バブルガムポップ・シュガーデイズ


「レコードをもらったんだ」
 だから持ってないか。あの、なんて言うのだっけ、再生するもの。朝食の皿を下げているカイが思い出したようにそう言った。レコード。ソルが大昔、研究室に入り浸っていた時分には既にレトロの飾り文句を付けられ、コンパクトディスクに取って代わられていた品だ。機械類がブラック・テックと呼ばれるようになって久しい今はなおのこと、レトロを通り越して化石というべきか、何度か遺物として取引されている現場に遭遇したことがある。基本的にこの時代では好事家の遣り取りする品だ。それが何故、こんな坊やの手に。
 ソルが訝しんで視線だけでそれを投げかけると、カイはううん、と少し唸った。
「何故相手方がこれを私にくださったのか、私にもちょっとわからないんだ。レコードなんて言われても、ソルがなにか大切そうに持ってたかな、ぐらいのことしかわからないし」
「中身にもよるが、出すとこに出せばそこそこの値がつく品だからな。よっぽど処分に困ったのか、でなきゃテメェになにがしかの遠回しな賄賂でも贈る気だったのか」
「まさか。贈り主は伯爵家のご長男だが、若いのに清廉潔白でしっかりされた方だ、彼に限ってそんなことはしないだろう。それに私は誰からの賄賂も受け取らないよ」
「テメェだって充分若造だろうが、坊や。いいから見せてみろ」
 ひらひらと手を振って促すと、シンクに食器類を置いてすぐにカイが二階の自室へ駆けていった。
 さて一体どんなアーティストの円盤なのだろう。カイが戻ってくるのを待ちながらソルは思案する。もしそれが値打ちものなら引き取ってもいい。万が一クイーンだったら、その気が無くても手放す気分にしてやろう。少しばかり人の悪い笑みを浮かべながら、ソルはシガレットケースに伸びかけた指を自制した。蓄音機をさわる前に煙はやめておくべきだ。
 レコードに関しては、一家言あるというほどではないにせよ、ソルはそれなりの造詣の深さを持ち合わせている。そもそも、かつての名を捨てる前からずっと持ち歩いているシアー・ハート・アタックのアルバムを、わざわざ持ち運びやすいCDではなくレコードで保管しているのは、彼自身割とその手のマニアに近い感覚を持っているからだ。とはいえクイーン以外のレコードにはそれほど興味があるわけではなかったので、手持ち以外の実物を手に取る機会は久々だった。
「すまない、待たせた」
 しばらくしてからぱたぱたと駆け戻って来たカイがレコードの入った袋を差し出してきた頃には、既に蓄音機の準備が整っていた。それに気がついたカイがしげしげとそれを眺め、指さす。
「あ、そうだ、これ。何と言う名前だったっけ」
「蓄音機。電蓄……というよりは法蓄か。法力で動くように改造してあるからな」
「ふうん。で……おまえはわかるのか? それ」
 カイに急かされるままに袋から包みを取り出す。外箱ごと綺麗に残されていて、随分状態がいい。これは本格的に賄賂なのではないだろうかと疑いながらソルはパッケージの文字に目を滑らせた。残念ながらクイーンではない。だが、どこかで見たことがあるアーティストのような気がする。どこでだったか。あれはそう、確か、まだ研究室を選んでいたような頃のことだ。
 記憶の奥底の方に仕舞われてしまった学生時代の思い出を引っ張り出してきてソルは思案した。ロック・ミュージック一辺倒だった自分に対して、同じぐらいの年代なら、こういうのも聞いてみないの? とある日彼女が言ってきたのだ。まあ彼女の言うことならと試しに聞いてみて、あまりの方向性の違いにうんざりして、「俺はこういうのはどうも趣味じゃない」と突き返すと、彼女は「そうじゃないかと思ってたわ」なんて笑って、代わりにシアー・ハート・アタックのレコードを差し出してきて……。
 ああ、だからか。そこまで思い出して合点がいったので、ソルは深い溜め息を吐いた。それで伯爵家のご長男様はこのレコードをわざわざカイに贈って寄越したのだ。
「坊や、こりゃ」
 漏れ出た声も溜め息混じりだった。ソルのあんまりな顔つきにカイが僅かに端正な顔をしかめる。
「なんだ」
「これは……まあ確かに、賄賂じゃあないんだろうな、おそらく。その点は伯爵家の長男とやらには謝罪しておこう。だがこりゃ、明確にお前宛のラブレターみてぇなモンだぞ。そういう素振りはなかったのか? 何か熱烈な視線をかねてから送って寄越していただとかの」
「いや、ないけど。……なんでだ?」
「ああ、そうか。……まあ、聞きゃわかる」
 丁寧に尋ねてやるとカイはふるりと首を振った。かわいそうに。こんなものを贈るぐらいだから絶対ラブコールを元から送っていて、そのうえでカイがそこそこ色よい返事をしたとか(会食に誘われてそのまま仕事だと思って出席したとか、この坊やなら普通にやりかねない)、そういうことがあったんだろうにこの返事。まったく報われない。尤も、そんな何処の馬の骨とも知れぬ若造が報われるいわれなど、ソルがいる時点で有り得ないのだけれど。
 取り出したレコードを蓄音機にセットし、再生を開始する。ややあって流れ出した歌詞を聴き取りはじめると、カイの顔色が目に見えて変わっていった。ソルの先の指摘と合わせて考えてしまったのか、恥ずかしがって、頬が紅潮している。普段ならその様をからかってやることもあるソルだが、今回ばかりはそんな気にはなれなかった。この歌の内容と来たら、本当に驚くほど甘ったるいのだ。
 シュガー、ああ大切なボクのハニー、君の魅力で僕は首ったけ。こんなに君を好きだって気持ちが愛おしいなんて自分でも信じられない! でもこの不思議な気持ちは本当のことなんだ。ああ、かわいい君、君のかわいい笑顔をもっと見せて……。
 文字列を頭の中に並べ立てただけで胸焼けがしてきそうだ。一通り歌が流れたところで蓄音機を止め、まだ顔を真っ赤にしたまま、とうとう俯いてしまったカイの顔を上向けさせ、ソルは辟易した調子で言った。
「大昔にこういう、ティーンの子供むけに甘ったるい歌が流行ったことがあったんだよ。バブルガム・ポップってやつだ。風船ガムの名の通り、砂糖菓子の如くシンプルでキャッチー。まあそのお貴族のお坊ちゃんはそんな背景までは知らなかったんだろうが……」
「そ、そうなのか。そう……なのか」
「時代背景はともかく、お坊ちゃんがどういう意図でテメェにこれを贈ったのかは明らかだな。俺は別に欲しいと思わないが曲がりなりにも一九六九年のヒットチャート入りだ。安い品じゃねえ。蒐集家に売っぱらえば……買い取る場合は更にだが……それなりの金が動くぞ」
「……なるほど。どう返礼したものか悩ましいな、これは」
 最後にはカイも溜め息を吐く。なんだか無性になまめかしい困り顔をして、彼がレコードの円盤をなぞった。そうやって当たり障りのない人付き合いをしているからたまにこういうことに陥るのだ。思ったが、それがカイの美徳のうちでもあるので、ソルにはそれをなじれなかった。
 それに今時こんな古風なラブレターを送ってくるぐらいだ、相手の男は人格的には「いい人」なのだろう。だが、まあ、面白くはない。たとえカイが一ミリもなびく素振りを見せていなくとも。
 そんなソルの心情を知らず、不意にカイがソルの顔に指先を添わせた。
「でも、ソル」
「なんだ」
「私はこの歌、ちょっとわかる気がする。……ちょっとだけ」
「ほう? まあ坊や向けの歌だしな」
 意地悪い返答をしてやると、へそを曲げたのかちょっぴり頬を膨らませる。リスみたいだ。小動物めいていて、欲をあおられそうになる。
「そういうんじゃなくて。ただ、その……キスっていいなあ、と思ったのは、おまえとしたのがはじめてだったから」
 すると、そっぽを向いて照れ隠しのようにカイがそんなことを言った。あおられそうになる、ではなく、あおってくる、だ。ソルは気取られぬように小さく舌打ちをした。彼はわかっているのだろうか、今、自分がしていることを?
 厄介なことに彼のそういった行為は大体において無自覚だ。自覚的でも困るが。
 だが、こと自分に対してだけは、自覚的でもいい、とソルは思った。背けられた顔をまたこちらへ引き戻す。嘘を吐かない男のまなざしは、まだソルが出会ったばかりの少年の面影を残して、やや不本意そうにこちらを見てくる。
「俺より前に坊やにキスした輩がいたと? そいつは初耳だが」
 口から零れ落ちた声音は自分でも驚くほどに拗ねた調子だった。
「眠れない夜は、クリフ様がほっぺたにしてくれたよ。まさかソル、いくらおまえだって、クリフ様に嫉妬するなんてことはないだろう? あの方は私の父親代わりでもあったのだから。……ソル?」
 それにカイが苦笑いをしながら答える。しかしすぐには明瞭な返事が戻って来ない。それを気に掛けてか、カイが心配そうな顔をしてソルを覗き込んできた。少年期と青年期のあわいのような、儚げでそれでいて他のなによりもソルの視線を射止めて仕方のない面差しを、彼は今惜しげもなくソルに近づけてきている。
「ソル、どうした……――ソル?!」
 その様にどうしようもなくぐらりときて、ソルはこらえ性なく、こどもの顔をした彼に噛み付いた。
 いつになく性急な動作に、カイは為す術なくソルの手の内に陥落する。あんなに鍛えているのに一向に縮まらない体格差のせいであっという間にソファに押し倒され、また差し込まれた分厚い舌に翻弄され、息継ぎがうまく出来なくて僅かに喘ぐ。びっくりして思わず右手を上に伸ばすと、それも彼の左手で掴み取られてねじ伏せられる。
 唾液を吸い上げ、呼吸を奪い尽くし、代わりにソルの感触という感触でカイの口腔を満たした。唇を犯されているだけで、まるで全身を明け渡してしまったかのような錯覚を覚えてカイが呻く。酸素が足りなくてぼうっとした頭の中に、はじめて大人のキスをした時の出来事が蘇った。まだカイがもっと幼くて、子供で、バブルガム・ポップの対象年齢くらいで、キスがどんなにか素敵なものなのかを知らなかった時のことだ。
 あの時もこんなふうに、つまさきからてっぺんまで全部がソルのもとにひらかれていた。真夏の太陽の陽射しみたいにあつく、ソルの感情、わかりにくいけど本当はあふれている彼の優しさ、そういったものが流星群のようにカイの全身に降り注いだ。
 求め合うように舌を絡め、彼が「甘ったるい」と形容したバブルガム・ポップの歌詞を思い返す。好きにならずにいられなくって、愛する気持ちがこんなに愛おしいって自分でも本当のことなのかちょっと信じられないぐらいで、でもやっぱりそれは現実で、どんどん、好きになってしまう。ソルが言うにはこれはとても古い歌なのだという。レコードが一般に普及していた、再起の日よりもっと昔の、歴史の教科書でしか知らないような時代の歌。それもプレ・ティーンやティーンエイジャーぐらいの少年少女へ向けて作られたものだ。
 けれど、恋する気持ちとか、誰かを好きになることはきっと変わらないんじゃないかな、とカイは思う。カイは一九六九年の街を歩く十八歳の子供ではなく、それから二百年近くも経った世界を生きる二十四歳の大人だけれど、どこかにまだそういう子供みたいに恋する気持ちが詰まってて、だからこうして今、彼の唇ひとつ、指先ひとつでこんなに甘い気持ちになってしまうのだ。
 まるでいつまでも破れないバブルガムみたいに。
「……で、どうするんだ? こいつは?」
 長い長いキスのあと、やっと顔を離したソルが満足気な表情をして尋ねかけた。その下に組み敷かれたままのカイは上気した身体を上下させ、何度か呼吸を繰り返して息を整え、どこにも行かないでと言う代わりにソルの腕を引く。それから、まだ少し夢見がちな少女のような顔色をして、いたずらっぽい口調でこう言った。
「お返しするよ。私が受けられる恋には限りがあるからね」