じ穴の狢。女神に魅入られたばかりに大変な思いをするはめになってしまった。
「ねえ、ゼルダ」
 水晶の中で目を閉じているゼルダは思い出と寸文違わず美しかった。この中だけ時が止まって、固まっている。眠り姫は何も知らずに朝を待っている。
「こんな俺でも、君は許してくれるかな。またあの頃のように、笑ってくれるかな。……愛してくれなくっていい。好きだって言ってくれなくって、いい。君が笑顔でいてくれるのなら俺はもう、何も要らないから。君の幸せが俺の幸せなんだ。だから……」
 リンクは小さく囁いて頬を水晶に寄せた。冷えた硝子のような岩肌から微かに花の匂いがする。ゼルダの匂い。白い花の匂いだ。夢の中でさえ嗅ぐことのなかった香りは、求めていた最愛の人がそこにいるということを確かにしていた。
「もう一度、笑ってよ。それだけでいいんだ」
 懇願するように左手を――どんなに薄汚れていても彼女が好きだと言ってくれた手のひらを翳す。夢を見ているみたいだ、とぼんやり考える。命の重みに押されて指先が水晶越しにゼルダの唇に触れた。