しなやかな腕の祈り


 風邪だそうじゃ、流行り病でなく、普通の。医師の診断を聞いたクリフが医務室から出てきて開口一番にそう言った。言葉の向かう先は、医務室の外で腕を組んで壁にもたれていたソル。ソルは腕を組んだ姿勢を崩さぬまま、そうか、と小さく呟く。
「なんじゃ、お前さんも中に入ってついとってやっていいんじゃぞ」
「保護者はじいさん一人で足りてるだろうが」
「隠してるつもりなのかもしれんがの、お前さん、顔に出とるぞ。心配で仕方ないってふうにな」
 年の割に生命力のある指先をソルの額に向けてクリフが笑う。仏頂面を頭髪とヘッドギアの影に隠していたソルは、不機嫌そうにフン、と鼻を鳴らすとそこでようやく面を上げた。
「坊やの次の遠征は」
「本来なら明日からデュッセルドルフへ立つ手はずになっとった。ドイツ支部からプラントの発見報告が上がっておってな、早急に潰しておかねばならんということと、施設規模の点から見てカイが指揮する第一連隊の派遣を要請されておる。とはいえ流行り病じゃあないとはいえあれほどの高熱に見舞われている者を派遣するわけにはいかん。延期する余裕などありゃせんから、誰かしら代理を立てなきゃあならんな」
「第二連隊か? それとも指揮官だけ代えて第一を予定通り出すか」
「カイが抜けることを計算に入れて戦力の補強をせにゃあ、いかんからな。予定通り第一は出すが、レオの初陣も兼ねて第二も付けるつもりじゃ。事と次第によってはわしも……」
「いらねえ」
 指折り数えるクリフの言を、短く粗野な言葉が遮る。つい昨日他の遠征から帰ってきたばかりのソルは、ハザード級の任務――メガデス・ギアの生産が確認されていない――ではないドイツエリアのプラント破壊に参加する予定にはなっていない。何しろ彼は直前までウィーンでメガデス数体を相手にしていたのだ。いつ帰還出来るのかわからなかったし、カイもそれを弁えていて、隊の編成にソルを入れていなかったはず。
「じいさん、聞こえなかったのか。第二はいらねえ、人数が増えただけ足手まといだ。それよりロッテルダムに行かせろ。帰り際によくねえ噂を耳に挟んだ。それとじいさんも本部を離れるな。もしもの時誰が坊やを守るんだよ」
「ふむ、それじゃお前さん、行く気かね? ま、確かにそれなら充分にカイの穴を埋められるじゃろうが、お前さん一つ忘れてやおらんかね。代理の指揮官は必要じゃ。いい経験になるじゃろ、レオは連れていってやれ。それから」
「あんだよ」
「これを持っていけ。くれぐれもカイの病状を悪化させるような振る舞いだけは避けるようにな」
 あの子は繊細なんじゃ、ああ見えて。そう言ったクリフの言葉がカイに掛かっていないであろうことをソルは見抜き、ひらひらと手を振る。それからクリフの手から投げ渡されたものをひょいとキャッチして確かめた。小さいがずっしりとした重みのある金属製の装飾品。――十字架だ。
「何の真似だ、こりゃ」
 尋ねるとクリフが含みのある笑みを見せる。
「こうなるだろうと、眠りに就く前にカイから預かったものじゃ。『私は行けませんが、せめて一緒に連れていってください』、と。お前さんたちしばらく二人一緒の任務がなかったからなあ。それにじゃ、その十字架、普段カイがどうしとるのかはよく知っとるじゃろう」
「ああ……」
 戦場に入る前と後に、必ずカイが祈りを捧げているものだ。確かによく知っている。しかしだからといって、お世辞にも信心深いとは言えないソルに預ける意図がわからない。たまには祈れということなのか? ソル=バッドガイが、滅多に死さえ悼まない男だと知りながら? だから普段は、お前の代わりに祈るのだとまで言っておきながら……。
 さっぱりだ。とはいえ無碍にすることも出来ず、ソルは首からロザリオをかけ、ケープの下に仕舞った。こんな重たいものをいつも下げてて肩は凝らないのかと少しだけ思った。



◇◆◇◆◇



 デュッセルドルフで発見されたギア・プラントは、パリ本部から派遣された本隊が到着する頃になると、想定をはるかに超えて事態を悪化させていた。初期段階の報告ではメガデスより二つほどランクの落ちた中型を生産のメインにした拠点とのことだったはずだが、騎士団に感づかれたことがトリガーになったのか、更に大型の個体が生み出されるようになり、ソルが辿り着いた頃には入り口で見張りの騎士が無残な姿になってまき散らされていた。
 カイの代わりに指揮官としてやって来ていたレオにあらゆる全てを投げ、ソルは単身一人でプラント深部へ乗り込んだ。後ろから「『向こう見ず』の項目に貴様の名を書き加えるぞ!!」だとかなんとかいう声が聞こえてきた気がしたが無視した。嫌な予感が拭えない。第一、何故見張りの者が死んでいるのに、その外にうろついているギアの数がこんなに少ないのだ? あんな死に方をしたやつが出ているのに、近くの居住エリアでは、まだギアの脅威に気がついている様子が見られない……。
 考えられる可能性はいくつかある。元々小〜中型ギアの生産を行っていたラインなので、大型に切り替えたはいいがそれほどのスピードを出して生産が行えていないというパターン。これならまだいい。ソルが出張らなくとも、レオの指揮下にある騎士達だけで充分処理出来る範囲内だ。
 問題は他の可能性。つまり、プラントが今生産しているのは、大型ギアなどではなくその更に上位種であるメガデスギアなのではないか――という、最悪のパターンだ。
 メダルに通信が入り、はやる手つきでそれを受信する。途端にレオの年若い怒鳴り声がソルの耳をつんざいた。
『――貴様何を考えている! いつもいつもカイの手前だから黙っていたが、独断で先行しすぎだ!! 今本隊を貴様を追って中へ――』
「入れるな!! 出口を固めてろ。いいな、絶対だ。俺の推測が正しければ内部にいるのは恐らくメガデスに違いねえ!!」
『はあ?! なんだそれは、聞いてないぞ。報告では……いや、待て、そうか。”だから”極端に周辺地の被害が少ないのではないかということだな?』
「そういうこった。先行して俺が数を減らす。坊やがいねえ分手荒な手段を使うことになるかもしれねえ。次に通信を入れるか、二時間経つまで出入り口を塞いで待機。居住エリアにギアを一匹たりとも出すな。メガデス一体ならすぐにカタがつく」
『……了解した。第一連隊、追って別命あるまで厳戒態勢で待機。おい、ソル、貴様絶対に生きて戻って来い!! カイに顔向け出来なくなるのはご免だからな!!』
「そっちこそ一人も死なすんじゃねえぞ。あいつが数える死人をこれ以上増やしたくなけりゃあな……」
 ぶちりと通信を切り、ひたすらに前を目指す。そう、メガデスギアが一体だけなら、ソルにとってはそう大した問題にはならない。だが二体、三体と数が増えていけば話は別。もしも一度に複数体が出現し、囲まれてしまった時にはどうなるかわからない。
 撤退先のない、この狭い地下プラント内で相手取ることになれば尚更だ。死んでやる気はさらさらなかったが、嫌な予感は増していくばかりで、ソルは思わず剣を持っていない方の手で胸のあたり、法衣の下に隠れた十字架をなぞった。このロザリオの本来の持ち主は今頃何を見、考えているのだろう。それも生きて戻らねば永久に知れぬことだ。


 プラント最深部、生産ラインの中枢を担う区画の有様はソルの見立ての何十倍もむごい有様だった。死臭が立ちこめ、腐敗した肉のにおいが鼻につく。床や壁には乾いた血がこびりつき、黒ずんで、目も当てられない。
「……だろうなとは思ったぜ」
 ドイツ支部の騎士達だろう。本部とは微妙に意匠の異なる聖騎士団の法衣を着た死体達が部屋中に散乱していた。生存者はなし。吐き出しそうになるような死体の群れの奥に、起動を待つギアが身を寄せ合っている。
 メガデス級が一体――二体、三体。ソルは舌打ちをした。やはり、他の人間を入れさせなくて正解だった。
 先手を打って炎をまく。それに呼応するように次々とギアたちが目覚め、一斉にソルをターゲッティングする。様子を探りに来た人間を取り込み、殺し、喰らい、そうして巨大化した食中花のようだな、とソルはせせら笑う。別にギアが生き物を補食するわけではない、ということは知っている。けれどこのやり方はあまりにも、そう見立てずにはいられないほど有様が似通っているのだ。
「外に出てこねえってことは、テメェら何かを守ってやがるな……?」
 空中に飛び上がり、勢いよく炎と共に叩き付けた巨大な剣がギアのボディに直撃して破砕する。また始末書だ。この前ウィーンで丁度よさそうなのを見繕ってきたばかりなのに全然保たなかった。仕方なく、武器を己の肉体に切り替えてすぐさま第二波に移った。一匹ずつ確実に息の根を止め、数を減らしていかなくては。
 ところ構わず炎を放ち、ギアのパーツを欠片一つ残すまいという勢いであたりを火の海に染めることいくばくか、メガデスギアたちの動きが鈍り始めた。好機と見て地を蹴り、降下の勢いと共に足蹴りをお見舞いする。外装が焼け焦げ、見え始めていたコアに直撃したことでまず一体が活動不能に追いやられた。続けて二体。更にもう一体。視認出来た三体を首尾良く片付ける頃には、結構なエネルギーを消耗してしまっており、ソルはまだ火が燃え盛っているその場所でがくりと膝を突き倒れ込む。
 やったか? だが、しかし……妙だ。メガデスが三体いたのだ、それなりに手は焼いたが、ここまで事が順調に進みすぎている。嫌な予感がまだ消えない。もしや地下が囮で、今頃地上では大混乱に? いや、そうとも思えない。レオなら状況を共有するために連絡ぐらいは入れてくるはず……。
 では、まさか。
 その可能性に思い至った刹那、瞬時に背後で何かがふくれあがり、ソルの不意を狙って襲い掛かった。



「坊や、祈るのは自由だがな、ものごとには限度ってもんがあるだろう」
 穏やかな陽射しがさす午後のことだった。騎士団本部に供えられた礼拝堂の中、聖像の前で片膝をついて祈る少年が、ロザリオの数珠をはじいている。まだソルよりも一回りも小さな体躯で、しかし数え切れないほどの生命と死とを背負い、彼はじっとアヴェ・マリアを唱え続ける。
「聖戦が終わらない以上、人が余分に死ぬのは、避けられねえよ。いちいち坊やが祈ってやる必要なんざ……」
「わかっている。こんなものは、所詮私の独り善がりにすぎないなんてことは。だが……自己満足でもいい、私はそれでも祈りたいんだ。自分が明日も剣を握れるように」
 聖歌を紡ぐ歌声が止み、振り返った彼の唇からそんな言葉が返ってきた。やっと先日変声期を終えたばかりといった調子の声は、少しずつ落ち着きを見せてはいたが、まだどこか上ずった少年らしさを残している。
「昨日私を庇って第三略小隊の隊長が死んだ」
 どこか鈴が鳴るような響きを思わせる声が告げたその内容は、ひどく冷え切っていた。
「ソイツがやりたくてしたことだ。誰も坊やを責めたりしねえし、坊やにでさえ、ソイツを責める謂われはない」
「……わかっている。けれど……ならばせめて、祈らせてくれないか。私はまだ、戦わねばいけないから」
「やめろっつってるわけじゃねえ。キリがねえって言ってんだ。昼も夜もなく永遠に祈り続けるつもりか、坊や? それにだ。ずっと気になってたんだが、ロザリオは、首に掛けるもんじゃねえ。数珠を弾いて祈りを数えるぐらいだ、知ってるだろう、坊や」
「あ、ああ。私は……どちらかというと、おまえがそれを知っていることのほうが驚きだけど」
「俺の母親はカトリックだった」
「では、ソルは」
「神なんざいねえよ、この世のどこを見渡したってな」
 ソルがぶっきらぼうに言った。彼がきっと神を信じていないのだろうということには、カイもそろそろ思い当たっていたから、それは別段不思議には思わなかった。
 立ち上がって埃を払い、ソルに向き合い彼の顔を見上げる。ヘッドギアの下の目つきの悪い彼のまなざしに、僅かに隠し切れない不安のようなものがにじみ出ているのにカイは気がついていた。
「クリフ様に保護された時、私は、このロザリオを胸に下げていたんだそうだ。母の形見だということは覚えている。だから首に提げて、肌身離さず持っていたくて」
 今は手に持っているロザリオを彼の前に示し、そう告げる。ソルは差し出された十字架に触れようとしない。信心のない自分が、その象徴のような十字に触れることを厭っているのかもしれない。
「それに、おまじないもかけてあるんだ。大事なものを守れますように、と。……ソル。神を信じていないからといって、祈ってはいけないということも……ないと思うよ。私は」
 カイが言った。彼の言う「おまじない」の正体については、その時ソルは尋ねなかったし、カイも別に自分から説明しようとしたことはなかったから、そういえばそれっきりだ。



 益体もないことを思い出した。聖堂で祈りを捧げている少年の後ろ姿と、彼のロザリオに込められた想いについてのことだ。ぴりぴりと肌を刺す空気が、その一瞬の幻からソルを現実へ引き戻す。ここはデュッセルドルフの地下にあるギアプラント。最悪の予測通りメガデス級ギアの温床となっていたこの地下プラントで、ソルは三体のメガデスギアを屠り、だがまだ違和感が拭えず、それを訝っているうちに……そうだ。背後から襲い掛かられた。
 だが身体に何らかの損傷がもたらされた感触はない。その理由は、振り向いてすぐに知れる。
「……なるほどな。コイツが、坊やの『おまじない』ってワケだ……」
 カイが得意とする雷の奥義、ライド・ザ・ライトニングと似たようなものがソルとギアとの間に展開されており、不意打ちを狙った四体目のメガデスギアの一撃からソルを守っていた。中央に刻まれた「HOPE」という銘を包み守るように、女性のようなシルエットを持つ何者かが法術陣を支えている。
 何度か見たことがある。これもまた、カイが奥義を放つときに決まって彼のそばに現れるものだ。
 ソルはかぶりを振り、「おまじない」がギアを引きつけているうちに距離を開けて体勢を取り直した。普段、ソルがカイと離れて単独で任地に赴く時、カイが自分のロザリオを他人に寄越したことはない。今回は、自分が病床に伏せって動けないからというのもあったのだろうが、きっとカイにも何かしらの虫の知らせがあったのだろう。だからこのまじないを……平素肌身離さず身につけることで彼自身の法力が蓄積された、緊急発動用の術式媒介を持たせたのだ。
 不意さえ突かせねば、たった一匹残されたメガデス級など、どうということもない。そのまますぐさま最後の一体も片付け、ソルは本当にもうギアが残っていないかどうかを改める。そして、この場でメガデスギア達が何を守らされていたのか探りを入れた。
 しばらくして、それは見つかった。巨大な、培養されたギア細胞のかたまりがある一角に鎮座している。周囲には白骨化した動物の死体が無数に見られた。ギア化に適応出来ず、死んでいった動物たちの成れの果てだ。
 これだけ残っていれば、一体どれほどのギアが生み出せるのか、皆目見当もつかない。溜め息を一つ落として火を付ける。黒こげになり、それでも燃え続き、やがて灰になって死んでいくそれをソルはじっと眺めていた。この世の全てのギアを刈り尽くすには、まだしばらく時間が掛かりそうだ。
 それからふと思い立ってプラントじゅうに散乱している死体を一箇所に集めた。
 普段なら絶対にしようとしないことだが、このときは、どうしてだかそういう気分になって仕方なかった。カイに持たされたロザリオのせいだろうな、と思う。幾数千数万もの死を抱えるこの十字架にいつもカイがどう祈っているのか、ソルはそれを知っている。それが彼にとって大事な儀式なのだということも。そして今この場には、十字架だけがあってカイはいない。
 ギアと戦い、そして命を落としていった騎士達に向けてソルは慣れない仕草で黙祷を捧げた。大昔に母親がやっていた動作を思い描き、十字を切るその姿を、遅れて地下へ降りてきた連隊の一部の騎士達が遠目に見ていた。



◇◆◇◆◇



 本部へ戻った頃には、すっかり疲労しきっていたソルとは対照的にカイはぴんぴんして職務に復帰していた。それでもあまり遠くへ出ることはまだ許されていなかったらしく、軽い稽古をクリフに付けて貰ったり、パリ市街のパトロールの指揮などを久しぶりに任されていたらしかった。
 戻って来たソルの姿を認めると、ぱたぱたと軽い足取りで駆け寄り、「お帰りなさい、ソル」とカイが満面の笑顔でソルのくたびれた手を引いた。
「レオからの報告で聞きました。メガデスが四体も出たんだって。ソルが無事でよかった。……私のおまじない、役に立ちました?」
「ああ。こいつは返す。俺なんかより、もっと他のものを今度は守ってやれ」
「本当、素直じゃないな。ソルが死ぬのは嫌ですよ、私は」
「坊やより先にはくたばらねえよ」
 軽口を叩きながらカイの手のひらにロザリオを落とす。カイは受け取ったそれを流れるような仕草で首元に掛けてしまい、法衣の下に隠れて、すぐに見えなくなってしまった。
「ロッテルダムの方も、なんとかなりそうだ。中型ギアの拠点になっていた場所を押さえて、第二連隊と現地の部隊でほぼ壊滅に追い込めたらしい。早期発見が出来たおかげで被害も少なく済んだそうで、しばらくは、緊急出動要請が掛かるまで私もソルも休暇だ、とクリフ様が。十日くらいかな。まあ、どうせ途中でどこかから呼び出しがくるような気はしているけれど……」
 カイの言葉は若干諦めたような調子だ。だが正直ソルもそう思う。聖戦が続いている以上、世界中どこを探したって平和な場所なんかない。そして、予定通りに十日間以上の休暇がソルやカイにめぐってくることも稀だ。二人とも、騎士団が抱える貴重な戦力なのである。個人でメガデス級を相手取れる人員は少ない。
「あ、そういえば!」
 用も済んだし、さっさと風呂でも入って寝ようと踵を返したソルをカイが引き留める。それを受けてソルがやや不機嫌そうな面持ちでくるりと振り向いた。並の団員たちならたちまち平謝りして蟻の子を散らすように去っていくような顔をしていたが、カイは単に疲労が重なってもソルがこういう顔をすることを知っていたので、「一個だけ気になることがあって」となんでもないふうに切り出す。
「先に帰ってきたレオが、言ってきたんだ。『あの不良牧師はなんとかならんのか』、って。……ソルのことだと思うんだが、心当たりは?」
「……不良牧師だあ?」
 そして想定外の珍妙な響きに、ソルは眉根を潜め、思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。 
「なんだその、わけのわからねえ……」
「いや、わからないなら、いいんだが。個人的に気に掛かっただけだし。それにあいつ、時々おかしなニックネームをつけるからな。私のこともバンビーノとか言うし、これもその一つだろう。『マイ辞書』にでも、書かれたのかもしれないな」
「はあ、そうかい……。まあその、なんだ。カトリック式なら、牧師じゃなく神父だろうがとでも返しておけ」
「牧師も大概似合わないが、神父はもっと想像がつかないな。ああ、でも、そうか。なんとなくわかった。私のロザリオ、ちゃんと使ってくれたのか」
 ソルがどうやらロザリオを使ったらしい――ということに随分気を良くしたのか、カイは「ありがとう」とごく素直な声で礼を言って、それから「多少の書類はなかったことにしておこう」と少しばかり尊大そうな声でソルに告げた。そういえば、ウィーンの方の遠征の報告書をまだ書いていなかった。何しろ大急ぎでドイツへ出掛けてしまったのでそんな余裕はなかったのだ。
 それに、ドイツで武器を壊してしまったから、また新しく申請書を書かなければいけない。そのことを芋づる式に思い出してしまってげんなりし、ソルはにこやかに微笑む眼前の少年から視線をそっと逸らした。こいつは今、「多少の」書類とは言ったが、「全ての」書類とは言っていない。つまり幾つかはやらせようとしてくるということだ。正直かったるい。
 ではどうやってこの坊やのご機嫌を取り、更に書類提出を譲歩させてやろうか。休暇が揃って十日あることになったから、どこかへでも連れて行こうか……そんなふうにソルが考えていることを知って知らずか、カイはやはりにこやかな声のまま、「でも始末書は譲歩しませんからね」とソルの袖を掴んだ。