カテドラルに祈るきみ


 ひとごろしを、しようと思えば多分出来ると思うんです。
 そんな少年の言葉は驚くほど澄み渡って濁りが無く、無味乾燥だった。できると思うんです。たぶん。だってそうしないといけないのなら。剣の先で死骸を戯れのように突いて彼が続ける。ひと一人殺したことのない少年は、海のように広がっていく深淵をあおい瞳の中に映し出し、淡々と、幼児が初めて母の名前を呼ぼうとするみたいに、訥々とそれを口に出す。
「つまり……私は、壊れている、或いは狂っている、のでしょうか?」
 呻き声だけが喉の奥から突かれて漏れた。男にはこの澄み渡った純粋な狂気に答える術がない。



 殺す事で生きて来た。殺生を好ましくないものとして教わっていた一方で殺戮を要求された。ひとでないなら殺してもいい。いや、むしろ、ある一つの種族に関しては進んで殺害すべきだ。その名はギア。罪深きGEAR、ひとが生み出した最も愚かしき生体兵器、ひとを脅かすもの、滅ぼさんとするもの、反旗を翻した天敵、ギアばかりは、持てる全てを賭して殺すのだ。
 少年は言われたとおりにギアを殺した。ギアを殺すと大人達は口々に少年を褒めそやしねぎらった。少年は次第にギアを殺すこととそれによって与えられるレスポンスに自らの存在意義を見い出すようになり、ますますギア殺しの腕を上げた。
 やがて、少年はギアを殺すことを「正義」と錯覚するようになった。
 彼の唯一無二の正義は最早命を殺めることにあった。

「カイ様」
「カイ様……どうかあなただけでも、生きて、聖戦を、」
「我々の命はカイ様のために」
「そんな顔をなさらないでください、カイ様」
「カイ様のために使わせてください、我々が望んでそれを選んだのです」
「カイ様!!」
 そんな少年が初めて犯した殺人は、いつのことだっただろう? 少年がギア殺しの功績で多くの部下を任せられるようになって、既に短くない月日が流れていた。少年の采配の末端で人死にが出ていることは彼も聞かされていた。けれどそれらの死はドライで、書面に書かれた死亡通知や口頭で伝えられる祈祷に過ぎなかった。その時が訪れるまで、少年はひとごろしの味をまだ知らなかった。無責任に、身勝手に、ああ、また誰か死んだ、と思うだけだった。
「何故……何故です。私一人の命と、あなた方六人の、それが……等価値だとでも言うのですか、あなた方は!!」
「その通りです、カイ様」
「我々の命六つに比べればあなたの命一つの方が遙かに重い。少なくとも我々にとってはそうです」
「あなたが死ねばこの世界はおしまいだ」
「けれど我々が死んでも世界は存続していける」
「あなたの生は世界の生と同義です。いわば世界全ての人口の命の重さだと言ってもいい」
「これが最初で最後の我々の我が儘です。どうかお聞き入れを。カイ様――あなたのもとで働けて、我々は幸せだった」
 呪いのようだった。いいや、呪いそのものだった。たかだか十五歳の少年が言い含められるにはその呪いは死は言葉はあまりにも重たくべたついて陰惨で極悪非道だった。それはカイ=キスクが経験した初めての「殺人」であり、無残極まりないウェットな死だった。いわば世界全ての人口の命の重さ? そんな馬鹿なことがあるものか。命は等しく平等だと、神の子は、聖書でそう教えを説いたではないか。
 けれど本当に命が平等であるならば、少年は彼らを殺さずに済んだのだ。
「かみさま」
 ギアの暴力から少年を庇って死んだ六つの死体を前に少年は両の手を組み膝を突いた。彼らの犠牲によって少年には彼らを屠ったギアを殺す猶予が与えられ、泣きじゃくりながら彼はそれを成した。今はもう彼らを殺すような驚異はこのあたりにはない。しかし彼らが死なねば驚異は取り除けなかった。堂々巡りのパラドクスが少年を苛む。かみさま。では、わたしは、どうすれば。
「神よ……私は……何に、祈れば、」
 これが、疑いを持つこともなくギアを殺してきた報いなのか。
「でもギアを殺さなければひとが死んでしまう」
(ギアを殺さなければカイ=キスクに意味はない)
「私が殺さなければ、もっとひとが死ぬと、かれらは」
(だから私の殺人は正当化された)
「私はギアを殺すことでしか、彼らの死に報いれない」
(私はギアを殺し続ける、それが私の存在理由なんだ)
「……私は!!」
(そのためにどれだけの殺人を伴っても!!)
 だけど少年のアイデンティティは揺るがない。レゾンデートルは書き換わらない。否定は少年の死と同じ。生きるためには肯定しかない。
 少年はそういうふうに出来ていたのだ。今更自己をねじ曲げることなど簡単には出来なかったのだ。少年は誰もが羨むような美貌と健康と力と名声とを兼ね備えていたが、それ以上に抱えている欠落が多すぎた。少年はIを知っていたが、あいを知らなかった。それじゃ辞書と同じだ。
 でも仕方がないことだった。
「だけどそれでも私のしてきたことは……きっと、正しいのでしょう?」
 親の顔を知らないその少年には、十歳までの記憶が、ない。


◇◆◇◆◇


「世の中に、私ほどの人殺しはいませんよ」
 少なくとも今生きている中では。そう付け足してカイは紅茶を啜った。冗談みたいな言葉の並びだったが、冗談で言うにしては馬鹿げた発言だった。賢しい彼なら決して選ばないようなたぐいの……そう、つまり、この言葉は本気だ。
「今までに何人殺したのかもう覚えていませんからね。薄情にもほどがある」
「……そいつはテメェを庇って死んでいった部下どもを勘定に入れての話じゃねえだろうな、カイ」
「ええ、勿論。ああ、政治的に殺してきた対象も加味すれば更に数は跳ね上がると思いますが。敵が多いぶん、私も手をこまねいているだけというわけにはなかなかいかなかったんです」
「つまらねえ冗談を交ぜるのはよせ。だいたい、どうした、急にんな面白くもなんともねえ……」
「この前、もう一人殺したので」
 カップをソーサーに戻してカイがなんでもないことのように続ける。ソルはそれまでとは明らかに声音の変わったその言葉に顔をしかめて「ああ?」と訝しげに顎をしゃくった。
「どいつだ?」
「元老院の。名前は……正直彼らは仮面を被っていて判別が上手く出来ないのですが……恐らくは『アクソス』と名乗っていた者ではないかと」
「元老院かよ。人っつうか妖怪じゃねえか」
 しかも過去に卑劣な手段でもってカイを脅迫し、隠そうともせず傀儡政権として仕立てようとしていた奴らだ。最近はカイが傀儡としてまともに機能していなかったこともあり、従ってカイの処分を考えていたとしても何らおかしくない。しかしソルがそう言ってもカイの声は緊張を孕んだままだった。
「ひとですよ。立派な、殺人です、あれは」
 立派なさつじん。繰り返すカイの目は閉じられていて、開きたくないと駄々をこねているかのようだ。それでソルは、カップを乱雑に置いて盛大にわざとらしい溜息を吐いてやった。
「知ってるとは思うがその理屈で言や俺もご大層な殺人鬼だ。しかも賞金首は大体デッドオアアライブ狙いだから更に殺してる。元老院も二人ほどやった。理由は加減がめんどくせえから。わかるか? ……坊や?」
「ええ」
「大体テメェがそうしたっていうんだから、奴らそもそも坊やを殺しに掛かってたんだろう。返り討ちにしてやったってだけだ。殺らなきゃ、殺られてた。誰もみんな死にたくはない」
「そうです。私はもう簡単に死んでやれるほど、自分の命を安く思っていません」
 かつて、カイの目の前で死んだ彼らはカイの命を人類の重さだと言ったけれど。
 カイにはやはりそうだとは思えない。しかし平等であるとも思っていない。それは彼らの遺志を軽んじることになるからだ。であるならばカイの命の重さとは、どれほどのものなのか。その答えを見つけたのは聖戦が終わってから随分と経ってからだった。やがて妻となる女性と過ごすうちに、ようやく思い至った。
「私の命に重さがあるのだとしたら、それは私が今までに殺してきた人達の数です」
 ――人は、犠牲なしには、生きていけない。犠牲の山の上に立って歩いて行くことがつまり生きていくということだ。「正義」という揺らぐことのなかった柱が根底から覆されそうになり、それでようやく、カイはその答えに至った。彼女に「人は生きるために迷惑を掛けていい」と伝えた時、免罪符になりはしないけれど、そう、思ったのだ。
 カイのそんな思いを知っているのか知らないのか、ソルがまた溜息を吐く。
「は……そういうことかよ。つまりテメェは俺に慰めて欲しいんだな」
「えっ……? いや、なんでそうなるんですか?!」
「自覚なしってか? ガキだな、坊や。丸っきり、ガキの頃のままだ。テメェはすぐ顔に出るんだよ」
 カイの顔にソルの手が伸び、顔も近づく。そのせいで自分がどんな顔をしているのか、鏡がなくとも分かってしまってカイはかっと頬を赤らめる。ソルの瞳の中に映り込んでいるカイ=キスクは、なるほど確かに、少年の面差しを色濃く見せて物欲しげな顔で眼前の男を見ていたのだ。頬を膨らませる代わりに上目遣いで男を見上げ、駄々をこねる代わりに告解の真似事をする。
 無骨な手のひらが頭を撫でた。お化けが怖いと泣く子供に、今晩は一緒にいてやるから大丈夫だと言い聞かせるみたいに。
「過去がなくても、人は生きていける」
「こんな時ばかり、おまえはやさしい」
「こんな時だからこそ、だ。特大サービスだ、甘えてろ」
「ずるい。……本当に」
 ソルの顔はあくまでも優しい。ずるい。カイは胸中でその言葉を繰り返した。今のカイにはソルのぶっきらぼうな優しさを拒む理由も術もないのに。
 王なればこそ剣の銀光を曇らせずにいるように、王なればこそ、弱さを見せてはいけない。傀儡として立てられてなお正義とよりよい世界のために尽くしてきたカイにとり、弱さを見せる、背後を取られる、ということはそのまま取り返しの付かない失態になりかねない。弱さを見せられる唯一の例外はディズィーだったが、彼女はついこの前まで一年近くにわたる封印状態にいた。それを理解してソルは手を差し伸べてきている。普段はもっと、大雑把なくせに。
「本当は分かってるんです。私を庇って倒れた部下達は、誰も、私を責めるような顔はしなかった。きっと生きたかっただろうに、いつも、誰も、責めてはくれなかった。その代わりに私の肩に期待をかけて逝くんです。私の背に積み重なった期待が、私の『正義』を後押しして、後戻り出来なくして……だから。彼らが私のことをそう言わなくても、私は『ひとごろし』なんだ」
「そうか」
 カイの頑なな言葉に、ソルは一言頷いただけだった。
 カイ=キスクは、今でも、必要ならば人を殺せるだろう。大義を掲げて、彼の正義にもとるものを仕留められる。けれど実際のところ、彼がそれしか選べないところまで自らを追い詰めるような悪手を打ったことは殆ど無い。元老院の件が偶発的な事故だっただけで、彼の言う「やろうと思えば殺せる」というのはつまり、多くの命と期待を背負った故の、「覚悟」なのだ。
 ソルはカイの瞳を横目に覗き込んでそう結論づけた。覚悟の色は、彼が子供だった頃から変わらずにあの澄んだ瞳の奥に息づいている。
「テメェがそう思うなら、それでもいい。後は勝手にしろ」
「すまない。少し……弱音を吐きたかったのかな。ディズィーが眠っていた間は特に、私は誰にもこんな弱さは見せられなかった。お前相手だとどうも気が緩むな」
「ああ、聖騎士団の頃からテメェはそうだ。弱音は俺以外には吐けないだとかいつもそう言ってやがったな。なら……代金代わりに聞かせろよ。何故、俺にはそれを言う?」
 ソルの上がり調子な声にはっとしてカイは顔を見上げた。
 見上げた先の彼の顔はにやついていた。いいことを思いついたと言わんばかりの年甲斐もない……そう、本当に年甲斐もない悪戯小僧のような顔をして悪びれもせず。カイは今の今までしていた殊勝な顔色を器用に引っ込めて、思わず大声で叫びそうになったのを必死に抑えて普段より少しだけ大きな声でソルを指さし糾弾した。
「だからずるいんだ、おまえは!!」
「何がだ? なあ言ってみろよ、……『カイ』?」
「わ……わかってるくせに! 悪癖なんです、これは! ソルには、言ってもいいかな、大丈夫かな、という、よう、な……」
 その先に続くはずだった「忘れてください」というカイの懇願は、しかしとうとう言葉になることなく消えていく。ソルの口の中に吸い込まれて、永遠に彼の中からもう出てこない。
「甘えの分はツケにしておいてやるぜ」
 カイの唇を、そこから離したばかりの舌先で舐め取ってソルが言った。