きみを好きになった日のことを。
 僕は絶対に、忘れない。




復楽園




 一目惚れだった、ということを覚えている。
 一目見て魂を奪われたように恍惚としてしまった。彼女の話を聞き協力を頼まれ、ただ彼女のために生きようと思った。森の子には欲がない。森の子は自らのために何かを望まない。いつだって誰かのために願い、祈り、望む、そういう種族だった。
『ねえ、リンク。あなたのお話、もっと色々聞いてみたいわ』
 彼女の笑顔が好きだった。
 だから、彼女の笑顔のために頑張ろうとそう思った。
 あの日までずっとそれは変わらない思いだった。
『わたくしを愛してくれてありがとう』
 なのにあの時、リンクの中で何かが狂ってしまった。


「会いたくなかった、なんて嘘は俺には吐けないよ。俺はずっと君に会いたかった。君の声が聞きたくて、君の笑顔が見たくて、そのためだけに戦い続けてた。いつだって俺は君の幻を追い求めてた。……生きる世界を分かたれたあの日からも変わらず」
 とても悲しそうな顔でオカリナを吹いていたゼルダの顔は今でも鮮明に思い出せる。無理に作り笑いをして涙を隠そうとした痛ましい表情。それに相対する自分は顔面蒼白で何も信じられなくて、絶望的な顔で、酷い表情をしていた。
「ゼルダ」
 彼女のいない世界は地獄だった。その続きは、煉獄だった。だが神曲は苦渋だけで終わるわけではない。最後は天国編に続いている。
「君に会えて、嬉しかったよ」
 左手が触れたところから水晶が光に溶けて消えていく。リンクが微笑むと頬に手のひらを添えられたままゼルダもまた微笑んだ。

「何、言っていいかわからないんだ。ゼルダと最後に交わした言葉はなんだったかな。……確か、情けない言葉だったかな」
「いいえ。わたくしは昨日のことのように思い出せますよ。あなたがわたくしにくださった言葉はとても暖かくて、……とても嬉しかった。愛される喜びと理不尽な離別への虚脱感を一緒に持っていたのを覚えています。……わたくしは、ずっと、眠っていたのですね……」
「……うん。ガノンの呪いだってそう聞いたよ」
「ええ、そうです。どうしてあなたと再び会うことが出来たのかはわからないのですが」
「俺に選択の余地をなくした奴がネールの生存本能だってそんなことを言ってた」
 ゼルダは何も問うことなくリンクの言葉を聞いている。聡明な時の賢者はここがどこであるのか、今がいつであるのか、なにがどうしてこの状況に至っているのか、そのどれについても詳しく尋ねることをしなかった。或いはもう、知っていたのかもしれない。そうでないから悲劇が起こったのだと知っている今でもリンクにはゼルダが全てを見透かしているように映るのだ。事実、リンクの心は何もかも見透かされているだろう。
「君が残った世界は一度破滅を迎えたって聞いた。俺がいなくなった世界に次の勇者は現れなかったって。だから君はこちらに逃げて来たんだ。女神の力で並行世界に移動してきた。多分それは、君が並行世界を創った術者だから出来たことなんだろうけど……でも、そんな途中経過は今となってはどうだっていいことかな。俺にはやらなきゃならないことがあるんだ」
「まあ。どうするのです?」
「自らの存在と引き換えに俺を前に押し進めようとした二人は共通して歴史を終わらせたいって、そんなことを言ってたよ。……君は、知らないかな。俺達が始めた争いの歴史は何度も繰り返されているんだ。その度にあいつだけは死ねないから眠りを繰り返してるんだって。魔王ガノンドロフは暴虐を嫌うようになった。解放されたがってる」
「そうですか」
「うん、そう。最後に魔王を斬った俺の子孫は『あの人は可哀想だった』ってしきりに繰り返すんだ。俺のことも同じぐらい可哀想だなんてのたまってたけどな。まあ確かに丁度いい頃合かなとは俺も思う。それにね、ゼルダ。今なら俺はなんだって出来るような気がするんだよ」
 ゼルダの美しく穢れのない指を絡め取って大真面目に鼻を鳴らすと彼女はくすくすと笑った。優美な微笑みも淑やかな微笑も悪くはないが、欲を言えばリンクはこの少女らしいくすくす笑いが一番好きで、嬉しいと思う。本当に彼女が少女であった時の白い城壁と花々が溢れた中庭を感じるからだ。中庭はあの頃のゼルダの世界で、リンクが帰る場所だった。七年後に無残に破壊されていたのを見た時には、落胆という言葉では足りないぐらいに愕然としたものだ。
「君が隣にいるから俺はなんだって出来るんだ」
 真面目な顔のままそう続けるとゼルダはやにわに、頬を薄く染めた。



◇◆◇◆◇



 暗い闇の底で孤独に眠ることで、魔王は幾百もの歳月を過ごしてきた。誰かの憎悪がその存在を地の上へと呼び戻すまでただ眠り続けた。
 その最中に、いくらか夢を見ることがあってその頻度は年を経るごとに上がっていった。まだ若く、無知で暴虐で愚かで、しかし熱情に満ちていた人間であった頃の思い出が殆どで、その中で幾度も幾度も魔王は勇者に剣で討ち貫かれるのだった。痛みよりも、郷愁の念が強かった。孤独で昏い目をしていた幼い少年の赤色を思い出すと、捨てたはずの感情が蘇ってくるようだった。
『いいよ、すぐに殺してあげるから』
 二度目を経験した少年が誰よりも冷めた瞳でそう言う。
 魔王は夢の幻影に何と返してやることも出来ない。だが殺し合うことの無意味さを悟った今は彼にかけてやりたい言葉があるよう感じるのだ。その言葉が何かはっきりとわかる前にいつも夢は終わってしまう。何度も見た夢だが、未だにその言葉が何かわかったことはない。


「いつまで寝てるの、おじさん」
 一年前に自らを斬った少年のものとよく似た声に呼ばれてガノンドロフは随分と早い目覚めを迎えた。通常、一度眠ってから次に目覚めるまでには数百年の年が開く。だがその声がよく似ているだけで別人のものであることに気が付いてガノンは苦笑し目を開いた。
「千年経っても趣味が悪いな、君は」
「うわ。貴様って言われないと逆に気持ち悪いななんか……」
「擬態はもう終わりかね?」
「バレたのに続けててもしょうがないだろ。……何か他に聞くことないのかよ」
「特にない。君なら何をしてもおかしくないような気がしてね……始まりの契約を結んだ私達は特別なんだよ、特に君はだ。時の勇者」
 腰に手を当てて息を吐くリンクはつまらなそうに前髪を掻き上げてガノンを見る。その隣でゼルダが少し驚いたふうに口に手を当てていた。彼女は千年をずっと眠って過ごしていたから経過をまるで知らないのだ。魔王の変わりように驚いていたのだとしてもそれは仕方ないことだと思う。
「本当に変わりましたね、あなたは」
「歳を取れば嫌でも丸くなる。……さて、わざわざこんなところまで何の用だね? まさか三人の再会を祝いに来たわけでもあるまいに」
「んー、惜しいな。ややハズレだ。俺はお前を引きずり出しに来ただけ。何しろ運命を変えろとか言って死んでいった奴がいてな、まあそういうこと」
「……意味がわからん」
「トライフォースをあるべき形に戻す時が来たということです」
 ゼルダが補足を入れる。
「いがみ合う必要がないのなら、わたくし達がばらばらに女神の力を有している必要ももうないでしょう。元々力と知恵と勇気は三つで万能の意味を成す力でした。リンクは、三つ揃っていればわたくし達の連綿と続く呪いを終わりにすることが出来ると考えているようです」
「なるほど。君にしては理詰めの考えだな」
「考えたの俺じゃないしな。で、どうだ? 乗るか? この博打に」
「あの子の置き土産というわけか。……好きにするがいい。私ももう、ディンの遊びに付き合うのには嫌気が差してきていたところだよ」
「そう言ってくれると助かるよ」
 ガノンがやれやれと首を振るとリンクは口端で笑った。この性格の悪い勇者はガノンがもし拒否の意を示した時は力ずくででも引っ張っていこうと考えていたのだろう。その証拠に背にはマスターソードが提げられたままだ。
 だがそれでも、いいと思う。少なくとも今の彼は死んだも同然の目をしていない。女神に挑戦してやろうという命知らずな少年の目は、心なしか輝いているようにも見える。
「君はこれで何もかもの決着を付けるつもりなんだな」
「約束したからな。俺は約束は破らない。全部止めるし、ハイラルの平穏も守り続ける。――そう。終わらない永遠なんてあるわけないんだからさ」
 誰もいない虚空に向かってリンクは言った。影に協力して最後の勇者を誘導した牧童の青年は、この結末を知ったらきっと笑うだろう。望まれた最後というのもまあ悪くはないものだ。
「なあ、聞こえるか? その方法を選んだのなら俺の結論はちゃんと見ておけよ。お前には俺の全てを伝えたんだ。だから後世に伝えるのもお前の役目だよ。頼んだからな、光の勇者」